加藤聖文『海外引揚の研究 忘却された「大日本帝国」』

1945年の敗戦によって一挙に植民地を失い発生した数百万の日本人の引揚げをめぐって、その総体的な研究を試みる一冊。和文、欧文、露文、中文等関係各国の資料を使った国際政治的な引揚げ過程の研究と引揚者の記憶の歴史を描く。敗戦時に六百万を超える在外日本人がいたものの、本書の対象は敗戦を期に引揚げが始まった三百五十万近い民間人に限定されており、軍人と敗戦以前から引揚げが始まっていた南洋、東南アジアは対象外となっている。

前半では各地域ごとの引揚げの国際関係を絡めた背景を叙述し、後半では引揚げの歴史認識や慰霊碑の様相を通した記憶の歴史を問う構成になっている。特に、引揚げと言っても一面的ではなく、ソ連、中国、アメリカとその植民地にどの国が来たかによってかなり状況が異なる点へ注意を促している。

敗戦後、日本政府は当初住民の現地定着方針を指示していた。しかし国際的な状況の変動のなかで日本政府は受動的な振る舞いが目立ち、引揚げがアメリカの協力もあって予想よりも早く完了できたために、そうした日本の不作為や見通しの甘さが検証されずに来ていると指摘されている。満洲開拓民の慰霊碑にはしばしば「拓魂碑」というものがあり、これは当の満洲移民政策の立案者で悲惨な事態の原因にほかならない加藤完治の命名と揮毫によるものだという驚くべき話がある。どちらも加害者の責任が曖昧なまま問われずにいるという点については同様だ。

その悲劇と怨嗟の象徴ともなるべき『満洲開拓史』には、戦前における満洲移民大量送出を実行し、その悲劇の責任をもっとも負うべきであるはずの加藤完治をはじめとして満洲移民政策の遂行に直接関わってきた官僚が多数編纂に参画し、満洲開拓政策そのものの批判的検証が試みられることはなかった。すなわち、入植計画の杜撰さや半強制的な移民割当、省益優先の場当たり的な対策など満洲開拓政策が抱えていた本質的な問題は、敗戦時の悲劇によってすっかり覆い隠されてしまったといえよう。そして、この書の刊行以後、府県や開拓団、義勇隊ごとに編纂された開拓史もほぼこうした歴史観に沿ったものとなっていった。こうして、開拓団員の怒りの矛先が巧みにかわされていったまま、悲劇性のみが強調されていったのである。167P。

同様のことを引揚げの歴史全体についても指摘している。

戦後において引揚問題が一般の日本人の心の奥底に沈殿し、社会に埋没していったことは、そもそも何故に引揚者が発生したのかを深く考える機会を奪い、多くの日本人が、戦前の日本は広大な植民地を擁する「大日本帝国」であったことを忘却する結果をもたらし、植民地体験の記憶の喪失による東アジア諸国との歴史認識をめぐる軋轢の要因ともなったのである。2P

戦後引揚者が冷遇されると同時に1990年代まで引揚げ研究がほとんど行なわれてこなかったのは、冷戦構造に囚われ「反共」の材料として政争の具とされていたこと、さらに植民地研究は日本の「加害性」を明らかにすることが主流だったため、被害者性の強調はそれを曖昧にする点があったことなど、さまざまな政治的背景があったことを指摘し、今ようやく政治問題ではなく「歴史として客観的に検証すべき段階に入った」と最初に著者は言っている。しかし、元々政治が絡むために史料閲覧が容易ではなかったロシアの絡んだ歴史研究は今よりいっそう困難になったのではないか……。


満洲引揚げの悲劇性が強調されることでソ連への反感が強まり、戦後日本の政治的傾向に影響したという見方や、戦勝国なのに日本の戦争犯罪を曖昧にせざるを得なかった政治的状況を見落として蒋介石の以徳報恩演説を温情としてばかり見る感傷的な態度が見受けられることへの指摘なども重要だ。

さらに、沖縄戦や広島長崎の犠牲者については国を挙げて慰霊祭が行なわれているのに、満洲引揚げの犠牲者は約二十四万五千人と数の上で言えばはるかに多いにもかかわらず共同体の記憶から弾き出されてしまった。日本国内最後の地上戦としての樺太が忘れられていることも、共同体の記憶の象徴となる慰霊碑の歴史をたどりながら論じている。

 しかし、こうした引揚者の無念を刻んだ記念碑が訴えるのは、あくまでも同じ日本人を対象としたものであって、その他の民族を対象としたものではなく、また記念碑に刻まれる人びとも日本人のみであった。ここからはじき出されたサハリン少数民族の記念碑は、帝国という記憶をたやすく忘れ去った日本人と戦後日本社会への告発である。また、浮島丸の慰霊碑も同様の意味を持っている。
 海外引揚は、単に日本人だけの問題ではなく多くの民族を巻き込んだ一大社会変動であったが、こうした視点は戦後日本において完全に欠落してしまった。引揚者は自らのことのみを語り伝えようとし、対する日本社会は彼らの存在も歴史も忘却し引揚という歴史的事実を顧みることはなかった。そうしたなかで、海外引揚をめぐる記念碑は、戦後日本社会のなかで忘却されていった大日本帝国の歴史をかろうじて伝える記録であった。しかし、その記録も関係者が減少するなかで社会から忘却されつつある。200P

と、少数民族ウイルタのゲンダーヌの事跡を通じて指摘しており、それ故にこそ「単なる悲劇の検証にとどまらない日本の脱植民地化の姿」4Pを検証することが必要だというわけだ。

終章は東アジアや世界史のなかでの脱植民地化について触れていて、中東欧で起きた移住、住民交換、ソ連強制移住などの「脱混住化」に対して、北東アジアでは朝鮮半島、中国・台湾でのように同一民族が別の国家に分断されていく点に大日本帝国崩壊の影響を見ている。第二次大戦後、欧州でも植民地を抱えていた国における植民地支配についての歴史認識は揺らいでおり、さらに引揚者の悲劇や苦難に焦点を当てることで植民地支配の相対化や肯定などのバックラッシュは2000年代以降に顕著になっているのも国際的な流れとしてあると指摘されている。

多民族国家としての大日本帝国を忘却して単一民族国家としての被害の物語ばかりが記憶されていく状況において、その加害と被害が引揚者ごと共同体から弾き出されてしまった引揚げについての研究はやはり重要な意味がある。帝国の忘却と単一民族国家という幻想はアイヌ朝鮮人をはじめとする日本の差別とも密接な関係があるように。

収録に際し削除や加筆がされているけれど本書収録の論文は幾つかネットでも読める。
「引揚げ」という歴史の問い方(上)
「引揚げ」という歴史の問い方(下)
ソ連軍政下の日本人管理と引揚問題 : 大連・樺太における実態

読書人の書評では研究の限界についても指摘がある。
海外引揚の歴史化の新たな試み 読書人WEB


以下は特に整理してないメモというかほぼ抜き書き。

具体的には、イデオロギー対立である米ソ冷戦が南北朝鮮や南樺太からの引揚、または同じイデオロギー内部での対立である中ソ対立が大連からの引揚、中国の正統性をめぐる国共対決をめぐる国際政治の複雑さが満洲や中国本土・台湾からの引揚に影響を及ぼした。しかし、日本国内は実質的に米軍の単独占領下に置かれたため、国内の日本人は引揚者と異なり、複雑な戦後国際政治を直接体験する機会がなく、結果的に引揚者との意識ギャップが戦後認識に大きな影を落とすことになる。
 そして、こうした日本人間の意識ギャップは戦後復興のなかに埋没し、引揚問題は関係者の体験談のかたちでのみ語り継がれることとなった。だが、戦後において引揚問題が一般の日本人の心の奥底に沈殿し、社会に埋没していったことは、そもそも何故に引揚者が発生したのかを深く考える機会を奪い、多くの日本人が、戦前の日本は広大な植民地を擁する「大日本帝国」であったことを忘却する結果をもたらし、植民地体験の記憶の喪失による東アジア諸国との歴史認識をめぐる軋轢の要因ともなったのである。しかし、現在の日本と東アジアとの関係は、戦前と戦後を断絶したかたちで捉えるべきものではなく、植民地・占領地という要素を欠いては成り立たないのである。2P

●第一章 引揚問題の発生
GHQ主導で南朝鮮、太平洋からの引揚げが実施され、日本政府は政策の実施機関としての役割しか与えられなかったこと。36P
戦後処理が外交専権事項だと思っていた重光と、全的な裁量がいると考えた緒方との政府の内紛。
国際情勢に対する無感覚と受動的態度は日本政府の政策余地を狭め、最終的に米国主導で引揚体制が構築され、日本政府は受動的な立場でしかかかわれなくなる。39P
満州の総司令がソ連軍に拘引され、居留民保護の司令塔が不在になった。
対中政策の転換にともない、アメリカ船舶の引揚げ貸与が実現し飛躍的に進んだ。

●第二章 満洲引揚げ
ベルリン陥落でのソ連軍の行状の情報があるにもかかわらず、現実を直視せず、居留民の現地定着を支持する。
ソ連は無関心で、国際的に認知されてない中国共産党は外交には関与できず、東北での支持基盤が脆弱な国民党政府は具体的な行動を起こせず、在満日本人の引揚げを取り仕切る政治権力が存在しなかった。64P これが満洲引揚げの悲惨さの一因で、スナイダー『暴政』の解説で指摘されていることを思い出させる。
ソ連軍の暴行略奪などの悲劇性が強調されることで、戦後日本において革新勢力の伸長を妨げたとの著者の見方がある。

●第三章 台湾・中国本土の引揚げ
平穏な終戦
満州や朝鮮では日本人自らが引揚げ組織を作るほかなかったけれど、台湾では総督府が健在だったのと方面軍が折衝に当たったこと、そして台湾社会が混乱する前に引き揚げられたことで、自分たち主体で生き残りを図る必要がなかった。86P
無傷の支那派遣軍は徹底抗戦を主張したけれどポツダム受諾を受けて降伏準備を始めた。しかし武装解除において、弱体の軍に対して降伏する抵抗感、国民政府の低い治安での武装解除に抵抗を示している。88P
中国各地に集められた日本人は食料も支給され引揚げ実施も早かったため、さしたる混乱もなく、一方で技術者の留用が積極的に行われた。96P
台湾引者には旧総督府官吏が多く、経済界との結びつきが強く、戦後関係者の活動に恩恵をもたらした。そして実質的に一つの国だった台湾を対象にした協会は、外交関係にも深く関与する背景となった。98P
蒋介石の以徳報怨演説や日本人への対応が戦後の蒋介石神話の形成を促し、親台派のバックボーンとなり戦後の日台関係に影響を与えた。

●第四章 ソ連と引揚、大連、朝鮮、樺太
北朝鮮残留日本人問題は、ソ連内部の構造的問題が絡み、状況が深刻になっても迅速な対応ができないというジレンマに陥っていた。113P
避難民の増加と三十八度線の封鎖によって、狭い領域で飢餓状態に陥った。咸興では二十パーセントの死亡率を出した。115P
公的に日本人送還の決定がなされず、技術者などを除けばソ連軍にとって救護されるべき存在となる一般市民を抱えておく必要はなく、日本人の南下脱出は黙認という状態になっていた。
二十五万人が北から脱出し、二万五千人が途中で死亡したと推計されている。117P
南樺太へのソ連人の移入は、ウクライナからが多い。独ソ戦でのウクライナの荒廃の影響か。
南樺太朝鮮人は日本人帰還による労働力不足を補うために残留させられ、南朝鮮出身者の多かった住人も、朝鮮半島の南北分断によって政治的に帰還不可能となった。122P

●第五章 救護から援護へ
引揚げ女性の性病や不法妊娠に対応するための民間団体の活動。国家主権を失った日本に代わって民間団体が官民協同のネットワークを生かしていた。
外地からの食糧移入に依存していたため、戦後は国内で農地を確保しなければならなくなり、開拓事業を拡大するなかで、満州開拓団員が積極的に採用された。そのため食糧政策ではなく引揚げ援護対策の性質を持ち、急な選定で開拓適地ではないところに入植させて失敗した事例も多かった。144P
引揚者の生活権利や保証を優先したため、植民地支配への問いは後景に引いた。148P

●第六章 満州引揚者の戦後史、歴史認識
保守政権は歴史問題に概して冷淡だった。
満史会の開発史の非イデオロギー的な歴史叙述。援護会による満州国史イデオロギー的な叙述。
政府は植民地への賠償問題を恐れて、開発したインフラによって賠償に代えるためにも植民地近代化論を強調した。
林房雄大東亜戦争肯定論や中国韓国への賠償放棄が確定し、政治的にためらう必要がなくなったことで満州国史イデオロギーを前面に出すことが可能になる。161P
戦後関東軍関係者があまり語らなかったため、満州のマイナス面はもっぱら関東軍の責任とされた。また、ソ連や中国で中途半端に裁かれたため、その責任問題もあいまいなままになった。164P
満州に対する歴史認識は、戦後歴史学の裁断に対する当事者の反発にもつながったけれども、後者もまた特定の抽象性の正当化に終始した。

●第七章 記念碑に見る表象
戦前の日本が広大な植民地帝国だったことの忘却について。
外資産補償要求運動に対し、満州引揚組は在外資産などなく、国家による慰霊と顕彰の要求が強かった。
南樺太講和条約ソ連が調印しなかったため帰属不明の土地のままになっており、返還の可能性をもった場所で、ほかの外地引揚げ民との違いがある。
満州引揚者にとって慰霊碑は過去を振り返り死者を慰霊するものだが、樺太引揚者にとっては過去だけではなく、現在と未来を見据える希望でもあった。192P
ウィルタニヴフといったサハリン少数民族の慰霊碑は北海道に局限され、その記憶も日本全体の共有事項とはならなかった。

●終章
東アジアの脱植民地化の一例としての日本。現地民による抵抗ではなく、突発的な事態としての脱植民地化。
2000年になってもくすぶる中国残留日本人問題。