イェジー・コシンスキ - ペインティッド・バード

ペインティッド・バード (東欧の想像力)

ペインティッド・バード (東欧の想像力)

図書出版松籟社ホームページ :: ペインティッド・バード
松籟社の<東欧の想像力>第七弾。叢書開始当時、第三弾くらいに予定されていたけれど、諸般の事情で改題新訳してようやく刊行。これ刊行中止になったのかと思ってた。

本書はポーランド生まれの亡命作家がアメリカ在住時に英語で書いたデビュー作。1965年に発表され、いまもってベストセラーとしてその地位を保っているという。発表と共に、親ソ的なプロパガンダとも、反「東欧」キャンペーンの急先鋒ともみなされ、東西冷戦のさなかきわめて微妙なポジションでもあった。自伝的作品と呼ばれることもあるけれど、作者は一貫してそれを否定している。

著者名は以前はイエールジ・コジンスキー、あるいはジャージ・コジンスキーと表記されていたけれど、よりポーランド語に近い発音として、コシンスキ、と濁らず伸ばさない表記が採用された。

第二次大戦時の東欧という背景

舞台は、ホロコーストの影がちらつく第二次大戦開始まもないころの東欧。物語は「東欧の大都市」から遠い田舎に六歳の少年が両親から離れて疎開するところから始まる。戦争の混乱のなかで連絡は途絶え、預け先の里親がすぐに死んでしまったことから、少年は身寄りなく村々をさまよい歩くことになった。しかも、肌が白く、ブロンドの髪、青か灰色のまわりの人々のなかで、少年はオリーブ色の肌に黒髪黒目だったため、「ジプシーかユダヤ人の浮浪者と見なされた」。

ドイツの影響下で、ジプシーやユダヤ人をかくまうことはハイリスクなことだ。一帯の村々に住む人々は、「好きでそうなったわけではないにしても、無知で残忍」。

農民たちはわずかな収穫の大部分を、かたやドイツの正規軍、かたやパルチザン部隊に供出しなければならなかった。もしそれを拒否しようものなら制裁を受け、村を廃墟に変えられても文句は言えなかった。
10-11P

このような極限的な状況にある田舎の村々に、ジプシーかユダヤ人にしか見えない少年、という危険因子が紛れ込む、それによって起こる反応の様々を描いていくのが本書だ。

タイトルの「Painted Bird」というのは作中のエピソードから採られている。ある鳥の群れのなかから一匹を捕まえ、ペンキを塗りたくって群れに戻すと、群れの鳥たちは戻ってきた鳥を仲間とは見なさず、一方的に攻撃して殺してしまう。この「ペンキまみれの鳥」こそ、白い肌の人々のなかに紛れ込んだオリーブ色の肌の少年をしめす象徴的なタイトルでもある。

以上のことからも容易に推測できるように、東欧の村への少年の闖入は、まるで水にナトリウムをぶち込んだような劇的な反応を巻き起こす。少年は当然まともな扱いを受けられるわけがなく、かろうじて見つけた居候先で虐待まがいの暴力をふるわれるばかりか、彼という異分子が入り込むことで、村のなかでの緊張が高まり、暴力の嵐が吹き荒れて破滅を迎えるという展開がしばしば起こる。住民同士の喧嘩だけにとどまらず、人は刺され、撃たれ、建物は爆発炎上し、毎回のように村々には大きな傷を残して少年はさまよい続ける。その挙げ句、彼は失語に陥る。

どこへいっても異物として攻撃、排除される「ペンキまみれの鳥」たる少年の彷徨を描くなかで、彼にたいする人々のなかにある暴力のありようを、さまざまな形で描き出そうとしているのが本作だといえるだろう。ポーランドと名指ししてはいないものの、これが現地の人々にいい顔をされなかったのはその点理解できる部分はある。

こう書いていくときわめて暗鬱な印象を与えると思うのだけれど、彼が来たことで破滅を迎える村々の連続は、まるで悪趣味なコントのような軽さがあって、悪夢的、グロテスクなメルヘンのように感じる。どんなに破滅的な状況からも生還し、次々と村を変えていく展開の早さもその印象を強めている。

ホロコーストと動物

ホロコーストは直接は出てこないものの、収容所にむかう列車をめぐるエピソードがある。列車から投げられた紙片、帳面、写真等が、村人たちにとって興味深いコレクションとして集められ、言語が違うので特に写真が珍重され、男性の写真は女たちに、女の写真は男たちのなかで価値をもち、トレーディングカードのように流通している。そんななか、カーブ近くのスピードを落とすところで脱出したユダヤ人少女が生きたまま見つかった。人々は翌日ドイツの哨戒兵に引き渡すことにしたのだけれど、彼女を一日預かることにした男はレイプに及ぶ。しかし、無理矢理行った行為の最中性器が抜けなくなり、最終的には少女を殺して処理し、死体は線路に放置することになった。そして、レイプした男は、後にその少女がいかに彼をくわえ込んで話さなかったか、というのを持ちネタとして話すようになった。このエピソードが、犬同士の交尾での同様の事例を絡ませて語られ、きわめて間の抜けた、喜劇的ですらある陰惨さが滲み出たとりわけ印象的な挿話となっている。

この挿話が動物の話と重ねられて語られているように、また少年自体がペンキまみれの鳥に重ねられているように、この小説には動物がよく出てくる。田舎の村が舞台となっている以上、狩猟、畜産その他で動物はきわめて重要な背景ともなっているのだけれど、たぶんにそれ以上の意味があるように思える。

少年がどれほど自分はユダヤ人やジプシーでないといっても通じず、信用されず、挙げ句に言葉を失うわけだけれど、これは彼のいる状況ではもはや言葉が用をなさなくなったことをも示している。これはさらに、ナチスドイツ影響下の人々の恐怖、欲望、暴力が前面に露呈したさまを、獣たちの熾烈な生存競争になぞらえているのかも知れない。これは、ただ単にある村の人々を獣のようだと難じているのではなく、戦争と虐殺の危機が迫るなかでは人は容易にこういう行動へと至るのだ、という冷徹な認識を示しているのだろう。読んでいるあいだも、格別これらの登場人物たちに嫌悪感を抱くというよりは、こういう状況ならこうなるのも仕方ないか、という気持ちが強かった。

ホロコーストとあわせて、後半、権力について書かれているところがある。工事途中で先がない線路へと切り替える転轍機を見つけ、それを動かせるようにしたことで、列車の人々の生殺与奪の権利を得た少年は以下のように考える。

ぼくはガス室や焼却炉に人間を送り込んでいた汽車のことを思い出した。命令を発してこうしたことの段取りをつけた連中は、おそらく、何も知らない犠牲者に対して、同じように完全な権力を味わい、喜びを感じたことだろう。連中は何百万人もの運命を支配下におさめていた。(中略)彼らは、何千という転轍機を動かし、生かすなり殺すなり、どちらにでもスイッチを切り替える権限を持っていた。
 見ず知らずの大勢の人間の運命を決定できるということは、すばらしく感動的なことだ。
259P

暴力そして権力が描き出す極限状況のなかで、少年はそれにどんどん適応していくことになる。ソ連によって救い出されることになった少年は、両親との再会を果たしても、ソ連の将校とともに行動することを願う。しかし、極限状況において失語に陥った少年が、それを回復するのは日常へと戻ってからのことで、ここに彼の置かれた状況の皮肉さがあるのだろうか。

変身,掟の前で 他2編 (光文社古典新訳文庫 Aカ 1-1)

変身,掟の前で 他2編 (光文社古典新訳文庫 Aカ 1-1)

偶然ちょうど今光文社古典新訳文庫版の「変身」*1を読んでいたのだけど、虫になったばかりに父親にリンゴを投げつけられ重傷を負うグレーゴル・ザムザの姿が、「ペインティッド・バード」の少年といやにオーバーラップしてくる。この二作、違いも多いけれど通じるところも多い。しかし考えてみれば作者はともに東欧のユダヤ人なわけで、鳥の群れのなかのペンキまみれの鳥にしろ、家族にすら嫌悪の眼差しを向けられる元人間の虫にしろ、ユダヤ人の置かれた境遇というのがそこに映し出されているからこそ、似てくる部分も出てくる、ということなのかも知れない。ユダヤ性に引きつけすぎるのも難だけれども。同じく収録されている「アカデミーに報告する」では、言葉を話せる人間となったサルの話があって、これもまたリンクしてくる。人間から虫になる作品とサルから人間になる短篇を並べているのには明らかに意図があるとは思う。

しかし、まあ「変身」はグロテスクさというよりは主人公の哀しさが半端ない。悪夢と形容されるけれど、「変身」はきわめてリアリスティックな印象だ。そういえば、過剰さがまるでコントかコメディーのように感じられるという点で、読んでいる時にはセリーヌを思い出していたのだけれど、ネットを探すと、コシンスキの他作品を評して「カフカとセリーヌを彷彿とさせる」と評されていた様子。まあ、わりとベタな連想なんだなと。

初訳「後記」

じつは本書は以前の青木日出夫訳とは底本が異なる。そのため、やや長い「後記」が付されていて、コシンスキが自身の作品の発表後の出来事を書いている。これがとても興味深い。まず、本書が評判になると、本国ではこれをポーランドを悪し様に描いた作品として発禁になり、また後半でソ連に救われるあたりの描写から親ソ的な作品として、アメリカでも非難の対象にもなった。さらに、ポーランドに残してきた母親の周辺もが騒がしくなっていき、当時の政治的空気のなかで、本作と作者周辺はきわめて微妙な状況に追い込まれていた。コシンスキ自身の家に暴漢が侵入した事件もあった。

ここで面白いのは、作中の少年が投げ込まれた村でさまざま攻撃、排除にさらされたように、本書自体が母国からもアメリカからも、まるで「Painted Bird」、ペンキまみれの鳥のように攻撃にさらされたことだろう。ペンキまみれの鳥が集団の暴力性を浮き彫りにする様子を描いた小説そのものが、現実の人々の暴力性を露呈させているわけだ。さらに著者自身の亡命者、という属性もまた厚い「ペンキ」としてアメリカ社会のなかでの異質さを際だたせたのだろう。

この小説が、主人公の少年と似通った役まわりを演じるようになったのは皮肉である。その土地の出身者なのによそ者になってしまうという役割、破壊的な力を行使でき、目の前を横切る者すべてに呪文をかけることができると信じられたジプシーとしての役割を、この小説は引き受けることになってしまった。
285P

作者をめぐるスキャンダルがよく取りざたされるけれども、多くはこうした政治的非難のバリエーションとして、陰謀論的に根拠なくいわれだしたことなのではないかと思われる。著者は複数、だとか、CIAのエージェントだとか。今の日本なら朝鮮人とか在日とかいうのと同じなのではないか。だから、コシンスキについてそうした陰謀論を枕に紹介するのはあまり好ましくないことなのではないかと思う。

東欧でホロコーストから逃れたサバイバーとして、母国から逃れた亡命者として、そして本作の作者としてさまざまな局面で境界線上の、異質な「ペンキまみれの鳥」として生きていかざるを得なかったこと、それが結局は91年の自殺に至ったのだろうか。本作は作品それ自体と作者自身の人生がどうにも二重写しになってしまう皮肉とともに、二十世紀の歴史の一コマを鮮やかに映し出していると言えるだろう。

「後記」はこのこと以外にも、英語を丁寧に教えてくれた父のことなど印象的な内容で、以前の青木訳を読んでいる人も目を通してみることをおすすめする。私は青木訳を見たことがないので訳文についてはどう変わっているかわからないけれども。

大戦中に東ヨーロッパで見られた残忍さ・残酷さを、私は誇張していない。その一番よい証拠は、たぶん以下のような事実だろう。私の学校時代からの友だちが、密輸された『ペインティッド・バード』を手に入れて、こう書いてよこしたことがある。――この小説は、自分たちや家族の多くが戦争中にくぐりぬけた経験に比べれば、牧歌的な小説である――。友人たちは、私が歴史的真実を水で薄め、アングロ=サクソンの感受性に迎合したといって責めた。
292P

音楽のなかの「ペインティッド・バード」

検索してみると、「ペインティッド・バード」という名前のアルバムやグループがいくつか見つかる。

一つ目はポーランドのジャズヴォーカリスト、Urszula Dudziakの2003年のアルバム、『The Painted Bird』。Amazonでは2001年リリースとなっているけど、他のどのサイトも2003年となっているので、ここはそれに従う。ジャケットがおもしろい。ポーランドの人とのことなので、アルバム名をコシンスキのものから採っている可能性は高いと思う。あるいは、ペインティッド・バードというのは何かポーランドで知られている故事成語なのかも知れないけれど。

ペインティッド・バード(Painted Bird)

ペインティッド・バード(Painted Bird)

  • アーティスト: ウルシュラ・デゥヂアク(Urszula Dudziak)
  • 出版社/メーカー: Polonia Records/ガッツプロダクション
  • 発売日: 2001/10/17
  • メディア: CD
  • クリック: 6回
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
スキャットの女王とか言われているようで、曲を聴いてみるとなんとスキャットオンリーの楽曲だったりする。以下は上掲アルバムの二曲目。おしゃれっぽいのに実験的。


もうひとつはカナダのバンクーバーで結成されたロックバンド、The Painted Birds。どうもサイトを見る限り解散してるっぽい。目新しいところはない普通のロックバンドという印象だけれど悪くはない。

So Much for the Rain

So Much for the Rain

HugeDomains.com - Shop for over 300,000 Premium Domains

で、最後にアメリカ生まれのミュージシャンによるバンド、Daniel Kahn & The Painted Bird。

ロスト・コージズ

ロスト・コージズ

  • アーティスト: ダニエル・カーン&ザ・ペインティッド・バード
  • 出版社/メーカー: ライス・レコード
  • 発売日: 2011/01/23
  • メディア: CD
  • クリック: 3回
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
これ、紹介したなかでいちばん面白い。手っ取り早くAmazonの紹介文(出典何だろう)を引用。

このバンドでは彼のルーツであるユダヤ性、音楽的に言えばクレツマーや東欧のユダヤ人たちの言語であるイディッシュ語の歌をベースに、これまでつちかってきたアメリカのロックやフォーク、そしてトム・ウェイツのようなキャバレー・ミュージックをミックスさせ、これまでにありそうでなかった新しいユダヤ音楽を創出。欧米では“イディッシュ・パンク・キャバレー”などとも呼ばれ、シアトリカルなライヴとともに大きな話題に。これまで2枚のアルバムを発表してきましたが、これが最新作です。
ここでは戦時歌謡の「リリー・マルレーン」のミュージカル・ソウ(のこぎり)入りカヴァーなんていうのあります。

で、聴いてみるとなるほど、という感じ。

1stの曲みたいだけどこれが結構好きだ。

このバンド、東欧、ユダヤ、というのがひとつのキーワードでもあるみたいなので、コシンスキの本から名前を持ってきた可能性は高いと思う。

で、しかも個人的にびっくりしたのがこれのプロデューサー。なんとコリン・バースだというから驚いた。四年ほど前に、ポーランド録音した彼のソロアルバムを紹介したことがある。そこでも書いたように、私にとってのプログレ五大バンドの一角、Camelの後期を支えたベーシストとして重要な人物。さらにはAmazonの紹介にもあるように、3 MUSTAPHAS 3というわりと伝説的なワールドミュージックバンドのメンバーとしても知られていて、80年代からこの手のワールドミュージックミクスチャーな音楽をやっていた人だったりする。


以下私事。本書は、松籟社の木村さんから御恵贈頂きました。<東欧の想像力>特集を組んだ『幻視社第五号』を協力のお礼も含めて贈呈させていただいたのですけれど、それへのさらなる返礼として本書をお送り頂きました。たいへんありがとうございました。<東欧の想像力>はほぼ木村さん一人で担当されているとのことで、大変でしょうけれど、応援しております。

*1:「判決」のまるで物理係数が違う世界の話を読んでいるかのような異次元さはすごい。池内訳の読みやすく丸くするような「名訳」の仕方を批判しつつの新訳がなかなか面白い。