ゴーゴリ「死せる魂」

以前の予告達成第一弾。次は続かないかも。

死せる魂 上 (岩波文庫 赤 605-4)

死せる魂 上 (岩波文庫 赤 605-4)

死せる魂 中 (岩波文庫 赤 605-5)

死せる魂 中 (岩波文庫 赤 605-5)

死せる魂 下 (岩波文庫 赤 605-6)

死せる魂 下 (岩波文庫 赤 605-6)

ゴーゴリ畢生の大作「死せる魂」は全三部の予定が、二部を暖炉に投げ込んでゴーゴリが飢餓によるショックで死ぬことで未完となった。

話はシンプルだ。チチコフなる詐欺師が一部冒頭で颯爽と街に現れ、おべっかと慇懃な立ち振る舞いであっという間に街の有力者たちと懇意になると、彼ら地主階級の人間たちから死んだ農奴を買い取ろうと走り回る。死んだ農奴は、死んでいる間も、数年の間がある次の戸籍調整のときまでは年間の税を政府に納めねばならず、それを負担に思う地主は喜んで農奴を手放すだろうというのがチチコフの見込みだ。しかし、突拍子もない申し入れに地主連中は訝しんだり、疑ったり、そう簡単に事は運ばない。

そこでチチコフが画策する手練手管で、いかに相手をだまくらかせるか、というのを描いていく。

一読、シンプルでいてなかなか楽しい話だ。俗世にまみれた人間たちを皮肉と笑いの内に描き出す、という感じだろうか。特に面白いのは一部の後半、中巻に当たる部分だ。ここでは、チチコフの策略と、それに対する疑いがどっと吹き出し、根拠もない噂が街中を駆け回る。ここらへんの感覚はいかにもゴーゴリというか、あるいは後藤明生的だ。都会でこそ発生する虚実入り交じったあやしい噂。

下巻になると話の調子ががらっと変わる。チチコフの更正に話が進みそうな気配を強く打ち出してくる。非常に高潔で肯定的に描かれる地主が現れ、彼にチチコフが感化されていく。ゴーゴリはここから、ロシアの肯定的人間像を描き出そうと試みたようだけれど、紆余曲折あって、挫折する。それが死につながるわけだけれども、それを考えずとも、この第二部は小説としての完成度が微妙だ。説教になり始めている。つまらなくはないのだけれど。

ニコライ・ゴーゴリ (平凡社ライブラリー)

ニコライ・ゴーゴリ (平凡社ライブラリー)

第二部での創作力の減退を指摘しているナボコフゴーゴリ論を「死せる魂」と平行して読んでいたが、これは面白い。ナボコフならではの、言語芸術としての文学という視点から、非常に精緻な読み込みがされている。ナボコフは、ロシアの現実を描いた作家というゴーゴリ像を一貫して否定する。

「検察官」や「死せる魂」がそうだけれど、これらの作品はロシアの現実を諷刺したリアリズムに基づいた作品だとして評価されることがあるが、むしろゴーゴリはそのような国家、体制批判の作として読まれることに困惑していた。ゴーゴリは文字通りの意味で小説家であり、虚構の芸術家であり、それが社会的事実に対しての意見表明のように見られることを想定していなかったようだ。プーシキンに言ったらしい、何か素材をくれればただちにそれを喜劇にしてみせる、というような台詞は、そうした資質をよく表しているように思う。

ナボコフゴーゴリ論も非常に面白いが、私には後藤明生ゴーゴリ論も印象深い。後藤明生ゴーゴリ論のひとつの核は「都市」だ。それもペテルブルグという固有の都市。都市小説としてゴーゴリのペテルブルグものを読み解いていく試みはそのままドストエフスキー論にもつながるのだけれど、それは措くとして、実は後藤明生は死せる魂への言及がほとんどない。「鼻」や「外套」といった作品から、後藤明生は悲哀を喜劇に変換する手法や、鼻におけるとつぜんの出来事などの「原因不明の世界」という世界認識などなどを読み込んでいたのだけれど、同じく都市を扱った「死せる魂」にはとんと言及がない。それはもちろん「死せる魂」の基本の舞台は田舎、地方だからということもあるし、そこで出てくる都会はペテルブルグではなく、チチコフが旅人として訪れた一地方都市でしかない。田舎ものが都会に出てきた困惑というものをゴーゴリの都市小説に読み込んでいた(そこには後藤自身の体験も重ねられていただろう)後藤にとっては、この扱われ方はあまり刺激的なものではなかったのだろう。

ナボコフ後藤明生ゴーゴリ観の違いは、両作家の小説観の違いにもつながっていて面白い。両人の本質的なものを露わにしている。この違いは、ドストエフスキーに対する態度において衝突する。ナボコフドストエフスキーを批判するのに対して、後藤明生ドストエフスキーを非常に高く評価していて、ナボコフドストエフスキー批判について何度か反批判を加えている。

この関係がちょっと面白い。

「死せる魂」あんま関係なくなったな。

なお、本書の訳者平井肇は戦後満州で亡くなり、戦中の朝鮮永興出身の後藤明生ゴーゴリについて論じた卒論を提出した横田瑞穂が、仮名遣いや言葉遣いの訂正、改訳を行っている。その分、同訳者の時代がかかった言葉遣いが多かったディカーニカよりもかなり読みやすくなっているのが良い。