ウラジーミル・ソローキン - 青い脂

青い脂

青い脂

所用あって三月頃に書いたままにしていた記事を今さら公開。ノーベル賞本には大野典弘さんのソローキン論があるので、全体的なソローキンガイドはそっちを読んでね。

早稲文の「テルリヤ」抄訳以外でははじめてソローキンを読んだ。かねがね噂は聞いていたけれども、いやあ、とんでもないなあ。現代文学の怪物(モンスター)との二つ名があるけれども、その名の通り、言語実験、文学パロディ、ブラックなギャグ、糞尿譚などなどが改変歴史世界を舞台にしたタイムトラベルSFの器にぶちこまれた極端に濃密な作風。

冒頭からは、2068年のシベリアでの研究者、ボリス・グローゲルの書簡体によって小説が進んでいくけれど、この書き言葉の壊乱ぶりが凄まじい。フランス語や意味不明の用語、略語、そして多量の中国語などなどが混在した意味不明の言語の洪水は相当なインパクトだ。解説でも「サイバーパンク的未来世界」と形容されているけれども、この破壊的言語変容はジャック・ウォマックの『ヒーザーン』『テラプレーン』等のドライコシリーズを思い出す。未来の破壊的言語といえばすぐウォマックを出すのは安易かもしれないけど*1。ただ、ドライコシリーズのような言語の徹底した省略(パンを取ってくれ、が「Bread me」になるような)とは対照的に、『青い脂』のロシアでは、言語が異様に混淆的になっていて、猥雑さを増す方向になっている。スタイリッシュなウォマックとカオティックなソローキン。

その研究所では、ロシア文学の作家のクローンを作って、彼等に作品を書かせることで分泌される「青脂」という謎の物質を収穫するのを目的としており、こう書くと意味がよく分らないけれども、これは文字通りそのまんまで、序盤の肝はこのロシア文学のクローンが書くパロディ短篇の連発にある。トルストイ4号、チェーホフ3号、ナボコフ7号、パステルナーク1号、ドストエフスキー2号、アフマートワ2号、プラトーノフ3号、というロシア文学の代表的な作家詩人たちのクローンによって書かれたそれっぽい作品群は、いずれも巧妙なパロディらしいのだけれど、全員に詳しいわけではないのでそのパロディの妙技を味わえてはいない。

パロディといってもただそれっぽいだけではなくて、ロシア語の「星」と「女性器」の綴りが似ているからと置き換えた詩とか、元ネタにはありえない異質なものが平然と同居していたりする改変が加えられてアヴァンギャルドなパロディになっている。

異質なものが同居しているのがごく自然に進んでいくので、バグったゲームを進めているような異様な読後感があり、かなり癖になる。特に面白かったのは、プラトーノフ3号の人肉を燃料にして走る機関車を描いた短篇で、プラトーノフの作風は知らないのだけれど、異色の短篇として非常に読み応えのあるものになっている。クローン作品のなかでは一番好きかな。ナボコフ7号の痙攣的言語実験による短篇では、異様な用語法で作品が叙述されていくスタイルになっていて、不気味さは随一。ナボコフのある作品が下敷きになっているらしいのだけれど未読なのでそこらへんはわからぬ。トルストイ4号での絞殺獣とよばれる半獣人が狩猟犬のように普通に狩りに同行しているところや、サウナで少女と公爵を枝や箒で打ちのめすという、垢落しと呼ばれてるけれどどう見てもSMプレイのような変態的な光景が平然と描写されていくという異質さもすごい。

ここで取れた「青脂」をめぐって、研究所はカルト教団の襲撃を受け、青脂は教団の手に落ちるんだけれども、その教団のわけのわからなさとともに、信者が青脂を地下に待つ上司に送り届けて、受けとった上司がさらなる上司へ届けるために、また地下へ潜ってという場面が延々続くといういわゆる天丼ギャグを連発する展開には苦笑いがとまらない。

この教団は青脂を1954年のソ連へと送り込む重要な役割を持っている。そしてこの青脂が送り込まれた1954年のソ連は、53年に死んでいるはずのスターリンが生きており、大テロルとよばれるスターリンによる大規模な粛清で死んだはずの多数の政治家たちが存命で、そして、ヒトラーもまた健在という奇妙な改変歴史世界になっている。

ここでは、スターリンヒトラーによって欧州が二分されているようで、現実では東と西に別れていたのはドイツだけれど、この改変歴史世界では、東西の境界はプラハになっていて、ロンドンで原爆が炸裂し、スターリンはチトーを絞殺し、さらに六百万のユダヤ人を滅ぼしたのはアメリカだ、とされている。

このような歴史を舞台に、スターリンフルシチョフによる同性愛場面や、スターリンヒトラーの対面、そしてそこでスターリンの娘が陵辱されるといったバイオレンスでセクシャルな場面が展開していくことになる。


文学史から政治史まですべてを飲み込む勢いで猥雑なパロディとして踏み潰していくソローキンのこのスタイルはとんでもない迫力で圧倒される。ロシアでの文学への神聖視や、政治史といった、聖なるもの、公的なもの、公式的なもの、体制的なものなどなどを全力で裏返していく力業だ。語り手とスターリンに同性愛が設定されているのも、ロシアでのゲイフォビアへの抵抗でもあろうか。「テルリヤ」抄訳でも同性愛エピソードだった。

文学への徹底したパロディがなされていく本作だけれども、非常に文学への愛に満ちた作品に感じられる。たとえば、中盤で展開されるAAAとされる詩人アフマートワのエピソードは、ソローキン流の猥雑さで書かれているけれども、詩人の魂が受け継がれていく様子を描いたものだし、そもそも「かつて紙の上に己の幻想を書き留めた人間だけが、青脂を生み出す能力を持っていた」と説明されるように、「青脂」それ自体が文学と不可分の存在として書かれている。またラストの展開も、想像力の無限定さを描いたように読むとすれば、青脂とはつまり解説でもあるように文学のこと、あるいは想像力の象徴だと思える。すべてを猥雑に反転させつつも、単に批判や揶揄ではなく、文学性、想像力への全力の賭けとして本作が書かれているのではないか。

まあ、なんといっても本作に見られるサービス精神の旺盛さは凄いものがあって、なんというかとてもポジティブな印象すらある。ちょっと思ったのは、ソローキンのこれに対抗できる日本文学を挙げるとすると、笙野頼子の「だいにっほん」三部作や『水晶内制度』あたりなんじゃないだろうか。

袴田茂樹 - 現代ロシアを読み解く

というわけで、ソローキンには政治史や文学史への知識が要求される部分があるので、とりあえずはソローキンがどのような状況で書いているのか、と現代ロシアを扱った文献はないかな、ととりあえず本書を読んでみたのだけれど、これがまたすがすがしいほどに国民性神話みたいなものを前提にしていて、日本人は封建制を経て自律的に秩序を守る国民性があるけれども、ロシア人はそうした時代を経ていないため、我も我もの無法状態がまかりとおるうえに、強力な秩序を上から押しつけられることを自ら望むところがあり、スターリン時代ソ連を見たアンドレ・ジッドが、怠け者を働かせるためにはこうした強力な権力が必要なのだろう、と書いたのを好意的に引用してスターリン体制を必要なものだったかのように書いてたりして、ちょっと唖然とした。

序章では、日露戦争頃のロシア人捕虜が、日本の人々の勤勉さや知性、そして道路などのインフラが整備されているのを驚嘆の目で賞賛する文章がずっと引用され続けていて、これはまあ導入かな、にしても長いな、と思ってたら、それの延長で、日本は先進的、ロシアは後進的、という図式を一歩も出ないし、その図式を反省しもしない論述が最後まで続く。

ロシア滞在時の著者の経験や観察は確かに貴重ではあっても、それがダイレクトに国民性といった本質主義的な議論につなげてなんの反省もないとは学者としては到底支持できないような通俗さで、これがいったいロシア研究の著名人とは信じがたいというしかない。

ロシア人の特徴として挙げられている、コネや賄賂社会だとか、行列に我先にとならんで統制が取れない自己中心主義的なようすなどなどは、著者も指摘する中国とも似ており、また情実人事といったことは闇経済渦巻くギリシャでも指摘されているもので、これはつまり、全体主義的統制のなかで生きてきた人々の自己防衛としての自主・独立の行動原理の暴走として捉えられるもので、その国民性なるものは長年続いたソ連体制との相互関係を抜きに考えられるものではないはずだろう。単に、国家が信頼できない国でよくみられる行動として指摘できる点も多く、国民性として著書で言われていることは、相当の慎重な検討が必要ではないか。

国や法が信じられないけれども教師への信頼が高いといったアンケートなど、面白い指摘もあるけれども、この著者が前提としてる国民性神話のフィルターが問題ありすぎる。

また、延々とロシアの後進性を指摘しつつ、それでは悪いと思ったのか、ロシア人の良さみたいなものを書いたりするのだけれど、それが、ロシアのインテリが人の心に訴えるものをもっているとか、自然人としての素朴なところがどうとか、それって典型的なオリエンタリズムというのではないか、というような持ち上げ方しかしておらず、自身の差別性を否定しようとして語るに落ちている感しかない。

出版当時の大事故として、東海村の燃料臨界事故のずさんさは、「日本人の国民性から考えても信じられないほどのデタラメぶりである」というのだけれど、この言説とネットで頻りに見られる犯罪者や左翼を「朝鮮人」認定する行為とどれだけ距離があるのか。現場に無理が来て、その無理を通すために無茶なことが常態化する、というのこそ日本的光景ではないか。

著者年来の持論を開陳したという位置づけらしいのだけれど、反省されない偏見をそれっぽく書いたという感じばかりがして非常に問題があると思う。現代歴史学の水準として、これはないんじゃないか。いくら新書とはいっても俗に流れすぎではないか。他の本ではちゃんとしてるのか不安。

下斗米伸夫、島田博編著 - 現代ロシアを知るための60章【第二版】

現代ロシアを知るための60章【第2版】 (エリア・スタディーズ21)

現代ロシアを知るための60章【第2版】 (エリア・スタディーズ21)

十年前に出版された「55章」を増補改訂した第二版。多様な視点から現代ロシアを紹介する文章で構成された、いつものエリアスタディーズ。やはり長期間政権トップにいるプーチンにかんする文章が多くなっていて、存在感の大きさを感じる。おおむね良い本だろうと思う。ソローキンサブテクストとしては、それほど効用があるわけではないけれど。

文学に関しては、ペレストロイカのあった1986年からの五年間で、発禁作家らが解禁され、一挙にソ連時代の七十年が同時代として現前したというのだから驚異的だ。地下出版があったものの、一般人には目眩のするような景色に違いない。

あと、ロシアの暗部についてはあまり踏み込んでいない気がする。一般人的にはアンナ・ポリトコフスカヤや、リトビネンコといったジャーナリストが暗殺され、それにはロシア当局が関与しているのではないかという「疑惑」があることは周知だろうと思うのだけれど、そこに触れた文章はない。プーチンの強権を指摘しつつも、日本のメディアに比べてある面ではロシアの方が自由だ、という印象を記している文章では、続けて、「特に政府批判では遙かに鋭い。新聞「ノーバヤ・ガゼータ」は何人もの記者たちが犠牲になりながらも政府批判を続けている(247P)」とあって、えっ、となった。「何人もの記者たちが犠牲になる」状況は到底自由とは言い難い状況だと思うんですけれども。そこもっと突っ込んでくれないと!

*1:今日本のウォマックファンサイトを眺めてたら、サイト作者は『NOVA』に書いてる倉田タカシという人だったことを今知った