笙野頼子 - 小説神変理層夢経・序 便所神受難品 完結編 一番美しい女神の部屋

文藝 2011年 02月号 [雑誌]

文藝 2011年 02月号 [雑誌]

笙野頼子 - 小説神変理層夢経・序 便所受難品その前篇 猫トイレット荒神 - Close to the Wall
『地神ちゃんクイズ(文藝2010年冬号掲載)』(笙野頼子):馬場秀和ブログ:So-netブログ
『一番美しい女神の部屋(文藝2011年春号掲載)』(笙野頼子):馬場秀和ブログ:So-netブログ
中篇をはさんで発表された序章の完結編。中篇は馬場秀和さんが書いた感想を読んだら、ふむ、と思って屋上屋を架すことはないなと記事を書かなかった。今回も、掲載紙の発売日当日に馬場さんの感想がアップされていてその素早さにはほんとにビックリした。まあそれはさておき私もとりあえず感想を書いておく。

元々中篇の号には後篇が載るはずだったのだけれど、なんらかの事情で原稿が落ちそうになったところを中篇だけを先に発表したみたいだ。そんなこんなで序章より先に第一章が完結した。

で、一読興味を引かれるのはその文体。前篇は前にも書いたように非常に狂騒的で、中篇も地神ちゃんの胡散臭い語りだったのに比べると、段違いに静まっている。そうした胡散臭さ、狂騒と比べるとほとんど空恐ろしいほど静かになっていて、その語り口は詩的とも言うべきもので、とても落ち着いた雰囲気を持っている。何もかもを見据えた上での静まりのなかで「幸福」を語る様子は、まるで遺書のようにも思え、読むものをひんやりと緊張させる。

この文体の変調は興味深いところだ。

内容としては今までの扱った問題が総まとめされているけれど、タイトルに示されているようにやはり「便所」という場所から出てくる様々なテーマが印象に残る。たとえば、序盤の以下のようなところ。前回の割り込み中篇「地神ちゃんクイズ」についてのくだり。

新人賞が出なかったとどこかで聞いていた。せめてもと、枚数を半分にして貰って、落ちたら困る原稿だとも理解した上で、落とす気でいた。だけれどもこうして出来上がった文章が何か、どうやって「排泄」したものか、私は判らない。或いはいつのまに、「出産」したものか、生かも死かも分からないままにただ出来上がったのだ。226P

最初の新人賞のくだりはよくわからないけど、作品を通して執筆と排泄とそして出産(はそんなに言及されないけれども)という、生み出すことの三つの相が重ね合わされた文脈が形作られている。冒頭のクイズもタイトルもたぶんトイレを指していると思うのだけれど、馬場さんも「境界としての便所」「浄化としての排泄」と書いているように、「境界」と、シェイクスピアではないけれど「きれいはきたない」という価値転換のテーマはここで非常に重要なものになっている。

で、この文脈は「幸福」にも通っている。

だけどあたしはもう人間のあたしをかなり失ってしまって金毘羅プラス肉体プラス「宇佐」になっている。だから文章の中にしか住むところがない。そして残ったお友達猫と仲良くやっていきながら、最後の幸福をまた建設していくとしても、この世に生まれてきた意義であり完成であった思い出の多くはもう文章の中に、しかないから、けっ、は無視して言うね。要するに自分の小説の中でその小説に言及してしまうよ。ほーらこれは六部作でけっけっ、その中でしか生きていない私がけーっ。「ワープロに乗っている」時にしかけっ、得る事が出来ない、けっけっけっ、ふうーん、生命を書く故にその他の時間の生命を余生とする。
 だって、今人生の終わり頃に来ているから。死ぬというのじゃなく、余生しかないところまで来てとまったから。無論それは安心で満足な余生ではある。もっと一緒にいたいとは思っていたけれど、結局その時が来てしまった。愛してた幸福。愛している幸福。楽しかったありがとう。だけど伴侶が幸福だったかどうか、満足していたかどうか、実は判らない。でも私は幸福だった。一緒にいたことが「宇佐」だったのかも。ガンダーラだったのかも。238-239P

遺書のように読まれることを想定してか、死ぬのではなく、と釘を刺している。そして、ここで顕著なのは、確か以前にも書いたと思うけれど、笙野頼子メタフィクションというのは、虚構を相対化するのではなく、自身を虚構に埋め込むというタイプのものだということだ。自身の生み出したものの中に自身を埋め込む。

しかし、これほど作中で「幸福」を述べる作家も珍しいのではないだろうか。「不幸」がほとんど出てこず、「幸福だった」、と何度も書きつける。それは書くこと、書いたもののなかに「幸福を建設」していくからで、書くことと幸福であることは密接に繋がっているからだろう。では、書いている「現実」の方は不幸なのかというと、そういうことでもないだろう。猫との生活も幸福の必須の側面になっているからだ。

そんなこんなで、序章最後には以下のような力強い宣言が語られる。

そうそう、身辺を神変せしめるってこの小説の最初で言った。そして着地してここへ来たから。で、何を着地して語るというのか、だから日常を語るしかない。但し、神的日常を。249P

ここで、「神変理層夢経」本篇開幕ということになる。


笙野頼子の文章は、時にやたらに意味を圧縮していることがある。ひとつの文の背後に本一冊ある、というか。そしていろんな文脈が埋め込まれていることが多いので、それを解きほぐすのがなかなか難しい。小説なのでいちいちくだくだしく解説するわけにはいかないし、読める人は分かるかも知れないけれど、凡夫の身にはやはりそこは挙げられた参考文献を頼りにするのが適当だろう。文庫などで手に入れやすいものはあらかた集めたのだけれど、全然読めていない。単行本が出るまでには読んでおきたいけれど。