論争傍観者を自称する人間についての二つの問題

まあ、収束気味だけど私なりのまとめをひとつ。というか、記事をまとめている間に似たようなことをすでに書かれている感があり。

賢明であると自認することと、賢明であろうと努めることとの大きな溝

謝罪までして撤退する様子のfromdusktildawn氏についてさらに突っ込むのはどうかと思うが、彼を一つの典型と扱うとして以下は読んで欲しい。

私が問題にしたいのはまさにこのタイトルに見られるような態度だ。
はてなグループ
素人が素人に分かりやすくいったい何を説明できるというのだろうか。搦め手で事件の実在を確信した理由は書いてあっても、それ以外の理由で確信できるかどうかは書いていないし、検証してもいない様子。素人の素人判断を素人に教えていったいどうしたいのか。私にはまったく要領を得ない議論にしか思えないのだけれど、これで納得したという人がいるというのだから不思議だ。

否定論者が完全否定論を唱えるのは、完全に否定してしまわないと国際的に事件性を持ち責任が発生する大事である(差分)と認識しているからに他ならないと思う。秦郁彦説だってかなり数を少なく見積もっているが、それですら否定論が受け付けないのは、その程度の数(数万)でも責任を回避することができないからだと分かっているからだろう。

さらに、当時良くあったことと、問題ではないことにはまた違いがある。当時良くあったからといって問題性が消える訳ではないし、相殺されるわけではない。個別に批判できるし、すべきだろう。ちなみに、当時中将の岡村寧次は南京事件後に軍紀引き締めに努力した結果、武漢攻略において「事故がなかったことは、はなはだ好かったと嬉びあった」と記している。

また、fromdusktildawn氏は、事件性の有無と、戦争犯罪の象徴的事例として代表されることとを混同していると思う。彼の手法だと、有名でない事件の事件性については判断できない。

で、本題にはいるが、彼の議論の最大の問題は、素人を自認しながらも「オレ理論」で他のジャンルの議論をろくに知ろうともせずに明快に斬ってみせることができると思いこんでいたところだろう。fromdusktildawn氏を発端とする反応についてまとめた以下の記事の通り、
re: 南京 - ls@usada’s Backyard

「汎用的な持論を語る」という主目的のために手近にあった南京ネタのエントリをダシに使って、しかもダシに使いたかっただけなので南京事件そのものについては無知、というほぼそれだけの事実をもって、かなりの範囲の人間を混沌の渦に叩き込み、

fromdusktildawn氏は、持論、オレ理論を賢しげに振り回すために南京事件をネタにしたわけだ。しかし、普通、学問的手続きというのは、仮説の検証こそが重要なはずだ。

事実から帰納するにしろ、理論から演繹するにしろ、立てられた仮説が事実とどの程度適合するかを検証していき、その過程で不都合があれば何度も修正し、さらに検証を繰り返していくというプロセスこそが自然科学にしろ、文系にしろ、論文作法の初歩でもあり、学問の核心だろう。学問というのはそのプロセスの蓄積に他ならないと思うのだけれど、fromdusktildawn氏は仮説の検証という最重要プロセスをすっとばして、オレ理論が正しいという前提で現実の論争について大上段から口を出した。

そんなものは妄想にすぎない。たとえば創造論がトンデモなのは、それが検証できないものを含んでいるというのもあるが、様々な地質学的な観測データと整合しないし、そのことをごまかすために議論の手続きを無視するからだ(あまつさえ科学を僭称する!)。fromdusktildawn氏の記事は、理屈自体は興味深かったり、他のことには適合するのだろうが(自身の体験からの経験則とのことだし)、こと南京事件に応用するにあたっては、事実との適合を検討していない(少しも勉強しようとしていない)ために、その理論にまったく価値がなかった。

彼の「オレ理論が正しい」という勝手な前提は、自らを賢明であると自認していることからくる勘違いなんではないか。しかもこの期に及んでも論争をもっと検討したり、勉強しようとしない態度は一貫している。空気を読んで撤退したのだろうが、このブクマコメ

小利口でプライドだけは高い人なんだなと思った。

というのは私も同感だ。そしてプライドと表裏一体の、虚心に勉強しようと言う態度への軽侮のせいで、素人だけど頭のいいオレが厄介な事件を華麗に斬って見せてオレ理論の鋭さをアピールするぜ、みたいなどうしようもないことになってしまったのが彼の南京事件についての記事だと思う(言い過ぎだろうか? しかし、間違っているとも思わない)。

この傲慢な裏付けのない「オレ理論」を振りかざすことを、これは内田樹メソッドと呼ぶべきだろうか。以下の記事は具体的にそこに突っ込んでいてわかりやすい。
内田樹センセはもう終わった: そんなnewsは犬も喰わない

しかし、笑ったのはこれ。ひどすぎて笑う。
はてなブックマーク - 南京事件論争を中学生でも一目で分かるように図解してみた - 劇場管理人のコメント - 分裂勘違い君劇場グループ

2008年01月04日 inuda_one 自分が分かっていない問題でも他人が分かるように書けるというのが「理系」の特権

空理空論で分かったつもりになれて、しかも的外れの「理解」になっていることに気づけないのが「理系」の特権とは、自虐にしても面白すぎる。そのメジャー級の面白さには座布団を食べさせてあげたい。Apemanさんのブログコメを見てて私も思い出したけど、度がきつすぎて視界が歪んでいるんじゃないかというメガネをかけた数学屋的なアレだ。自分の知性に無根拠な自信があり、他人の批判にまったく耳を貸さない。貸すと自分の頭の良さというセルフイメージに傷が付くからだろう。

適切な議論の手続きを怠らないことによってこそ、知的誠実さや学術的正当性が担保されるのであって、無根拠なプライドによってではない。知性や賢明さは個々人の才能のみに拠るのではなく、発想を検証し鍛え上げていく過程を地道に努めることによってこそ生まれるのだと私は信じる。


しかし、私なんかはちょっと政治的だったり社会的だったりする話題に踏み込むときは、どんな痛恨の批判が来るかびくびくして記事を書いて(まあ、それでも書くんだけど)、コメントが来たなんてメールが来たときには怖々と読むもんなんだけれど、みんな違うのか。

イデオロギー・フリー」幻想

もう一つはブックマークコメントなどで散見される自称中立者について。

前の記事でも、ことを相対化したり、俯瞰したりして自分は価値中立たろうとする人間の問題について考えたが、筋金入りの歴史修正主義者よりも、むしろこういう人たちの存在が問題ではないかと思い始めている。
歴史修正主義の手口について - 児童小銃
詳しくはrnaさんが書いているのでそちらを参照。

彼らはなぜか中立やメタ的なポジションに陣取ればイデオロギー・フリーになれると信じている。「個人的なことは政治的なこと」という認識は、フェミニズム現代思想を通過したあとでもはや常識的な知識だと思っていたが、あまり細かく説明する能力もないので、それは措くことにする。


さて、彼らはなぜか自分を右でも左でもないと主張したがるという傾向がある。右でも左でもないなら、極度に政治的な話題には立ち入らなければいいのに、それでもあえて踏み込んでなおかつ左右どちらでもないと強調する。

どうも、右や左という政治傾向を露わにすることが、知的にスマート(重複表現だなこれ)ではないみなされると思っているようだ。政治的に偏りがあることは、すぐさま自分のイメージに傷が付くと考えているのでないか。イメージを傷つけずに政治的話題に介入するには、どっちもどっちとしてまず機械的に両者を等距離においてそのあいだに自分が収まる必要がある。同時に、両者の主張を知らないということを強調することが重要になる。どちらかの主張をよく知っているということは政治的な偏りの証拠に他ならないからだ。

その一例として今回の件での中立者は、自分は右でも左でもないので、左がかった学者による事件の入門書などを読みたくないと思っているし、完全否定論がトンデモであることくらいは小賢しくも嗅ぎつけているので、そこにも与さないというスタンスをとることになる。fromdusktildawn氏のスタンスはそうしたプロセスの必然的な帰結だろう。無知だからどっちもどっちという結論になるのではなく、そういう人は中立を維持するために無知でいる必然性があるのだと思う。

上掲のrnaさんの記事のブクマコメントには典型的な以下のような発言がある。

2008年01月05日 ono_matope 歴史 『新書一冊読むだけで否定論の大半はトンデモだというのがわかりました』その読んだ本が偏向していないという確信は果たして持てるんだろうか

これにfromdusktildawn氏が星つけているのには笑う。偏向しているかどうかは読んだ後で判断すべきことであって、読まない理由として偏向している可能性を挙げてしまうことというのは、私の以上の論旨のきわめて忠実な具体例のようだ。偏っているかどうかではなく、偏っている可能性があるかどうかで判断しようとしている。偏向しているのならその偏向を自分で調整すればいいのであって、偏向していない本を夢想するだけでいつまで経っても前に進まない。結局、世俗イメージという空気を読んでいるだけじゃないのか。

そして、無知なまま、自称中道あるいは価値中立の自分という自己認識と、そういった賢明さのアピールの機会として、整理やまとめや図式化を提示するということになる。しかし、しょせん無知故に初歩的な把握がなされていないので、そのまとめや整理はやたら歪んでいて用をなさないし、妥当な指摘を含んでいる確率も非常に低くなる。

しかし、まとめたり要約すると言うことにが中立たりうるという予断もまたおかしなものだ。どうしても全体像を要約しようとすれば自分の偏見が入り込んだものにならざるを得ない。というか、そうした偏りを前提にしてこそ、自分の立ち位置を自覚し、修正することができるようになる。

彼らは中立というポジションが、楽に手にはいるとでも思っている。しかし、裁判官が基本的にそうであるように、検察、弁護側どちらにも与せず中立的な判断を下そうとするのなら、両者の主張を十分に理解し、照らし合わせて検討するという作業を必要とする。中立、中庸というのはそうした手続きの後にはじめて成立するのであって、右とか左とかの立場を選択するよりもはるかに苦労を伴うもののはずだ。前にも書いたが、知らないことをまとめることはできない。読んでもいない小説を帯のアオリや背表紙のあらすじだけで要約するようなバカがどこにいる。

傍観者やどちらのスタンスをとるにも知識が欠けているとして判断を保留するのなら特に問題はないと言えるだろうが、傍観者や無知がイコール中立だなどというのは単なる勘違いであって、むしろ、傍観者という立ち位置は中立からもっとも遠い場所にある。中立であるという予断やそれを前提にした能天気な振る舞いからは決して中立など出てこない。それは自分の立ち位置の自覚と、それを絶えず確認し直す行為の中からこそかろうじて現れてくるものであって、無知や傍観という立ち位置がそのまま中立にスライドすることなどあり得ない。

私は、事態を傍観して特にかかわりをもつつもりもないくせに、整理したり図式化したりといった振る舞いを欲望し、中立やメタなポジションであることが知的であったり偏っていないことの証であると考え、こぞってそのポジションに就こうとするような自意識ゲームを心底軽蔑しているつもりだし、私自身そうした振る舞いをしないよう心がけてきたつもりだ(煮え切らない表現なのは、私自身が私をあんまり信用していないからということでひとつ)。そうした位置取り競争、自意識ゲームには興味がないし、良く理解できない。私が北田暁大の議論をあんまり理解できなかったのはたぶんそのせいだろう。

はてな界隈でもそういう人がしばしばいて、今回のfromdusktildawn氏の謝罪についてもそうしたこれはネタだよ、分からないやつカコワルイみたいなブクマコメントをつけている連中がいて、まあつまらんのだけれど、私はネタかベタかなどに興味はないし、区別をつける気もないのでネタにマジレスさせてもらった次第。

問題なのは、繰り返しになるが、学問的研究と政治的デマという南京事件論争の構図を、イデオロギー対立にすり替えること自体が歴史修正主義の戦略なので(おとといの記事についたコメントがいい例だ)、自称中立者は歴史修正主義にとってきわめて都合のいいイメージを振りまいていることになってしまうことだ。高度に発達した歴史修正主義者は自称中立と区別が付かない、と。


まあ、偉そうなこといってアレだけど、いろんな記事のブクマコメントで笑いを取りに行ってるコメントのたぐいは結構面白くて好きなので、もっとやれとか思った。fromdusktildawn氏謝罪記事のブクマは面白いね、特に。他の意味でも。

付記

hagakurekakugoさんのこのブクマコメントについて。
はてなブックマーク - レベルの高い修正主義者? - ノーモアのコメント録
2008年01月05日 hagakurekakugo 南京事件 否定論者はもはや反論不能と見て、戦法を変えてきたんじゃないでしょうか。それが「自称中立」を気取ったメタ論者として形になったような気が。

確かに、そういう気はしないでもないです。しかし、あまりそう言い立ててしまうと、「歴史修正主義者の陰謀」論になってしまって、ミイラ取りがミイラになるだけですので、注意深く書く必要があると思います。歴史修正主義としては、ことがイデオロギー対立になれば確かに有利なんですが、結果としてそうであるということと、意図としてそうであることとはやはり注意して区別しなければならないと思います。すべての結果を意図として見なすと結局陰謀論に堕してしまいますから、反歴史修正主義を標榜するなら、ここは必要以上に注意深くなる必要があります。
はてなブックマーク - レベルの高い修正主義者? - ノーモアのコメント録
ここにはそういう反応もありますし、声高に中立を自称する人による不断の相対化作戦もありますから。

まあ、でも歴史修正主義的欲望をもっているか否かにかかわらず、自称中立論者はほとんどがゴミでしょう。