共著『現代北海道文学論』が刊行されました

現代北海道文学論 来るべき「惑星思考」に向けての通販/岡和田 晃/岡和田 晃 - 小説:honto本の通販ストア
JRC一手扱い― 藤田印刷エクセレントブックス
これを書いてるのは2020年の五月も末ですけど、告知記事を作ってなかったので。

岡和田晃編著、『現代北海道文学論』が藤田印刷エクセレントブックスから刊行されました。これは『北の想像力』を受けてその執筆メンバーをメインにした書き手らによって、北海道新聞に2015年から2017年まで連載されていたものをその後の付記と完結記念イベントの採録、その他の関連原稿をまとめて一冊にしたものです。

私は笠井清論と山下澄人論の二章で参加しております。当時の告知は以下。
北海道新聞に笠井清論を書きました。 - Close To The Wall
北海道新聞「現代北海道文学論」に山下澄人論が掲載されました - Close To The Wall

各人各様のアプローチでさまざまな作品を論じており、新聞原稿がもとなので分量も含めて読みやすい物になっていると思います。目次を見てもわかるように多彩な作家作品のガイドになっています。2020年に直木賞を受賞した川越宗一『熱源』を2019年時点で論じた原稿もあったり。

執筆陣は私や編者岡和田晃のほか、渡邊利道、石和義之、宮野由梨香、倉数茂、田中里尚、松本寛大、横道仁志、藤元登四郎、三浦祐嗣、藤元直樹、巽孝之、高槻真樹、齋藤一、丹菊逸治、川村湊、河﨑秋子の各氏となります。詳細な目次も転記しておきます。以下の記事では正誤表もあります。
『現代北海道文学論 ~来るべき「惑星思考(プラネタリティ)」に向けて~』(藤田印刷エクセレントブックス)が発売 - Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト(新)

●はじめに
●第一部 「北海道文学」を中央・世界・映像へつなぐ
・「惑星思考(プラネタリティ)」で風土性問い直す時/岡和田晃
円城塔――事実から虚構へダイナミックな反転/渡邊利道
・山田航――平成歌人の感性の古層に潜む「昭和」/石和義之
池澤夏樹――始原を見つめる問題意識/宮野由梨香
桜木紫乃――「ごくふつう」の生 肯定する優しさ/渡邊利道
村上春樹――カタストロフの予感寓意的に描く/倉数茂
佐藤泰志――「光の粒」が見せる人の心の揺らぎ/忍澤勉
外岡秀俊――啄木短歌の言葉の質 考え抜き/田中里尚
朝倉かすみ――故郷舞台に折り重なる過去と現在/渡邊利道
山中恒――小樽で見た戦争 自由の尊さ知る。松本寛大
桐野夏生――喪失の果て 剝き出しで生きていく/倉数茂
桜庭一樹――孤立と漂流流氷の海をめぐる想像力のせめぎ合い/横道仁志
●第二部 「世界文学」としての北海道SF・ミステリ・演劇
・河﨑秋子――北海道文学の伝統とモダニズム交錯/岡和田晃
山下澄人――富良野倉本聰 原点への返歌/東條慎生
今日泊亜蘭――アナキズム精神で語る反逆の風土/岡和田晃藤元登四郎
荒巻義雄――夢を見つめ未知の世界へ脱出/藤元登四郎
「コア」――全国で存在感 SFファンジンの源流/三浦祐嗣
露伴札幌農学校――人工現実の実験場/藤元直樹
佐々木譲――榎本武揚の夢 「共和国」の思想/忍澤勉
平石貴樹――漂泊者が見た「日本の夢」と限界/巽孝之
高城高――バブル崩壊直視 現代に問いかける/松本寛大
柄刀一――無意味な死に本格ミステリで抵抗/田中里尚
●第三部 叙述を突き詰め、風土を相対化――「先住民族の空間」へ
渡辺一史――「北」の多面体的な肖像を再構成/高槻真樹
小笠原賢二――戦後の記憶呼び起こし時代に抵抗/石和義之
清水博子――生々しく風土を裏返す緻密な描写/田中里尚
・「ろーとるれん」――「惑星思考」の先駆たる文学運動/岡和田晃
・笠井清――プロレタリア詩人 「冬」への反抗/東條慎生
・松尾真由美――恋愛詩越え紡がれる対話の言葉/石和義之
・林美脉子――身体と風土拡張する宇宙論的サーガ/岡和田晃
柳瀬尚紀――地名で世界と結び合う翻訳の可能性/齋藤一
アイヌ口承文学研究――「伝統的世界観」にもとづいて/丹菊逸治
樺太アイヌ、ウイルタ、ニヴフ――継承する「先住民族の空間」/丹菊逸治
・「内なる植民地主義」超越し次の一歩を/岡和田晃
●連載「現代北海道文学論」を終えて/岡和田晃×川村湊
●補遺「現代北海道文学論」補遺――二〇一八〜一九年の「北海道文学」
・伊藤瑞彦『赤いオーロラの街で』(ハヤカワ文庫、二〇一七年)――大規模停電の起きた世界、知床を舞台に生き方を問い直す/松本寛大
馳星周『帰らずの海』(徳間書店、二〇一四年)――時代に翻弄されながら生きる函館の人々/松本寛大 
高城高『〈ミリオンカ〉の女』(寿郎社、二〇一八年)――一九世紀末のウラジオストク、裏町に生きる日本人元娼婦/松本寛大
・八木圭一『北海道オーロラ町の事件簿』(宝島社文庫、二〇一八年)――高齢化、過疎化の進む十勝で町おこしに取り組む若者たち/松本寛大
・『デュラスのいた風景 笠井美希遺稿集』(七月堂、二〇一八年)――植民地的な環境から女性性を引き離す/岡和田晃
・須田茂『近現代アイヌ文学史論』(寿郎社、二〇一八年)――黙殺された抵抗の文学を今に伝える/岡和田晃
・麻生直子『端境の海』(思潮社、二〇一八年)――植民地の「空隙」を埋める/岡和田晃
・『骨踊り 向井豊昭小説選』(幻戯書房、二〇一九年)――人種、時代、地域の隔絶を超える/河﨑秋子
・天草季紅『ユーカラ邂逅』(新評論、二〇一八年)――〈死〉を内包した北方性から/岡和田晃
・「惑星思考」という民衆史――『凍てつく太陽』(幻冬舎)、『ゴールデンカムイ』(集英社)、『熱源』(文藝春秋)、『ミライミライ』(新潮社)/岡和田晃
●あとがき

詳しくは岡和田さんの以下のツリーをクリックしてもらう方が早いかも知れません。


ついでに『物語・北海道文学盛衰史』1967年、まだ河出書房が新社じゃなかったときの本と、『現代北海道文学論』2019年、藤田印刷エクセレントブックス。カバーデザインもこの52年前のものを踏まえてたりするのかな。

オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』

プラヴィエクとそのほかの時代 (東欧の想像力)

プラヴィエクとそのほかの時代 (東欧の想像力)

松籟社の〈東欧の想像力〉叢書第十六弾は先頃2018年のノーベル文学賞を受賞したオルガ・トカルチュク。本書は本国で1996年に刊行された三作目の長篇小説で、国内に留まらず海外でも評価され、トカルチュクの作家的地位を決定づけた一冊だという。

第一次世界大戦のころから80年代までにいたる20世紀を背景に、84の断章を通じて、ポーランド南西部の架空の街プラヴィエクとそこに生きる二つの家系を中心に人々の生と死、そしてモノや植物や動物や神や死人の「時」を描く長篇小説だ。

プラヴィエクは宇宙の中心にある。

本書はこの書き出しからとてもよく、私も幻視社の東欧文学特集に東欧は周縁ゆえにさまざまなものが交差するという意味で「世界史の中心」だというフレーズを引用したけれども、ここでの中心というのは、解説にも触れられているように、神学的な絶対性を相対化する汎神論的な意味がある。単一の、絶対の、男たちの、歴史の、そういった絶対的あるいは垂直的ともいえる概念を徹底して横にずらしていくような部分が随所にあり、この架空の小さな街という舞台もそもそものことながら、冒頭、ミハウが戦争に行ったり、第二次大戦時にドイツ軍がやってきて人を強制連行したりユダヤ人を虐殺する場面やスターリンの死、「連帯」運動?などの大きな歴史の爪痕は随所に刻まれているけれども、街の人々はほとんど主体的に関わらない。

それに絡んで象徴的なのは、登場人物の一人が趣味として世界のさまざまなパンフレットを取り寄せていたら、国際郵便が紛失した場合の損害賠償で金を稼げることを見つけたとき、頻繁な国際郵便を調査しに来た秘密警察のセリフをヒントに、「ラジオ・フリー・ヨーロッパ」に郵便を送れば検閲で確実に不達になるので賠償金が得られるという逸話だ。本書でも特に好きなエピソードだけれど、ラジオ・フリー・ヨーロッパ、という政治的存在が単なる小金稼ぎの手段としてしか意識されず、しかも確実に届かないうえに封筒には白紙を入れて送っている、という関節外しが面白い。もちろん怪しすぎて秘密警察には何の暗号を送っているのかと拷問を受けるんだけれど、秘密警察も反共組織も彼にはなんら重要ではない。

多くの出産のエピソードが描かれる本書ではおよそ女性を中心に語られており、第一章「プラヴィエクの時」の次の二章目は、本書の中心人物ともいえるミシャのその母「ゲノヴェファの時」から始まるし、最後の章はミシャの子、ゲノヴェファの孫娘「アデルカの時」で終わる。解説でも指摘される孫娘に男子が生まれず女系が続いていくのもこの横ずれの一つだろう。

そして汎神論的というように、本書の断章のなかには、コーヒーミルやキノコの菌糸体やハンノキや犬のみならず死者の章まである。特に菌糸体の章では、「菌糸体は死の命、腐敗の命、死んでしまったものの命」225Pだとされ、「菌糸体は、時の進みを遅くするのだ。(中略)こんなふうにして菌糸体は、時間を支配するのである」227P、とも語られ、重要な意味を与えられている。植物でも動物でもない菌糸体は、樹の垂直性を拒否し、あらゆる場所に伸びる。菌糸体はトカルチュクの他の作品でもみられる作家通有のモチーフでもあるらしい。

「神」もまた本書では重要なモチーフで、領主が熱中する不思議なインストラクションゲームの冊子にあるテキストでは、神は八つの世界を創造しながら、人間に見放された苦しみを語ったり、老いた神が自分の外の秩序に組み込まれていたり、神の絶対性が剥奪されている。

「神の時」という章に重要なポイントがある。

ふしぎなことだ。神は時間を超えているのに、時間と、その変化のなかに顕現するなんて。もしもあなたが、神が「どこに」いるのかわからないと言うならば(ときどきこういうことを尋ねるひとがいる)、変化し、動く、あらゆるものを見るべきだ。形をとらないもの、波うつもの、消えてしまうものすべてを。
中略
 人びとは、かれら自身がプロセスのなかにあるけれど、恒常的でないもの、いつも変化しているものを恐れる。だからこそ、不変などという、そもそも存在しないものを考えついた。そして、永続的で変わらないものこそが、すばらしいと思っている。だからひとは、不変を神に帰してきたし、神を理解する能力を、こんなふうにして失った。
154P

「神」と「時」はまさに本書の基底をなす重要なテーマにもなっていて、二つのテーマの交差する章がこの長篇のちょうど中間地点にあるわけだ。


モノとしては作中で新しく建てられ、ラストでその無残な様子を見せる家もそうだけれど、特に、序盤にある「ミシャのコーヒーミルの時」が重要だろう。

人はじぶんが動物よりも植物よりも、とりわけ、物よりも濃密な生を生きていると思っている。動物は、植物や物よりも濃密な生を生きていると感じている。植物は、物よりも濃密な生を生きていることを夢に見る。ところが、物は、ありつづける。そしてこの、ありつづけるということが、ほかのどんなことよりも、生きているということなのだ。59P

そしてコーヒーミルは移ろいやすさに関係し、いっさいがこれを中心に回転する、世界にとって人間より重要なものではないか、と語られ、「ミシャのコーヒーミルとは、プラヴィエクと名づけられたものの、柱ということなのかもしれない」(61P)とも呼ばれている。挽くというイデアの小さな一部、と呼ばれるコーヒーミルが、豆を挽く、回転する、という変化と時間の象徴となり本作の重要な柱に据えられる。世界のなかのプラヴィエク、そしてそのなかのコーヒーミル。このコーヒーミルは最後、ゲノヴェファの孫娘が回し、街の外に持ち出されることで本書は終わる。宇宙の中心を回すコーヒーミルはまた別の場所で中心を作っていくわけで、プラヴィエクからの移動が最後に置かれている。

移り変わりということでは、ミシャのこの部分がやはり重要に思える。

果樹園で彼女はこう考えた。この木々が花を咲かすのを止めることはできないけれど、花びらはぜったいいつか散るし、葉もまたやがて色を変え、風に吹かれて落ちる。翌年もまたおなじことが起きるだろうという考えは、ちっとも彼女を慰めなかった。だって、そうではないと知っていたから。あくる年、木はまたべつの木になっている。大きくなって、枝だってもっと繁るだろう。べつの草が生え、べつの実がなる。花咲く枝も、くりかえされない。「わたしは二度と、こういうふうに洗濯物を干さない」ミシャは思った。「わたしはぜったい、くりかえさない」252-253P

この部分で思いだされるのは、同じく〈東欧の想像力〉の第一弾、セルビアユーゴスラヴィア)の作家ダニロ・キシュで、彼の『死者の百科事典』の表題柵の以下の部分だった。

人間の歴史にはなにひとつ繰り返されるものはない、一見同じに見えるものも、せいぜい似ているかどうか、人は誰でも自分自身の星であり、すべてはいつでも起きることで二度と起きないことなのです、すべては繰り返される、限りなく、類いなく。(だから、この壮大な相違の記念碑、『死者の百科事典』の編者たちは個なるものにこだわるのです、だから、編者たちにとっては一人ひとりの人間が神聖なのです。)

世界文学のフロンティア 3 夢のかけら - Close To The Wall

時間は流れ変化する、その一回きりのかけがえのなさ。84の「時」と題されたすべての章に神は宿るわけだ。

さまざまな形でプラヴィエクに住んでいる人たちの人生の一時が切り出され、すべて読み終えた後にまた次第になんとも言いがたい沁みるような良さが感じられる一作だった。アニミズムや季節の移り変わりという点を捉えてややもすると日本的と言われたりしそうな気配もないではないけれども、絶対的な神を否定する批評性がきわだっている作品でもある。
note.com
訳者解説がこちらで公開されている。ここで指摘されている「歴史の終焉」は、東欧の社会主義の終わりとも重ねられたものだろう。
shoraisha.stores.jp
本書は松籟社の木村さまにご恵贈頂きました。ありがとうございます。

田中里尚 - リクルートスーツの社会史

リクルートスーツの社会史

リクルートスーツの社会史

ご一緒した『北の想像力』では清水博子安部公房を論じていた田中さんの専門が女性史や服飾文化だということは知っていたけれどそちらの仕事は読んだことがなかった。そんなおり刊行された本書は、就職活動で着られるスーツという限られた存在に的を絞りながらも500ページを超える大部の服飾社会史となっており、とても面白い。戦後社会を就職活動におけるファッション、の面から切り出したかのような感触もあり、ただ参照文献に漫画小説ドラマが出てくるというだけではなく、表現としての服飾とそれをめぐる言説への繊細なテクストクリティークに一種の文芸評論の趣を感じる瞬間もあった。

はじめにリクルートスーツの前史として、戦前の背広=スーツがどのように受け入れられてきたかの来歴をたどり、背広が大人の象徴としてみなされシンプルな紺のスーツがスーツの序列の始まり、最下部に位置することが確認される。この「スーツの階梯」概念は本書の重要な軸となっている。戦後もしばらく就職活動は学生服で行なわれていて、そうしたツテをたどった就職が自由化される七〇年代初頭、学生服のかわりに着用されたのがスーツで、就職協定の確立が現在のような新卒一括採用の流れを生み、1977年ごろ、就職活動向けのスーツの売り出しがリクルートスーツの始まりとなる。

ここからリクルートファッションが多様な言説のなかでどのように捉えられ、何がなされるべきとされているのか、といったことを書籍だけではなくファッション誌、就職情報誌、新聞その他さまざまなメディアから分析し、その流れを叙述していく博捜ぶりは圧倒される。

リクルートスーツは、社会人にふさわしい服装規範が凝縮された服装のことである。したがって、リクルートスーツを歴史的に追跡していく経験は、社会人にふさわしい服装規範とは何か、という問題に対する解答の歴史を見ていくことと同じであった。506P

この大著の議論の要諦をまとめるのは難しいので印象に残ったところをざっと書いておくと、やはり好景気だと服装の自由度が高かったりだとか、過去女性の服装の自由度が高かったのは「職場の花」という周縁化された存在なことと表裏一体だったことなど興味深い。雇用機会均等法前後での女性のリクルートファッションの変遷もたどられているけれど、それ以前の時代では女性のパンツスーツがかなりの禁忌で、着てくると取引先に失礼だ、と怒られたのは今では理解できない話だろう。女性のパンツスーツ、当時としては男性が化粧するような意味合いがあったのだろうか。パンプス、ハイヒールの強制やその批判運動についても言及されているけれど、職場の女性が化粧を求められるのは最大の差別ではないかとは思う。九〇年代の就活では素顔でも良かったらしいのは興味深い。

リクルートファッションやリクルートルックという言葉は以前から存在したけれど、「リクルートスーツ」という言葉の成立は二〇〇〇年代だという。これは就職活動の長期化によってスーツが複数必要になり、しかし経済的な問題でコストパフォーマンスが優先され、リクルートスーツの日用品化が起こる。バブル期の数十万を掛けたリクルートファッションはリターンが見込める「投資」だったのが、一万ちょっとで就活でしか着ない日用品と化したリクルートスーツへ、という経済の困窮を背景にした歴史も、いかに日本が貧困化したかを思い知らされる箇所だ。

すなわち、就職活動の長期化でスーツが日用品化し、そのスーツを陳腐と見なす見方が提出され、スーツ間の区別が信憑される。そうしたファーストスーツとしての認識が失われつつあった時期に、就職活動の辛さなどを象徴する特殊な否定性を帯びて用いられるようになったのが「リクルートスーツ」という言葉だと言えるのである。483P

地位表示の指標でもあったスーツの階梯からリクルートスーツが切り離され、独自のカテゴリと化す。ここに、スーツを象徴とする企業社会での出世が断念されている状況が反映されているのではないか、と著者は言う。出世のイメージとも重なるスーツの階梯からその始まりにあたるはずのリクルートスーツが切り離されることは、就職と企業で働くこととの切断ではないか、と。


スーツの標準的な色だったチャコールグレイがドブネズミ色とされて忌避された経緯や、ビジネスでは禁忌だった黒がなぜ近年急に標準となったのかなど、さまざまにたどられるリクルートファッションについての記述の厚みは盛りだくさんだけれど、本書においてはこの500ページを超える厚さこそが必要だった。

紺からグレー、グレーから黒と、標準となる色彩のモードが変化するときも、当初は差異化しようする動機が見える場合がある。しかし、その動機を大多数が同時に持つがゆえに画一化という結果に帰結してしまう。すなわち、現象の結果を見れば、リクルートスーツを着る若者の心性は画一的と見なせるが、動機を見ると個性の追求とも言えなくはない。だから、学生の心性が没個性的であるとは、リクルートスーツという現象だけではにわかに判定できないのである。
 しかし、若者は没個性で画一的であるという心性をリクルートスーツという現象で例証したい、という言論は多数生じている。むしろ、その理由付けの方が画一的な常套句となってしまっているようにも見える。この現象は、現在を画一的と見なすことで、過去を画一的ではなかった時代として位置づけようとする欲望によって突き動かされているようだ。488P

もし、没個性や同調圧力の強さを論じるのであれば、学生のそれではなく、日本におけるスーツ着用の根拠に関する議論の少なさを指摘すべきであろう。就職活動生の心性が「画一的」だからリクルートスーツが変わらないのではなく、面接におけるスーツ着用の根拠の議論がなされず、お互いに言論を確かめ合って規範をつくりあげてしまっているから変わらないのである。若者に変化しない責任を押し付けるのは、あまりに酷であるし、四〇年前の若者も、同じように画一的とみられていたことを忘れてはいけない。508P

凡庸な画一性の象徴にみえるリクルートスーツにも内部にはゆらぎがあることや、その歴史にはさまざまな流行と変化があることを丁寧にたどり返し、リクルートスーツの画一性とはそもそもビジネススーツの自明性を疑わない社会の側に由来するのではないかと切り返してみせる。就職活動がなぜスーツで、社会人の標準的な服装がなぜスーツなのか。ここを疑わないメディアや大人たちの側からリクルートスーツがいかに画一的なのか、という画一的な言説が出てもそれは鏡に文句を言うようなものだろう。だからこそ本書はスーツの歴史性から説き起こされるわけだ。


あとがきで著者はもともと、「画一的なリクルートスーツを批判する目的で本書の執筆を始めた」と書いている。そして調査を進めていくうちに、流行の反映や細部の個性などを見いだし、ついに、リクルートスーツはつまらないスーツではなく、スーツの意味体系の要にあると言うことを発見したという。著者は自分が就職活動の面接でつまらない、と言われたことを回想しつつ、こう言う、

リクルートスーツもまた、平凡で、地味で「つまらない」服だと思われている。私は書きながら、勝手に仲間意識を抱き、リクルートスーツに同情的になっていた。そのうち、リクルートスーツが「つまらない」スーツではない、ということを発見した。リクルートスーツは、スーツの意味体系の要に位置するスーツなのである。リクルートスーツの「つまらなさ」は、浮薄に変化を志向する社会の中で「平凡さ」が被る言われなき悪名だと思う。

「つまらない」ものとは基本的なものである。基本的なものがなければ、多様もない。平凡なものは、基本的なものである。基本的なことは、重要なことである。「つまらない」ものに見えても、それは、重要なものであることが往々にしてある、ということをリクルートスーツの社会史は照らし出しているのである。リクルートスーツが「つまらなく」見えるのは、差異が、標準を否定項として表現するからである。517P

終盤ファッション誌の記事からリクルートスーツをスーツの階梯に位置づけ直そうとする姿勢を読み込むのは、この基本の重要性を確認するためでもある。著者がリクルートスーツを擁護するのはしかし、花森安治にならって、「服装的自覚を持って選ばれた基本的なスーツであるという条件が不可欠である」とも述べる。

リクルートスーツ」という凡庸なつまらないとされたものに踏みこんでみることで画一的と見えたものが持っている重要さを発見すること、本書はこの500ページを超える分量を以てそのことを証し立てている。

『パラドックス・メン』「幼な子の聖戦」「犬のかたちをしているもの」「会いに行って――静流藤娘紀行」「かか」「改良」「正四面体の華」『黄泉幻記』『夢の始末書』

パラドックス・メン (竹書房文庫)

パラドックス・メン (竹書房文庫)

チャールズ・L・ハーネス『パラドックス・メン』。記憶をなくした主人公アラールが、奴隷制が復活したアメリカ帝国で盗賊という秘密結社に身を投じ、東西冷戦を意識させるアメリカ帝国と東方連邦があるなか、アラールの自分とは何かという探究が、さまざまな謎めいた人物たちによって織りなされる過去と未来の物語。およそ70年前に書かれワイドスクリーンバロックの名を与えられ、幻の傑作と呼ばれたSF長篇の本邦初訳。

突拍子もなく荒唐無稽さを想起させる惹句に対し、今読むと、面白いけど端正な感触すらある速度感のSF活劇で思ったより普通な印象もあった。思ったより普通かというといや結構おかしかったしやっぱムチャだな。傑作!とまでは言わないけど、充分面白い。XがAか非Aでしかないアリストテレス的世界をひっくり返すとか、屈性計画理論とか、あれが!というところは驚かされた。銃弾をはじく盗賊アーマーの存在がレイピアでの決闘を可能にし(ガンダムぽい)、ジョジョっぽさを指摘する人がいるのもわかる、理屈をまくし立てながらのバトルや、人間が目を光らせて映像を投影するなど、奇抜でいってみればコミカルな発想が多々見られるのがおかしくていい。一番驚いたのは3○○ページの○○章と章題のページ数合わせかも知れない。この本作でも大きな意味のある数字を揃えたこれは偶然なのかどうか。冷戦と人間の愚かさと未来と、という直截なメッセージ性がある。

荒唐無稽だったり強烈なエネルギーとかだったりは、ベイリーやベスターとかのほうがというところはあるにしろ、系譜をたどる意味でもこの重要作品がしかも文庫で出たのは快挙だろうし、竹書房中村融ありがとうというほかないな。詳細な出版史をたどる解説も貴重。作品内容に踏みこんだ解説も読みたいところ。序盤から気になってたところがラスト解かれるところもおお、と思ったんだけど言及するだけでネタバレか。とにかくも、このカバーコラージュも格好良い一冊だ。

すばる 2019年 11 月号 [雑誌]

すばる 2019年 11 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2019/10/04
  • メディア: 雑誌
木村友祐「幼な子の聖戦」(「すばる」11月号)。青森県の過疎化する村での降って湧いた選挙戦を通じて、東京から引き上げて暮らす蜂谷が幼馴染みの擁立に協力すると誓った直後、保守派陣営から脅迫されて年嵩の候補側に立ち、幼馴染みの選挙妨害に勤しむことになる。醜悪な現実の縮図とともに、蜂谷の心中にわだかまる虚無が行動へどうつながるかを描くテロリストものでもあって、その点で大江とあわせて読むべきかも知れないけれども、課題を与えられることで生に意味を充填される現代的な「ネット右翼」の話にも感じられる。肝は自分でどんな理屈で行動を正当化しようとも、それが愚かしい現状維持の「システム」に貢献しているだけではないか、食い物にされているだけではないか、という反省的視点がなければ、というところ。現実を批判する「信仰」のモーメントがここにかかわる。オリンピックに食い物にされた復興、家父長制を前提にした保守的な選挙と、老人という「資源」、さまざまなものを「食い物」「資源」と見なす策動のなかから打ち立てられる東北弁の語りという蜂の一刺し。

すばる 2019年 11 月号 [雑誌]

すばる 2019年 11 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2019/10/04
  • メディア: 雑誌
すばる文学賞受賞作、高瀬隼子「犬のかたちをしているもの」(「すばる」11月号)、卵巣腫瘍摘出手術を受けた女性の語りで、同棲相手の男性が別の女性を妊娠させてしまったものの、その相手女性から子供を受け取って欲しいといわれた、奇妙な三角関係から語り手の思索が始まる。手術の後でも薬を飲み続けていて、男性を愛していても性的接触がすぐに嫌になってしまうという語り手の感覚から発する叙述はかなり読ませるけれど、家族を持ち子供が生まれれば世界はシンプルで優しくなる、という現状への批判的観察を述べていながら最後は子供を作ろうとするラストの評価が難しい。性と愛が区別できるか、とか、語り手にとってもっとも大きな愛はきょうだいのように育った犬だったことともかかわって、産んだのでない子供をうけとる話から始まる、この社会への違和感を言語化してゆくのは面白いんだけれど、そこで選考委員がいうように「やっぱりそうなるよね」という展開がやはり物足りない。角田光代の言うように、もらって欲しかった、とは私も思った。相手女性が子供が生まれて子供嫌いだったのが手放せなくなった、というように子供を産まなければ愛情を持てないのではないかと語り手が考えているんだろうか。『レズビアン短編小説集』の解説で、セアラ・オーン・ジュエットは「犬のように相手を愛す」という表現が肯定的に使われていると指摘されていることを思い出した。犬を愛することが愛の基底になっていること。

群像 2019年 12 月号 [雑誌]

群像 2019年 12 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/11/07
  • メディア: 雑誌
笙野頼子「会いに行って――静流藤娘紀行」第五回最終回(「群像」12月号)。台風15号から始まっていて、前回に続いて今回は19号の暴風による体感を「実況」しつつ、台風、日本の政権、そして藤枝静男の戦争体験を災難・危機として重ね合わせつつ、藤枝静男の文学、自我をたどる。 「師匠、私達日本人にはもう国がありません」「雨も風も使わずとも国民は殺せます」、という直近の自然災害と政治的過程による危機の感覚のなかで、「イペリット眼」や「犬の血」といった「医者的自我」によって「戦争の恐怖をとことん抉りだした」藤枝を読んでいく。医学的な発見の喜びと患者の苦しみという悲しさの同居という医者の矛盾や、患者から解放されることが仕事を失うことと繋がることや、他国人を犠牲にし、少年を犠牲にして自己をも犠牲にする人間を医者独自の視点からこそ「戦争の異常空間が現れ渡るのだ」と。医者自身の矛盾を剔抉するにとどまらない藤枝の自己への厳しさについて、あるいはこうも書かれる。「彼は優しすぎる。つまり優しさ故についた傷は深く、その深さが彼の激烈さを生む」(283P)と。女性についての態度の箇所だけれども、戦争への毅然とした態度もまた生き延びた感覚によるだろうか。

「師匠は国民が戦争につっこんでいった状況を、騙されるのとは別に、まず本人達が望んで、というか異様な真理に乗せられ理性なく加担したのだと考えている。天皇についても、天皇を支持して、天皇制と天皇をわける事が出来なくなるのが、一般大衆の性だと理解している」276P

藤枝静男の自我と小説的に作られた私とのあいだを読み込みながら、笙野は最後に自分の小説が読まずに送り返されそうになったときでも、あの藤枝静男が褒めた人なら、ということで編集者に読んでもらえたことを記している。「彼に褒められた事は本が出なくても十年残っていた」。本作はこの十年を大事にしつつ、デビューから四十年が経とうという現在、読むことと読まれることの渾身の応答として書かれている。また藤枝は生き延びた戦後を書き、笙野は来つつある危機を実況しつつあり、時間的に対照的な動きがある。危機のまさにただなかで書かれた今作は危機の後にも読まれるはずだ。

群像 2019年 12 月号 [雑誌]

群像 2019年 12 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/11/07
  • メディア: 雑誌
高原英理「正四面体の華」(群像12月号)、人から聞いた三つの自己消滅的発言を三角に置いた場合そこから伸びる想像上の頂点を含む正四面体のイメージ、に駆られたライターが、自分の心が不要だと語った幻の作家を探し求めるなかで幾重もの虚構に突き当たる、メタ虚構幻想小説、と言えるか。小説と虚構、評論と虚構について。超常的な何かが起こるわけではないけど、幾何学的イメージや結晶の比喩、書くことへの問いが虚構性を滲ませるなどやはり幻想小説的に感じる。倉数茂『名もなき王国』とも通底する、なぜ書くのかという問いをメタフィクション的な趣向で展開する短篇で、そう長くないのに密度が濃い。というか入り組んだ関係をまだちゃんと整理できてないからか。擬音や副詞に独特の表現がちょくちょくあるのが印象的。しかしこの伝聞に伝聞を重ねた書き出しが胡散臭すぎて面白い。

 よく晴れた夏の日、遠く海を望む古い洋館のヴェランダ で、柔らかい南風に吹かれながら、
「おじさんは綺麗なものを全部見てしまった。だから死ぬんだよ」
 と語った人は著名な作家で、そのしばらく後に自殺した。
 こんな話をある雑誌の記事で読んだと告げる人がいた。
 誰が書いた記事だったか聞いていない。

文藝 2019年冬季号

文藝 2019年冬季号

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2019/10/07
  • メディア: 雑誌
文藝賞受賞作を読む。宇佐美りん「かか」。独特の家庭内方言ともいうべき娘の語りで母親との愛憎関係を描きつつ、父親のセクハラやDVに怒り、家庭事情やSNSでの女性同士のやりとりで嘘をついて流れを変えようとする承認欲求の様相なども描きつつ、母親を妊娠したかった、という独特の表現に至る。祖母に愛されず夫とも離婚し、自傷行為のように暴力を振るう母は毒親のようだけれども最愛の母でもあるその人の子宮摘出手術を前に、熊野に詣でる娘の道行き。語り手は父について語りつつ、以下のように叫ぶ。

「……うーちゃんはにくいのです。ととみたいな男も、そいを受け入れてしまう女も、あかぼうもにくいんです。そいして自分がにくいんでした。自分が女であり、孕まされて産むことを決めつけられるこの得体の知れん性別であることが、いっとう、がまんならんかった。男のことで一喜一憂したり泣き叫んだりするような女にはなりたくない、誰かのお嫁にも、かかにもなりたない。女に生まれついたこのくやしさが、かなしみが、おまいにはわからんのよ」28P

女性へ向けられる視線への怒りと母殺しのモチーフが絡み合った語りで、ドメスティックなテーマが母を妊娠する、という幻視的テーマに帰着する。作者は笙野頼子『母の発達』を読んでいるのか気になる。興味深いのは仏像に対して性欲を抱き、自分に男性器が生えてきてほしい、そうしてあの仏の腹に子種を植え付けたい、と語るところ。もう一作の「改良」が女装を扱っていることとあわせて面白い。

文藝 2019年冬季号

文藝 2019年冬季号

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2019/10/07
  • メディア: 雑誌
文藝賞受賞作その二、遠野遥「改良」。「かか」と対照的に自己に対し距離感ある語り口で、女装を磨きつつある男性が被る性暴力を描いている。端的に言えば暴力をめぐる話といえ、レッテル張りという決めつけと性暴力の二つの暴力が交錯する瞬間の話のように思う。文体について磯﨑憲一郎が現実を揺るがし続けている、というのはこの決めつけの暴力をずらすことと関わりがある。幼少期に男は何故水着で上半身を出すのか、と疑問を口にしていたら、トランスジェンダーだと勝手に思われ、理解があるんだと言われ、結局性器をいじらされる、という経験と、女装した姿を見てほしいと思って馴染みのデリヘル嬢を呼んだら、言葉責めのつもりで男は化粧なんかしちゃいけないよね、変態さんだね、男性器なんていらないよね、と言われ激昂するくだりはまさにこうした「圧力や凡庸さ」という決めつけの暴力の瞬間だろう。男女の差異の常識に疑問を呈したり、女装はしても女性になりたいわけではないということが理解されない。そこで重要なのが、コールセンターの同僚の女性が、小学校の頃「ブス」と言われたことで、以後の人生でドラムを始めたり明るく喋ったり声だけでできるバイトをしたり、ということが「ブス」でもできることを探してのものだったんじゃないか、という「怖い話」を語る場面だ。見た目によってすべてを決めつけられてしまう暴力が人生を決定してしまうおそろしさ。この女性の経験を聞いて、男は性欲が消える。他の箇所では決めつけが性暴力への動因となるけれど、ここでは理解あるいは共感が性欲を消している、という仕組みになっているように読める。しかしこの主人公、その女性に好意を持っているけれどもそれを一切語ってない、という理解でいいのかな。部屋に泊まり込んだとき、なんとかセックスに持ち込もうと苦戦するくだり、おいこいついきなり襲おうとしてるのかと思ったけど、そう理解したほうが良い気がした。不器用さの演出か。出版社の作品紹介について、作者はジェンダーセクシュアリティや孤独の話ではない、というけれど、女性性をまとった瞬間に振るわれる暴力、が描かれていて、性と暴力に密接な関係はある。美しくあるための戦いが、ボロボロになった主人公がその姿でその同僚の女性に会いに行くところで終わるのはなかなか印象的。

黄泉幻記

黄泉幻記

  • 作者:林 美脉子
  • 出版社/メーカー: 書肆山田
  • 発売日: 2013/06
  • メディア: 単行本
林美脉子『黄泉幻記』。本作では病床の母とその死が中心に置かれており、落差のある母親の口語表現がユーモアを醸しつつ、林美脉子流の宇宙的・硬質な表現によって病室、空知野、銀河、黄泉を接続する「幻記」の方法が展開される。「凍沱の河口」もだけれど、「夕焼ける三〇一号室」はこんな風で、母の言葉にちょっと笑ってしまう。

 全知の星くずを夕映えの空にびっしり詰めて 夢の深さを測量する母が 残余の非の穴を覗いてつぶやいている
 隣の人は狐つきで
 夕方になると窓を開けて
 黒い鳥と話をするんだ
 いつまでも窓を開けているから


 寒いんだよね~

「凍沱の河口」の三途の川を渡ってきたとおぼしき者に向かって、「帰れ」と終わるのが彼我の距離をいやおうなく意識させ、それは「飛ぶ氷礫の国道十二号線」で繰り返される「うつし世とかくり世の」の狭間を通って、「非の渚」の「死がゆるしなら/非在が愛」へと至る、ような。いろいろな引用やギリシア語も引かれてるけど、韓国語や韓国の死にまつわる言葉がときに挾まれることがあり、北海道と宇宙のあいだにまた横の広がりも書き留められている。

夢の始末書 (ちくま文庫)

夢の始末書 (ちくま文庫)

村松友視『夢の始末書』。中央公論社の文芸誌「海」の編集者だった著者が、入社から小説家になって退社するまでの十八年にわたる編集者生活のなかで出会った小説家たちとの時間を描く回想小説。六〇年代末から八〇年代にかけての時代の一断面もうかがえ、さらっと読める。幸田文武田泰淳武田百合子野坂昭如唐十郎舟橋聖一永井龍男尾崎一雄後藤明生草森紳一水上勉色川武大田中小実昌川上宗薫、小檜山博、赤瀬川源平椎名誠吉行淳之介、が主人公が実際に付き合った人たちで、これだけの人たちの裏話なわけでそりゃあ面白い。これから書くから朝四時にインターフォンを押してくれ、と言われてその時間に訪れたらインターフォンが壁から剥ぎ取られていた野坂昭如や、盲目のはずが見えているとしか思えない情景を語る舟橋聖一とかインパクトのあるエピソードも多い。著者は、草森紳一に勧められてライターを始めている。そして小説を書きはじめたのを知って雑誌「文体」に載せてみないかと声をかけたのが後藤明生だった。持ち込んだ作品を添削して小説家と編集者があべこべになったり、会話文に後藤明生ぽい「え?」を繰り返したり、ちょっと文体模写してる気がする。このとき使ったペンネーム吉野英生は、吉行淳之介野坂昭如唐十郎(大靏義英)、後藤明生の四人から持ってきた名前で、この四人に書くのを止めろと言われたら止めようと思っての命名だという。また、他ジャンルで活動していた作家に小説を書かせる試みをしばしば行なっていて、唐十郎赤瀬川源平椎名誠などがそうらしい。いろんな書き手を小説家デビューさせた挙句、自分がデビューするわけだ。中盤あたりから「作家とのライブという非日常」というこの生活を括る言葉が出て来て、それはいいんだけど終盤飽きるほど繰り返すあたりとか〆の感じとか、洒落た感じを出そうとした雰囲気がなんか八〇年代という時代を感じさせる。

アンソロジーを読んだ――『アステリズムに花束を』『危険なヴィジョン〔完全版〕』『BLAME! THE ANTHOLOGY』『居心地の悪い部屋』『変愛小説集』『どこにもない国』『時間はだれも待ってくれない』 『東欧怪談集』『チェコSF短編小説集』『ゲイ短編小説集』『レズビアン短編小説集』

去年は二〇〇ページ前後の薄い本ばかりを読んでいた覚えのある秋、最近は唐突にアンソロジーばかりを読んでいた。計13冊のアンソロジー。百合SFからレズビアン文学まで、と書くと狭いな。
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アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫JA)

アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫JA)


百合SFアンソロジー『アステリズムに花束を』。SFマガジンの百合特集に寄せられたものを中心に、ネット公募で話題を呼んだもの、中国のミステリ作家が書き下ろした作品など新作を加えて一冊にまとめたもの。通読すると多くの作品が言語、通信、翻訳という根本で通底するモチーフを共有しているところが印象的だった。百合SF、と銘打って書かれた作品が、いずれもこのコミュニケーションの齟齬を基点に置いているのは偶然ではないと思われる。百合のエモーショナルさをすれ違いで作っているというのは、同性関係を描くにおいて以前なら「背徳性」に与えられていた役割を、現在はよりいっそう原理的なレベルが関係のハードルとして見いだされているのかも知れない。

冒頭の宮澤作品は、話題のセミナーでも語られていた不在の百合概念の実作かと思われる。人間のいなくなった世界にまだ見たことのない相手を探し、風景そのものに存在を滲ませる。ソロ版「少女終末旅行」の感触。

他のも、死者と字数が限定された通信を描く森田作、いわゆる「ヤンデレ」の理論化というか認識の翻訳というか、という草野作、吸血鬼化した人類という歴史改変大正女学校でお姉様との交換日記で展開される伴名作、ソ連百合として話題になった、魂の交信を描く南木作、異種三角関係と言語の翻訳の櫻木麦原作、近未来言語SFの陸作など、前述のとおり多くが言語、通信、翻訳を軸とする。

伴名練作品は、屍者ならぬ吸血鬼改変歴史スチームパンクという点で伊藤円城『屍者の帝国』のオマージュかと思ったけどどうだろう。あっちはいわばBLSFだった。内容覚えてないけど「吸血機伝説」というゼラズニイの短篇があって、これも関係あるのかどうか。

櫻木みわ・麦原遼の合作はこじれた三角関係が、人間、人形、鳥人の三つの異種族に重ねられてる異種間百合でもあり、人形のぎこちない語りの異物感も相まってかなりの歯ごたえがある。南木義隆ソ連SFは乾いた文章で国の禁じた愛が交信する一瞬に賭ける。この人のペンネーム、「東西」に対して「南北」っていう名前かと一瞬思った。

陸秋槎の言語SFは、淀みなく展開される言語学的知見の横溢のなかで、今は数年会わないような昔の友人同士の出来事が人生を変えある一人の自殺を契機にその内心がかすかに見えてくる。ぐいぐい読ませるけど、説明偏重かも。

トリの小川作品はあえてかなり漫画アニメっぽい書き方をしていて、悲しい作品が多い本書でも圧倒的にポジティブな感触を与えて終わらせるところがいい。結婚が必須になった異星の氏族社会を舞台に、見つけた相棒は年下の同性で、という保守的伝統に抵抗する女性同士の絆を描く。一番「百合SF」かもしれない。

今井作漫画はちょっと短すぎるか。絵で見せるところは面白いけど、この作者で百合と言えばアニメで見た「アリスと蔵六」の羽鳥たちの話が良かった覚えがある。三つあげるとすると宮澤、合作、陸か。しかし、百合でSFではあるんだけど、百合SFと呼ばれるとこれでいいんだろうかみたいな不全感がある。なので個人的にはSF百合、というとしっくりくる。

危険なヴィジョン〔完全版〕2 (ハヤカワ文庫SF)

危険なヴィジョン〔完全版〕2 (ハヤカワ文庫SF)

ハーラン・エリスン編『危険なヴィジョン〔完全版〕』。1960年代に、それまでなかったという全作書き下ろし作品によって編まれた巨大アンソロジー。話題性抜群で伝説的存在だったものの、日本では80年代に一巻が邦訳されたのみで刊行が止まっていたのが、ここにはじめて全体像が翻訳されたことになる。

最初の小説が始まるのが61ページという前置きの長さで、アシモフエリスンがお互いのこと、そしてこのアンソロジーの歴史的意味を宣言する序文から面白いから仕方がない。なってねえなあ、とあいつはチビだ、の大人げない応酬。これら三つの序文だけでなく、各篇それぞれに数ページのエリスンの序文があり、作者のあとがきもあって、ゆえに短篇だけを抜き出してもこのアンソロジーの感触は伝わらない。解説にもエリスンの本だとあるように、彼の勢いとハッタリと熱量、そのトータルがこの本だ。この本全体にSF史における若さがみなぎっているともいえる。

ムアコックらとも他とも異なるエリスンなりの「新しい傾向」としてのニューウェーブ、タブー破りという危険なヴィジョンを志向した本書の意気込みは熱いんだけど、当然半世紀前のタブーで、同性愛ネタのいくつかはむしろ感覚が古すぎて逆に危ういところもある。あとまあキリスト教圏だから「神」テーマが多い。そうした前のめりの勢いもあって、作品自体がさほどではなくとも序文やあとがきでいろいろ関係が見えるところは内輪感もなきにしもあらずだけれど、やっぱ面白い。

いくつか印象的な作品について書いておく。一巻はアシモフエリスンの紙上いちゃつきみたいなやりとりが印象的だけれど、フレデリック・ポール「火星人が来た日の翌日」の、宇宙人が来ても新しくて古い差別がそのまま残る感や、オールディス「全ての時間が噴きでた夜」も面白い。フィリップ・ホセ・ファーマー「紫綬褒金の騎手たち、または大いなる強制飼養」は、作中アイルランドのフィネガン徹夜祭が引用されてるように、ジョイスのパロディ的文体による芸術家の話、そして性、同性愛の話が渾然となったなかなか厄介な作品だけれど、果敢な言語実験がニューウェーブっぽい。

二巻は若島正解説がいうように確かに粒ぞろいだろう。ロドマン「月へ二度行った男」の切なさも良いし、ディック「父祖の信仰」は既読だけどやはりこの現実の皮が剥がれていく感覚は鮮烈で、ライバー「骨のダイスを転がそう」のSF・ファンタジックなギャンブル小説は読み応えがある。ヘンズリー「わが子、主ランディ」 も良い。ヘンズリーは弁護士なのに自動車を暴走させて警察に見つかったのに知り合いで放免された話と、それを本に書いちゃう序文が今から見ると小説より危険だ。アンダースン「理想郷」は東西冷戦のなかで、その敵対性を相対化しているのが面白い。それをオチにするのはどうか、と思ったけどそれが常態でもある世界を描いているともいえる。バンチ「モデランでのできごと」、機械化された存在と人間との対比と冷酷さが短いなかに描かれてて印象的。エムシュウィラー「性器および/またはミスター・モリスン」、妄想症の女性による語りの怪作。

三巻はスタージョン「男がみんな兄弟なら、そのひとりに妹を嫁がせるか?」が、近親恋愛タブーを批判するユートピアSFで、これはいまなお古びていない問題でもあり、性に対する罪の意識が害悪だというテーマで、あとがきスタージョンが、ポルノ追放運動を十字軍戦士と呼ぶのはそのためだ。アイゼンバーグ「オーギュスト・クラロに何が起こったか?」は「我輩」人称での軽快なコントで、ちょくちょく笑わされてしまう。ラファティ「巨馬の国」、SFというか法螺話というか、やはりラファティは良い。バラード「認識」、サーカスをめぐる認識の転換、これ読んだことなかった。ディレイニー「然り、そしてゴモラ……」、これも性をテーマにしたもので中性者や自由落下嗜好性的コンプレックス等の、宇宙時代のセクシャルマイノリティを描いていて鮮烈なんだけれど、それらがどういう位相にあるのか、を示すさまざまな描写に微妙なニュアンスがあっていい。

全三巻、総計1200ページを超える大著で、とにかく歴史的、伝説的な名が喧伝される本書だけれど、その五十年前の時代性も含めて、なかなか面白かった。幻の伝説の一冊、まあ、とにかく、読んでみるに如くはない。

BLAME! THE ANTHOLOGY (ハヤカワ文庫JA)

BLAME! THE ANTHOLOGY (ハヤカワ文庫JA)

BLAME! THE ANTHOLOGY』。映画合わせで出た書き下ろしアンソロジー。これももう二年前だ。ブラムを読み返してなくて正直かなり忘れてるんだけれど、それでも面白いし、特に飛浩隆は圧巻だった。ブラムをまったく知らないまま読むものではないけど、各人各様に原作を解釈した小説が並んでいる。

九岡望「はぐれもののブルー」、青をこころに、一、二と数えるわけではない、青の塗料を求める漁師と、会話可能な珪素生物というはぐれもの同士の邂逅からの展開。厳しい環境のなかでの夢を求める清々しさが印象的で、開幕に置かれるに相応しい。

小川一水「破綻円盤」、「検温者」という温度を測る者を通じて、この巨大建造物がどこにどのように存在しているのかを内部から推測する原作のSF的再解釈の一作。さすがの面白さなんだけど、これ両性具有者と女性型珪素生命との異種百合SFで、百合SFアンソロに書く前に既にこれを書いてたのビビる。

野﨑まど「乱暴な安全装置」、これが賛否分れるのはわかる。完全に火消しと悪代官の感触でそれなりに時代劇やってからのあのオチ、この酷薄さが原作らしいと言えばそうだなそういえば。ネタ枠。ただ、この人の短篇集読んだときも思ったけど、そんなに趣味じゃないんだ。

酉島伝法「堕天の塔」、原作忘れててモリが原作ネタだというのは言われて分かったくらいで、ちょっと作品の厚みを読めてないんだけど、大きな穴を延々と落ち続ける異常状況下でのポストヒューマンの日常を描いてて面白い。しかしこれ、山尾悠子「遠近法」オマージュだと思ったんだけどどうだろう。

で、飛浩隆「射線」、霧亥が消えたあとのブラム世界を徹底していじくり回して数万年スケールのなかで展開拡大させた破格の一作。重力子放射線射出装置の傷痕による痛みが、建造物に侵食したマイクロコンピュータの群体に自我を目覚めさせる展開、飛作品らしいなと思いつつ読んでいくと、まあ、どんどんどでかい方向に飛んでいってのラスト。設定をかなり改変追加しているんだけれど、あまりに巨大な建造物、霧亥と重力子放射線射出装置というブラムの二つの軸を中心に据えつつ大胆に換骨奪胎し、数万年スケールへ大いに膨らませた上で原作に送り返すという、トリをかざるに相応しい傑作だ。半端ない。そんな結婚指輪ある?と思わせる展開、愛、愛とは……?となるような中盤の展開もインパクト大だ。

居心地の悪い部屋 (河出文庫 キ 4-1)

居心地の悪い部屋 (河出文庫 キ 4-1)

岸本佐知子編訳『居心地の悪い部屋』河出文庫版(権利の問題で単行本とは一つ収録作品が異なる)。12の奇妙な英米短篇小説のアンソロジー怪奇小説というよりは奇想あるいは不気味な感触を重点においた編集で面白い。印象的なのは、エヴンソン、カヴァン、ロビンソン、ヴクサヴィッチ、オーツ、カルファスあたりか。

エヴンソンの二作は理由のない暴力の不条理さが突きつけられ、カヴァン「あざ」は不運と出口のなさが重苦しく、ロビンソン「潜水夫」は幻想性がとりわけ薄いながらもいやな感じのリアリスティックな積み重ねが効いてて居心地の悪さに関しては随一だろう。オーツの「やあ!やってるかい!」は文体と反復で笑わされてしまうし、ヴクサヴィッチの「ささやき」はSF短篇集に入っていてもおかしくないなと思ったら創元SF文庫収録だった。カルファスの野球クイズを模した短篇はどれも野球とは根本的になんなのか、が不分明になるようなメタ野球奇想小説。デュコーネイ「分身」は、自分から脱落した足がそこから再生して自分がふたりになる話で、その自分の分身を性的にも愛し始めるんだけど、自己愛にも似ていながらちょっと違っていて、双子百合的な感触に近い。この作者がスティーリー・ダンのリキの電話番号のリキらしくて、そういう繋がりがあるのかと驚いた。

グレノン、オロズコの知的なジョークみたいな作品も悪くないし、薄めだけどいいアンソロジー。表紙本文デザインがなかなか良くて、これ見覚えあるなと思ったら水戸部功。ちくま文庫のカヴァンもだ。

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

変愛小説集

変愛小説集

岸本佐知子編訳『変愛小説集』 。岸本編訳本その二、概ね群像に連載していた短篇翻訳を一冊にまとめたもので、必ずしも愛がテーマでないものもあるけど、現代英米文学のなかから訳者の偏愛によって選ばれたセレクトではあるだろう。独特の作品が多数詰まっている。

冒頭のスミス「五月」、木に恋した人とその同居人の二人の視点での短篇で、視点が変わったところでちょっと混乱して、これは女性同士の話だったのか、と思った。性別がわからないなと思ったら原文は性別の特定を避ける書き方がしてあるようで、著者なりの自然な訳として女性二人と思われるような訳文になっている、というのも面白い。

一番のインパクトはホームズ「リアル・ドール」。妹の持ってるバービー人形と恋人になった少年の話。あまつさえ人形と「ファック」して精液をぶっかけるの、アレなオタクのアレっぽくて、すごいところ突っこんでいくなと思ってたら、妹の方も人形に傷をつけたりいたずらをしたりしてる嗜虐的な部分が出てきて、妹が首を男の人形とすげ替える子供らしい遊びをする結果、少年が男の人形に欲情して少年と男の人形の行為が始まるし、バービーの方も嬉しそうに自分は妹の物だとか言うなど、レズビアンSM的な趣向まで入って来て、セクシャリティの混沌が極まってくるかなりの一作。笑っちゃったのが、人形になんで男は嫌がると分かってることをするの、男はみんなジャック・ニコルソンよ、って言われるところ。ジャック・ニコルソン

人形を丸呑みする性癖についてはスラヴィンの「まる呑み」がまさにそういう作品だったり、ニコルソン・ベイカー怪奇小説?があったり、ヴクサヴィッチの二篇、バドニッツ「母たちの島」も面白い。とにかく、何かしら「変」な小説が詰まったアンソロジー

どこにもない国―現代アメリカ幻想小説集

どこにもない国―現代アメリカ幻想小説集

柴田元幸編訳『どこにもない国』。十年くらい積んでた現代アメリ幻想小説集と銘打たれたアンソロジー。既読のもの以外だとジョイス・キャロル・オーツとケン・カルファスの作品が印象的だった。岸本本でも面白かったカルファス、調べたら訳書が一冊もないので驚いてしまった。

マコーマック「地下堂の査察」は、増田まもる訳「隠し部屋を査察して」の別訳で既読。やはりグロテスクな奇想が光る一篇だけど、あとがきで「増田のぼる」と誤植されてる。ケアリー「Do You Love Me?」は地図という影のインフラが忘れられ、町も人も忘却されると消えていく寓話。

オーツ「どこへ行くの、どこへ行ってたの?」は、自分の見た目に自信のある少女が家族の出払った日に不思議な男に家に来られてドライブに行こうと執拗に迫られるだけといえばだけなんだけど(誘いを受けなければ電話線を切るなどと言われたりするけど)、じりじりくる恐怖と男の存在の生々しい異様さがあり、フェミニズム小説として有名らしいのも頷ける。

カルファス「見えないショッピングモール」はカルヴィーノ『見えない都市』のパロディ。マルコ・ポーロが「帝国内」のショッピングモールをフビライ・ハンにレポートする冒頭からユーモアとともにメタ的な断章の積み重ねのテンポの良い構成は野球クイズと同様の好作。

レベッカ・ブラウン「魔法」は、女王様に拾われた私、という二者関係がおそらくは女性同士の関係で展開されて妖艶ともいえるんだけど、次第に見ることと見られることの権力の問題が浮上してきて、ファンタジックな装いのなかに二人の関係の露わな暴力性が露呈する幻想譚になっている。

ニコルソン・ベイカー「下層土」は、自作をスティーヴン・キングに貶されたことに腹を立てたというベイカーが書いた、ジャガイモホラー。ケリー・リンク「ザ・ホルトラク」はゾンビや霊が普通に存在してる奇妙なコンビニでの青春というかなんというか、不可思議な感触がある。

すばる 2013年 12月号 [雑誌]

すばる 2013年 12月号 [雑誌]

ケン・カルファス、何か名前に見覚えがあると思ってたら「すばる」2013年12月号に都甲幸治訳で短篇が訳されてて、これは『鼻に挟み撃ち』掲載号で家にあった。で、ケン・カルファスの「Pu239」。これで既訳短篇は全部読んだかな。

ロシアの核施設でのずさんな管理による事故で被曝した主人公が、後に残される妻子のため高濃度のプルトニウムを売りさばこうとしてしくじり、その危険性を知らない売人がドラッグと勘違いして吸引するという無残な結末を迎える、ドライな筆致で人間の愚かさを描き出す一篇。解説にはカルファスの『この国特有の混乱』という作品が、911事件をパロディ化した作品らしく、カルファスは被害者たちをひたすら美化する姿勢から、イラク攻撃の惨禍まではたったの一歩だ、と発言したことを訳者都甲幸治が紹介している。パロディの手法は人間の愚かさを炙り出すとともに信仰や偽善などの美化がもたらす政治性への批判でもある、ということのようで、その一端はこの短篇からも窺える。

時間はだれも待ってくれない

時間はだれも待ってくれない

高野史緒編『時間はだれも待ってくれない』。オーストリアルーマニアベラルーシチェコ、スロヴァキア、ポーランド東ドイツハンガリー、ラトヴィア、セルビアの東欧諸国からSF・ファンタスチカを集めたアンソロジー。これももう八年前か。ようやく読む。

ファンタスチカはSF、ファンタジー幻想小説、ホラー、歴史改変小説までを含んだ呼び方で、幾分か非現実的な要素を含んだジャンルをまるごと包含する言い方と思えばいいだろうか。いずれも原語からの直接訳で、ベラルーシ、ラトヴィアからの小説の直接訳は本邦初とのこと。極めて貴重な一冊だ。序盤のほうがSF色が強く、後半になるほど幻想小説的、という傾向はあるか。

オーストリアのモンマース「ハーベムス・パーパム」は遠未来での異星人やロボットまで含めた多種族から教皇を選出する一コマ。こんな時代でも女性かどうかが気にされてるのは皮肉だろうか。

ルーマニアのフランツ「私と犬」、子供を安楽死させた男のその後の長い人生を描く一篇で、情感とともに陰鬱さが漂う。

ブルンチェアヌ「女性成功者」はアンドロイドの夫を買いそれを捨て、その後人間と結婚した女性の他者への態度を描いた短篇。モンマースとともに未来でも人間が変わらないありさまが浮かび上がる。

ベラルーシのフェダレンカ「ブリャハ」は、チェルノブイリ原発事故以後のある村での事件を描いていて、緊迫感ともども非常に印象的な一作。初出は96年で21世紀でもなく、ファンタスチカでもないリアリスティックな短篇だけれどその価値がある。解題でも、われわれはこうした作品群を「破滅SF」として読んでいなかったか、と問うている通り、このチェルノブイリでの汚染後の村はある種ポストアポカリプスものともいえ、ここに原発事故以後の日本の状況について、現実とファンタスチカの境界の揺らいだ状態を見る視線がある。この短篇は「災いは人を平等にする」、と書き出されている。村のつまはじき者だった男も災害後に村長から仕事を依頼されて豚の解体を手伝うという状況においては平等かも知れないけれども、一歩引いてみるとこの村自体が不平等のさなかに置かれているともいえる。台風19号が明らかにしたのは氾濫の地域差とともに避難所からの野宿者排除、という「災害ユートピア」の偏在でもあったわけだけれど、そんな村落にやってきた強盗の大怪我にもブリャハは医者を呼ぼうとする人間性を持っていて、作中ではこのつまはじき者だけがそうする。しかしそんな場所は「助けてくれる人も、守ってくれる人もなく、ただ風だけがひゅうひゅうと鳴り、雪あらしが地から空へと舞い上がっている。それはまるでこの世の終わりのようだった」(93P)、そういう場所だった。さまざまな意味でアクチュアルに読める一作だ。

チェコのアイヴァス「もうひとつの街」、スロヴァキアのフスリツァ「三つの色」、ポーランドのストゥドニャレク「時間はだれも待ってくれない」、東ドイツのシュタインミュラー夫妻「労働者階級の手にあるインターネット」は、いずれももう一つの世界、もう一つの時間というモチーフで括れるだろう。

とりわけ東ドイツのシュタインミュラー夫妻のものは、消えたはずの東独ドメインの自分自身から送られたメールが主人公を恐怖に陥れる。検閲、シュタージへの恐怖と、既にないはずの東独というもう一つの世界は、当時の西独にとっての東独の似姿とも見え、分断の歴史と歴史の分断のモチーフを東欧的と感じさせるものがある。

アイヴァスの長篇からの抄録の「もうひとつの街」はこの街には古くから存在が知られてないもうひとつの街がある、という不可思議な幻想小説で、ストゥドニャレク「時間はだれも待ってくれない」は、ポーランドの戦前の街並が年に一度戻ってくる、というノスタルジックなSFだけれど、今に書き重ねられる過去の時間、という二重性の面でこの二作にはいくらかの共通点がある。

フスリツァ「三つの色」はハンガリーとスロヴァキアが紛争状態にある、という歴史改変もので、スナイパーの視点から陰惨な状況をスケッチする一作。同作者の「カウントダウン」は人権を尊重しない権威主義的国家との関係を破棄せよ、「中国共産党に対して民主主義のための戦争」をと、民主主義テロリストがヨーロッパの原発の破壊を盾に要求するという一作で、風刺的ジョークとも思えるけど、2003年に書かれたこれも現在はきわめて喫緊の様相を帯びる。

ハンガリーのダルヴァシ「盛雲、庭園に隠れる者」は、ハンガリーの中国ものという興味深い一作で、年単位で庭園に隠れることができる奇妙な人間とその庭の所有者との命を賭けた知恵比べ、という按配。確かに中華風ファンタジーぽいけどしかし微妙にまた違った感触もある。

ラトヴィアのエインフェルズ「アスコルディーネの愛─ダウガワ河幻想─」、アスコルディーネという女性をめぐる話が、複数の分岐とも思しき辻褄の合わないんじゃないかという錯綜した断章で展開されていて、その構成自体をも幻想と呼んでいるような怪奇譚。

セルビアジヴコヴィッチ「列車」は、電車に乗り合わせた神から、どんな質問でも一つだけ答える、と問われた名門銀行の上級顧問氏を描くショートショート的な一作。神と出会ったのはもちろん一等車での出来事、という書き出しはユーモラスだ。ジヴコヴィッチは黒田藩プレスから一冊、東京創元社から一冊作品集がすでに出ている。

これに先立つアンソロジー、『東欧怪談集』編者でもある沼野充義が「東欧」という場所を西洋とアジアの境界性において把握する解説も、東欧革命後数十年を経た現在なおも「東欧」を冠したアンソロジーを編むことの意味について論じていて有用だろう。深見弾『東欧SF傑作集』の後継を志して編まれたアンソロジーで、翻訳史的にも貴重だし、非常に興味深い一冊。「ブリャハ」やシュタインミュラー夫妻のや表題作などが面白かったし、アイヴァスはやはり長篇版を読んでみようと思った。

東欧怪談集 (河出文庫)

東欧怪談集 (河出文庫)

沼野充義編『東欧怪談集』。1995年刊行の怪談要素を持った東欧文学を集めたというアンソロジーポーランドチェコ、スロヴァキア、ハンガリーユダヤ(イディッシュ)、セルビアマケドニアルーマニア、ロシア。パヴィチ以外はすべてが原語直接訳で、19作が本書のための新訳という。『時間はだれも待ってくれない』に先立つ東欧幻想小説アンソロジーの先駆できわめて貴重だけれども、ここでも言及されている沼野が愛読したという白水社の『現代東欧幻想小説』71年がさらに先駆としてある(持ってない)。

面白いのは東欧のユダヤつまりイディッシュ語作品が立項されて二つ収録されていること。殲滅兵器ゴーレムが未だ眠りのなかにある不気味さがあとを引くイツホク・レイブシュ・ペレツの掌篇と、傷を癒やせることが悪魔の使いだと迫害される、キリスト的な男を描いたイツホク・バシヴィスことアイザック・シンガーの短篇だ。ペレツはイディッシュでは著名な作家らしいけど、ほかにはアンソロジーにいくつか収録がある程度だ。

ポーランドからは「サラゴサ手稿」抜粋のポトツキ、ムロージェク、また近年国書刊行会から翻訳されてるグラビンスキは本書で初紹介だったという。チェコのチャペック、ハンガリーのカリンティ、セルビアのアンドリッチ、パヴィチ、キシュ、そしてルーマニアエリアーデなどが有名なところだろうか。

グラビンスキはなるほどこれは良かった。一切口を利かない女性との夜ごとの逢瀬が続くなか、という怪奇小説。ムロージェクは確か『象』を読んだはずだけど、「笑うでぶ」もまた不気味でグロテスク。有名所以外もなかなか面白くて、「こぶ」のコワコフスキは哲学的寓話集からの一篇らしく、人から生まれたこぶが自分こそが人間だと主張する奇妙な寓話。これを含む作品集が国書刊行会から翻訳されている。

ヨネカワ・カズミ「蠅」は短い怪奇掌篇だけれど、この23歳で事故死した作家はロシア文学米川正夫の子のポーランド文学者米川和夫の息子で、沼野充義がこの家で家庭教師をしていた頃、和夫のポーランド文学紹介の先駆的な仕事を目にした思い出も含めた私的なセレクトでもあるという。米川家はイタリア文学カルヴィーノ訳の良夫やゴンブロヴィチやアンジェイェフスキの和夫がおり、日本におけるロシア、ポーランド文学翻訳史の一コマとしての米川家の重要さの面でも意味があるだろう。

チェコの部は死の絵描きのネルダ「吸血鬼」や、持ち主が死ぬ絵画のルヴォヴィツ「不吉なマドンナ」など王道怪奇小説もあるけど、チャペックの「足あと」が不気味な現象を前にした警察の形式的振る舞いを皮肉る奇妙な短篇で、怪奇というより行政の不気味さが印象的。そしてなかでも印象的なのはクリセオヴァー「生まれそこなった命」で、子供が欲しい女性とそうではない男性の性行為を描きつつ、ある小屋での怪奇現象を題名の通りこれから生まれ損ねた生命自身の語りも挾みつつ独特の文章で語った作品で、なんともスリリングな感触がある。本書中でも一番記憶に残る。

スロヴァキアはシヴァントネル「出会い」が死と不貞と復讐でもっとも怪談らしい怪奇小説で、レンチョ「静寂」はまさに突然のこの世の終わりを描いた掌篇、次のプシカーシ「この世の終わり」は物乞いへの倫理的態度にまつわる宗教的寓話か。

ハンガリーのカリンティ「ドーディ」は子供にしか見えてない不気味な子供がドーディのものを何でも欲しがるうちにドーディのすべてを奪っていく。ゲーザ「蛙」は蛙なのかどうかもよくわからない不気味な蛙を殺した話。アーロン「骨と骨髄」はこれも世界の終わりと宗教にまつわる怪奇篇。

セルビアのアンドリッチ「象牙の女」は本当に象牙でできている女性を描いていて、グラビンスキのものとも通ずる一作。パヴィチ『ハザール事典』抜粋は長篇詩を残した女性の生涯、キシュ「見知らぬ人の鏡」は、自らの惨殺される未来を映す鏡の物語。パヴィチとキシュはこれらを収録した元の本の文庫があるのでそれを是非どうぞ。

マケドニアアンドレエフスキ「吸血鬼」、吸血鬼もの二つ目だけど、これは死んだ夫が復活して村中から盗みを働き、妻はその弁償をし続けるなかで、吸血鬼退治の男を呼んで、という話で、埋葬と復活の吸血鬼の伝承がベースになっている。

ルーマニアの二篇はどちらも30ページ前後あり、エリアーデの「一万二千頭の牛」はある男が自分を騙した詐欺師を探しに来たら空襲で入った防空壕で出会った人々は、既に爆弾で死んだ人だったという、二重に謀られる幽霊譚。男は六千頭の牛の商売の話をしているのに表題がその倍なのは、この二重の時間を意味しているのか。ミハエスク「夢」もまた戦争にまつわる話で、戦時行方不明になった妻が離れた街で踊り子をしているらしい、という話を聞きつけ赴くと、という話で、妻を切望し日々写真に口づけしていた男の願望が幾重もの夢となって現われ、現実すら定かではなくなっていく。

東ヨーロッパの広がりを示す意味でも選んだというソ連崩壊後のロシアから、ペトルシェフスカヤ「東スラヴ人の歌」、ロシアに留まらないスラヴ文化を意識したような表題を持つ怪奇掌篇連作七篇から四篇選んだもので、最初の幽霊譚や最後の部屋と一体化して鍵を扉に差すと血が流れる女性の話などがあり、全篇の訳が読みたいけど、既訳書には入ってない様子。

全体に妻、恋人をめぐる女性についての話が多いのが古典的怪奇小説ぽさがあり、事実18世紀のものから現代のものまで幅広く、レベルの高い作品集。これだけのマイナーな作家を集めて文庫版で出したのが快挙というような一冊だ。工藤幸雄訳ポトツキ『サラゴサ手稿』の53日目が掲載されていて、工藤氏が亡くなる前には既に翻訳は終わってたという話だけれど、本書で刊行予定と書かれてからも既に二十年以上の時間が経っている。なにが原因で止まってるんだろう?

チェコSF短編小説集 (平凡社ライブラリー)

チェコSF短編小説集 (平凡社ライブラリー)

ヤロスラフ・オルシャ・jr.編、平野清美編訳『チェコSF短編小説集』、編が二人についてるのはなんでだろうと思ったらチェコSFに興味を持った平野が外交官のオルシャとのやりとりで目次を作っていったとのことで、つまり二人の共同編集による日本オリジナルの20世紀チェコSFアンソロジーということらしい。東欧圏のアンソロジーというのは結構多いけれども、一国に絞ったものは珍しいので、その意味でも貴重で、作品もそれぞれ面白い。

最初に置かれた、『兵士シュヴェイクの冒険』の作者ヤロスラフ・ハシェクによる「オーストリアの税関」1912年作、は事故で瀕死の男がサイボーグ化されたら使用部品が税関で無数の関税を掛けられるという掌篇で、当時の関税政策についての諷刺らしく、独立したジャンルとしてのSFが成立する以前のものでなかなか面白い。

ヤン・バルダ「再教育された人々」31年は、生まれた子供はすべて親から離されて思想教育される管理社会を舞台に、ある人らがそれ以前の社会の様子を書いた禁書を見つける、という中篇のクライマックスを抄録したもの。法廷での弁論を描いた部分で、確かにここだけでおおよその作品内容は掴める。私家版が数冊しか残っていない、という先駆的なアンチユートピアSFとのことでなかなか面白いけど、子供はその実の親が育てるべきだというような血のつながりや母性本質主義的主張は、管理社会化への批判として個人が対置されてるとはいえ、児童虐待など今では子供の権利や視点をどうしても考えたくなる。

『R・U・R』の著者で「ロボット」の発明者でもあるカレル・チャペックの「大洪水」38年作は、なんともシニカルなショートショートでまあこれは一読してもらうほかないだろう。

ヨゼフ・ネスヴァドバはさまざまな東欧アンソロジーに名を連ねている作家で、訳された作品も10に及ぶので本書を読むような人はどこかで一つは読んでいるかもしれないチェコSFの代表格だけど、邦訳単著はない。「裏目に出た発明」60年作、はすべてをオートメーション化できる発明をした人物のたどる顛末を描く、今読むと古さはあるとはいえジャンルSFらしいSF。主人公の願望は皮肉な結果になるけれども、労働と通貨なしでスポーツや文化に打ち込めるならやっぱり楽園じゃないかな、と今は思える。なお、本書のネスヴァドバ邦訳リストにはameqlistにもない「宇宙塵」掲載作も載っており、計10作が邦訳されていることになる。
https://ameqlist.com/euro/eastern/nesvadba.htm

ルドヴィーク・ソウチェク「デセプション・ベイの化け物」69年作、火星探査の訓練としてカナダの北東部、ツンドラ地帯を宇宙服を着て走破する計画を始めた三人が、そこで偶然得体の知れない存在と遭遇するファーストコンタクトものの短篇。全員訓練だと思っていてうっかりファーストコンタクトしちゃうという趣向で、軽妙な雰囲気が次第に慄然とした状況に陥っていく。

ヤロスラフ・ヴァイス「オオカミ男」76年作は、研究仲間に裏切られ犬に脳を移植された男が、犬のように暮らしながら人間の相棒を見つける、という動物ものとしての心温まる話から、次第に野生に還っていく哀しさが印象的な一篇。犬SF。いや、オオカミSFか。前半の描写がずいぶん良かった。

ラジスラフ・クビツ「来訪者」82年作、侵略SFショートショートだけれど、今作が受賞した「チャペック賞」というのがチェコ最古の定例SFコンベンション「パルコン」と縁の深い若手作家発掘の賞で、本作はその第一回という歴史性がある。八〇年代はこうした作品が専ら地下出版で流通していたともいい、歴史的社会的経緯が興味深い。

エヴァ・ハウゼロヴァー「わがアゴニーにて」88年作、人が何度か死ぬのが普通というような臓器移植が常態化して人間自体が共同体の資源となっており、それ故に団地での狭い人間関係が利害関係と絡んで閉鎖的になり、劣悪な環境下以外の場所を想像できなくなっていく、という想像力の縮減、自縄自縛のディストピア。団地というコミュニティのありようをディストピアに擬したと思しい独特の設定で、人間関係の嫌さが生々しい。ラストも悲しい。

パヴェル・コサチーク「クレー射撃にみたてた月飛行」89年作、タイトルからわかるように、J・G・バラードの「下り坂カーレースにみたてたジョン・フィッツジェラルドケネディ暗殺事件」に言及する、そのオマージュともいえる一作。ケネディ大統領が月を目標にする宇宙規模のレースへの招待状を受け取っていて、という奇怪な導入から、平気な顔してデタラメ現代史を語っていく飄々としたパロディ感覚が面白い短篇。バラードというかアメリ現代文学的なユーモアを感じさせる作品で、柴田元幸岸本佐知子が翻訳してそうでもある。じっさいアメリカ現代史のパロディなので、アメリカ文学ぽいのはその通りなんだけど、笑いの感じも近い気がする。

フランチシェク・ノヴォトニー「ブラッドベリの影」89年作、題名がブラッドベリで本篇はレムの『ソラリス』の影響を受けた、未知の存在との接触が宇宙飛行士のトラウマを呼び起こす人物の姿をとって現われるという火星SF。作中言及される『火星年代記』の第二探検隊の末路はちょっと覚えてないけど、個人の心理ドラマとともにアフガニスタン戦争での、玩具や人形に仕込まれた爆弾によって子供たちが犠牲になったことによる、ソ連兵の精神的外傷ということを意識した作品でもあるという。

オンドジェイ・ネフ「終わりよければすべてよし」2000年作、その当時の誰かに乗り移ることで行なう時間旅行が一般的になった未来で、アウシュヴィッツを撮影した写真で賞をとった写真家をゲストに迎えたテレビ番組の形式で、その写真がいかに撮られたか、という倫理性への問いを描く一篇。どこへも行くことができない、終点としてのアウシュヴィッツが題材になっており、作品の結末も、作品集の掉尾を飾るに相応しい一篇だ。

ハシェク、チャペック、ネスヴァドバ以外は日本初紹介の作家だけど、ハシェクの原SFチックな掌篇から、いかにもジャンルSFらしいSFを経て、バラード、ブラッドベリ、レムの作風を持ち込んだものから、ホロコーストテーマという現代的なアプローチまでのチェコSFの見本市かつその歴史をたどるものとなっている。作中から選ぶなら「オオカミ男」と「クレー射撃」が良かったかな。

こうしたチェコSFのように、国別に一冊編む試みはもっと欲しくなる。東欧圏としてはレムがいるポーランドSFも一冊できそうな気はする。あるいはチェコSFのネスヴァドバの既訳短篇をまとめるだけでも一冊になりそうだけどさすがに古いか。

ゲイ短編小説集 (平凡社ライブラリー)

ゲイ短編小説集 (平凡社ライブラリー)

大橋洋一監訳『ゲイ短編小説集』。古書店などで平凡社ライブラリーの棚を見るとだいたい刺さってる印象のゲイ文学アンソロジーオスカー・ワイルドから、ヘンリー・ジェイムズ、サキ、D・H・ロレンス、E・M・フォースター、シャーウッド・アンダソン、サマセット・モームまで、二十世紀前半の英米文学の古典的作家から編まれた一冊。言ってみれば英米文学の古典のゲイ視点からの読み換え、ともいいうる。

前世紀前半ということで多くの作品は同性愛が忌避される時代の影響下で書かれていて、自らの内にある同性愛的欲望への恐れが滲んでいたり、悲劇的結末になるものだったりというのが多いけれども、その歴史性などを含めて解説ともども非常に面白いアンソロジーだ。

最初のワイルド「W・H氏の肖像」は、シェイクスピアの『ソネット集』に書かれた少年は誰か、を探るメタフィクションミステリー。そもそもソネットが少年を歌う同性愛的な作品で、それを探る男とその友人と、という男たちの関係が枠取る構成になっていて、とても面白い。長篇版が訳されているけれども、これは大幅改稿される前の中篇版になる。

「幸福な王子」は意外かも知れないけれど、ここでの「キリスト教的兄弟愛」は同性愛的欲望の生まれる条件ともなり、また殉教者こそ同性愛的欲望を喚起したものだったということでの収録。訳者を予定していた人と、この関係は師弟関係か同輩的関係か、で議論になった挙句、編者大橋洋一自身が翻訳することになった、というのがちょっと面白い。

ヘンリー・ジェイムズ「密林の野獣」、これはなかなか難しくて、やたら迂遠・迂回的表現によって語られ、そして長い割りにことさら事件が起きるわけでもない、不穏ななんともいえない感触がつづく小説になっていて、これをセジウィックが、己の同性愛に恐れているという分析をして研究史を書き換えたという。

サキ「ゲイブリエル・アーネスト」、これはかなり寓意的な、己の同性愛を庭に突然現われた裸の美少年の姿をした野獣、として描く短篇で、野獣のイメージが「密林の野獣」とも通底している、セジウィックのいう「ホモセクシュアル・パニック」の典型らしい作品。サキも同性愛者で、ペンネーム自体がそれを現わしているネーミングでもあるという。

D・H・ロレンスプロシア士官」、これ、私は特にBL読者ではないんだけど、軍人、上下関係、ホモソーシャル、傷、暴力、嫉妬その他その他、そういう萌えポイントのオンパレードみたいだと思ってしまうところがある。上官が若い当番兵に魅惑されながらもホモフォビアからいじめ抜く挙句にという話なんだけど、ホモソーシャル、ホモフォビック、権力と暴力の世界、これらの結びつき方が危うくて、萌えポイントだというのはホモフォビアを楽しんでいるということにもなるわけで。やや古い百合作品が「背徳」「禁断」を謳うのと似ていて(現代でもあるけど)、もはや無自覚に楽しんでいいものではないだろう。

シャーウッド・アンダソン「手」、短篇連作の『ワインズバーグ・オハイオ』の冒頭に置かれる短篇で、生徒への情熱にあふれた教師がその子供への身体的接触を同性愛だと見なされ共同体から迫害されるという異性愛社会を簡潔に描いた一篇。詩人と物語への言及は、これ以後の流れへの導入なんだろう。

E・M・フォースター「永遠の生命」、ポストコロニアルの面から注目されるフォースターもまたゲイだったらしく、最近新訳文庫で出てた『モーリス』が死後出版されたゲイ小説だったというのは知らなかった。この作品も死後出版で、そして植民地を舞台にしたゲイ小説だという複雑な要素を持つ。解説にもあるように、同性愛的欲望自体への否認が描かれることの多いこのアンソロジーのなかで、男性同士の性行為が明示される唯一の作品で、しかもそれがキリスト教伝道と引き替えになされる。非常に興味深いテーマ性のある一作。同性愛と植民地についての解説も面白い。

サマセット・モーム「ルイーズ」「まさかの時の友」、モームもゲイだったけれども、作品にまったく同性愛要素がない作家だったらしく、解説ではこれらの作の語りの側面から読み解いてみせるのが面白くもある。ただ、「ルイーズ」は自分に都合が悪くなると心臓発作を起こす、という演技的な女性を描いていて、確かにミソジニーでもあって、解説ではゲイゆえのものと書かれているけど、娘への態度は今で言う典型的な毒親だ。相手にダブルバインドを強いて自分の望みを通す他者コントロール術がきっちり描かれている。ここが面白い。

監訳とあるけれど解説を読むに大橋洋一の編集だろう。大橋洋一といえばテリー・イーグルトン、エドワード・サイードその他文芸批評の理論的著作の翻訳や概説書で知られるけれど(自分は小説ジャンルの専門家ではない、と書いている)、そうした研究を背景にした解説も充実しており面白い。翻訳も研究を反映してかすべて新訳で、そして大橋洋一以外の訳者はすべておそらく女性。各訳者のプロフィールを知りたいと思ったのに何も載っていないのは如何なものかと思う。

古典BLアンソロジーというのも出てるけど、英語圏以外か、二十世紀中盤以後のものを選んだ続篇でもあるといいなと思った。

新装版レズビアン短編小説集 (平凡社ライブラリー)

新装版レズビアン短編小説集 (平凡社ライブラリー)

利根川真紀編訳『レズビアン短編小説集』。『ゲイ短編小説集』と対になるアンソロジー。元々98年に『女たちの時間 レズビアン短編小説集』として刊行されたときは、『ゲイ短編小説集』が翌年刊行にずれ込んで、あまり見た感じ姉妹作には見えなかったけれど、四年前にゲイのほうが再販されたとき、タイトルを揃えて新装版として再刊された。

ヴァージニア・ウルフガートルード・スタイン、キャサリンマンスフィールド、カースン・マッカラーズ、ジェイン・ボウルズ、イサク・ディーネセンが有名な書き手だろうか。ほかに「三大レズビアン小説」といわれる作品の作者の短篇も収めている。三大レズビアン小説とはウルフ『オーランドー』、ラドクリフ・ホール『孤独の井戸』、デューナ・バーンズ『淑女の暦』とあり、最後のは未訳でホールのも1950年代に『さびしさの泉』として邦訳されているけれども今は入手も難しいだろう。この時期に出ているのは発禁になったという話題性込みのものか。

本書の作家は全員女性だけれど、女性名を用いない作者も複数いる。時代も19世紀末から20世紀前半のもの。収録作は女性同士の関係あるいは異性愛父権制社会への抵抗を描いており、『ゲイ短編小説集』が「戦慄と死」だとすれば、本書は「幸福と喪失」とでも言いうるような雰囲気の相違がある。男が自らの同性愛的欲望に戦くのだとすれば、レズビアンはその関係が社会から拒絶されることが焦点となる。そのため、本書にはそれが失われるとしても女性同士の関係あるいは共同体を、至福の時間として描くことが多くそれがとても良い。旧版の表題だった「女たちの時間」とはそこに掛かる。レズビアンとはいえ性愛的な関係が必ずしも主ではないのは時代もあるし、より広義に定義をしているからでもある。

19世紀後半のアメリカでは、ヴィクトリア朝の性道徳のもとで女性は無性的な存在とされ、女性同士の愛情関係は異性結婚までの間に精神的な向上をもたらすものとして奨励されていた。教育制度が整い女性が経済力を持ちはじめると女性同士の生活形態が現われ、それがボストンマリッジだという。

冒頭のセアラ・オーン・ジュエットはそうした生活を経た第一波フェミニズム圏内のフェミニストだったという。その「マーサの愛しい女主人」は、女主人の屋敷で女中をするマーサが、ある日現われた主人のいとこの女性ヘレナとの交流によって、のろまと言われていたのがよく仕事をこなすようになり、マーサはヘレナへの敬愛を抱くものの、そのあと会えないでいた間ヘレナへの「本物の愛」によって自らを律し、そして数十年を経て再会を果たすという話で、非常に後味のよいハッピーエンドといえる本書でも希有な一篇。1890年代の作。女主人が未婚の末娘で女性だけの家なのも重要なポイント。

ケイト・ショパンライラックの花」、パリで女優をしている女性はいつもライラックの花を持って修道院へやってくる。そこでの滞在がかけがえのない至福の日々だったけれども、おそらくはその稼業故に修道院から追放されてしまう、という一篇。女性同士の共同体が精神的な拠り所となることとその喪失が描かれる。

ウィラ・キャザー「トミーに感傷は似合わない」、銀行の仕事をこなし自転車を乗り回す男勝りな女性が、大学から連れてきた好きな女性、地元で思いを寄せていた男性とのあいだで三角関係になってしまうという異性愛と同性愛の同居があり、身を引きながら人々への愛を叫ぶ。男勝りな女性の居場所のなさは他の作品でも描かれている。

ジュエット二作目の「シラサギ」、これは同性愛を描くと言うより、シラサギを狩りにきた魅力的な男性を拒絶する、という異性愛への抵抗を描くのがポイントの模様。狩猟して鳥を剥製にする男性が撃とうとする鳥、なかなか象徴的な短篇。

キャサリンマンスフィールド「しなやかな愛」、あるホテルでの二人の女性を描写している三ページの掌篇で、あきらかに性的関係が示唆されるものの、生前未発表だったという一篇。

キャザー二作目の「ネリー・ディーンの歓び」、美しく陽気で街中の人に愛されているネリーと、そんな彼女と親友になったマーガレットだけど、長ずるにつれネリーも父権制社会に絡め取らていく。ネリーは三人の老婦人たちに愛され、その一人の息子と結婚しても、婦人は息子よりネリーをかばうほどだった。最後、ネリーの子を囲むこの三婦人は明らかに東方の三博士と重ねられてもいる。このキリスト教的含意はうかがい知れないけれど。女性たちの協同関係に対しネリーは男たちによって命を削られる構図だ。ネリーの子はマーガレットの名を与えられていて、二人の子でもあるかのような。

マンスフィールド二作目の「至福」、既訳では「幸福」という題で各社の短篇集に採られている有名作。なんというか、大学の授業とかで複数人でじっくり読んでみたいような解釈の幅と深さの器が感じられる。バーサはある女性への愛情が転じて夫への初めての性欲を生むんだけれど、二人は不倫していた、という話で、バーサのなかの同性愛と異性愛の関係とか、その欲望がいずれも不倫関係の目撃によって瓦解するのは同性愛およびバイセクシャルが社会から拒絶されるということなのか、あるいは不倫の目撃の前にすでに、女性を介して夫を愛そうとしたバーサは二人に対して裏切っていた、ということかどうか。

ガートルード・スタイン「エイダ」、スタインとアリス・B・トクラスのレズビアンカップルが共同生活をしているときの話らしいんだけど、それ以上に特異な言葉遊びの文体が奇妙で面白い。もう一つ収録されてる「ミス・ファーとミス・スキーン」も著しい反復とズレの文体で同性愛をほのめかす異様な一作。

彼女たちはきちんと楽しくし、彼女たちはちょっとしたこと、楽しくするためのことを覚え、彼女たちはたくさんのちょっとしたこと、楽しくするためのことを覚え、彼女たちは毎日楽しくし、彼女たちはきちんとし、彼女たちは楽しくし、彼女たちは毎日同じだけ長く楽しくし、彼女たちは楽しくし、彼女たちはじつにきちんと楽しくしていた。248P

すごいインパクトだ。この「楽しい」とは原文では「gay」らしく、他にもそういうダブルミーニングが仕込まれているとのこと。木下古栗の小説にこんなんなかったか。

ラドクリフ・ホール「ミス・オグルヴィの目覚め」、第一次世界大戦で女性部隊を従えて勇敢に戦い部下からも慕われていたのが、平時の社会では居場所がない、というマニッシュな女性が、ある遺跡で古代の男性に同一化して女性を愛す幻想に至る、という現代社会への怒りを示した一篇。これはスティーヴンと名付けられた女性をめぐる話だという『孤独の井戸』と内容が似ているらしい。なんと『孤独の井戸』を個人で邦訳している人がいた。
ラドクリフ・ホール『孤独の井戸』日本語訳

ヴァージニア・ウルフ「存在の瞬間」、ファニーがミス・クレイという女性への思索をすすめていくなかで、未婚の彼女は孤独な女性だろうかという認識が、いや違う、「幸せな女性なのだ」へと認識を転換するまでを意識の流れの手法を用いて描く短篇。読者の認識の転換をも試みる一篇だろう。

デューナ・バーンズ「無化」、成長の遅れた子供という存在が枷になること、弱々しい夫の存在、そして旅立つ女性を描きつつ、子育てをする存在に押し込められる女性、への批判が込められているような作品。ものごとが明瞭でない幻想的な雰囲気がある。

ウルフ「外から見た女子学寮」、これも女性たちの共同体を幸福な時間として描き出す掌篇で、思い出したのは宮本百合子「図書館」という短篇で、女性だけの空間が反差別運動のゆりかごでもあったというもの。
https://twitter.com/inthewall81/status/998917645163347970

ヘンリー・ヘンデル・リチャードスン「女どうしのふたり連れ」、女性同士の会話のなかで、母親を喜ばせるためにも男性と結婚するのが良いとはわかっていても、どうしても近くにいたり性的な接触をするのが恐ろしいと語られ、レズビアン異性愛規範とのあいだで引き裂かれる状況がある。

「あなたにそんなふうに考えるように教え込んだのは、そもそも誰なのかしら? そんなことを匂わせたり仄めかしたりして、あなたに信じ込ませてしまったのは誰かしら?…… 自分が本当にそんなふうに感じているんだと信じ込ませてしまったのは誰かしら?」
「違うわ! お母さんはひとことも言ったりしたことなんかないわ……フレッドのことで は」
「言う? わざわざ言葉を使う必要なんかある?……目をちらっと動かすだけでいいんだもの。あなたのフレッド君のためなら、これくらい簡単にね!」286P

カースン・マッカラーズ「あんなふうに」、幼い少女の視点から、姉が恋人と性体験を持ったことで変わり果ててしまったことを目の当たりにし、あんなふうには絶対にならない、と決意する。初潮、死産した伯母も含めて、異性愛や生殖のもたらすものへの抵抗を描いている。とはいえ、マッカラーズは大人の女性の同性愛は書かなかったらしく、同性愛を一過性のものと見るホモフォビアを見いだす見解もあるらしい。じっさいこの作品もそれが少女の視点からのもので、少女らしい幼さとも読める余地がある。

ジェイン・ボウルズ「なにもかも素敵」、モロッコでの女性との出会いと駆け引きがイスラムの異文化との接触とも絡んで描かれている一篇。

イサク・ディーネセン「空白のページ」、貴族が妻の処女の証に初夜の血の付いたシーツを掲げる風習があり、よい亜麻布のシーツを作ることで有名な修道院ではその血の付いた部分を額縁に飾る回廊があり、そのなかに一つだけ、名もない真っ白なシーツが掲げられている。異性愛父権制社会への抵抗が無言の空白の一枚として置かれている、という沈黙の抵抗を描いていて非常に象徴的な一篇。スーザン・グーバーの評論で有名になったらしいけど、訳されてるんだろうか。

『ゲイ短編小説集』が自身の欲望を自覚すること自体が問題だったのに対し、ここでは異性愛父権制の諸規範に対する抵抗が自覚的になされている作品が多いのが印象的だった。女同士の関係、場所の肯定や認識の転換など、さまざまに描かれた抵抗の諸相。スタインやボウルズなど、芸術家のコミュニティを担った人がいるのも、この共同体への意識があるからだろうかと。それぞれの作家にも同性のパートナーの存在がしばしば指摘されている。読んでいて、女性同性愛が学生時代の一過性のものだというのは大人になれば異性愛社会にお前たちを放りこむという暴力の言い換えに過ぎない、ということを感じた。解説も含めてやはり非常に面白いアンソロジー

しかし「レズビアン連続体」や「強制的異性愛」などが出てくるというアドリエンヌ・リッチの『血、パン、詩』、よくよく言及される基礎文献ぽいけど、いまかなり入手困難だ。

というわけでアンソロジーしばりで読んでいたまとめ。後半ほど各作品にきちんとコメントしだしているせいか、分量の偏りがひどいな。何十人の作家を読んだかわからないけど、被ってるのはカルファス、ベイカーくらいか? 『危険なヴィジョン』を読んでるあたりで、いっそ家にあるアンソロジーをまとめて読むか、と思いついて引っ張り出したものだけど、序盤の早川SFアンソロジーつなぎと、アメリ幻想小説から東欧幻想へ、そして平凡社ライブラリー「短編小説集」つなぎで最初と最後を合わせてクローズ、はいいと思うんだけど、ブラムアンソロから岸本アンソロへは特に繋がってないのが惜しい。

『明日 一九四五年八月八日・長崎』 『五分間SF』『怪談』『インスマスの影』『聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇』「百の剣」

明日 一九四五年八月八日・長崎 (集英社文庫)

明日 一九四五年八月八日・長崎 (集英社文庫)

井上光晴『明日 一九四五年八月八日・長崎』
タイトル通り長崎での原爆投下の前日の戦時下の一日、この日に行なわれた結婚式を中心に、関係する人物たちそれぞれの一日を描く、原爆の出てこない原爆小説。それぞれの人がそれぞれに展望し、持っているはずだった明日のこと。セリフは方言で書かれていていくつか意味のとりづらいところもあるけれど、戦時下の平穏とは言えないながらも明日を待ち、新しい門出と命の誕生を迎えつつある人々を描くことで、失われた明日と今生きてある今日との狭間を浮かび上がらせる、というか。公判が延期しなければ爆心地から遠く離れた場所で生き延びられただろう収監者や、路面電車の時刻表通りには走らないルートをたどる運転手はどうなっただろうか、という作者のあとがきは、占いにこだわる女性ともども運命の分岐が示唆されているところか。
5分間SF (ハヤカワ文庫JA)

5分間SF (ハヤカワ文庫JA)

草上仁『五分間SF』
アンソロジーでいくつか短篇を読んでいる草上仁、一冊読むのは初めて。さすがに一作5分では読めないんじゃないかという10ページ台の短めの短篇が収められていて、ちょっとレトロな感触の熟練のアイデアストーリーがきっちり楽しめる一冊。この雰囲気にYOUCHANイラストがハマっている。

怪談 (光文社古典新訳文庫)

怪談 (光文社古典新訳文庫)

ラフカディオ・ハーン『怪談』光文社古典新訳文庫
これも一冊通しては初めて読んだかもしれない小泉八雲。編集されてることが多いハーンの「耳なし芳一」や「雪女」などを含んだ『怪談』一冊の虫エッセイ含めての完訳。いい怪奇小説だった、という感想。概略知ってる話が多いけど「雪女」はこういう切ない話だったのかと意外だった。いずれも何らかの典拠があるものの再話によるもので昔話らしい語り口なんだけど、一作急に近代小説の書き出しになってて驚いたやつがリラダンの短篇が元ネタではないかと言われてて面白い。だいたいの話が昔々あるところに、式の書き出しなのに、この「かけひき」だけ、「処刑は屋敷の庭で行なうとの命令だった」で始まるんだから明らかに異色。「雪女」も、これはじつは元ネタがなくて、そもそも舞台の調布はそんなに雪深くないし、日本各地のこの美女の雪女が出てくるタイプの話はハーンの焼き直しが多いらしく、これは彼の創作によるものらしい。日本にくるきっかけとなるピエール・ロティ『お菊さん』を読んだのが、当時滞在していたカリブ海マルティニーク島だというのがちょっと驚いた。エメ・セゼールフランツ・ファノンのあのマルティニーク島がハーンにも関係してくるとは……。

インスマスの影 :クトゥルー神話傑作選 (新潮文庫)

インスマスの影 :クトゥルー神話傑作選 (新潮文庫)

ラヴクラフトインスマスの影』新潮文庫
ハーンから南條竹則新訳繋がりでこれを。既読の創元推理文庫ラヴクラフト全集一巻と中篇二作が被ってるけど、もう内容覚えてないので改めて。宇宙的恐怖というようにSFぽさもあって、同時にミステリ的な謎の探究でもあり、SFミステリホラーといえばもちろんポーなわけで、そういったアメリ怪奇小説のジャンル的伝統を感じる。宇宙(異次元?)と海中から怪物がやってきていて、未知の場所として極限環境としての相似性がある。怪物は蛸や魚や蛙やら、水棲生物のモチーフで形作られていて、海という生命の起源の場が同時に異形のものの居る場所になってて、そして自分自身もまた異形のものの係累なのではないかという底からの恐怖がやってくる。この人間が異形のものに浸食されていく恐怖は、「クトゥルーの呼び声」の人種差別的記述を見ると、混血の恐怖という人種差別と近似のものにも見えかねないところがあるけれども、自分が既にして人間ではないかもしれないという恐怖はP・K・ディックのオブセッションにも似ている気がした。

ヨーゼフ・ロート聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇』岩波文庫
池内紀逝去と聞いて、積んであった編訳書のこれを読むことにした。表題の白水Uブックス版に、デビュー作として単独で刊行されていた『蜘蛛の巣』を併載した一冊で、この短い長篇はナチスが台頭する前に反ユダヤ政治結社で頭角を現わす男を描いていて、当時としても今現在読むとしても非常なリアリティがある。危機の時代はいつも似通うのか。これが書かれたのは1923年、ナチスミュンヘン一揆の数日前に連載が終了していて、作中で書かれる事件の日付がナチスにとって何か重要な歴史なのかと思ったらそうではなかったのに驚いた。ヒトラーの名前も確か作中に出てくるんだけれど、この頃はまださほど有名でなかったらしい。主人公の男は軍隊上がりだけれども生きて帰ったがゆえに家庭内に居場所がなく、成績優秀なユダヤ人への劣等感などを抱えながら、反ユダヤ主義に傾倒していく。ユダヤ人を劣等人種とみなす言説の受け売りをしつつ、国の中枢を巣くっていると考えるという差別主義の自己矛盾も描かれている。友人を殺し、社会主義ストライキを弾圧し、主人公テオドール・ローゼは成り上がっていく。

憎むべきヨーロッパ人の一人、テオドール・ローゼ。卑劣で、残酷で、不器用で、腹黒くて、野心満々、役立たずで、金の亡者で、軽率で、階級好きで、無信心者で、高慢で、卑屈で、しがない出世に目がないテオドール・ローゼ という男。ヨーロッパの若者といわれるやつだ。愛国者と称するエゴイスト、信仰なく、恩義なく、血に飢えていて、目先が見えない。これが新生ヨーロッパの担い手だ。118-119P

工場の門前でストライキを打った労働者たちに、市民組織が襲いかかった。刺し、ぶちのめし、射殺した。新聞には、労働者が通行人を脅嚇とある。もはや武器を使うしかなかったとある。アジテーターが巡回して、国民の蜂起を訴えた。市民たちは、職場でも、デパートでも、工場でも、役所でも、一斉蜂起のことを口にした。社会主義の新聞は、連日のように襲われた。警官が駆けつけてもいつも遅すぎる。やっと惨状を確認していくだけ。秩序の勝利だった。144P

彼は救うべき祖国を語った。そして若者層に人気を得た。これまでの経験は、きれいさっぱり消え失せた。テオドールは国内にはびこる「内なる敵」を憎んでいた。ユダヤ人や平和主義者、進歩派気どりのインテリを憎悪していた。皇太子やトレビッチュやクリッチェ探偵やザイファルト大佐を知った以前から憎んでいた。その点、いまもまるで変わらない。172P

あまりにも現代日本の似姿といってよく、百年前の小説にもかかわらず強烈なリアリティがある。後半にはこのテオドールにとってなくてはならない存在になるベンヤミン・レンツというユダヤ人がいるけれども、テオドールに力を貸すようでいながら裏切っても居る二重スパイでもあって、反ユダヤ主義者と付き合いつつ裏切る二重スパイのユダヤ人という描き方に、作者が現ウクライナガリチア出身のドイツ系ユダヤ人というダブルアウトサイダーだったことが重なってみえる。解説でもあるように、序盤の文体はすぐに即物的かつドライな文体へと変わっていき緊迫感を醸し出していくようになる。解説には同じくユダヤ人だった作家シュテファン・ツヴァイクへ、ロートがいちやはく亡命を勧めた言葉を引きつつ、ロートの言葉を要約してか、こうも書かれている。「ナチズムの野蛮に歓呼して、支配をそっくりゆだねるような社会なのだ」、と。「いずれ地獄が支配するのです」とも(388P)。

「蜘蛛の巣」以外の白水Uブックス収録分を。「四月、ある愛の物語」は旅の途中に訪れた街での、「ファルメライヤー駅長」は駅長が一目会った女性に思い焦がれて街と母子を捨ててしまう、いずれも放浪と愛の短篇。どちらも不倫的な過程が描かれていて、これは「蜘蛛の巣」の二重スパイと重なる気がするし、いずこにも安息の地のない放浪者ゆえとも思える。「皇帝の胸像」は『ラデツキー行進曲』短篇版ともいえるオーストリア=ハンガリー帝国亡き後、その多民族国家を哀惜する一篇で、「家」の喪失が描かれる。主人公のモルスティン伯爵はオーストリア=ハンガリー帝国のいち貴族で、帝国崩壊後も、新しい世界の風習に慣れることがない。彼は「超国家的な人間であって、これぞまことの貴族」で、自分が「何国人」かどうかなどを考えたことがない。

彼はほとんどすべてのヨーロッパの言葉を、いずれ劣らず流暢に話した。ほとんどすべてのヨーロッパの国々がわが家も同然だった。いたるところに友人がいた。親戚がいた。この点、オーストリア君主国自体がヨーロッパのミニアチュールであって、だからこそ伯爵の唯一の故里だった。282-3P

かつては祖国があった。まことの祖国、つまり、「祖国喪失者」にも祖国であるような、唯一ありうる祖国、多民族帝国のオーストリア君主国は、まさしくそのような祖国だった。その国が消滅して、いまや自分は故郷喪失者である。永遠の放浪者にそなわっていた唯一の故里を失った。296-7P

この箇所はほとんどロート自身の考えではないかと思わされる。ドイツ人というオーストリアの支配階層ゆえに現地の多数派に疎まれ、東欧一円で起こるユダヤ人迫害にも晒されるガリチアユダヤ系ドイツ人、そのような人間にとっての家、祖国、それがオーストリアだったわけだ。しかし貴族が主人公の本作が示すような身分制が前提にあって、同じく東欧の多民族国家ユーゴスラヴィアもまた一人のカリスマによって連邦を維持していたわけで、民族自決理念、ナショナリズムの勃興が多民族共存の場を崩壊させたといっても、やはりそれは郷愁にしかならない気もするし、だからこそ、この短篇はこのように書かれたのだろうとも思える。表題作は橋の下に住んでいた男にもたらされた二百フランをめぐる小さなファンタジー。ほとんど作者自身の最後を予見するような、放浪と酒の人生を肯定するような哀切さ。「神よ、われらすべてのものどもに、飲んだくれのわれら衆生に、願わくは、かくも軽やかな、かくも美しい死をめぐみたまえ!」

デビュー作と最後の作で諸短篇を挾むかたちで、ロートの全体像をコンパクトに示すことを企図して編まれており、大作『ラデツキー行進曲』のエッセンスともいえる短篇や放浪の人生を描くもの、そしてナチス台頭を描く長篇を収め、作家への優れたガイドになりうる一冊だろう。

「群像」10月号掲載、倉数茂「百の剣」
女性画家アルテミジア・ジェンティレスキの、聖書外典のユディトという女性が男の首を切る場面の絵をモチーフに、女性専用車両に乗り込むおぞましいセクシスト集団に抵抗する女性の手記を読みつつ、語りの混線による痛みの移行を遂行するかのような中篇。『名もなき王国』での語る対象と語られる対象の問題を、暴力の感受性を軸に据えたようにも思える。美術史における女性画家の圧倒的不在に、公共ジロジロ団という視姦集団を置くことで見ることの権力の問題を浮き彫りにしつつ、書くことが読むことを通じて語りの水準を超えて交錯する。レイシストなりセクシストなりのいまも横行する差別主義集団への抵抗を志向しつつ、憎悪をではなく痛みの共有を描くのが鍵だろうか。「憎しみに逃げ込むんじゃなく、自分自身の痛みを抱きしめるの。自分が苦しんでいることを恥じる必要はないから」145P。文章による共感共苦、その百の剣というか。一読では校閲と人形、そして同性愛のモチーフをまだきっちり理解できてないところがある。あと勝手にこれ語り手を男性的に読んでしまっていたけど、語り手の性別が明示されたところがあったかどうかが覚えてない。

「図書新聞」2019年9月7日号にはちこ著『中華オタク用語辞典』の書評が掲載

表題通りの原稿を書きました。おそらく昨日から書店などで入手できると思います。電子版もコンビニで買えます。


中華オタク用語辞典

中華オタク用語辞典

はちこ『中華オタク用語辞典』(文学通信) - 文学通信
版元のサイトには詳細な目次や索引が載ってて、どんな内容かざっくりわかります。

Twitterに書いたとおりですけど、オタクのSNSでの投稿を模した会話文などを通して、中国語のオタク用語を解説した一冊で、元々は同人誌だったらしいです。私は今回初めて読んだのですけど、オタク用語集という読み物とともに、中国ネット文化小史の趣もあります。台湾での使われ方も一応カバーされていますけど、基本的には中国を中心にしてあります。

個人的には「霊剣山」の名前をねじ込めたので満足してます。私が中華アニメに注目するきっかけになった一作。中国アニメとしては去年の「TO BE HEROINE」や「軒轅剣 蒼き曜」も傑作だったし、香港の漫画家が台湾のサイトに連載していた作品を中国でアニメ化し、日本語に翻訳した「実験品家族」なんかもありますけれども。

主な参考文献は天児慧中華人民共和国史 新版』岩波新書、遠藤誉『ネット大国中国』岩波新書、藤野彰編『現代中国を知るための52章 第六版』明石書店です。本書と密接に関係する点では『ネット大国中国』がいちばん面白く読めるかと思います。

中国共産党のスローガン「和諧社会」という言葉を建前に政治的、性的なコンテンツの規制が行なわれていて、「和諧」、日本語で言う「調和」がウェブページが削除されたことを示す隠語になっているというのは書評にも書きましたけど、この「調和社会」、伊藤計劃の『ハーモニー』をどうしても思い出しますね。グーグルがファーウェイとの取引を一部停止したという事件があって、そこでファーウェイが独自OSを開発してそれが「Harmony OS」だというのはもちろんこの「和諧社会」を元にしたものだ、というのは本書を読んでいたのですぐわかりました。

ネット大国中国――言論をめぐる攻防 (岩波新書)

ネット大国中国――言論をめぐる攻防 (岩波新書)

遠藤誉『ネット大国中国』岩波新書、2011年刊。習近平政権以前の刊行で古さはあるけど、グーグルの中国撤退事件から説き起こした中国のネット事情が詳しく描かれておりなかなか面白い。言論の自由がないというと簡単だけれど、ネットの人々――網民と政府の関係がいかなるものかを具体的に紹介してあり、参考になる。なかでも、炎上によって網民が行政や警察の不正を告発したりして解決に導いた事例がさまざまに挙げられており、一党独裁中共といえどもネットの民意を無視することができないけれども、それは党是に基づいた地方行政批判どまりで、中央批判はやはり危うかったりする。言論が逮捕にいたるかどうかという時にさまざまな条件があるけれども、特に重要なのは、外国勢力がその背後にあるかどうかというのは面白い。つまり党は西洋式民主主義をもっとも敵視しており、たとえば共産主義や革命精神にもとづいた批判ならば、削除はされても逮捕されない事例がある。
現代中国を知るための52章【第6版】 (エリア・スタディーズ8)

現代中国を知るための52章【第6版】 (エリア・スタディーズ8)

最近の中国事情としては『現代中国を知るための52章 第六版』が去年の版で習近平政権の雰囲気がつかめる。特に、習政権になってからの抑圧的姿勢の強化が国際政治の面からも解説されていて、南沙諸島での強行的な基地建設や金にものを言わせた台湾国交国を断交へと転ばせる外交政策ありさまなど。ただでさえ独裁的な検閲体制が、二〇〇〇年代の年二桁での経済成長によって世界第二位の経済大国となったことによる影響力の増大と、六四天安門事件の再来がいわれる今、中国の強権的なあり方はなかなか暗い見通しを与えてくれるものがある。