透明で綺麗な暴力

西成暴動は、逮捕者も出て、沈静化の兆しを見せているようだ。

前回の記事はこれまでにないほどブクマついてアクセス来たんでびっくりした。前に書いたことは以前にも書いたことを、暴動に興味を持った人にとりあえず一つの視点を提供するためにも雑駁にまとめたもので、きっちり書いてあるとは言えないので、少々肩身が狭い思いだけれど、それなりに読まれたようなのでそこそこの価値はあったかと思う。

踏み込んだものとしては「野宿者襲撃」と絡めて考えたArisanさんの記事や、暴動を眺める人間の反応について書いたMadashanの記事が非常に面白いので、そちらを是非読まれることを薦める。

釜ヶ崎の暴動から受けとる(聞きとる)べきもの - Arisanのノート
西成蜂起について - 無産大衆

さて、でそれらの記事についたブクマのコメントやらにはいくつかとても予想通りのものがあり、興味深い。いちいち引用することはしないが、端的に言えば、労働者の起こした「暴動」の暴力についてのみ糾弾するというタイプのものだ。

確かに今起こって、見えているのは労働者側の警察に対する「暴力」だ(映像を見れば消防車による掃討なども見られるが)。しかし、私が主張したように、西成、釜ヶ崎では、労働者、ホームレス、そして支援者らに対する権力を背景にした有形無形の弾圧が繰り返されており、労働者側と警察、行政側には積年の敵対的緊張関係が存在する。

しかも、警察、行政側は権力を背景にしており、圧倒的な力の非対称が存在することは無視できない。なんとなれば、警察は恣意的にしょっ引いていくことは十分に可能なわけだ(先だっても支援者が微罪逮捕されたばかりだ)。民間人同士なら警察は調停役になれるだろうが、こと、労働者と警察とが敵対したとき、権力を盾に逮捕や取調室での脅迫などなど相手は諸々の強力なカードをもっているのであり、不満に思ったとしても法廷闘争に持ち込むほどの体力のある労働者などほとんどいないだろう。

確かにきっかけとなった警察の暴行の事実は確認されていないし、これが労働者の狂言ではないのか、という疑いは残るだろう。しかし、取調室という密室でのやりとりだから、水掛け論だ、どっちもどっちだとはいえない。権力を持っているからこそ、その権力が悪用されないように監視する必要があるのであり、権力行使の場を密室にしている時点でそこでの悪行を疑われても自業自得と言うべきではないか。取調を公開化(あるいは録画?)しろ、というのは被疑者の権利擁護のためでもあるし、同時に権力の監視=正当な運営の証明のためにも必要なことだ。

こと国家権力と敵対したとき、個人、あまつさえ日雇い労働者ができることなどどれだけあるのだろうか(もちろん、これまでにもさまざまな法廷闘争があったわけだけれど)。

そうした力の非対称があっても、そして警察の労働者たちに対する有形無形の暴力を指摘しても、なお、今回の暴動の事実のみをもって労働者側を批判する、というのは、彼らにとって、警察や行政の暴力は綺麗な暴力で、指摘されても見えない透明の暴力なのだということだ。

私自身も暴力行為を全的に肯定するだけの度胸はない。小市民的に非暴力で解決すべきだという意見には充分に同意する用意はある。しかし、警察が自在に自身の暴力を用いることが出来るのに対して、圧倒的な力の劣位のなかにおかれた労働者側が、いざ反撃すると、そのことだけを指して暴力はいけない、などというのは全くの茶番でしかない。非暴力というテーゼが単なる一方の暴力の肯定と堕している。これこそ、「ニセの普遍性」そのものであり、「厳正なる公平性」という不平等そのものだ。

たとえばフランスでは、知識人たちというか、自分で知識人だと称している人たちが、普遍性の名において、アルジェリア人のテロ行為を、フランス人の弾圧行為とおなじ資格で非難しました。『テロリスムにしろ、弾圧にしろ、私はあらゆる暴力を非難する』と。これこそ、ブルジョワ階級のイデオロギーに奉仕する、ニセの普遍性の実例です」
酒井隆史『暴力の哲学』書評 - 猿虎日記(さるとらにっき)

「野宿者襲撃」論

「野宿者襲撃」論

作家のアナトール・フランスに「厳正なる公平の精神のもと、法は貧乏人と同じく金持ちに対しても橋の下で寝ることを禁じている」というアフォリズムがある。もちろん、金持ちは「橋の下で寝る」必要など全然ないのだから、これは一種のブラックジョークである。そして、この「橋の下」は「公園」と言いかえても当然成立する。こうして貧困のために住む場所を失った野宿者は、「厳正なる公平な精神のもと」、橋の下であれ公園であれ「寝ること」自体を禁じられる。かりに、他に行くところのない野宿者が橋の下や公園で寝ていれば、それは「不公平」なのである。では、こうした「公平の精神」とは何なのか。それはいわば「金持ち」だけに意味をなす公平であり、ここで言う「みんな」とは住む家のある者(経済的勝者)のみを指すのではないだろうか。

暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

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酒井隆史「暴力の哲学」の主眼の一つは、暴力を禁ずるという美名が、結果的にその時点での暴力的構造を温存するというかたちで暴力に荷担してしまうという逆説を衝くことだった。
News Handler[WEBLOG SYSTEM]

百万言の暴言、百回の暴力に切れた人間が一度反撃したら、その手を掴んでわれこそが被害者だ、という詐術には私は到底同意できない。

非暴力という左翼的えせリベラルな観念が、実際たんなる暴力加担になる可能性というものを、今一度考え直して欲しいと思う。前回の記事で、取調室での暴行の真偽そのものを焦点化することを避けたのは、そして「事実なら」という言い方を批判したのは、上記のような理由による。事実だろうと事実でなかろうと、それまでの抑圧が正当化されるはずがないからだ。

まあ一部の人は、それを熟知して、なお言っているようにも思える。治安維持の暴力は大歓迎、というタイプの。警察の暴力は綺麗な暴力!

メディアの記事で、警察側の怪我人しか発表されないのは、なぜなんだろうね。