季刊「未来」の後藤明生論第一回「〈異邦人〉の帰還」についての補記

「未来」2016年秋号(No. 585) - |未來社
未来連載第一回が始まりました。今回は全体のイントロダクションと、「赤と黒の記憶」、「歩兵中尉の息子」を扱っています。時系列からすると変ですけれど、本文で書いたとおりこれはこの二作が表裏一体だからです。

全体的な注記として、今回の連載は元々四章構成で書いたものを、紙幅の事情で六分割したものですので、ちょっと区切りが妙なところもあるかと思います。「〈異邦人〉の帰還」という章なのに、後藤の「異邦人」に触れるのが次回なのは、そういった事情からです。

それもあり紙面に収めるために結構削っているので、出典注ともとは注釈で触れていたところなどいくつかここで補足しておきたいと思います。元はほぼすべての引用に注釈を入れてページ数等を指示してあったのですけれど、さすがに煩瑣なので原稿ではわかるところは削っています。

引用出典

まず、エピグラフのサイードの引用は、エドワード・W・サイード『故国喪失についての省察1』みすず書房、二〇〇六年、一八五頁。

28頁、五木寛之二つ目の引用は、文春文庫『深夜の自画像』41頁。

29頁の引用は、乾口達司「後藤明生と「敗戦体験」」、「近畿大学日本語・日本文学」二号、二〇〇〇年三月、六二頁。

赤と黒の記憶」の「それが、戦争中を不自由と感ずる」以下の一文は『関係』、皆美社、一九七一年、一一九頁。

三つ目のインタビューは、「現点」一九八七年春七号の一三頁からです。これは後藤明生のロングインタビューが載っている後藤明生特集号。

30頁の「歩兵中尉の息子」からの引用は、『私的生活』新潮社、一九七二年、五三頁から。

ネットで読める文献があります。以下は拙稿のベースになっているものでもありますので、是非参照ください。
乾口達司「後藤明生と「敗戦体験」
「立命館言語文化研究」二四巻四号

補足

五木寛之の文章は新聞初出から引用している論文がいくつかあったと思うのですけれど、拙稿では文庫本から持ってきています。初出と単行本以降ではかなり改稿されているからです。初出の毎日新聞(六九年一月二十一日、二十二日ともに夕刊掲載「長い旅の始まり――外地引揚派の発想(上・下)」)でのものとの異同は、「外地引揚派」が「外地引揚者」と改題され、〈原体験〉というキーワードがすべて「その体験」などと置き換えられたことです。また、本文で引用したうち〈異邦人〉以下の一文は、初出にはありません。二つ目に引用した、「つまり、引揚げを素材とした作品をなにひとつ書かぬとしても」という一文も新聞初出にはない文章です。

この、「外地引揚派」から「外地引揚者」という改題はなかなか興味深いです。なぜ変わったかの傍証として、同じく引揚者の日野啓三との対談で五木は後藤明生が引揚派として括られることに反対したと話をしています(「異邦人感覚と文学」「文學界」一九七五年四月号、一九〇頁)。六九年の新聞での発表から七四年の単行本収録にあたり、「引揚派」を「引揚者」とした改稿を行った理由はここにある可能性があります。

なお、「赤と黒の記憶」で言及されている、東京の焼け跡に自由を感じた、という文章は野間宏のものらしいのですけれど出典はわからず。

また、「赤と黒の記憶」について、選考会で川端康成が高く評価しています。川端はなぜ候補のなかで一等の評価をしたかは詳しくは明らかにしていません。物心つく前に両親を亡くし、少年期に親族の葬儀に何度も参列した経験からでしょうか。ただ、共感だけで高評するとも思えないので、まあ邪推でしかありませんけれど。

末尾で挙げた在日朝鮮人文学者のなかで金鶴泳だけに「きんかくえい」と日本語のルビを振っているのは、金自身がエッセイ(河出書房新社の新鋭作家叢書『金鶴泳集』所収「一匹の羊」より)でそう書いているので、ここでは著者自身の意思に従っています。

また、〈初期後藤明生〉という言葉をいきなり使っていますけれど、これは私が勝手に区分したものです。今回の連載で扱う、デビューから『挾み撃ち』までを概ね〈初期〉と見ています。