笙野頼子作品の関連文献漁りをさぼっていたので、手軽なものから読んでみる。近作についてはドゥルーズの『千のプラトー』が下敷きになっているのでこちらも文庫版を入手はしているけれど、読むのは先になりそう。
植島啓司、鈴木理策 - 世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く
世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)
- 作者: 植島啓司,鈴木理策=編
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2009/04/17
- メディア: 新書
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兵藤裕己 - 琵琶法師―“異界”を語る人びと
- 作者: 兵藤裕己
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/04/21
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興味深い部分は、平家物語と琵琶法師について以下のように論じているところだろう。
平家物語のばあい、語り手は、<個>としての資格で文章を発話しているのではない。冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……」にしても、仏典に典拠のある言葉であり、この語りの真の発話者は、語り手の<個>を超えた超越的な存在である。声を発しているのは眼前の語り手であっても、声の本当の主体はべつのところにいる。80-81P
モノ語りを伝承するのは、「我」という主語の不在において、あらゆる述語的な規定をうけいれつつ変身する主体である。さきに述べたように、視覚を介さずに世界を体験する琵琶法師は、「自己」の輪郭や主体形成のありかたにおいて常人とは異なるだろう。
民俗社会における盲人が、しばしば心身の変調などの「巫病」などの階梯をへずに、あの世とこの世を媒介するシャーマンになったことも、自己同一的な「我」の枠組みから自由な主体形成のありかたに起因している。平家の物語は、そのようなシャーマニックな語り手によって伝承されてゆく。また、そのような自己同一的な発話主体を持たない語りが、モノ語りなのだ。
87P
盲人の主体形成がどう常人と異なるのかというのは検証が要ることかとは思うけれども、ここで述べられている「モノ語り」が、この世界と異界との回路として機能するということ、そして琵琶法師はその境界的な存在だとすると、「境界」が重要なポイントとなっていた笙野頼子の近作の参考文献になったいたのもうなずける。
五来重 - 山の宗教
- 作者: 五来重
- 出版社/メーカー: 角川学芸出版
- 発売日: 2008/06/25
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修験道といってもあまりイメージがわかないので、本書を入門書的なものかと思って読んでみたのだけれど、修験道の聖地をいくつか選んで、その場所についての著者の見解を縷々述べていく講義録というスタイルで、修験道についてのある程度の把握(どこが有名な聖地で、とかそういう)を前提にしているため、私にはいまひとつ要領を得ない部分が多かった。ノー解説でいきなり中級者向けの議論を展開しているので、置いてけぼり感がすごい。
とはいえ、面白かったのは「常念仏」という儀式について書いているところ。数週間ほど期間を決めて集団で念仏を唱える「不断念仏」というのがあるけれども、それとは異なり、一人でも数人でもいいので、交代しながら期間を決めずにただひたすら念仏を絶やさない行があるのだという(ネットの辞書には同じものだと書かれているけれども)。「比叡山の坂本にある西教寺」というところは六百年絶やさず、この講義時点でも続いていたという。ネットでざっと探しても情報がなく、西教寺のサイトにも記述がなかったけれども。
以下メモ。橋を渡ってあの世とこの世を往来する「橋懸かり」に触れて著者はこう述べている。
こういった「擬死再生」というものが山の信仰のいちばん基本である。山の中に入るということ、入峰するということは、死ぬことである。そこで死後の苦しみをすっかりなめて、自分の罪、穢れを落として帰ってくるのだということが山の宗教というもののいちばん基本にある宗教観ですし、それは浄土教に絡んでも迎講、二十五菩薩練供養というようなものになって現われてくる。153P
これに継いで、生きているうちに死んだことにして法名をもらう「逆修(ぎゃくしゅ)」という法要について触れているところもおもしろい。上杉謙信や武田信玄も逆修をしていたといい、一度死んでいるから、より勇敢に戦うようになる、それが逆修という信仰なんだと指摘している。坊主は戦いをしないものだと思っているかも知れないけれども、そういう信仰もあるのだということを忘れないようにと著者は述べている。
五来重 - 石の宗教
- 作者: 五来重
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日本各地の様々な石の信仰形態を紹介していて面白い。石や石棒、石像、石積等の形には、しばしば性的な造形がなされていて、土着の庶民によるプリミティブな信仰のありさまというものが感じられる。
そしてこれもまた道祖神などの境界と密接な関係を持っている。
飯島吉晴 - 竈神と厠神 異界と此の世の境
- 作者: 飯島吉晴
- 出版社/メーカー: 講談社
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五来氏の著作同様、境界にまつわる神について触れられていて、庚申信仰、オシラサマなどについても論じられている点で共通の領域をカバーしている。
民話や儀礼等から分析して、竈は秩序の転換にかかわる、境界の神として捉えている。また、家の内部の存在だからか表に出ない陰の神として位置し、反中央的な神として摩多羅神と類似する性質もあると述べられている。
家の神としての竈神は境界性、両義的性格をもち、媒介者として絶えず秩序を更新していく点にその機能が認められる。秩序の移行に伴う、排除されるべきもの、死すべきもののイメージが、両界の対比から神秘的な陰の神に付与されるために、竈神は黒い暗い神と考えられたのである。
(中略)
民俗とは異界といった見えない隠れた世界との交通手段といえる。従って、境界領域に重大な関心が払われるのである。(中略)生命に強く関連する場所は神聖な面をもつが、日常生活では暗い汚い場所と見られた。力は汚きものに宿るという逆説は、住居空間の中にも見られるのであり、竈はその代表といえる。59P
厠についても、そこが家のなかでも裏側の領域として、不浄の否定的イメージを担う場所だけれども、だからこそ、新しいものへの更新をも担う両義的な場所として、境界的な存在として、昔話や儀礼のなかに現れているのだと論じている。
この、家のなかの否定的な場所が、境界性と両義性を持ち、異界とこの世との媒介をなすというイメージをもたらすというのが本書の全体的な軸となっている。さまざまな民話、昔話や儀礼の実例から、抽象的な性格を見出していくのは面白いんだけれど、そのテーマが便利すぎてなんでもかんでもそれで説明できてしまうのではないか、という印象がぬぐえないところがある。
以前吉野裕子の著書を読んだ時にも感じたのだけれど、そのロジックでつなげて良いならなんでも繋がるんじゃないのという疑いを排除できていないような議論がどうにも肯えない。五来重氏の本にはあまり感じなかったのだけれど、この本ではそれが顕著。民俗学特有のものというわけではないのかも知れない。もともと民俗学は五来氏もいうように、文献資料のない、庶民の心理的真実を探求するものだからか、どうしても足場が不安定になりがちかとは言えるけれども。
ここで読んだ参考文献にかんしては、一貫して異界との媒介、境界性ということが問われているのが目につく。