ラジスラフ・フクス - 火葬人

火葬人 (東欧の想像力)

火葬人 (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉第九弾は、チェコの作家ラジスラフ・フクスによる1967年発表作、『火葬人』。チェコ・ヌーヴェルバーグのユライ・ヘルツ監督によって映画化されており、本書カバーに用いられているのはそのスチル写真。この叢書で映画の写真が装画に使われるのは初めて。真っ黒なカバーにモノクロ写真はなかなか雰囲気が出ている。映画自体は公開直後にプラハの春チェコ事件を経て「正常化」によってお蔵入りとなり、89年になるまで見ることができなかったという。

ナチスの脅威

フクスは1923年プラハに生まれ、そこで育った。つまり、彼の幼少期はそのまま、ナチスの脅威がチェコへ迫ってくる時期に当たる。そして1938年のミュンヘン会談によって、ドイツ人が多数を占めるズデーテン地方のドイツへの割譲が認められ、翌年にはプラハがドイツ軍によって掌握され、スロヴァキアは傀儡政権によって独立、チェコ保護領化されドイツの支配下におかれる。

フクスはこの時期、エルサレムシナゴーグに近いギムナジウムに通っており、多数のユダヤ人の同級生がいた。ユダヤ人への迫害が始まり、彼らは次第に姿を消していく。この衝撃もかなりのものだけれど、同時に、ロマ=ジプシーや同性愛者たちが移送されていくことに対し、自身も同性愛者であったフクスはきわめて強い不安を抱いていたという。そしてまた警察署長の地位にあった父は、それらユダヤ人らの移送にも関与していただろうし、自身の性的志向が知られた場合にどうなるのか、といった不安もあっただろうと解説は指摘している。

この体験から、ナチスからの招集状に怯えるユダヤ人の恐怖を描いたフクスのデビュー作『テオドル・ムントシュトック氏』や、自身の友人たちが消えていく思い出を綴った短篇集などが書かれることになる。そして本作『火葬人』もまた、1930年代末からのナチスドイツの脅威とユダヤ人迫害を舞台としている。

凡庸なる者の変身

さて、本作では主人公となるカレル・コップフルキングル氏はユダヤ人ではない。むしろドイツ系ともいえる彼は火葬場に勤める火葬人だ。火葬人たる彼は「優美なる妻」と、娘と息子をもつ凡庸ながらも幸福な家庭を持っている。フクスのこの時期の主たるテーマは「恐怖」ということで、デビュー作はユダヤ人の内面の恐怖が描かれているらしいのだけれど、本作での恐怖はやや位相を変え、凡庸な人間がいかに殺人者となっていくのか、という読者にとっての恐怖を描き出そうとしている。

プラハに住む凡庸な火葬人が、ナチスの脅威のなかで、ユダヤ人迫害に手を染めていくまでを描くのだけれど、ここで作者はカレル・コップフルキングル氏の内面を露わに書くことはしない。コップフルキングル氏の言動や行動は丁寧に描かれるのだけれど、彼の心情をつまびらかに書くことはせず、突き放した距離を保っている。この叙述の冷たさに加えて、随所に振られている不可解な多数の傍点、繰り返し現われる謎の人物といった不気味な存在が、何かしらの予感を暗示し、曰く言い難い未知の恐怖を静かに演出していく独特のスタイルが採られている。

凡庸なる者の変身、を描くという割には本作は非常に淡々としていて地味だ。なにしろその変身、変容の動きが始まるのは小説の三分の二くらいからで、それまではコップフルキングル氏の日常的生活が丹念に描かれているだけだ。とはいっても、冒頭は動物園の「捕食動物の館」での、豹と蛇についての会話場面から始まり、次の章では「マダム・タッソー風の蝋人形館」で、1680年プラハでのペスト大流行の展示を見に行くさまが描かれるように、死や大量死の暗示的描写、そしてコップフルキングル氏の火葬人という職業が、ホロコースト(燔祭、というように火の含意がある)をなにがしか暗示しているのは明らかで、穏やかな日常生活と対比した形でそれらの暗示が小説に翳りをもたらしている。

そうした翳りがありつつも、コップフルキングル氏の日常は過ぎていき、職場の様子や子供達の成長を愛情豊かに見つめているさまが描かれる。そんな時に彼の古い友人で、ドイツ人にしてズデーテン・ドイツ党の高い役職に就いているヴィルヘルム(ヴィリ)・ラインケが訪れる。彼はコップフルキングル氏にズデーテン・ドイツ党への入党を進めてくるのだけれど、コップフルキングル氏はそれを断る。その時点では明らかにナチスやヴィリの主張に拒否感を持っている。

しかし、ナチスの脅威が現実化していくなかで、彼はほとんど突然に態度を変える。そしてズデーテン・ドイツ党へ加入し、ヒトラーやヴィリらの主張を自身も口にするようになる。凡庸なる家庭人コップフルキングル氏は、チェコ風のカレルではなく、ドイツ風のカール・コップフルキングル氏となり、ユダヤ人やナチスへの反対者を密告する迫害の当事者となっていく。そして、ここに至るコップフルキングル氏の内面、心情は読者には窺い知れない。ここに、読むものは恐怖、あるいは得体の知れない感覚を抱く。それまでの日常描写が丹念だった故に、この転身のもたらす驚きは大きい。

ホラーの手法

上に、本作の叙述スタイルが独特だ、と述べたけれど、不気味なものを描いて読者に恐怖を感じさせるというのはつまりホラー小説のことで、おそらく、作者は意図的にその種の手法を導入している。解説で、フクスは大衆小説や探偵物、ホラーなどのジャンルへの関心が触れられ、フクス自身は思慮とセンスを持って手を加えればそれらは文学的価値を低くはしない、と述べたことが引用されている。

上述した、傍点付きで何度も出てくる「頬の紅い娘」という意味ありげな人物、同じく、「羽の付いた帽子」を被った人物、そして意味があるのかないのか不思議に思わせる多数の傍点、ペストの展示などの暗示や象徴的描写等、ホラー小説的な手法がそこかしこに用いられている。けれども派手さや残忍さ、残虐な描写などは抑えられており、ホラージャンルの手法をいかに文学に持ち込むか、という作者による試みでもあるのだろう。

デビュー作以来のフクスの関心は、迫害される者の側の恐怖にあったのだろう。それがここでは迫害する者を外から眺める視点での恐怖が扱われている。だからこそ、ここではホラーの手法が導入されている。

身近な断絶

凡庸さが残忍さに変容する恐ろしさが描かれており、本作は非常に面白いのだけれど、それ故、コップフルキングル氏のような「迫害する者」を悪魔化した感がある。ホラー的手法を用いたがゆえの、コップフルキングル氏の異物さが露わになる。では、コップフルキングル氏のような人物はいったいどういう考えでそのような行動に及ぶのか、ということは本作から窺うことはできない。そういった視点で書かれているわけではない。

このような視点なのは、同性愛者としてむしろユダヤ人の側に近い立場だったフクスの経験によるためだろう。そして、作中内容と著者の経歴を並べてみると、コップフルキングル氏はフクスの父をいくらかモデルにしているように思える。そして当時のフクス少年はコップフルキングル氏の息子ミリヴォイと年齢が近い。同性愛者として、警察署長の父を持つ少年の視点から見れば、ナチスへの協力者というのはまったく理解できない断絶の向こうにある存在だったのではないか。その視点が本作の叙述スタイルを決定しているように思える。

そしてまた恐ろしいのは、コップフルキングル氏のドイツへの協力というのは、自身の生活を守るための服従、というのとはまったく違うことだ。以前までの自身の主張が奇麗なまでに裏返り、ナチスの主張に唱和しその理念に沿って行動していくようになるコップフルキングル氏は、自身の日常までをも淡々と破壊していく。このグロテスクさは理解を絶する。

このようなグロテスクな心理についてはちょうどそういうことを話しているまとめを読んだのでご参照。
ホロコーストでさえ彼らの一面でしかない - Togetter


また本作には合法化されたばかりの火葬と、それと関連したコップフルキングル氏が繰り返し読んでいるチベットについての本などが出てきて、チベット仏教ダライ・ラマについて頻りに言及されるのだけれど、どう扱ったものか難しい。ダライ・ラマの後継者探しが本作にちょっと関わるのだけれど、なかなか不可解だ。

同じ阿部賢一訳による、同じ時期を扱ったチェコのボフミル・フラバルの『わたしは英国王に給仕した』では、ドイツ人女性と結婚しドイツ側に立ったチェコ人の苦みが描かれており、異なった立場からの描写を読むことができる。

フラバルといえば、『わたしは英国王に給仕した』では、「チャップリンですら思いつかないほどのグロテスクな喜劇」という文章があったけれど、その晩年のチャップリンはフクスのデビュー作『テオドル・ムントシュトック氏』の映画化を検討していたという。〈東欧の想像力〉では、当初はその作品の刊行を予定していたけれども、デビュー作も何かしらでどこかで翻訳されないだろうか。いろいろな意味で本作と対照的な作品だろう。

本書もまた松籟社木村さんよりいただきました。ありがとうございました。