オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』とその目次

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

『プラヴィエクとそのほかの時代』の次に書かれたトカルチュク四作目の長篇小説。ポーランドの国境近くに住み始めた「わたし」や人々の生活、聖人伝、独立性のある短篇など100近い断章(解説などでは111とある)によって構成された、昼と夜、夢と現実、男と女、ポーランドチェコ等、さまざまな「境界」そしてその流動を描いている。

「わたし」はポーランドチェコとの国境に近いノヴァ・ルダの町近くの村に三年ほど前から住んでおり、隣人のマルタや村や町のこと、近くで自殺した男の半生といったものから、夢のなかの男を捜す女性、訪れた教会で見つけた髭の顔を持った女性の聖人などの伝説、ポーランドの国境で死んだドイツ人など、「わたし」の身辺だけではなく、短くは数行、長いものは20ページを超える短篇の体裁を持ったものまでさまざまな断章がゆるやかな繋がりを持って並べられている。そしてタイトルにもあるような対比的なモチーフのさまざまな連なりが浮かび上がってくる。

夢と現実のモチーフは、夢のなかで逢った男を現実に捜そうとする女性を描いた「アモス」という短篇が典型的なように、章題でも頻出する本書の一つの主軸となっている。もう一つ繰り返し出てくるのは、クマーニスをめぐる伝説とそれを書こうとした修道士の話で、私は神の妻なのでと父の無理強いする結婚に抵抗していたクマーニスが、力尽くで犯されそうになったとき髭を生やしたキリストのような男の顔に変貌した奇跡が伝えられている。そしてそのクマーニスの伝記を書こうとするパスハリスは、自分の性別に違和を抱き、女性になりたいと願う今で言うトランスジェンダーで、男の顔になった女の奇跡を女になりたい男が書くという仕組みになっている。

クマーニスの書いたものは、自分でないべつのだれかになりたいという、パスハリス自身の抱えるのとおなじ、強い願いに貫かれていた。130P

最初、この部分だけを引用していたんだけれど、改めてページを見返すと、その前の文章がまさに今作の別の軸への言及だったのには驚いた。

彼女のラテン語の文章には、チェコ語とドイツ語とポーランド語の単語が、修道女の焼くパンケーキのなかの干しブドウみたいにはさまっていた。それでも、彼はゆっくりと理解しはじめた。

チェコポーランドがクマーニスの書く文章のなかに混ざっているということは後述する別の軸とかかわる。パスハリスの章では以下のような文章も面白い。

起こったことを書きとめ、出来事や行為のあらましをそのまま再現することだけが大切なのではない、とパスハリスは考えた。おなじように大切、あるいはもっと大切かもしれないのは、なかったこと、一度も起こらなかったこと、起こったかもしれないけれど、想像のなかで起こればそれでじゅうぶんであることのために、場所を残しておくことだった。150P

聖人伝とクマーニスの話は目次を見てもわかるように、細切れの断章が繰り返し出てくる構成で、今作のもう一つの軸とも言える流れを作っている。

他にもその名もエルゴ・スム、という男が極限状況で食人をしたがゆえに、その後もプラトンの一節を読んで、狼になるのではと怯える話も変身譚の系列にあり、こちらはなりたくないものになってしまう変身の恐怖の話になっている。

こうした私と他人、男と女の変身譚があるとすれば、ポーランドの国境という歴史とともに変遷してきた土地の話もあり、「ペーター・ディーター」の挿話もこれだ。ドイツ人が昔生まれ育った故郷を見ようと登った山のなか、ポーランドチェコの国境のベンチで、まさに両国に足を置いて死んでしまい、両国の国境警備員が自国にある足をそれぞれ向こうの国境におしやる、という挿話で、国境の狭間の悲喜劇となっており、ドイツとチェコの狭間を書いたボフミル・フラバルの『わたしは英国王に給仕した』を思い出させる。ドイツ語地名とポーランド語地名に言及されるように、ここにも歴史の転変のなかで土地がさまざまな歴史を持っていることが示されてもいる。「お屋敷」のゲーツェン家がソ連兵に連行されていく挿話も、家、土地をめぐる暴力の歴史を伝えている。

また、ある夫婦それぞれの前に現われ、夫の前には女性、妻の前には男性の姿でお互いを不倫に誘う、アグニという名前の同一?人物が出てくる挿話があるけれども、このアグニと呼ばれるアグニェシュカという人物は序盤から「わたし」の挿話にも現われる近所の人間と同名で非常に謎めいている。アグニの名はもちろん火の神が踏まえられていて、「夜はいつも、水の流れるところで生まれる」(274P)とか、マルタは水や湿気を闇と同じくらい憎んでいる、とも書かれている本作において、この火と水のエレメントも夜と昼にかかわるものだと思われる。マルタは夢を見ないというのも示唆的。

「わたし」の家は地下水脈の上に建っていて、家にも水が入ってくることが冒頭で描かれている。そして夢はインターネットで匿名のテクストとして公開され世界に広がる様子も描かれており、夜と水と夢は人や家の境界を越えて染みこんでいく流動的なものとしてあるように思われる。

幾度もレシピが載っていて、「わたし」が人間でなかったらなりたかったものとして挙げるキノコは本作の重要なモチーフで、キノコは死体を分解し新たな生を生む存在だけれど、同時に毒で人を殺しもする。キノコで死んだ親子の話の直後にキノコのレシピが続くような黒い笑いがあったりする。そして、

わたしたちの世界とは、眠る人びとの世界です。人びとはすでに死んでいるか、生きているという夢を見ます。177P

などと書かれるけれども、どんなキノコでも食べてしまう「わたし」は果たして生きているのかどうか怪しくなってこないか。まあマルタも怪しい存在なんだけれど。こうした昼と夜の対比は以下のようにも書かれる。

わたしはマルタにこう言った。人はみな、ふたつの家を持っている。ひとつは具体的な家、時間と空間のなかにしっかり固定された家。もうひとつは、果てしない家。住所もなければ、設計図に描かれる機会も永遠に巡ってこない家。そしてふたつの家に、わたしたちは同時に住んでいるのだと。259P

存在の境界で、みじんも動かずに、ただありつづける町。365P

ノヴァ・ルダという町はこの境界のその狭間としてさまざまな境界の交差する場所となっている。謎めいた細部も多く、最後に空のパズルを組合わせて一枚の空を作ると何かがわかる、という意味深な一文があって、丹念に読むと何か別のことがわかったりするつくりなのかも知れない。

なおノヴァ・ルダは地図でいえばここ。
www.google.com
ちなみにプラヴィエクの隣村とされるタシュフはここにある。ノヴァ・ルダが北東に見える場所。
www.google.com

はじめに書いたように解説などでは111の挿話、と書かれているけれども、目次のない本書を読む時に後から参照しやすいように自分で章の名前とページ数を書き取ったのを後で数えたら章の数が111もなかった。行空き大文字で始まる章は97個しかない。66ページからのクマーニス伝を引用する章では、小見出しで行空きされてる箇所があり、これを数えているのかと思ったら16節なので合わせると113で微妙に数が合わない。またクマーニス伝自体は20節あって、これを数えてるとしても違う。以下に自分で作成した目次を置いておく。これで97章のはず。

オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』目次
005 夢
006 マルタ
012 何某氏
016 ラジオ・ノヴァ・ルダ
018 「どうして、何某氏には幽霊が見えるのかしら、
019 マレク・マレク
032 夢
035 自動車の日
036 アモス
057 豆
060 シーラカンス
061 ピェトノについてのガイドブック
061 フラムリナ、あるいは野性のエノキタケ
065 キノコであること
066 Ego dormio et cor meum vigilat.(眠っていても、わたしの心は目覚めていました)
090 かつら職人
094 国境
095 彗星
097 だれが聖人伝を書き、彼はどうしてそれを知ったか
111 雌鶏と雄鶏
114 夢
115 インターネットの夢
116 忘れられたもの
117 ドイツ人
119 ペーター・ディーター
126 ルバーブ
127 宇宙発生論
129 だれが聖人伝を書き、彼はどうしてそれを知ったか
136 手紙
137 草のケーキ
144 インターネットの夢
144 天体暦
146 炎
148 だれが聖人伝を書き、彼はどうしてそれを知ったか
155 草アレルギー
157 フランツ・フロスト
165 その妻と、子ども
169 シロタマゴテングタケスメタナソース
169 マルタの死に方
172 におい
174 「ヒラリア」より、クマーニスの幻視
178 聖体の祝日
179 夢
180 怪物
183 雨
187 洪水
188 釘
189 千里眼
204 鼠占い
205 二番手の男
207 白
208 七月の満月
210 聞くこと
212 だれが聖人伝を書き、彼はどうしてそれを知ったか
220 夢
222 ウラベニイロガワリのスメタナ
223 暑さ
225 言葉
226 エルゴ・スム
232 哀しみと、哀しみよりももっと苦いもの
239 ふたつのちいさなインターネットの夢
240 髪を切る
242 マルタが類型論をつくる
245 お屋敷
255 わたしのお屋敷
259 屋根
262 刃物師派
264 音をたてて崩れ落ちる森
266 ノコギリ男
268 エルゴ・スム
273 人生の半分は闇のなか
279 キノコ
282 ホコリタケの甘いデザート
283 だれが聖人伝を書き、彼はどうしてそれを知ったか 
288 おわり
289 アロエ
291 焚火
293 神へ、ポーランド人より
301 錫の皿
302 乳母
305 刃物師派の聖歌
307 宝物
312 ダリア
314 反復、発見
316 ベニテングタケのタルト
317 彼と彼女
330 沈黙
331 彼女と彼
351 それから彼らはどうなったのかと、月食前にRが尋ねた
354 月食
359 マルタの目覚め
363 屋根裏の片づけ
364 ノヴァ・ルダ
365 創設者
369 救済の機械
370 わたしたち行くわと、わたしは言った。明日は万霊節 
373 空占い