アーリーバード・ブックスpresents with 演劇集団カハタレ「後藤明生「共同生活」をみんなで読んで、演じて、聴く時間。」に行ってきました。

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上から開催告知記事、当日の主催者のツイート、そして企画段階から始まる詳しいイベントレポートになっています。

アーリーバード・ブックスpresents with 演劇集団カハタレ「後藤明生「共同生活」をみんなで読んで、演じて、聴く時間。」のイベントに行ってきました。短篇を順繰りに音読し、その後戯曲形式に整えられた同作を七つの役に割り振り、参加者が演劇的に読み上げるという非常に珍しい取り組みです。

私は会場を間違えたのもあり冒頭遅刻してしまったのでその時にはもう小説の音読が始まっていました。自分の原稿を読んだりするのを除けば学校以来のことで改めて音読をしてみると読み違い読み落としが発生したり、漢数字など複数の読み方があるものについてもそこで一義的に決まったり、自分で読み上げ他人の音読を聞く、この体験自体が結構興味深いものでした。音読はその人がどう読んでいるかが露わになることでもあるようです。

後藤明生初期の長回しの文体から、短文を連ねるキレよくテンポの良い文体に変化したあとの作品ということもあり、自ら提示した疑問符に答えたり答えなかったりの奇妙な自問自答や、子供の意想外のセリフなどでユーモラスな雰囲気があります。団地住まい、犬を飼っているご婦人、邪魔なところに止まる車をめぐるあれこれは人も車も増えていく時代背景が感じられます。

音読の時には段落ごとやセリフごとに担当者を切り替えていたのですけれど、戯曲形式ではセリフはもとより地の文を区切り、自問自答を別人に割り振ることで仮想的な対話形式になっており、それを七人に振り分けることで実際に対話やセリフの応酬になる、というのが非常に新鮮でした。

演じると言ってもほぼ初見の配役をある程度それっぽく読むくらいなので、さすがにこれを「演じる」と言ってしまうと演技をしてる人に失礼かなと思いますけれど、そうして演じるように読み上げてみると、セリフの割り振りの効果もあるでしょうけれど、リズミカルなやりとりにコミカルな調子が生まれ、なんとも不思議な感触がありました。普通の語りの小説の文章では、これは不可能ではないか。後藤が後に「対話」やプラトンへと向かった必然性を思わずにはいられませんでした。

自問自答というか、そのなかに時折形式的なだけの意味の分からない疑問が出てきて、こいつ何を言っているんだ、という気持ちになることがありますけど、そうした形式性と戯曲といえばほとんど読んでないのにベケットを思い出します。ベケットを補助線に後藤を考えるというのはどっかでやらないといけないのかも知れません。

形式的な疑問文というのはたとえば以下の最後の疑問符のような箇所です。ここについて音読した時に奇怪な箇所だという感想を述べたところ、あとで演劇パートでまさにここを自分が読むことになっていて笑いそうになりました。

犬というものはどの部分に触れられるのを最も嫌うか? どの部分に触れられたとき最も腹を立てるか? 犬が最も恐怖をおぼえるのは、どの部分に触れられた場合であるか? また、それらの反対の部分とはどのような部分であるか? 207P

『壁の中』では対話、『この人を見よ』では三人以上のシンポジウムと、モノローグを複数に開いていくことが中期以降の後藤では重要なテーマになっていて、プラトン対話篇への着目もその一環なわけですけれど、70年代の初期短篇を文章を殆ど変えずに改行をくわえて戯曲形式にできる、というのは後期の後藤の試みで初期作を読み換えるかのような興味深い試みです。戯曲化をされた演劇集団カハタレの稲垣和俊さんは『壁の中』と『この人を見よ』が内容は良く分からないけどとにかく面白かったということを言っていましたけれど、会話のやりとりがずっと続くこの二作に惹かれるからこそのことに思えます。そして時折全員で読むセリフもあったりして終盤になってその斉読が多くなっていくのはギリシャの劇のコロスを思わせるなと思って、後で稲垣さんに聞いたら確かにそれを意識していたようで、やはり、と思いました。

そして「共同生活」には「問題は男が、愛犬家にはなれない人間だということだった。そしてそれは、おそらく犬は笑わないためではないかと考えられる。(209P)」という文章があり、これが「笑い地獄」などで語られた笑いをめぐる相互性の話にもなっていることが分かります。

後藤明生長女松崎元子さんが語っていたことでとても興味深いのは、作中で自分は別に動物嫌悪症ではないように書いているけれども、父は確かに動物嫌悪症だったという証言です。『思い川』では川縁を歩いている時に犬を連れた人に出会い、娘(元子さんですね)が軽く噛まれてひどく腹を立て、敵意を燃やし、飼い主がいなければ犬と闘うつもりだったというやたらに緊張感あふれる場面が描かれていました。あれはそういうところから出たものだったのか、と納得しました。それが後に飼い猫ナナとの関係を描いた『めぐり逢い』やナナの病変の危機を描く『行き帰り』そしてその死と埋葬を描く追悼的な短篇「夢」へと結実します。

音読、演劇とあいまに各人参加者の感想などもやりとりされ、変則的な読書会というイベントにもなっていて、しかもそれが特に注目されているわけではない「共同生活」という地味な短篇をクローズアップして行なわれるという非常に新奇な催しで大変面白かったです。


また、「共同生活」は後藤初期の団地ものの一篇ですけれど、半世紀前の1971年の作品ということもあり、先に書いたように人口増が社会問題となっていることが窺われ、団地の入居者も若いということもあり、人は死なずに増える一方という雰囲気に包まれています。半世紀前は人口増加が社会問題としてあったわけで、まずこれに隔世の感があります。参加者からの感想にも団地に住んでいたり家族がそうだったりといったものが出ていて、私も団地でこそないものの、社宅住まいで建物自体は似たようなところに住んでいました。五階建てのドアが向い合っている、ああいう建物です。団地ものの作品を読むと、まずその昔住んでいた社宅を思い出すんですよね。そんなことを思い出します。