マット・リドレー「やわらかな遺伝子」

やわらかな遺伝子

やわらかな遺伝子

生まれか育ちか-Nature VS Nurture

人間の性質を決めるのは生まれか育ちか、というのは昔から大きな議論の対象となってきた論題だ。男女問題から政治問題まで広い範囲で厄介な問題を含むため、議論はしばしば紛糾する。

たとえば、女性と男性の性差を決定的だと見なす人々にとっては、生まれによってその人間の性質が決定されるならば性別役割分業を正当化する強い根拠となるし、遺伝子によって人間の優劣が決まるとなれば、優生学への誘惑が強まるだろう。また、生物学的にはすでに捨てられている分類手法であるという「人種」間での優劣を根拠づけようと言う言動にもつながっていく。

根強い遺伝決定論への反動として、前世紀の後半になると、環境決定論的な論調が強まる。ある学者は、自分に健康な赤子をくれれば、学者にも犯罪者にも育ててみせると豪語したし、ソ連の農政失敗の原因となったルイセンコの遺伝学説も、環境決定論の一例だろう。ジェンダー論などでも、構築主義だとかブランク・スレート説は、環境に人間の性質の原因を求めるものと言える。

生まれは育ちを通して-Nature via Nurture

そうした生まれか育ちかの二項対立、言い換えれば遺伝と環境の対立を、マット・リドレーは本書で一貫して批判する。たとえばこういう風に。

つまり、恵まれない境遇で生まれ育った人を差別したり、普通でない家庭で育った人を警戒したりするのは、根拠のないことなのである。貧しい子ども時代を送った人が、必ずある種の性格になるのではない。環境決定論は、どう見ても遺伝決定論と同じぐらい冷酷な信条なのだ。118P

本書の主張はしごくシンプルで言われてみれば当たり前だと思えるようなことだ。それは、Nature VS Nurture(生まれか育ちか)ではなく、Nature via Nurture(生まれは育ちを通して。本書の原題)ということだ。

遺伝子は確かに、人の多くの部分を規定する。遺伝子の命令によって脳や身体が形作られる以上、人間の様々な性質は遺伝子に端を発すると言えるだろう。趣味趣向、性格、行動、思考は脳の配線の仕方に原因を求めることができる。そう考えれば、その人のすべては遺伝子によって決定されていると考えられる。

しかし、遺伝子はいわば人体のレシピだ。そのレシピのスイッチがオンになり、レシピに応じたアミノ酸、タンパク質の生成が行われなければならない。さらに、遺伝子のセットからはつねに同じものが生成されるわけではなく、スプライシングという工程によって、ある遺伝子からはいくつものレシピを引き出すことが可能だという。遺伝子が同じだとしても、どのレシピが機能し、何が生成されるかはその時々の環境の影響を強く受ける。遺伝子は環境を通じて発現する、ということだ。マット・リドレーはこれを「生まれは育ちを通して」、と表現した。

遺伝子はすべてを決定するわけでもないけれど、環境次第で人がどんな風にもなれるわけでもない。スティーヴン・ジェイ・グールドの言い方をヒントに言い換えれば、遺伝子とは決定なのではなく“可能性”だ、ということになる。

こうたとえてみると分かりやすいかも知れない。ADVでもRPGでもいいが、何らかのゲームをプレイするとする。ソフトウェアとして提供される段階では、確かにそこには現れうるすべてのことがプログラムされて収納されているが、何がプレイヤーの目の前に現れるかは、プレイの仕方次第でかなりの変化を生む、と。遺伝子には確かにその人を形作るすべてのレシピが収まっている。しかし、何が現実に発現するかはそのとき次第だ。

遺伝と環境の逆説

ひとつ、遺伝性ということを考える上で重要なことがある。著者は、遺伝性というのは、集団のなかでのばらつきを図る指数ではあるが、絶対値を示すわけではない、と論じている。どういうことか。

食物、両親の世話、教育、本などがなければ、人が知能を身につけられるはずがない。しかし、こうしたメリットをすべて享受している人々の集団のなかでは、テストでよい点をとるか否かのばらつきは、遺伝子に原因をたどれる。その意味で、知能のばらつきは遺伝的なのである。
 たいていの学校には、住む場所や階級や経済環境がそろった似たような生い立ちの生徒が集まっており、生徒は一様な教育を受ける。こうして環境が及ぼす影響のばらつきを小さくした結果、学校は無意識に遺伝の役割を大きくしている。高得点の生徒と低得点の生徒との差異は、遺伝子に還元されることになる。ばらつく要因はそれしか残っていないからだ。やはり。遺伝性はばらつきの尺度であって、絶対値の尺度ではないのである。
 同様に、機会もトレーニングもまったく公平な真の実力社会では、最も優れた運動選手は、最も優れた遺伝子を持っている。運動能力の遺伝性が一〇〇パーセントに近くなるわけだ。反対に、恵まれた少数者だけが十分な食料とトレーニングの機会を得るような社会では、生い立ちと機会が競争の勝者を決める。この場合、遺伝性はゼロだ。したがって、奇妙な話だが、公平な社会にするほど、遺伝性が高くなり、遺伝子の重要性が増すことになる。105-106P

いつかのワトソン博士の失言が、どうして間違っているか良くわかる(そもそも、人種概念と知能の概念があやしいものであることは棚に上げるとしても、だ)。白人と黒人の能力の差異を測定するには、両人種の社会が公平であることがまずは必要だ。

話を戻す。本書には、あるテニスプレーヤーにかんする逸話が載せられている。それによれば、そのテニスプレーヤーの母親はあるインタビューに対して、子どもはとにかくテニスをしたがった、とこたえた。遺伝的には性格は知能より遺伝性が高いとされていて、その人の基本的な興味の向きにも遺伝の影響はあるだろう。だが、その興味が非常に強くとも、テニスをしたがる子どもに、テニスを存分にやらせることができる環境があるかないかは、その子のテニスの能力に非常に大きな影響を与えるだろう。また、テニスに興味が向くような遺伝子(あると考えれば)を持っていたとしても、テニスをみることがなければ興味の向きようがない。

可能性の濃淡

しかし、むろん、その遺伝子セットに固有の現れやすさというのは存在する。環境に影響を受けるからといって、環境次第でいかようにもなりうるというのでは環境決定論に陥ってしまう。可能性の濃淡はある。

なかなか扱いに注意を要する話だが。以下のような研究もある。

犯罪者の親は犯罪者の子を生む―確かにその傾向はあるが、養子の場合は違う。デンマークで行われた大規模な調査によれば、善良な家庭から善良な家族へ養子に出された子が法的問題を起こす割合は、一三・五パーセントだった。この割合は、受け入れ側の家族に犯罪者が含まれていると、ほんのわずか上昇して一四・七パーセントになった。ところが、犯罪者の家族の子が善良な家族へ養子に出され場合、この割合は二〇パーセントにまで跳ね上がった。養父母と実の父母の両方が犯罪者のときにはさらに高く、二四・五パーセントだった。遺伝的な要因は、犯罪を生む環境と反応して犯罪を起こしやすくしているのだ。330-331P

ちょっと「善良」の指しているものが不明瞭だし、この数字がどれだけの意味を持つのかは判断しかねるが、この調査結果は議論を呼びそうだ。「善良な家族」の子と、「犯罪者の家族の子」とで7ポイントの統計的差異があるけれども、これをいかに考えるか。

また、虐待された子供その後暴力的傾向を持つかどうかを研究した人もいる。虐待を受けた子の多くは確かにその後暴力や犯罪にかかわるなど、反社会的で暴力的な性向を示す。そこでそれが遺伝によるものか環境によるものかを特定の遺伝子を基準にして振り分けたところ、以下のような結果が現れた。

そこでモフィットとカスピが、活性の高いMAOA遺伝子をもつ者と活性の低いMAOA遺伝子をもつ者とに分けたところ、驚いたことに、前者に属する男の子は、虐待の影響をほとんど受けなかったのである。彼らは、幼いころ虐待されていても、あまり問題を起こさなかった。一方、後のグループの男の子は、虐待された経験があるとひどく反社会的になった。MAOAの活性が低くて虐待を受けた男の子は、四倍も多くレイプや強盗や暴行に手を染めたのである。しかし虐待されていなければ、むしろ平均よりわずかに反社会的な性向が弱かった。
 要するに、子どもが暴力的になるためには、虐待を受けただけでは不十分で、活性の低い遺伝子ももっていなければならないのだ。あるいは、活性の低い遺伝子をもつだけでは不十分で、虐待も受けなければならないと言ってもいい。349P

この遺伝子はマウスでの実験により、攻撃的な行動にかかわるものであることが分かっているという。この遺伝子は、どうやらそれ自体で暴力的傾向を示すのではなく、暴力への感受性に影響するものなのだろう。

面白いのは、このMAOA遺伝子が、X染色体上にあるということだ。

MAOA遺伝子はX染色体上にあり、男性はこの染色体をひとつしかもっていない。女性はふたつもっているので、活性の低いMAOA遺伝子の影響を受けるおそれが少ない。大半の女性は、活性の高いMAOA遺伝子を少なくともひとつはもっているのである。しかし、先のニュージーランドコホートでは、一二パーセントの女性が活性の低い遺伝子をふたつもっていた。彼女たちには、幼いころ虐待されると思春期を迎えてから行為障害と診断されるケースが多いという傾向が有意に見られた。349-350P

男女の暴力性についての一つの説明になりうるが、もちろんこれで男の暴力性を説明できるわけではないと著者は釘を刺す。

ある遺伝子の活性を調べることで、「医師が相当な自信を持って、将来反社会的になり、犯罪を起こす可能性が高いか否かを予言してしまう」。このことについて、マット・リドレーはもはや無知は幸せではないし、倫理的に中立でもないと言う。「危険性のある人間はすべてテストを受け、将来の監獄入りから救ってやるべきだと言うのと、誰もそんなテストを受けるべきではないと言うのと、どちらが倫理的なのだろうか?」

厄介な問題

遺伝子にかんする研究は、ことほど厄介な問題を引き起こす。あるいは、厄介だからこそ、面白いとも言える。ただ、もちろん、事実としてそうだということと、規範としてそうすべきだということにはきちんと区別をする必要がある。そして、民族や性差の一般的な傾向と、個々人のひとりひとりの違いというのは別問題だと言うことをつねに覚えておくべきだろう。

そのことを理解しない差別主義者などがここで紹介されている研究などをみて、鬼の首を取ったように騒ぎ立てるんじゃないかと心配ではある。ここに引用するのもちょっと気が引ける。じっさい、DNAがどうこうだとか、生物として当然などとして、差別や性差の正当化にしばしば遺伝学チックな説が用いられる。浮気は遺伝子を多く残したい男の本能、とかね。ああ、あなたは人間社会に生きる者として何も学習しなかったのですね、と思うだけだが。


素直な感想を言えば、本書はむちゃくちゃおもしろい。出てくる科学史的なエピソードや具体的な数々の調査の結果などは、いちいち興味深く、とにかく読み応えがある。遺伝子、遺伝というもの、生まれか育ちかという議論に興味があるという人には是非とも読まれることを勧める。読んでみれば、読者の人間観に多かれ少なかれ確実な変化を与えるだろう。

また、扱っている話題が話題なだけに、ただ読んで面白いというだけではなく、きわめて考えさせる本でもある。私が最初に書いたような紛糾しがちな議論を少しでもましなものにするのにも役に立つだろう。

人間にとって遺伝子とは何か、ということについてとても刺激的な議論を提供する一冊。傑作。しかし、取り扱い注意。