さまざまな外国文学や方法の輸入も良い、しかしそれを本当にやるにはそれを書こうとする人間つまり自分を書くことが肝要だというあたりは『美濃』などのメタ私小説へと行き着く発想が窺える。自分を背中から見るという相対化、複眼的思考といえば容易いけどもそれはとても簡単なことではない、とも。
内面世界の発展とは、作者の論理の展開のことでもある。そうしてその論理とは一言にして云えるものでなければならないようだ。そうでなければ、論理は小説を殺す。私は自分に任せる。自分を信用する。自分の声に動きながら耳を傾けるわけだが、私は要するに根本の論理が薄弱なために足もとが乱れることもある。27P
もっと身を切るようなことですよ。そうやって自分が一番大事だと思っていることを切り離すんですから、難しいんですけれど、それをやればどんな状況からでも、文学の新しい材料というやつは、まさに自分というものが存在する以上、それを元に考えてゆけばあるかもしれないですね。256-7P
カフカを読むときもそうで「だから彼のすべての小説は、わかりにくかったり幻想的な小説であっても、全部これは彼個人と結びついているんです」(305P)と言い、
要するに、女が書けてるってことは自分が書けてるってことになっちゃうのね。有島の「葉子」、はたしてあれはどうかっていったら、あれも有島そのものかもしれないですよ。それはわからないけれども、少なくとも、トルストイの「アンナ」とフローベールの「ボヴァリー」はそういうふうに言えると思うんです。369P
と書く。この「自分」ということについては、
自分は一家を支えている、一家の大黒柱であるというのは、食わせる方のことではなくて、自分が考えていることは一家のこと、さらに家族に限らず人間全体のことを全部背負っているんだ、という考えでもあった可能性があるわけです。298P
とカフカを評するところがある。これは後藤明生がカフカの「こま」について言っていることとも似ていて、極小のものに極大なものを見出すモチーフでもあって、小島はそれをカフカ個人と小説の関係についても言っている。小説の向こうに人間を見、自分自身の身を削りながら小説を書くことがメタフィクション性をも持ち込んでしまう、書くものすべてが小島信夫になる彼のスタイルの出所がよくわかるようになっていて、なるほど確かにこれは小島信夫入門にもなっている。
文学というのは、知識があるからこれを整理して書いたって何もならないんです。何もならないということを肌でおぼえると、これは読書をすることが、創作をするのとほとんど同じになってくるわけですね。なるべく批評も創作に近づいた方がいいですね。323P
これなども小島の独特な書き方の由来とも言える。「ぼくは、調べたり、人にきけば、すぐに分ることを、わざとそのままにしておく快感にいま酔いしれたいと思っている次第なのです」193Pと言ったり、手元に本がないことを喜んだりというのも似たところがある。
作者に信用がおけないといってらしたけれども、そういうようなところが僕の後半の書き方なんですね。なぜそういう書き方をするのか、自分でもわからないんですが。しかし僕は、そこのところが小説家の小説家たるゆえんだというふうに、どこかで思っているらしい。407P
保坂和志との対談ではこのように答えていて、しかしこれは身を切ることで自分自身を材料にするという考えの直接の延長だろう。自分を材料にする、自分を背中から見る、複眼的思考、それが作者自身をも疑うことに繋がっていくのは不自然ではないだろうと。
そう考えると結局この本の一番最初の部分に戻ってくるような気がする。
一言にいって、私は文章というものを非常に簡単に考えている。つまり、言いたいことが、十分にいえているかどうかということだ。というより、いいたいことがあるかどうか、ということだ。10P
ユーモアについて。
私はおかしさ、といったものに執着し、そのおかしさも、美しさといったものとは簡単に結びつかないもの、多少、ワイザツなもの、ザラザラしたもの、といったらよかろうか。したがって、私の文章も、簡単に美しくては困るし、享楽的に簡単に快すぎても困る。14P
この二人の人物の真剣さと愚劣さが私は好きである。その愚劣さはキリーロフの場合さえも決して例外ではないところがいい。その書き方の細かさは、人は真剣になるものであり、真剣になるときは、愚劣なものであり、だからこそ人間であり、だからこそ人間は……というふうになっているようである。107P
どうも大切なことは、うっかりするものであり、また向うの方から姿を見せてくれるもののようです。190P
編集のためでもあるけれど、とゴーゴリ、ドストエフスキー、カフカが副題についたエッセイがあるようにこの三者の重要度が案外高く、一度しか名前が出てこない後藤明生のことをかなり思い出させる。
同じく脱線、饒舌の作家として似た括りがされることもあるけれど、脱線の仕方がかなり違ってるとも思う。後藤がアミダクジのように話題がスイッチしていくとすれば、小島はなんというか、その場で後ろに戻ったりぐにゃぐにゃしている。「簡単に美しくては困る」と書いていたように、シンプルで美しい、明快で堅牢、そういうものをあえて拒否してぐねぐねとしたうねりを通してこそ何かが伝わるというか。これはしかし「カフカをめぐって」で小島がカフカに感じたものと同じことを言っているのに気づいた。こうだという風には分からないし明晰ではない、わからないんだけども何かしらを感じるし、動かしがたい具体性がある、小島はそうカフカを評していて、なるほどな、と思う。
「小説とは何か」で、ドストエフスキーの『罪と罰』の話が『チャリング・クロス街84番地』という往復書簡のノンフィクションの話になって、ほとんどその話になったあとに書簡体小説『貧しき人々』に繋がるのも面白いんだけれども、これがまたなんだかわかるようでわからないところがある。
まあ、なんというか、そんな感じ。自分に影響を与えた作家、というところで出てくる「グリーン」は、グレアム・グリーンだろうか?
小島信夫を読むなら普通に新潮文庫の『アメリカン・スクール』や文芸文庫の『抱擁家族』あたりかなとも思うけど、中後期の書き方の片鱗を知る意味では本書もなかなか面白い入門になってると思う。