何の罪も無いはずなのに 何らかの罰を受けてる

「何の罪も無いはずなのに
何らかの罰を受けてる
自分で蒔いた種でもないのに
咲き乱れた花摘まされる」

ある記事を読んでいたら、この歌詞が浮かんだ。歌は、仲井戸“Chabo”麗市の「遠い叫び」のサビのフレーズだ。この曲は元々チャボが所属していたRCサクセションのアルバムの曲だったのを、アニメ「serial experiments lain」のエンディングテーマとしてソロで再録したもの(のはず)。イントロから切り込むギターはバッキングからソロまでとにかく格好いいし、浮遊感のあるキーボード、やさぐれた詞、どれも印象的で抜群のインパクト。私的邦楽史上、ベスト5くらいには好きな曲で、これをエンディングにながすセンスには驚愕した。*1

で、チャボのアルバムとしてはこの曲が収録されているのはこのベスト。

CHABO’S BEST HARD&Heart(HARD編)

CHABO’S BEST HARD&Heart(HARD編)

私としては「遠い叫び」のような感じの曲を期待していたけれど、チャボはスタイルとしてはもっとヒューマンで暖かみのあるものが本道のようだ。アルバムは二枚しか聴いていないけれど、「遠い叫び」はむしろチャボとしては異質な曲みたいだ。lain関係から聴く人はむしろ、カップリングのアコースティックタッチのこれも名曲、「孤独のシグナル」的なものを想像した方が適切だろう。

とはいっても、「Himawari」みたいなハードな曲もあり、これは格好いい。「One Night Blues」みたいな曲は詩的には「遠い叫び」みたいなブルージーな調子が聴ける。

ただ、このアルバムも新品ではもう流通していないみたいだ。

無責任の極み

さて、というのは話の枕で本題は以下の記事だ。いま議論の的になっている花岡信昭の沖縄米兵暴行事件についての論説。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080212/plc0802122007008-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080212/plc0802122007008-n2.htm
この記事については相当にすでに批判がなされていて、いまさらに批判を加えるのはどうにも流れの尻馬に乗っているようで気が引けるのと、事件そのものがデリケートなことなので、ためらいもあるのだけれど、どうしてもむかついてしょうがない。なによりもこの記事を書いた人間の根性が気に入らない。まあ、迷っている内に一週間経ったので、少しは波も収まったかも知れないので、あえて書いてみることにした。

はてな界隈では、花岡が少女の側の「しつけの不徹底」を指摘したことから、性暴力やその被害者に責任を問うたりすることの問題についての議論に発展していっている。

どうしても少女に落ち度があったことにしたかったり、事件の因果関係と責任とを混同したり(ついていかなければ事件は確かに起こらなかっただろうけれど、それは責任ではない)、それ自体は抽象的な一般論としては妥当だとしても、文脈と状況を無視して発言することで結果的に少女を非難することにしか貢献しないということを愚かにも気づいていないか、気づいていないふりをしたりする連中はもちろん批判されるべきだと考えるが、花岡記事を読んで一番気持ちが悪かったのは、この記事においては、自分、もしくは支持する政策が絶対に責任を問われないようにしようとする姿勢が徹底していることだった。

そのためには、保守のクセして自国民を蔑むことも、親米のクセして米兵を差別することも、沖縄の歴史を忘却することも辞さないというのが花岡の態度だ。ここにあるのは、徹底した責任逃れであり、当事者意識の欠落であり、自らの言論の帰結を決して認めようとしない恥知らずぶりに他ならない。ほとんど一行単位で愚劣な文章だ。これほど自分を棚に上げて無責任な放言を垂れ流せるということには驚かざるを得ない。なにをどうしたらこんな卑劣なことが言えるのか。

自己責任ネオリベ

個別に見ていく。日本の安全保障には米軍の存在が必要だと主張するのはいいとしても(私にはこの主張を反駁する根拠を持っていないので)、そのリスクをなぜ沖縄や岩国ばかりが負わなければならないのか。沖縄にのみリスクを集中させておいて、どの口が「彼らは体を張ってこなかった」などといえるのか。「体を張ってこなかった」というのは、花岡自身にこそ当てはまるのであって、沖縄はもうすでに何十年も体を張ってきたし、いまもこのような事件が起きるほど、身体を張ることを強要されてきた。

そうしておいて、暴行事件のような形で実際のリスクが発生すると、米軍の存在というリスクを隠蔽しようとして口に出すのが、少女の側に事件の主な責任があるかのような自己責任ネオリベ教のご託宣だ。もし「しつけが徹底」していれば、この少女ではない別の少女が襲われただけではないのか。真に責任を問い、しつけるべきは誰なのか。

安全保障に米軍が必要だと主張するのなら、こうした実際のリスクを厳粛に受け止めた上で、日米地位協定などの不平等性などの改善を要求し、徹底してリスクを低減することを主張していかなければ筋が通らない。しかし、花岡はそのことにはまったく触れていない。

また、日本の安全保障の核心だといいながらも、そのことのリスクが沖縄などにのみ負わされていることに口をつぐむばかりか、基地に反対する勢力への蔑視的なニュアンスを隠そうともしない。日本全体の政策のリスクが沖縄ばかりに負わされているという不平等を無視している。

重圧を加えている側が、重圧を受けている側に対して、自分の支持している政策の責任をまったく感じることなく、一方的に責任を言い立てるという醜悪さ。この醜さは凄まじいものがある。

日本は、いわば気まぐれな邪神に沖縄を生け贄として差し出しているに等しい。そうでありながら、花岡はそのことに対して負い目や反省をすることもなく、生け贄たることを同意していない者が、生け贄らしく振る舞わないことにいらだちを隠さない。

また言い換えれば、日本という企業が沖縄に国防をアウトソーシングしているようなものだ。しかし、一派遣社員が事故なり起こしてもそれは彼の自己責任だとして切り捨て、企業は決して労災を認定したり、保障をすることはない。それと同じだ。なぜか管理責任は問われない。

自己責任ネオリベ教の教義は、自分あるいは権力者には責任はない、責任はもっとも弱いものから負うべき、というものだ。沖縄は昔もいまも、こうした形で一方的な罰だけを加えられている。この記事は少女のみに対してセカンドレイプをしているのではなく、沖縄全体に対してもセカンドレイプを加えていると言わねばならない。しかも、別の意味での加害当事者によって、だ(もちろん、この「加害当事者」には私その他の日本に住んでいるもの全員が含まれる。日本の安全保障が日本全体の問題である以上、そうだ)。

しかし、この花岡なる人物の徹底した無責任、当事者意識の不在、言論の覚悟無き放言は何なのか。まるで頭の中身がクラゲのように不定形。主体性を失くした愚劣な責任転嫁。反基地の主張に少女が利用されていると言うが、自分こそが事件を政治問題化したくないばかりに地位協定の存在を無視して非政治化しようという政治的言動をしているという自覚はない(自称中立病の一例)。日米関係に少しでも都合の悪い事件をすべてなかったことにしたいという欲望だけが透けて見える。

もちろん、この少女にとっては、自分の事件が新聞で報じられ、それをきっかけに県民集会が開かれ、政治的なイシューとして扱われてしまうことは何とも苦しいことのはずだ。話が大きくなればなるほどやはり苦痛は増してしまうだろう。犯人が米兵でなければまだしもましだったかも知れない。その意味では、政治的論争のネタにしてはならないというのは確かに一理はある。
米兵の事件だから大きく報道するに決まってるだろ、このバカ - モジモジ君のブログ。みたいな。
しかし、上記の記事の通り、地位協定が絡んでしまう以上、地域社会は声を挙げざるを得ないし、政治的争点にならざるを得ない。そのようなきわめて不幸な状況を準備したのは、この国の政策にあるというのも事実だ。このとき、少女の事件を政治的争点にしないということは、そうした不幸な状況を準備した責任をすべて被害者側に転嫁するという最悪の行動となる。

これは、決して自ら責任を取る覚悟のない言説が、どれだけ醜悪になれるかというひとつの具体例だ。

笙野頼子と自我の問題

以下、笙野に興味のない人はこの節、飛ばしていいです。

だいにっほん、おんたこめいわく史

だいにっほん、おんたこめいわく史

だいにっほん、ろんちくおげれつ記

だいにっほん、ろんちくおげれつ記

群像 2007年 12月号 [雑誌]

群像 2007年 12月号 [雑誌]

さて、ここでやはり連想するのは、笙野頼子の最近の仕事だ。笙野頼子は「おんたこ」連作において、こうした論者を論畜、おんたこ、などと呼び、そうした存在が跋扈するディストピア社会を描いた。しかし、ここで笙野の試みをただこうした愚劣な言論を一方的に批判するだけで成立しているものだと理解してはならないと思う。

笙野の小説の核心は、自己、自我、主体の問題だろうと考えられる。語弊を承知で言い換えれば、自分自身についての責任から逃げない、ということだ。笙野読者にはすぐ分かるだろうけれど、故郷伊勢の遊郭のことについて書くときの逡巡や、作中の笙野が発狂したり、「おんたこ」連作の最終作「だいにっほん、ろりりべしんでけ録」において、これまでの笙野作品の主人公たちが、作中人物たちを救出に出向いたりするという一見荒唐無稽のメタフィクション的展開を迎えるのは、笙野が自ら書いた小説の、書かれた内容について責任を取ろうとしているからだろう。笙野頼子において、メタフィクションというのは、作中事実を虚実ない交ぜにして読者を翻弄するためではなく、作中で描写したものの責任を取るために用いられている。メタフィクションのこうした用法はあまり他でお目にかかった覚えがない。

笙野がしきりに参照する義江彰夫の「神仏習合」も、自我の発生を富裕層の持てるものの責任、苦悩という点にみいだす理論と要約できる。責任、自己にまつわる問題が笙野作品においてはきわめて大きな意味を持っている。笙野にとっては自らに向かい合う、責任に直面するという事態が決定的な意味を持つ。彼女が宗教や祈りを重視しているのは、自己の深みに向き合う行為が、祈りを求めざるを得ないことを体感しているからだろう。だから、しかし、彼女の宗教は個人的なものであり、集団性の中に個人の責任を溶かし込んでしまう国家神道的なものには徹底して抵抗していく。

無責任な主体を「おんたこ」と名付け攻撃するのはそういう意味で、彼女自身が責任を重要視し、自我の根源的な問題だと認識しているからだ。「おんたこ」連作が、「おんたこ」を攻撃しつつ、メタフィクションという形式を導入するのは、同じ理由の両面だと言える。「おんたこ」連作の、諸コードが複雑に入り組んだ状況をとりあえず分かりやすく整理すると、そういうことになるのではないか。

ひとつ思いついたんだけれど、笙野と大塚の論争において、笙野には文芸誌が単独では採算がとれないと言うことについての対案を考えていない、いまのいわば文化事業として赤字の上で成り立っているという批判については応えていないという批判があったと記憶している。確かにそれは私も思っていたことで、笙野はどう考えているのか疑問だったんだけれど、もしかしたら笙野は文芸誌が本当につぶれてしまうまでは文芸誌で仕事をしていく覚悟なのではないだろうか。

文芸誌でデビューしても十年間単著を出せなかった笙野は、文芸誌という場、文芸誌の読者というものを非常に大切に思っていることをなんどかエッセイなどで書いている。また、論争も出来うる限り、批判相手の名前を伏せさせられたり、相当な言論統制を食らっても、問題になった文章に対する批判はその文章が載った雑誌で行おうとするような振る舞いも、その証拠だろう。文芸誌がある限りはそこをメインと据えて、できるだけ文芸誌を毎月読んでくれるような読者を大切にしようと言う態度から考えて、いわば文芸誌と心中する覚悟なのかも知れない。それはそれで、一つの責任の取り方、筋の通し方ではある。

「米兵」が「危険」?

さて、もう一つ。事件の反応において、「米兵」があたかも全員危険人物であるかのような前提で発言している人がいないだろうか? 実際、私も米兵だと分かっているのについていくなんて、という思いを持った。が、米兵が危険だという認識は普段米兵と接することのない、基地のない場所に住んでいるからこそ生まれる偏見なのではないか。普段から米兵と接し、中学生でも英語混じりでアメリカ人と話せる人が多いという沖縄では、おそらく日常生活のなかにアメリカ人、米兵が溶け込んでいるだろうと考えられる。そのような社会では、米兵だからといってイコール危険だという認識は解消されていくのではないだろうか。この場合、ことさら「危険な米兵」についていったから少女の落ち度は大きいといわんばかりの議論は成り立たないだろう。米兵と普段接する訳ではない人間の感覚で考えてはならないはずだ。

「危険な海兵隊員」にほいほいついていった「甘さ」などということは単純には言えないはずだ。もちろんこれは単なる想像にすぎないけれど、せめてこれくらいの推測は働かせるべきではないか。

そして「徹底したしつけ」を言うということは、沖縄の人たちを「徹底したしつけ」が必要とされるような非常にストレスフルな生活に押し込めることを意味している。ここでも、彼らをそうした危険な生活におしこめることの責任は問われず、おそらくその自覚もない。自己責任ネオリベ教の面目躍如だ。

それにそもそも「米兵」が危険だと繰り返すのは、差別主義的ではないのか。花岡はそれが偏見であるという可能性を考慮せず、「米兵=危険」の図式はまったく疑われない。米兵はいつ性犯罪に手を染めてもおかしくないと言わんばかりの偏見に満ちている。しかし、おかしいではないか。ちょっと前に徴兵制についての議論が起こったとき、保守的傾向の人たち(ちょっと具体例が見つからないので偏見かもと思うが)は、徴兵や自衛隊入隊を義務化すれば、規律正しい人間が育成できるなどということをさんざん言っていた記憶があるのだけれど、ではなぜ、海兵隊員や米兵を「危険」だなどという認識に疑問を抱かないのか。矛盾ではないか。それとも、軍隊で教えられる規律には法を守ったり、女性を守ったりするということは含まれず、むしろ女性は積極的にお国を守ってくれる軍人に身体を提供すべきだとでも思っているのだろうか。

それとも、「アメリカ人」の兵隊だから危ないとでも言うつもりだろうか?

同時に、性犯罪について女性の側にばかり対策を要求するということは、男性の欲望については不問にするということだ。まずまっさきに批判されるべきはそのような欲望を暴力のもとに実行したことのはず。これは、いわば男はレイプしてもしょうがない人たちだという認識と、そうした欲望を持つ自分たちへの甘さであり、そうした欲望を持っていたとしても決して現実には実行することのないその他の男たちへの侮辱だ。おまえと一緒にするんじゃねえよ、タコが。

花岡は沖縄をまったく生け贄扱い、モノ扱いしている。そうした扱いを自分がしているかも知れないと言うことにはまったく疑念を抱いていないらしい。想像もつかないのだろう。これで、日本がなんだとナショナリスト的なことを書くのだからたまらない。国民を売り飛ばしておいて平然としているナショナリストか。素晴らしいじゃないか。どんどんそうやって保守思想の骨抜きに貢献するがいい。覚悟と責任を他人のみに要求する思想はもはや思想などとは呼び得ない。


では、おまけ。ピロウズの以下の曲のmusic magazineをsankei sinbunにするといいよ。いいよ。
the pillows - No substance

「Yeah The music magazine has no shame,no substance,no brains!」

*1:前にも書いたけれど、オープニングはwikipedia:ポール・ロジャースの二人の子供がやっているUKロックバンド、wikipedia:boaの曲だった。いったいどうしたらそんなことができるのか