ボフミル・フラバル - 時の止まった小さな町

時の止まった小さな町 (フラバル・コレクション)

時の止まった小さな町 (フラバル・コレクション)

〈東欧の想像力〉スピンオフ〈フラバル・コレクション〉もすでに第三弾。こちらは1973年に書かれた『時の止まった小さな町』。シリーズ第二弾の『剃髪式』の直接の続篇となっており、本作では前作の語り手マリシュカと夫フランツィンのあいだに生まれた息子「ぼく」の視点から語られている。ただ、「ぼく」のいない場面についても語ったりと視点は必ずしも作中人物に限定されておらず、解説でもあるように作中の子供と後の作家フラバルの視点が同居しているところがある。

そこで語られるのは、「新時代」以後のヌィンブルクでの様子で、ペピンおじさんが居着いている醸造所での日常と、そして戦時と戦後の姿だ。ペピンの狂騒的な振る舞いと法螺話の数々はやはり前作を継いで面白いし、フラバルらしい喜劇的な描写の数々は楽しい。特に、シュコダ430という車の分解の仕方をフランツィンがペピンに教えようとして二人で車の解体をするシーンが印象的だ。フランツィンは町の人を誘っては車の解体に一日中付き合わせてそのせいで避けられたりしていて、ここでペピンを誘うのだけれど、解体の最中でこの二人はまったくお互いの話を聞いていない。二人はまるで別のことを話しており、ペピンはフランツィンの指示にまるで従わないので、オイルパンのオイルはだらだらとフランツィンの顔にこぼれてくる……。これが印象的なのは、コミカルなディスコミュニケーションとして面白いというだけではなくて、むしろもっと根源的な断絶が垣間見えてくるところがあるからだ。面白いというよりは怖くなってくる。

そして時代は戦争に突入し、この小さな町にもゲシュタポがやってくる。醸造所にもドイツ人技師フリードリヒがそこを軍需物資工場にしようとやってくる。彼は職人に丁寧に挨拶しても全員に無視され、町の酒場に出かけても「あの完璧にドイツ語ができたお嬢さん、ヴラスタは、ドイツ人たちがこの時の止まった小さな町にやってきてからこちら、がんとしてチェコ語しか話さなくなった」ため、片言のチェコ語で話すほかなかった。ポーランドでハイドリヒ帝国保護領総督がチェコ人部隊に暗殺されたことで歌舞音曲が禁止されても、ペピンがレコードを掛けてダンスを続け、そこにやってきたフリードリヒと「カギ十字」なんかカール大公が指揮するオーストリアの部隊があればやっつけられるのになあ、と言い争う。この件は密告されてごたごたが起こる。

「時の止まった小さな町」という表現は、この下りではじめて現われ、ここから何度か繰り返されていく。むしろ、戦時戦後という時代の激変のなかでこそ使われている表現だということを見ておく必要がある。

作中には向こう岸にパルチザンがいるのがわかっていて、「この連中がアーメンである」のをわかっていて、希望に顔を輝かせたドイツ人を乗せる渡し守がいる。このエピソードは『厳重に監視された列車』を思わせるところがあり、戦時中のドイツ人とチェコ人との断絶がやはりここでも示唆されている。

ドイツ人の後に現われるのはソ連兵たちで、共産圏となったチェコでは経営側だったフランツィンが醸造所から追い出されてしまう。『剃髪式』や本作前半を支えていた醸造所という楽園は失われる。醸造所を追い出され、野良仕事などをするようになったフランツィンと仕事を離れたペピンの様子が次第に変わってくるのがここからだ。

フランツィンは体つきも変わってグロテスクなエピソードを話すなど次第にペピンのようになっていき、逆にペピンがかつての快活さを失っていってしまう。時代の変化とともに人の姿すらもが変わっていく終盤の悲哀はここにあり、さまざまなものの時が止まっていく。

こうして兄弟は働いたけれど、もはや働いた成果は樽の中身とおんなじで、意味なんかなくなってきていた。ようするに、この時代そのものみたいに。時代は、動かなくなったまま誰も直さない、教会の塔の壊れた時計だけじゃなくて、周りの時じたいがだんだん止まり出していて、場所によってはもう完全に止まってしまっていた。153P

回想のなかならばいつまでもそこは時が止まっている。時代の激変を経て、もう失われてしまった世界こそが「時の止まった小さな町」として語られる。時が止まっているのは町ではなく、それを思い出す人々の回想においてだ。老いゆくペピンおじさんを語りつつ、本作は失われた「小さな町」に対するレクイエムとして書かれている。ペピンおじさんがつねづね語る「フランツ皇帝」の時代へのレクイエムで、民族共和のハプスブルク帝国を思慕するヨーゼフ・ロート『ラデツキー行進曲』(正月にはこれを読んでいた)を思わせずにはいない。

ラデツキー行進曲(上) (岩波文庫)

ラデツキー行進曲(上) (岩波文庫)

本書でよくわかるのは、フラバル作品は確かにユーモラスでコミカルなんだけれども、やはりそれで片付けられない。本書では『厳重に監視された列車』や『わたしは英国王に給仕した』のような戦時下の作品とも時代を共有しており、民族間の断絶が否応もなく露呈する。車の解体エピソードがただのユーモアと思えないのは、そのグロテスクなまでのディスコミュニケーションの奈落が、戦争のような悲劇とも相通ずるものに感じられてならないからだ。コミカルなエピソードがぞっとする陰惨さと直接繋がってしまう部分は『剃髪式』にもあって、フラバルの作品にはいずれもこのグロテスクな断絶が底流している。フラバルの描く喜劇も悲劇も、この断絶を根源としているのではないか。それが悲劇として描かれるか、喜劇として描かれるかの違いはあっても。笑っていいのかわからないようなスラップスティック、悲劇とも喜劇とも言い切れない底の深い断絶。時の止まった人々への愛情あふれる視線とともに、この悲喜劇のありようこそがフラバルらしく感じられる。

訳者後書きとして書かれているヌィンブルク紀行も非常に面白い。