後藤明生 - ある戦いの記録

ある戦いの記録 後藤明生・電子書籍コレクション

ある戦いの記録 後藤明生・電子書籍コレクション

このほど電子書籍コレクションで刊行された後藤明生の短篇「ある戦いの記録」について、刊行記念として「後藤明生レビュー」のサイトで公開している文章をピックアップしてみます。

この短篇は後藤明生全作中最高のギャグ小説だと思いますし、日本文学の短篇としても破格の頭のおかしさが味わえるので、是非ともご一読して頂きたい。ただ後藤明生作品としてここまでギャグ方面に寄せたのは他にないので、それはご注意。

以下の文章は収録されている単行本『何?』についてのレビューの一部なので、全体は以下の記事から見てください。十年前の文章です。この後、カフカの同題短篇って読んだのかどうか覚えてないなあ。
後藤明生 メモランダム1 後藤明生レビュー

後藤明生「ある戦いの記録」 『何?』新潮社、1970年所収

 後藤明生初期からの文体によって書かれた短篇。この作品集のなかではこれと「嫉妬」だけが昭和四十四年のものであり、「誰?」によって文体が急変する前の作品である。
 およそこの時期までの作品の文体の特色とは、遅延と急転という相反するかに見えるものの複合だろう。同じことの説明について時間を逆行したり、単語の選択について自問したり、行きつ戻りつして語られる長回しの文体の眩惑から、急転直下の飛躍が出来するのである。この独特の文章の生理が、つまりは後藤明生の文体であるといえるだろう。
 それにしても、ユーモア短篇と呼ばれる小説は数多ある(小島信夫宇野浩二などがとりあえず浮かぶ)が、この小説はほとんどバカ小説である。
 元々無名であった画家が、ある日自分の生き甲斐を発見する。それはある機械を完成させることにあるのだが、その機械というのが車輪のない自転車の形をした女性用自慰機械なのだ。自分でハンドルを握り、かき氷製造器を改造したというメカニズムで座席の位置にある擬似性器を運動させるというものらしい。ある写真から想を得たその機械は、つまり自分がまたがる部位を自分自身で動かすまことに滑稽なものであるようだ。
  隣室に住む独身女性のため(と思っているのは作っている男だけで、女性はそのことなど何も知らない)にその機械を三ヶ月がかりで製造する男は、その奇妙な情熱を傾けほぼ完成近くまで仕上げる。後は核心ともいえる「偉大なる人工性器」の入手を待つばかりであった。
 が、そのとき全国ネットワークを駆使して人工性器を探していた古物商が死に、その機械にまたがるべき隣室の女性が引っ越すという破局が訪れるのである。
 これだけでも充分に奇妙かつ奇怪な小説なのだが、行き場を失った機械と彼がいったいどうなるのか、そこからこの話はほとんどたががはずれてしまうのである。それまででも充分語り手の論理というのは奇妙であるし、機械を作るに至る動機すらも読者にはほとんど理解できない。それは難解なのではなく説明されないためでもあるのだが、自慰機械に全精力を傾ける男の奇怪な情熱は、その情熱的行動は語られても内的論理についてはあまり明確ではない。その意味で、ほとんどはじめから読者はふつうの小説的な説得というものが得られないであろうことを感づくのであるが、ラストに向かって加速する極端な内的論理はほとんどすでにギャグである。

当初の計画において、完成された機械は密かに十七号室(隣室の女性の部屋/引用者註)へ侵入させられるはずであった。そのために合鍵盗作もおこなわれたわけであるが、いまや当初の侵入計画はもちろん、真新しい二本の合鍵は文字通り長さ五センチ程のデクの棒と化したのであって、何故ならばすでに井上清子は十七号室にはいないからであり、彼女がいない以上、十七号室など存在する理由はあり得ないからだ。存在するはずがないのであり、また、存在すべきでもないのであって、よし! とばかりにふたたび機械からとび降りたわたしは、十六号室の壁面に赤のマジックインクで、次のような戦いの文字を書きつけたのである。
 合鍵? ナンセンス!
 十七号室? 粉砕!
 あとはただ、この壁をぶち破ればよいわけであって、何故ならばもはや、十七号室の存在を理由づけているものは、この壁だけだからだ。そしてこの壁は、十七号室であると同時に十六号室でもあるのであるから、十七号室を粉砕することは、すなわち十六号室の粉砕に他ならない。ただ、いかに自力で! とはいえ、わたしの性器だけでこの壁は破れない以上、機械もろともであるのは、当然の話だ 212頁

 今作クライマックスである。実際「木偶の坊」と書くのを「デクの棒」ともじってみたり、「ナンセンス!」や「粉砕!」の言葉が、作中たびたび言及される六十年代末の学生運動的な語彙の意図的なパロディである点や、「自力で!」という言葉は作中の二頁ほど前にも出てきており、そのときは、「自力で! マイ・ペニスによって!」と書かれており、この場面での滑稽さを強調したりする、密度の高い部分である。
 それ以前に、この論理の迷宮ぶり! これはほとんど自己パロディのように、奇妙な論理をさらに歪めて、自己解体または自己封鎖の結論へと導くこの急転直下ぶりが面白くて仕方がない。
 後藤明生の「笑い」というのは関係の歪みや、宙づりにされる途方の暮れっぷりなどにあり、どちらかといえば声に出して笑うようなものではないのだが、今作は読みながら何度も吹き出すばかりか声をあげて笑っていたのである。

とはいえ、わたしの性器だけでこの壁は破れない以上、機械もろともであるのは、当然の話だ

 そういえば、今作はおそらくカフカの「流刑地にて」のパロディであると思うのだが、どうだろうか。体に罪名を刻みつけられ、その傷によって死に至らしめる機械を作ったものの、当の機械の開発者がその機械によって殺される「流刑地にて」と、隣室の女性のために勝手に自慰機械を作るのだが、完成間近になって重要な人工性器が手に入らず、自分がまさにその部分に自らのペニスをあてがい、隣室とを区切る壁に激突し入院する「ある戦いの記録」とでは、物語の設定や展開においてかなりの類似が認められる。
 そもそも、「ある戦いの記録」というのがカフカの短篇の題名と同じであり(わたしは読んでないので内容はわからないが)、後藤明生がもっとも強く影響を受けた作家のうちのひとりであるカフカの有名な短篇を意識していないわけがない。それにしてもここで注目すべきは、今作での間テクスト的戦略が、「挟み撃ち」でのゴーゴリ「外套」の導入とまったく位相を異にする点である。
 簡潔に結論を言えば、「ある戦いの記録」においてカフカの名が直接に言及されないのと、カフカの短篇との構造的類似とが対応しているように、「挟み撃ち」においては名の言及どころか「外套」の長い引用まで現れるのと、作品それ自体はゴーゴリの「外套」とまったく異なってしまうことが対応している。後藤明生においては、模倣対象を作中に直接取り込むことは、模倣からの逸脱を意味するのである。
 蓮實重彦が「模倣の創意」という後藤明生論を書いている。蓮實重彦は他とは違ったものでなくてはならないという個性の神話が文学の凡庸化を招く事態に意識的であり、であるならば積極的に模倣と反復に身を任せることによって真の新しさをもたらす後藤明生に注目するのだが、その細部については「小説から遠く離れて」の「同じであることの誘惑」という章を読まれたし。じっさい、「小説から遠く離れて」で蓮實が行っている説話論的還元によって、物語の機能や意味を抽出していく形式的な方法は、なにかしら後藤明生の読みの方法を連想させる。スガ(糸圭)秀実などが結局「挟み撃ち」といくつかの短篇だけは評価すると言明しているのに対して、蓮實重彦は「近代日本の批評」のなかでも、柄谷行人三浦雅士浅田彰などの討議の他のメンバーの後藤評価に対して一貫して後藤の支持を表明する。渡部直己蓮實重彦が「挟み撃ち」以前の初期作品にまったく言及しない(厳密には「挟み撃ち」以前である作品を含む「思い川」には言及している)ことを考慮せよ、と「かくも繊細なる横暴」所収の後藤明生論で言っているが、方法的模倣や引用の手法を活用する以前のものを初期作品だととらえるならば、蓮實重彦の不=言及の意味も説明できるのではないだろうか。あくまで、乱暴な推測にすぎないが。
 模倣と引用。渡部直己の分析に欠けていたように思うのはこのふたつの関係ではないだろうか。模倣の身振りについては、蓮實の後藤論を援用しての説得的な言及があったのだが、後に後藤の中心的方法となる引用との関係が掘り下げられていなかった印象がある。それについて、考えてみる必要がある。

かくも繊細なる横暴―日本「六八年」小説論

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