2021年に読んだ本

今年読んだ本のベスト10、的なものを。

ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』

今年年始に読んだ大作はこれ。途中これ選んだのは失敗だったか、と思った瞬間もあったけど、さすがに面白かった。中世、山上の修道院をバスカヴィルのウィリアムと見習修道士のアドソが訪れ、皇帝と教皇の対立にからむキリストの清貧論争という異端問題を背景に、次々起こる殺人事件に翻弄されながら書物の迷宮のなかで言語、書物、記号、徴の読解を問う、メタミステリ長篇。

梁英聖『レイシズムとは何か』

レイシズムを人種化して殺す権力と定義し、近代の植民地と資本主義によるレイシズムの成り立ちをたどりつつ、米欧と比した日本社会の特徴を反差別ブレーキの欠落、つまり「差別はいけない」とみんなが「差別者」に言わず、被害者に寄り添うことに偏る問題を指摘する。レイシズムとは何か、どのような歴史をたどったか、偏見がジェノサイドにいたるメカニズムとは何か、どのような反レイシズムが必要なのか、戦後日本の朝鮮人差別体制の歴史、日本でレイシズムの暴力がいかに行なわれたか、そしてナショナリズムレイシズム・資本主義との関わりを論じる一冊。

パヴェウ・ヒュレ『ヴァイゼル・ダヴィデク』

〈東欧の想像力〉第19弾はポーランドで1987年に発表された長篇。23年前の夏、「僕」が、不思議な能力を持つユダヤ人の少年ヴァイゼルとの日々を回想し、彼が一体何者で、何故突然失踪したのかを考え続けながら、決して解答に至ることのない「美化なしに語っている物語」を描く。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』

サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』の書評を書く際に読んだ一冊。著者の第一作、大祖国戦争独ソ戦)従軍女性数百人の聞き取りで構成された大著で、女でも国民の一人として前線で戦いたいと志望し、しかし戦後戦地の女として蔑まれたりもした女性たちの、歴史の影に埋もれた語りを書き留める。

高原英理『観念結晶体系』

ビンゲンのヒルデガルトからノヴァーリスニーチェユングなど鉱物志向の系譜を独自の人物も交えて点描する第一部、ヴンダーヴェルトという鉱物でできた異世界を描く第二部、現実で人が結晶化するSF的な第三部を通して真理、永遠彼方への憧れを結晶化させた幻想小説

アレクサンダル・ヘモン『私の人生の本』

〈東欧の想像力〉のおそらくはノンフィクションを扱うスピンオフシリーズ〈東欧の想像力エクストラ〉第一弾はヘモンの自伝的エッセイ集。母国語と英語、戦争の前と後、サラエヴォとシカゴなど幾つもの分裂において、それでも物語ることを選ぶ「人生」の諸相。本書原題はThe Book of My Livesとあり、所収エッセイの半分ほどにLife、Lives、人生、生活と言う言葉が表題に入っている。

エリザベス・ハンド『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで』

ネビュラ賞世界幻想文学大賞を受賞した四つの中短篇が収められており、妖精の伝説、双子の子供とおもちゃの人形劇、通信が途絶えた外界、ライト兄弟以前の飛行機の映像といったものを題材にしたファンタジックで叙情的な物語でかなり良い。

ミルチャ・エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』

ルーマニア出身の宗教学者にして小説家による中篇小説、一読しただけだけどこれは相当の傑作でしょう。思い出すのはカダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか?』で、東欧の伝説と政治劇を推理小説的な枠組みで語った幻想的な中篇という点でも似ている。

酉島伝法『るん(笑)』

「群像」に発表した「三十八度通り」とそれに続ける形で「小説すばる」に発表した二篇を加えた中篇集。これは怖い。疑似科学やスピリチュアルと科学の立ち位置が逆転した世界で、癌を「蟠り」や果ては「るん(笑)」と言い換える精神論や素手のトイレ掃除、マコモ風呂など怖気を振るう風習が日常となり、著者お得意の人外譚を描く造語技術が異形の日常にも活用されていて鮮烈。

ミロラド・パヴィッチ『十六の夢の物語』

『ハザール事典』など様々な仕掛けを施した作品で知られるセルビアの作家による幻想短篇集で、そうした実験的作風以前の単発の短篇を日本独自に編んだもの。一篇十頁ほどのなかに、東欧、セルビアの歴史を背景にした時空を越える夢の物語が展開される。

その他、五冊を挙げておく。
石黒達昌冬至草』
藤元登四郎祇園「よし屋」の女医者』
友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』
倉数茂『忘れられたその場所で、』
宇佐見りん『推し、燃ゆ』

百合ラノベではガールズラブコメを快調に描くみかみ作と百合がまさに革命になる鴉作の二作が印象的。どちらも三巻まで読んだ。
みかみてれん『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』
ぴえろ『転生王女と天才令嬢の魔法革命』

ライター仕事

closetothewall.hatenablog.com
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ライター仕事は12月に二つ締め切りがありましたので、来年の早い時期に活字になるのではないかと思います。

最近読んでた百合小説 2021.12.

百合ラノベ、百合SF、百合ミステリその他、百合小説約30冊を読んだ - Close To The Wall
こちらの続き、というか続巻読んだ百合ラノベやその他のまとめ。ほぼ百合ラノベまとめだな。

陸道烈夏『こわれたせかいのむこうがわ2』

一巻は上掲記事参照。ラジオをたよりに独裁国家からの脱出行を描いたラノベの第二巻、今度は主人公たちの命を狙う奴隷監獄の長に対して、巨大な橋そのものを住居としている海上国を舞台に、サイボーグを結集して戦うために会社を立ち上げることになる。

ラジオ、図書館と情報・知識をつねに学びながらそれを活かして生き抜いていくという基本コンセプトはそのままに今回は目的のために事業を興して人脈と資金を作るという段階へと進む。人が何も知らぬままにされた閉ざされた国の外に出たら、より進んだ知識の活用方法が要ることになるわけだ。奴隷監獄は強制労働と上層下層に人々を分断する資本主義の極みの状態で、そこから脱出すると出会うのが「父子教」と「機力仏像を出せ! 強制涅槃の時間だ!」という古橋秀之を思い出すメカニカル仏教な敵組織の抗争で、そこに第三勢力として最高評議会(ソヴィエト)が出てくるところは笑った。資本主義と宗教を台無しにする共産主義。まあ起業話だしソヴィエトそんな活躍するわけじゃないけど。殺伐バトルアクションだけど各キャラ一定の倫理があってそこまで陰惨ではないバランスがぬるいかも知れないけど今作には良いと思う。もうちょっと起業パートが膨らみあると良いかな、とは。

みかみてれん『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)2』

これも一巻は最初の記事参照。前巻での紗月と真唯の諍いを受け、あてつけのように紗月とれな子の期間限定の恋人関係が始まる、友達か恋人かの百合ラノベ続篇。紗月と真唯の幼なじみという友達関係を掘り下げつつ、友情をちょくちょく踏み越えながらの三人の関係を描いて一巻以上に楽しいかも。
アパート暮らしとお嬢様の対照的な紗月と真唯のライバル関係はベタとも王道ともいえるやつで、努力家の紗月と泰然自若とした真唯の考え方のすれ違いを描きながら、れな子が二人の仲を取り持とうとして真唯からは迫られるし紗月との関係も深くなってしまう両取りラブコメになっていく。二者関係が肝だった前巻から一人増えて三人での関係になりまた紫陽花さんが明らかに火種になりつつあるわけで、おいおいこれは一巻ごとに一人ずつ落としていくつもりかという、いよいよハーレム百合ラブコメになってきた。恋愛関係を拒否することで友情以上の関係が多発してしまうれな子の皮肉。

友情と恋人のグラデーションを行き来する百合ラブコメのポテンシャルを活かしつつ、軽妙で楽しいテンポを堅持する文章や展開のエンタメとしての手堅さ。重くなりすぎず軽くもなりすぎず、キャラ、絵も良いし、なんともバランスが良いと思う。指洗いプレイはほんと「性の匂い」がしましたね。

みかみてれん『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)3』

ブコメ百合ラノベ第三巻は紫陽花さん巻で、みんなの幸せが自分の幸せだと思っている紫陽花さんがある日家出するという事件が起き、心配してついてきたれな子と時間を過ごす内に自分を押し隠してきた彼女が自分の欲しいもの、「自分の宝石」が何かを知るまでの話になっている。

紗月と真唯の関係にれな子が関わる二巻に対して、表紙のように今巻は概ね紫陽花との一対一で、家族のために生きてた彼女を家から解放し、弟たちの姉ではなく姉に甘える妹として甘やかしたり、昔来ていた街で幼い頃を思い出したりと紫陽花さんの心を解きほぐしていく。れな子と遊ぶ約束をしていた紫陽花さんプロローグの楽しげな様子と弟たちに邪魔されて憤激してしまう常ならぬ様子は、そもそも一巻の行きがけの告白の時点でおおよその感情には決着がついてしまっており、三巻ではそれを自ら意識し言語化するまでの過程に費やされている。紫陽花パートで時系列が前後しているのは感情の面ではもうずっとそうだったからで、一緒に風呂に入って友達ならしないようなことをやってるのも自覚のない誘いでもあったというか。れな子が紫陽花さんには「自分の宝石を手に入れてもらいたい」という場面があるけどそれはれな子自身だったオチ。れな子は元引きこもりの陰キャを克服しようと全力で友達のために突撃するせいで友達になりたい相手に本気の感情を持たれてしまうという皮肉な距離感のバグが発生してしまうわけで、天上の天使を人間に変えたからにはその責任を取らないといけないねという話でした。

お互いがお互いを自分を掬い上げてくれた天使と思っているというのが家出の発端になっていて、れな子がいなければ自分は旅にすら出ることができなかっただろうというのは良い場面だった。しかし、れな子をめぐる関係とともに王塚真唯が皆のライバルでもあるという関係ができつつある。一巻のあの場面について、紫陽花がヒビの入ったスマホのガラスが元には戻らないように世界の見え方が変わってしまったと言うのは印象的で、身近なものでもあり世界を覗く窓でもあるスマホのガラスに仮託された比喩に紫陽花さんの衝撃の大きさが表現されてるようで良い。ページ見開きの「もー!」の場面とかも含めて、絵も話も楽しい巻。こういう小説をずっと読んでいたい気分にさせられる。紗月と香穂の差し込みは次巻のフリだろうけど、香穂巻がどうなるのか予想つかないな。

二月公『声優ラジオのウラオモテ3』

一巻は上掲の記事で、二巻はこちらで書いた。事件の処理も一段落し、仕事が少ないながらもめくる、乙女たちとのラジオ合同イベントやらの準備をしているなか、由美子が千佳の心酔する監督作品に急遽抜擢され、重圧と戦いながらの苦境と成長を描く声優百合ラノベ第三弾。

由美子の声優としての最大のハードルという感じで、ベテランが集まるなか新人が重要な役どころを担うことになり要求された水準の演技をできずにリテイクの嵐と居残りという絶望感にもがき苦しみながらなんとかその壁を乗り越えるまでが描かれる声優としての物語に徹していてそこは良い。良いとは思うけど、どうも細かなところで違和感がある。ネタバレするけど、千佳をライバル視している由美子がそれ故一番近い同業者の千佳に助言を求められないというのが大きな葛藤になるんだけど、それでは仕事への真摯さより個人的な感情を優先しているようでどうかだろうか、と。同業者故に聞きづらいことというのはあるしそうした個人的事情で動いてしまうというのがプロとしての超えるべき甘さともいえるわけだけれど、二人の関係で話の盛り上がり所を作ろうという意図故のわざとらしいロジックという感じもしてしまう。これ二巻でも感じたか。

せっかく作中でもスタジオでもライバルがいるんだから、千佳という相手役を見てその応酬のなかでいつも以上の、というほうがライバルという感じになる気がするんだよな。複数の演者が同一空間で演技をぶつけあえるのがアニメのアフレコ、あるいはラジオの特徴なわけだし。でもここは由美子が自分の殻を破って千佳を圧倒する覚醒イベントか。あと、ラジオでのトークが大野のも二人のもいやに刺々しい話し方なのが気になる。二人の間の馴れたやりとりというより全方位にそうなのはちょっと難。ただ、これは話し言葉を文章で読むことで起きる問題かも知れない。ライバル関係も言葉遣いも実際にそういう人やエピソードがあるのかも知れないのでまあなんともいえないところでもあるけど、そこらへん私の感覚として気になった。二作続けて話を盛り上げるロジックの肝心なところで納得しきれなくて微妙に相性が悪い気がしている。

バチバチ喧嘩し合う二人の百合で声優仕事メインの盛り上がりがあって読み応えのある巻だと思うし、ラストですっぱり切り上げるキレも良いんだけれど。一斉アフレコ、イベント、打ち上げ食事会といった今作の重要イベントがどれもコロナ禍では難しいというのが読んでて複雑な気分になる。

ぴえろ『転生王女と天才令嬢の魔法革命2』

一巻感想はここで。すべての発端となった王子の婚約破棄騒動の渦中の人物令嬢レイニと王子アルガルドの真実に向き合うことになる王宮百合ファンタジーラノベ第二巻。主人公アニスと対置される人物を配置しながら、王国の断絶を浮かび上がらせていてぐっとシリアス。

作者が一巻が前篇なら二巻は後篇というように、アニスとユフィの出会いを中心にした一巻とアルガルドとの対決を中心にした二巻でこの魔法社会の空気が描かれていて、やや百合描写は後退ぎみとはいえ、もっとライトな作風かと思ってたので結構評価を改めることになった。アニスの共同研究者にして魔法を忌み嫌うティルティや魔法の使えないアニスと対になる人望の薄い弟の王子アルガルドといった構図が、アニスの行動が生み出してしまったひずみ、ひいては貴族のみに魔法を独占させる階級社会の王国のありようが一巻と二巻の光と影を生み出している構図を描く。

幼い頃に王位継承権を放棄したアニスに対してアルガルドの婚約者として王族となる教育を受けてきたユフィが、その足りないところを補うようにリードする場面もあり、百合的にはヴァンパイア百合がそこで出てくるかという驚きもあったり。ヴァンパイアとドラゴンの概念的頂上決戦もある。後書きでweb連載中に話のなかで誰彼が死ぬ可能性も充分にありながらも落としどころを探ったというような、死ぬかもという緊張感やそれでも生きる方策を探るような感覚は読んでても感じられて良かった。

ぴえろ『転生王女と天才令嬢の魔法革命3』

騒動の結果王子の廃嫡、アニスの継承権復活となった状況でアニスとユフィの関係が掘り下げられ、王国の起源をたどりその二人の関係がタイトル通りの魔法と革命の未来を象徴して第一部完という第三巻。序盤のクライマックスだけあってかなり良い。

前巻では影の薄かったユフィ視点から、アニスが王位の枷をはめられようとしている事態をなんとか打破しようと苦闘してアニス自身の意志をも打ち破って、完全に色んな意味でマウントをとり、王位の問題を解決しつつ二人の関係も進展して百合的にもクライマックスだった。二巻の表紙はまだアニスが前に立ってるけど目次のイラストではユフィがリードするようになってるのが二人の関係を端的に示しててなるほどね、と。魔法技術を貴族の独占から解放する魔法革命への道のりを、コンビからカップルになった少女二人なのも含めて旧制を打破していこうという爽快さがある。

バトルものファンタジーだからまあそうなるんだけど二巻も三巻も貴族だからかすぐ決闘で決着付けようとするなとちょっと面白かった。一般国民の存在感が今のところ希薄なのでそこら辺は第二部の話になるんだろうか。web版の三章から五章を改稿しているらしく、見た感じでも章の順序がかなり違う。レイニの身体検査とかコミカルなエピソードがあり、web版のほうが一巻で思ったライトさに近い。いくつかの章は四巻にスライドしてるみたいだからWeb版ちらっとみて三巻に入ってないところはそっちかな。そういや、パレッティアという国名は画材のパレットから来てるのかな。

鳩見すた『ひとつ海のパラスアテナ2』

一巻の感想は一番上の記事で。海面上昇で陸地が消えた世界を舞台にした海洋百合ラノベ、二巻はパラスアテナを海賊に奪われ年下の少女と島に放置されてサバイバルを生き抜く一ヶ月から始まる。姉の次はツンデレ妹な新キャラと仲を深めていくけど、ちょっとムチャな展開も気になるな。前半の二人のサバイバルは結構良いんだけど、そもそもウィッチの行動が島生活を導入するための不自然な動きに見えるし、簡単に身ぐるみ剥がされるとこや諸々のアクションなど、物語の都合を感じてしまう部分が多く、色々生煮えの感が否めない。とはいえ、他人を信じないオルカの話を通じて他人を信じるこの世界の生き方に落着するのは良い。アークの鍵などSF的な世界設定が色々出てきたりは次巻だろうけど、三巻で綺麗に終わるんだろうか。温め合うやつ、百合サバイバルではソウナンですか?の壮絶なネタを知った後なのがちょっと惜しいな。

鳩見すた『ひとつ海のパラスアテナ3』

海洋冒険百合ラノベ第三巻、惜しくもここで刊行途絶している。三巻で締められるようなまとめ方でもないのでほぼ打ち切り状態で終わったことになる。作品もやや惜しいところはあるけれど、ハーレム百合ラノベがここで終わっているのも惜しい。序盤の孤独なサバイバルはむしろ定型なのでそれはそれで良いし、二巻ほど展開に無理を感じなくなって旧時代の言語や異物が微妙にずれた形で存続している異化描写も色々面白いし、SF的には水没後人類生き残りの四形態として宇宙や地下が出てきて面白くなってきたけれど、という。特別な事情のある仲間も増えて、まあまあ「ここから本番」ってところで終わってるんだよなあ。変質した言語、元がすぐわかるのとあんまりわからないのがあるけど、ジョンライドウズポルカ、ジョン・ライアンズ・ポルカのもじりだけど、ジョンライドンのことなのかな。パンク?

中山可穂『白い薔薇の淵まで』

以前百合小説記事を書いた時に候補に入れつつ読んでなかった著者の2001年刊の山本周五郎賞受賞作。今月ちょうど河出文庫で復刊されたので好機だった。安定した社会性を振り切って骨がらみで愛し合ってしまった女と女の破滅的な恋愛小説で短いけど濃密な一冊。

あるOLが新人作家の女性に本屋で声をかけられて、という出会いを経てそれまで男性と付き合ってきた主人公が、初めて女性と体を重ねてその本当の喜びを知るという導入で、「性格の悪い野良猫」のような塁と幾度もぶつかり、別れ、また再会してそして別れて、という話。

主人公川島は古くから交流がある男性がおり、人格者で社会性のある彼か塁かというのが折に触れて選択肢として迫るという異性愛規範から逃れる難しさがあり、同性愛に限らず周縁的な恋愛が破滅的な性格をともなって社会性と拮抗する構図は同性愛を描いた話としてはやや古典的の印象がある。しかしそれ故の愛に反逆的な熱気があるのも確かで、小説家と会社員のような今でも百合ジャンルでまま見る組み合わせだったり色々面白く一気に読ませるものがある。20年前の小説でスハルト大統領が出てくるので90年代が舞台かと思われ、OLの余裕のある感じも20世紀的なゆとりが感じられる。

作者本人はレズビアン作家と呼ばれることを拒否していて、初期こそ女性同性愛が多かったけれども、その後作風をより広げているという。女性同性愛がどうというより、レズビアン作家というゲットーに入れられてしまうという忌避だろうか。帯にも女性同性愛的な文言はない。

シモーヌ・ド・ボーヴォワール『離れがたき二人』

1954年に書かれながら長年未発表だった中篇。主人公の全てだった才気ある少女が、家や信仰に縛られ自由を奪われ病んで行く悲劇を描いた百合・シスターフッド小説で、支配する親を捨てられない毒親の娘としても今なお生々しく読めるのではないか。100年以上前に生まれたボーヴォワールの実在の友人をモデルに描いた小説で、ブルジョア階級の女性として家に束縛され、キリスト教を捨てられず、母を愛するが故に裏切ることもできない状況など直ちに「毒親」に回収できるものでもないけれど、その境遇の惨さは国も時代も違ってもリアリティがある。

主人公シルヴィが九歳の頃出会ったアンドレは、教師に反抗したり独特の感性を持っていたりと才気ある少女で、シルヴィはすぐに彼女のことばかり考えるようになってしまう。自分が退屈なのはアンドレが不在だからだと気づくけれどアンドレはさほどでもなかったり、感情に落差があったりもする関係。アンドレをあるがままに愛したのは彼女の幼なじみだけではなく自分もだとシルヴィが告白し、お互いの相手への理解が表面的だったことを確認して第一章が終わる。ここら辺までは幸福な少女時代という雰囲気だけど、時折差し込まれていた階級や親の考え方の違いが第二章ではより全面的に出てくる。

アンドレの父ガラール氏と食卓をともにした時、女性参政権の話題になり、こう語られる。

ガラール氏は、労働者の中でも、女性は男性よりアカであるという理由で反駁しました。つまるところ、もし法律が通れば、教会の敵に益することになるというのです。アンドレは黙っていました。(中略)わたしはアンドレは自由で羨ましいと思っていましたが、不意に、彼女はわたしよりずっと自由でないように見えたのです。彼女の背景には過去がありました。彼女はこの大家族、大きな屋敷に囲まれています。それは牢獄で、出口はしっかりと見張られているのでした。49P。

シルヴィは影響を受けた作家も父も信仰を持っておらず、シルヴィ自身もある時信仰を捨てることができ、そして家が裕福ではないので働きに出る選択肢があることが、結婚というルートを回避できる要因になっていて、家に縛られたアンドレにはない逃走路を持っている。アンドレを束縛するのは主に母なのだけれど、勿論そこにはガラール氏を背後に持つ家父長制があり、夫人は夫の女性参政権批判を微笑んで聞いているほかない。夫人はガラール氏の求婚を二度断っている話がアンドレから語られており、その口ぶりには意に沿わぬ結婚の可能性が示唆されている。

それに続いてアンドレはこう言う。

「宗教の時間に、わたしたちは自分の体を大事にしなければなりませんって教わるでしょう。だとしたら、結婚によって体を売るのは、外で春を売るのと同じくらい良くないことに違いない」41P。

家父長制下の結婚制度は人身売買にほかならないということ。身体の面については以下の部分も興味深い。パーティに訪れた娘たちの野暮ったい服装は

これらキリスト教徒の若い娘たちを醜く見せていました。彼女たちは、あまりにもしばしば、自分の体を忘れるようにしつけられているからです。78P

と主人公が語り、体は誰にとって大事なのかが問われる。アンドレの母は娘の結婚についてこう言う場面もある。

「あなたのことはよくわかっていますよ。わたしの娘なのだし、わたしの肉体そのものなのだから。あなたを誘惑にさらしてもいいと思えるほどにはあなたは強くない。もしもその誘惑に負ければ、罪は母親であるわたしに降りかかるべきでしょう」138P

パーティで唯一魅力的だったアンドレも、身体も責任も母子一体のものとしてそして母親に回収されてしまう。自由が認められないアンドレは次第に病みはじめ、時に自分の足を斧で切りつけて外出を拒否するという自傷行為に走り、自殺願望を口にするようにもなる。シルヴィも事態を打開できる力はない。それでも自由を求めたある女性の姿を、彼女を助けられなかった親友の立場から描いた小説で、この時代の女性への抑圧が具体的に描写されており、短いのもあってチョ・ナムジュの『82年生まれ、キム・ジヨン』を思い出すような、女性への抑圧の様相を剔抉した小説になっている。

ザザと呼ばれるアンドレのモデルは、ボーヴォワールの回想にも幾度となく現われる人物で、解説では回想録や他の小説から今作の位置を分析して、ボーヴォワール自身はフィクションではなくノンフィクションでザザについて書くことが重要だったため未発表だったのではないかと書いている。「養女によるあとがき」では、「ザザは、自分自身でい続けようとしたがために死んだのであり、周りの人間は、そうしようとすることは悪なのだと彼女に思い込ませたのです」169P、とあり、ボーヴォワールも「彼女の死を代償にして自らの自由を手に入れた気がしていた」と回想し、二十一歳で死んだザザことエリザベット・ラコワンの存在はボーヴォワールフェミニズムへの目覚めを促したわけで、死してなお彼女にとって「離れがたき二人」だったのではないか。本文150ページほどと短いのに三千円近くするのはなかなか厳しいけれど、いろいろ興味深い一冊。

アンドレの恋人でなかなか重要な人物のパスカルという哲学専攻の学生のモデルがメルロ=ポンティだというのが意外だった。

宮澤伊織『裏世界ピクニック7』

閏間冴月の葬送を計画する空魚たちをめぐる書き下ろし巻。シリーズの大ボスともいえる冴月ながら既にもう人ではない、裏世界のインターフェースの一つでしかなく、鳥子や小桜、そしてもう一人の月、潤巳るなが冴月に決別して、というほうに重点がある感じ。一つの区切りとも言えるけれどももう既に終わっているものを改めて終わらせるというものなので結構あっさり目だ。鳥子が本当に冴月の変質を納得し、恋慕を終わらせたという今巻までに描かれた過程そのものが冴月との本当の決別なわけで、あとはそれを「上書き」して処理する、というか。

鳥子はただ乗り換えただけという面もあるかも知れないけれども、主観視点の本作ではやはり空魚の「人の気持ちを考える」ことが苦手だ、ということにクローズアップされていくわけで、その枝葉として人間のフリをする怪異というのがある。発達障碍と言っていいのか、そういう人の気持ちが分からないということに向き合っていく空魚の課題は、怪異を通じて人間に探針を向けてくる裏世界も同じで、レム『ソラリス』の現代的解釈になってるというのは前も書いたかも知れない。恋愛も人の気持ちに向き合うことなわけで。

123P、「低温調理器みたいなテンション」って面白い比喩というかよく意味が分からなくて記憶に残ったんだけど、これ「低音調理器」ってあるのは誤植だよね。

『失われた世界』『妖精の到来』『うろん紀行』最近読んでた本 2021.12

ドイル本はもう一冊読むつもりだったけど年を越しそうなのでひとまず記事にまとめる。

アーサー・コナン・ドイル『失われた世界』

南米の台地に恐竜の生き残りがいるという情報を得たチャレンジャー教授と、思い人から結婚の条件に名声を求められた新聞記者が出会い、科学者と冒険家を加えて探索に赴くSF長篇。有名すぎる作品で、こうしたサブジャンルの始祖となったという定型の力強さがある。

現地民との友情関係を加えて換骨奪胎するとドラえもんの長篇になるような感触があり、四人のパーティの個性などとともに未知の世界への冒険は今では使い古された話のようでもやはり面白い。偏屈で攻撃的なチャレンジャー教授のクセの強さはホームズとはまた違った個性だ。記者の語り手の動機から始まり、チャレンジャー教授の話が非難を受け意固地になっておりそのハードルを越えるためのやりとりや、同行者からその資質を認められるまでなど、キャラクターの描写や旅立つまでに三分の一を費やしていて、荒唐無稽な旅へきちんと手続きを踏んでる感じなのも良い。

しかし進化のミッシングリンクとしての野蛮な猿人が出てくるあたりは、ヨーロッパ白人を頂点にした種のヒエラルキーからくる時代的な描写だ。「優越種であるはずの人類」215Pとか、「人間が覇者となり、人間未満の野獣はふさわしい住まいへ追い返された」266Pとか。驚いたのは、語り手を旅立たせる動機になってる女性が英雄になった男の妻となることで羨望されたい、というトロフィーワイフならぬトロフィーハズバンドというかそういう欲望をあけすけに語ってるところで、これはヴェルヌの『地底旅行』を踏まえてずらしたものなのかな。

この創元SF文庫での新訳、チャレンジャー教授シリーズ全五作は文庫三冊に収まると思うのでほかのも新訳で出して欲しいところ。『毒ガス帯』と『霧の国』はSF文庫に古い訳があるけど。『霧の国』は心霊現象を扱ったものらしく、ドイルの妖精への傾倒とも関連して気になるところ。

アーサー・コナン・ドイル『妖精の到来』

コティングリー村の事件として知られる妖精を写した写真をめぐって、ストランドマガジンにドイルが書いた記事やそこに至る経緯、批判と反論をまとめ、ドイルの元に送られてきた妖精目撃証言や神智学から見た妖精についてなどを論じた一冊。

今では、紙に描いた絵をピンで固定して撮影したものだと明らかになっているものの、本書は1922年に書かれたもので同時代の証言として色々と面白い。写真について、「絵画的な飛び方であって、写真的な飛び方ではない」78P、というそのものずばりの指摘がある。写真自体は偽造や加工がされたものではないというのは再三書かれているけれど、それはつまり特撮というかトリック撮影だからだ。読んでいて思ったのは、霊視者とか識者みたいな人が妖精の分類やら知識を滔々と述べるところにくると途端に胡散臭くなるな、ということだった。ドイルの元に送られてきた世界各地からの妖精証言なんかはまだ微笑ましく読めるんだけれど、後半のやけに妖精に詳しい識者の話になると見てきたように話をする詐欺師という印象しか持てなくなる。

たとえ目には見えなくても、そういう存在があると考えるだけで、小川や谷は何か新しい魅力を増し、田園の散歩はもっとロマンティックな好奇心をそそるものになるであろう。妖精の存在を認めるということは、物質文明に侵され、泥の轍に深くはまりこんだ二〇世紀の精神にとって、たいへんな衝撃となると思う。54P

とドイル自身は言っている。

つまり地球上には、想像もつかない科学形態を後世に切り拓くかも知れない不可思議な隣人が存在しており、われわれが共感を示し援助の手を差しのべれば、彼らは奥深いどこからか、境界領域に現われるかも知れないのである。114P

怪奇現象の謎を解いていくミステリにしろ、南米に恐竜が生き残っている可能性を描くSFにしろ、方向性は両者で逆とはいえ、どちらも現実の隣にある不可思議なものを志向する点では似ているし、ここにある妖精への関心もやはりそれらとは別のものではないんだろうなと思える。

わかしょ文庫『うろん紀行』

うろん紀行

うろん紀行

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本を読むとは読者それぞれの時と場所によって別のイメージを生む現象だとし、さらにそこに作品の舞台やゆかりの地を訪れて見聞きしたその人固有の経験という二重の旅を仕掛けながら、そのあわいに著者の人生の物語が浮かび上がってくる読書紀行。

『タイムスリップ・コンビナート』の海芝浦、『濹東綺譚』の玉ノ井こと東向島、『挾み撃ち』の蕨、上野、亀戸、御茶ノ水など、作品の舞台でその本を読むかと思えば「スーパー・マーケットの天皇」だからコストコで『万延元年のフットボール』を読んでプルコギベイクを食べるなど突飛な発想の旅もある。

「海芝浦」の章では思い浮かべていたものが実は字面にない自分の勝手な想像だったことに気づいて、「同じ場所にたどり着くことはできない」ものとして小説を読むことを規定する。そしてそれ故にこそ読む装置としての「わたし」が輪郭を与えられ、その物語が始まることになる。

読まれてはじめて小説は生まれる。けれども、小説が読まれるというその現象は、読者によって、時と場所によって、違うのだ。再現性は不確かなのだ。であるならどうしてわたしたちは、同じ小説を読んだふりをして語らったりするのだろう。15P

「『濹東綺譚』は書かれたときからすでにファンタジーだった」26Pと考えながら元カフェの建物を探してみる「東向島」、「小説には、誰もあえて話さないような見向きもされない現実が、現実以上に鮮明な現実として存在している」38Pという『ベルカ、吠えないのか?』の「犬吠」。『挾み撃ち』の「蕨、上野、亀戸、御茶ノ水」はきちんと御茶ノ水の橋の上から始まるし当初の予定を天気でキャンセルしての偶然の出立にもなってて、元ネタを踏まえつつ偶然の脱線を仕込みながら北海道つまり「外地」出身という朝鮮生まれの後藤明生との偶然の符合をも取り込んでて面白い。

題材になってる二〇近くの作品の内、読んだことがあるのは半分ほどしかないし内容を忘れてるのも多く、ちゃんと仕込みに気づいてないかとも思うけど、太宰「富嶽百景」の「河口湖」は、作中で結婚が題材になってるようにある店で女性の一人旅について質問され、入籍する予定を口にする。店の人に女一人で旅は珍しいとか結婚予定はとか聞かれるの直球のセクハラだとは思ったけれど、この結婚という話から次篇の『さようなら、ギャングたち』を読む「金沢文庫」に繋がっていて、そしてこの「金沢文庫」は本書のなかでもとりわけ印象深い一篇だと思う。

『さようなら、ギャングたち』は未読だけれど、自分の名前を自分で付けるようになる世界を描いた作品を題材に、結婚を機に名字が変わる経験と「わかしょ文庫」のペンネームを自ら付けたこと、そして北海道の祖父が年老いて「もう、誰が誰だかわからんな」と言ったことが絡み合う。名前と私と虚無の「まっ白」。

虚無に飲み込まれようとする祖父の代りに、わたしが言葉を尽くしてあげたい。まるで輸血みたいに、わたしの言葉を祖父の身体に注ぎ込みたい。(中略)
わたしは「わかしょ文庫」だ。他ならぬわたし自身がそう決めた。81P

という言葉と私の新たな人生について。

読むこと、書くこと、名前という人生の始まりと、誰が誰だかわからなくなる人生の終わりとがここに凝縮されている。実人生を生きる私、書く人としての私、本のなかの物語、祖父の物語という多層的な重なりは、この読書紀行のなかでも白眉だろうと思う。

そして「ニューヨーク」で現地の人から、ここではそれぞれの人種が混ざり合わず、それぞれ概ね決まった仕事、将来を選ぶことになる人生の様相を知り、連載の最終回の十二章に至る。人生への決意とも読める十二章で、「バベルの図書館」や「夢十夜」の運慶の挿話を引きつつ、誤字脱字がそのまま印刷されているという『うわさのベーコン』を読みながら、を誤字と誤謬に満ちていても、それが自分の道なんだと思い定める。

でもどこかにあった最善や最良をつかみとれなくても、つかみとったものが最も自分にふさわしいものだったのだと信じたい。156P

旅に歩いた最後に、家から徒歩10分のホームとも言える近所で連載最終回を迎える帰るまでの旅。

書き下ろしの三章も面白くて、特に「まんが道」回の「ンマ~イとコロッケパンに食らいつく二人やキャバキャバキャバキャバと笑う森安などを模写したシールを作っては、身の周りのものに貼ってお守りにしていた」177P、という下りは一行で著者が変な人だということがわかって良かった。

最近読んだ東欧文学、エリアーデ、パヴィッチ、ミュラー

ミルチャ・エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』

ルーマニア出身の宗教学者にして小説家による中篇小説、一読しただけだけどこれは相当の傑作でしょう。思い出すのはカダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか?』で、東欧の伝説と政治劇を推理小説的な枠組みで語った幻想的な中篇という点でも似ている。

ファルマという元小学校校長を名乗る老人が、ボルザという少佐を訪ねてくるところから話は始まる。老人の言うボルザの過去とボルザ自身の主張が噛み合わず、政治的に不穏な気配が出てきたことで老人は保安警察に連行される。そして老人は千夜一夜物語のように不思議な話を語り続け結論を引きのばす。そこでは、水の溜まった地下室に印を見つければ彼岸へ行くことができるという話を信じた子供達が印を探し回っているうちに、本当にラビの息子ヨジが水中へ消えてしまった事件が語られ、突飛なその話はしかし、当時の新聞で行方不明の事件がきちんと載っており裏付けが取れてしまう。そんな話のなかで出てきたダルヴァリという人物は二十年ほど後、飛行機に乗ったまま消えてしまい、リクサンドルという人物も消息が分からなくなっており、政治的亡命の疑いのあるその件の糸口を老人の話から掴もうとするもののその話をするにはもっと時代を遡る必要がありますと長広舌を始めてしまう。

核心に至る問いをつねにはぐらかすように、他にも子供が空に放った矢が落ちてこなかった話、身長二メートルを超える女性が無数の男たちや果ては動物と交わった話、街中の人間が小さい箱に収まった奇術師の話などなど、ファルマの話は真贋が疑わしい伝説、御伽話の様相を呈していく。際限なく引きずり出されてくるマジックリアリズム的な話の面白さだけではなく、とりわけ面白いのは終盤でルーマニア社会主義政権における政治的策謀が表面化してくるところで、ファルマの語りの整合性やなぜ取り調べを続けていたかが推理小説的に謎解きが展開されるところだ。

老人の人を煙に巻く話の不整合が指摘され、御伽話や幻想的な話が一挙に現実的な枠組みに収まるかと思わせる。ここは、ファルマの話が現在において前近代の伝説やフォークロアの古層を掘り起こそうとすることと、ミステリという近代の枠組みとの拮抗を描いているようでとても面白い。『聖と俗』は読んでいないけれども言ってみれば「政(治)と(民)俗」の絡み合いとでも言うような構図が決着せず、その両義性が生き延びるようなラストは印象的で、検察官(インスペクトル)と視学官(インスペクトル)という重なりとともに冒頭に繋がる螺旋的な構成も決まっている。インスペクトルの重なりとともに誰が誰なのかが不分明になる政治的状況は、ミステリか幻想かという問いそのものが宙吊りされているようでもある。語られる内容の繋がりや、話を理解するには百年前から始める必要があるという語りの哲学やら、もっと細かく読む必要もあると思うけれど、これは面白かった。

カダレのドルンチナとも同じく、前近代の伝説を現代の政治状況と接続する手法はなぜか東欧的に感じられる。社会主義政権の閉塞感に対する抵抗が共通するのだろうか。あるいは迷宮性も説話的な幻想性もどっちもカフカ的なものともいえるかも知れない。あるいはこれも変身譚と読むこともできるか。

いやまあともかくキレ味鋭い高濃度の中篇で非常に格好いい小説だった。こうした海外文学中篇としてはカダレのドルンチナやらマルケスの『予告された殺人に記録』やらを思い出した。良いよね、中篇。私の一気に読める分量の上限がここらなので、そのなかでぎゅっと詰まってると非常に気持ち良い。

そういや安部公房ロブ=グリエを引いて現代文学における推理小説について語ってたエッセイがあったと思うんだけどなんだか忘れてしまった。

新装版が出ると聞いてそういや持ってるなと思って読んだんだった。

ミロラド・パヴィッチ『十六の夢の物語』

『ハザール事典』など様々な仕掛けを施した作品で知られるセルビアの作家による幻想短篇集で、そうした実験的作風以前の単発の短篇を日本独自に編んだもの。一篇十頁ほどのなかに、東欧、セルビアの歴史を背景にした時空を越える夢の物語が展開される。どうしても凝った仕掛けが先に立つ『ハザール事典』や『帝都最後の恋』などは、読んでみるとそこには優れた怪奇幻想物語が展開されているのがパヴィッチ作品だったわけで、本書に収められた単独の短篇群はまさに作者の怪奇幻想作家としての魅力を十分に見せてくれるものになっている。

浩瀚セルビア文学史の著書を持つ文学史家でもある作者らしく、中世から現代に至るセルビアクロアチアスロヴェニアといったユーゴ圏やポーランド、ウィーン、コンスタンティノープルといった東欧周辺を舞台に、しばしば中世の修道士などの宗教や伝説を題材にしていて豊富な学識を感じさせる。

誰かに殺される夢を見る劈頭の「バッコスとヒョウ」が、1970年に見た夢のなかで1980年製の服を着ていたり、1724年の絵画に描かれた人物と自分が似ていたり、自分と似た人物を目撃するなど、時間や虚実を越える不可思議さなど、短いながらも本書所収の幻想譚のショーケースにもなっている。

戴冠できなかったセルビアの王の名を代々守るために、喋れず書けない秘密を守る人間と、名前が書かれてしまった時のための人質が用意されている、という導入から、白紙の本に載っている詩を訳すことを命じられた修道士と、未来の罪のために現在において処罰される因果の逆転を描いた「アクセアノシラス」は、ある種ボルヘス的な不可解なロジックが充満していて、セルビア王の戴冠のために修道院に扉が作られるという伝説や白紙を翻訳するという仕事やらで結果と原因を裏返しにする描写が重ねられ、それがさらなる仕掛けに繋がっている一作で、本書でも特に印象的な一篇だ。こう書いてみると何のことだかわからないけど、色々込み入ってるので現物をどうぞ。

一番長い、ある令嬢の人生を描いた「沼地」は特に良いものの一つ。急激に成長し急激に老化した息子という現象に絡む因果が様々に展開されたあとの着地はことに印象的。収録作には最初に色々な地名や歴史的背景が語られてて、あまり頭に入ってこないことも多いんだけれど、今作はそれも伏線になってくる。戦後に戦前の建物を人の記憶から再生したワルシャワの街並を題材にした「ワルシャワの街角」や、盲目の修道士の夢治療の結末を描いた「出来すぎの仕事」も面白い。「裏返した手袋」は啓蒙主義と民衆の迷信の物語が、中盤から結構驚かされる展開になってて、ただ何故こうなるのかよくわかってない。他にも演劇の戯画化か政治批判かの「カーテン」や、誰もいないはずの扉のガラスのなかで数人が賭博をしている「朝食」、スルタンからモスクのなかのモスクを建てよ、しかも聖ソフィア寺院より高くても低くてもダメだと命じられ、聖ソフィア寺院のコピーを作っていく技師の「ブルーモスク」など。

ドゥブロヴニクの晩餐」などは特にオチの意味がよく分からなかったりするんだけれども、それでもどれも楽しく読める短篇群で、長くても20頁ちょっとという簡潔さと並製200頁ほどのコンパクトな手に持ちやすい本書の体裁もあいまって、非常に手頃な一冊になっている。

パヴィッチはユーゴスラヴィアというよりはセルビアに愛着があるという政治的スタンスの人だったと記憶しているけれども、本書でも短篇の背景にはしばしばセルビア王国の衰亡が窺える記述があって、そこもなかなか興味深い。作者には70以上こうした短篇があるらしいからさらなる翻訳も期待したい。ボルヘスもだけれど、中世の修道院や学者の書いた小説という点でエーコを思い出したりする。

ヘルタ・ミュラー『澱み』

ルーマニア出身のノーベル文学賞作家の第一作品集で、ルーマニアのドイツ系少数民族シュワーベン人の村の様子を子供視点でスケッチしたり、都会に出て職場で意見を述べて職を追われた経験など、自伝的な要素が含まれる、表題中篇と多数の掌篇から構成された一冊。

冒頭の「弔辞」は、死んだ父の戦場での強姦や村で妻を寝取っていたことを口々に糾弾される不思議な掌篇で、ナチスに協力して東欧侵略の尖兵となったりソ連によってシベリアに抑留されたりと加害と被害双方を体験しドイツ語を話すルーマニアでの少数民族の経験が反映されていると解説されている。解説にあるように物語的ではなく細部を描写していく文章でかつルーマニアにおけるドイツ系少数民族の村というなかなか複雑な事情のある場所をそういう文体で描いているので読み始めはどういうことなのか分かりづらいところもあるのでこれは解説を先に読んだ方が良いかもしれない。

表題作の「澱み」は、村の様子を子供の視点から捉えた中篇で、耳にカナブンが入ったエピソードから蝶を殺した話に腐肉、腐敗の汚穢のモチーフが散りばめられつつ、母が結婚して生気を失ったようになる鬱屈が描かれ、これは主人公が母から繰り返し暴力を受ける伏線にもなっている。一貫したエピソードではなく、語りはしばしば連想に連想を重ねてさっきの話はどこに行ったんだろうという発散的なものになっていて、叙情性や感傷性が排された叙述はやや読みづらいけれども、女の顎から生えた髭が編み物に織り込まれていくという幻想的な描写が紛れ込んだりもする。

いつだって私は道のりを前にして最後尾に取り残されたまま、何一つとして追い越せないのだ。ただ顔に埃を浴びせられるばかり。そのうえ、たどり着くべきゴールはいつまでたっても現われる気配がなかった。25P。

澱み、どん底、の陰鬱な閉鎖性が虫や動物の死や生とともに描かれ、「何から何まで丸見えで、どこもかにも手が届き足が伸ばせる、みんなが一様に不安に脅えている、というのも、村が際限なくどこまでも続くからだ」68Pという感慨が語られもする。

職場で意見を言ったら迫害された作者の体験を寓話化したような「意見」は、主人公がカエルと呼ばれているんだけれど、「澱み」末尾を見返すと、カエルの鳴き声が死を象徴するような不穏な描写で出てきており、ここにも何らかの連繋があるのかも知れない。そういう細部の繋がりはたくさんありそう。

「詩的言語」と言われるようになかなか面白い文章も多くて、たとえば上に書いた表題作だと「編み物をしていると、女たちの顎から髭が生えだしてきて、やがてどんどん色あせていき、ついには白髪になる。ときにはその髭の一本が紛れ込んで靴下に一緒に編み込まれることもある」44Pとか、「長距離バス」の「荒れ野を男が一人横切っていった、一人きりだ。それは半分気狂い、半分アル中、あわせて一人前の人間だった」178Pは印象的。最後の「仕事日」の文法はおかしくないのにすべてがおかしい逆回しの世界のような掌篇も結構面白い。

表題作では「村のみんなも「孤独」という言葉を知らず、だから自分たちが何者であるか、分からずにいるのだ」118P、というくだりがあって、まさになにか澱んだ雰囲気が濃厚に漂っている作品集になっている。

最近読んでたSF 2021.11

フィリップ・K・ディック『未来医師』

21世紀の医師が突然25世紀の未来にタイムスリップしてしまい、そこは若者しかおらず怪我を治癒することが罪となる異常な社会だった、というところから始まる時間SF。1960年発表のディック初期の一冊で、まあ普通かなという感じ。火星が「収容所惑星」になってたりするのは宮内悠介『エクソダス症候群』を思い出したりするし、白人のアメリカ侵略を阻止するための歴史改変が後半のキーになるとか、白人の主人公が未来ではマイノリティになったり、また未来人は「インディアン」の子孫だったりして随所に植民地主義への問題意識があるんだけれど、そんなに掘り下げもされるわけではない。管理社会的な人口統制や宇宙行ったり後半の時間パズルの展開とか、これらそこそこ面白そうなガジェットも掘り下げずにテンポ良くB級SFとしてまとめる感じでまあまあ面白いけどまあまあだなあという感じ。コロナワクチン一回目接種の待機時間に読んでたのを覚えている。

N・K・ジェミシン『第五の季節』

数百年ごとに破滅の「季節」が訪れる世界で、オロジェンという大地を操る能力を持つがゆえに差別される者たちを描く破滅SF三部作第一部。この巻ではファンタジー色が強く、世界をじっくりと描き込んでいて読み応えはあるけど話は途中で終っている。なので現時点ではなんとも言えない感じだ。

オロジェンの息子を殺され娘を夫に連れ去られた母、能力故にひどい扱いを受けていたのが守護者に見出され拾われた少女、オロジェンとしての任務に旅立つ女性の三つの視点から、オロジェンという被差別種族の女性の立場からこの世界を見ていくことになる。この巻では読んでておかしいなと思うところが次第に総合されていくギミックがあり、なるほどな、とはなるけれどやはり話は序盤が終わったところ。かわりに能力者のそれぞれの成長具合から、学園もの、任務に就く能力者もの、そして中年というライフステージそれぞれから世界を描いてる。差別や破滅、オロジェンもまた管理され支配される存在だったりと、さまざまな抑圧のなかで生きる女性を描いている。女性視点を貫くほか、登場人物も肌の色が濃い人が多いのは意識的だし、エピグラフがなによりそういう、差別される存在に対するテーマを示している。島でのパートでは子作りを任務としていやいや性交をしていた男女が、ある男性を二人がともに愛してしまい、三人での関係によりいっそう欲望を増す複雑な性生活はちょっと面白い。ここの共同体はいくらか理想的なものかも知れないけれども、悪徳によって成立している点で相対化されてもいる。錆び、地下火、などの間投詞的な言葉は、オーマイゴッドなんかの代わりで、この世界にキリスト教がないという示唆だろうか。そして最後のセリフももしかしてここって、という示唆。そこで一気にSFになる。まあとにかくは二巻以降を待つしかない。

エリザベス・ハンド『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで』

ネビュラ賞世界幻想文学大賞を受賞した四つの中短篇が収められており、妖精の伝説、双子の子供とおもちゃの人形劇、通信が途絶えた外界、ライト兄弟以前の飛行機の映像といったものを題材にしたファンタジックで叙情的な物語でかなり良い。SF選集と書かれていて作者もSF出身と見なされてるようだけれども、本書では「エコー」意外概ね幻想小説、ファンタジーという印象。そういうジャンル問題は置いておいて、シェイクスピアや神話などを絡めたり、演劇や再現映像を撮ろうとするなど芸術、フィクションへの意識が随所にある抒情的小説だ。

表題作はHIVに冒された父を持つ少年と何か病になっているらしい母親を持つ少女が海辺の「スピリチュアリスト・コミュニティ」のマーズ・ヒルで、死について考えたり妖精のような存在の伝説に触れたりする日々を描く、シェイクスピア『夏の夜の夢』が引かれるファンタジー

悲しみとは国なのだ。おそるおそる入っていくか、警告もなしに投げ込まれる場所。一度そこに――形もなくうねる暗黒と、絶望のにおいの中に入ってしまったら、立ち去ることはできない。33P

そんな悲しみの国に訪れた一夏の奇跡だけれど、ただのハッピーエンドで終わらないニュアンスがある。

本書でも最長の中篇「イリリア」は、双子の父親から同日に生まれた似た者同士の二人が互いに愛し合い過ごした時間や場所の一場の夢のようなかけがえのなさを、隠し部屋で見た幻想のおもちゃの劇場やシェイクスピア十二夜』の舞台という演劇・幻想の空間を用いて語っていてこれは傑作だろう。

伝説的な女優だった曾祖母は子供達に興味を持たず、一族のあいだには演劇に興味を持つ人間はほとんどおらず芸術など稼いだうちには入らないという実業志向が支配しており、自分を美しくないと思うマデラインも美声を持つローガンも、「スポイル」、台無しにされようとしていた。ローガンは特に兄から虐められるし、二人は似た者同士(キッシングカズンズ)という言葉を冷たく投げかけられており、これはいとこや似た者同士という慣用句としての意味のほかに、文字通りの意味での二人の近親間恋愛を怪しみ侮蔑するような意味合いが込められていると思われる。

二人でいることが当然でお互いに愛し合う二人は、ローガンは歌の才能を、マデラインも演劇への興味を抱き、そんななかローガンの部屋の奥に隠し部屋を見つけ、壁の隙間から誰もいないはずなのに動いている不思議な人形劇を目撃する。二人で共有する秘密の劇。ローガンの天性の資質に対してはマデラインは劣等感を持っていたけれど、唯一演劇に理解を示すおばのケイトによると、芸術とは教えられる技術でマデラインには教える余地があるけれど、ローガンは教えるところがなく、しっぽが犬を振り回す、という慣用句で才能に振り回されていると言う。

そうした子供時代のクライマックスが高校でシェイクスピア十二夜』の演劇をやる場面だろう。タイトルのイリリアとは『十二夜』の舞台となる場所で、アルバニアのあたりの古名というより、この時の成功した公演や人形劇、二人の過ごした今はない場所をも含めた多義的な意味がある。虚構の、演劇の上で再演された夢としての「イリリア」。本作はそうした子供時代を描いているのとともに、二人の生年はおそらく1950年代後半で、10代の頃にベルベットアンダーグラウンドのアルバムを聴き、911以後の時代を生きる、変わりゆくアメリカの半世紀を背景にした小説でもある。

「エコー」は孤島に暮らす一人の女性が外界とのつながりを徐々に失っていくポストアポカリプス的な短い作品で、エコーといえば当然ナルキッソスの物語が引用されつつ、静かな終末の寂寥を感じさせる。

「マコーリーのベレロフォンの初飛行」は、三十年ほど昔にスミソニアン博物館に勤めていた男三人が、当時の憧れだった上司の末期に際して彼女がある事件で燃やしてしまったライト兄弟以前の幻の飛行機の映像を再現しようとする中年男性たちの青春という、「イリリア」とも似た再演の物語だ。テレビ番組を作ってたり博物館でミニチュアを作ってたりする男たちと、妻を亡くし息子と暮らしている主人公が、その息子の友人を加えた五人で、その再現映像を撮ろうと映像の舞台になった島まで出かけるロードノベルの雰囲気もあり、女性の死期と映像の再現と青春の再演が絡み合う。その過程で妻を亡くした主人公の悲しみの感情のありようが描かれてもいて、表題作の「悲しみとは国なのだ」の言葉がここにも響いている。

三作が世界幻想文学大賞受賞作という通りファンタジックな道具立てを用いた叙情的小説集で、特に「イリリア」が抜群だけど全体にも充実した一冊と思う。

シェルドン・テイテルバウム、エマヌエル・ロテム編『シオンズ・フィクション』

イスラエルの現代SF――スペキュレイティヴ・フィクション――を集成したアンソロジーイスラエル自体が聖書とユートピア小説から生まれた本質的にSFの国だと説き起こすイスラエルSF史概説も含まれた700ページに及ぶ大冊。スペキュレイティヴフィクションという括りで、必ずしもSFだけではなく、ゴメル「エルサレムの死神」という死神と結婚する話や、宇宙人と喋る驢馬と友達がカルト宗教教祖になる本書でも特に印象的なペレツ「ろくでもない秋」はしんみりくるコメディで、そうしたファンタスティックな話も含まれる。

他には、情報のバックアップとしての図書館と人格のバックアップが絡むランズマン「アレキサンドリアを焼く」や、最長の中篇でテレパス能力を持つ少女が自殺した少女の心を探ってゆくハソン「完璧な娘」は特に読み応えがあり、誰も悪気はないのに行き場のない悪夢に落ち込むフルマン「男の夢」、終末後の世界で子孫を残すために後味の悪いラストが待ってるリーブレヒト「夜の似合う場所」、二人の男が愛した女性を救う運命線を探る「白いカーテン」、立体パズル早解きの架空競技をめぐるショムロン「二分早く」、SFの登場人物が現実化する夢が悪夢に反転するアダフ「立ち去らなくては」等々。

所々宗教的なニュアンスが感じられつつも、概ね21世紀の作品と言うことで必ずしもイスラエルユダヤっぽいというわけでもない。先端科学的なものというよりは、概説にあるように一般に「ファンタジーやSFやホラー」として言及される「思弁的文学」という観点で選定されていると思われる。

なお、全十六篇中七篇が女性作家によるもので、ここら辺のバランスも考慮されているのか、元々女性が多いのかどうだろう。「完璧な娘」と「ろくでもない秋」がとりわけ印象的な一冊と思うけれど、全体的にもなかなか悪くないなという感想。そして本書の一番偉いところはこの大部のアンソロジーを全訳したことだろう。創元SFで最近出てるテーマアンソロジーは収録作が半減していたりするので。あっちの原書はこれより大部かも知れないけれども。

イスラエルSFということでイスラエルジャズ、ダニエル・ザミールを聴きながら読んでた。動画はイスラエル国歌という。アルバムを聴くと現代的なジャズに民族的な要素が混ざってきて独特な感触がある。
https://www.youtube.com/watch?v=vwhTxzcaDJwwww.youtube.com

One

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岡和田晃編『再着装(リスリーヴ)の記憶』

ポストヒューマンSFRPG『エクリプス・フェイズ』の世界設定を用いたシェアードワールド小説を集めたアンソロジーで、技術的特異点以後義体を乗り換え、自己を複製し、外惑星圏まで人類が進出した世界を舞台に、ケン・リュウはじめ海外作家と日本作家が集う。はしがき、コラムや用語解説を随所に入れてあるので私のようにEPを知らずとも読んでいけるだろう。全体は三部に分かれており、火星から太陽までの内惑星圏内が舞台の一部、木星以遠の外惑星圏が舞台の二部、そして身体性にまつわる思弁を扱った作品を集めた三部という構成になっている。

第一部は、入れ替え可能な義体とデータ化した魂、自己の複製という本作のベースとなる設定の導入ともなる作品が並んでおり、死を体験することをテーマとして紀貫之の引用はそういうことかと納得させるケン・リュウ作品を劈頭に、伊野隆之、吉川良太郎、片理誠作品など義体を活用した逃亡、追跡劇が多く、活劇的な楽しさで牽引する。

第二部は音楽をテーマにした伏見健二「プロティノス=ラブ」や料理のアンドリュー・ペン・ロマイン「宇宙の片隅、天才シェフのフルコース」、知覚と身体の関係の岡和田晃(原案齋藤路恵)「蠅の娘」などとともに、題材を語りの手法によって表現してみせたマデリン・アシュビー「泥棒カササギ」など、自己と身体性が問われる作品が多い。

第三部では、ポストヒューマンの時代においてレトロな趣向をあえて取り入れてみることで生まれる状況が描かれていて、石神茉莉メメントモリ」は「玩具館」というアンティークショップのようなホラー、幻想小説的舞台から、VR、鉱物のなかの時間やヴァンパイアという題材を混ぜ込んでいて印象深い。

本書のなかでも印象的なのが待兼音二郎プラウド・メアリー」で、人工子宮が普及し妊娠が行なわれなくなっている時代において妊娠して子を生むとはどういうことか、というのを腹を痛めて生む実子というような保守的な観念にも寄りかからない道を探していくような叙述はスリリングでもあって面白かった。

図子慧「恋する舞踏会」では身体の性別が可変的でセクシャリティが多様になった状況で古典主義回帰の流行が起き、爵位継承や令嬢のデビュタントという絢爛な催しのなかでのロマンスが描かれるのも、未来的技術でのレトロ趣味という第三部の象徴のような一幕の光景を見せてくれる。このなかで予知夢を収集して分析する役所が出てくるのはカダレ『夢宮殿』を踏まえたものなのか偶然なのか気になる。ハヤカワSF文庫の『スティーヴ・フィーヴァー』以来のポストヒューマンSFアンソロジーとのことで、ポストヒューマン入門としても面白いんじゃないかと。

SFマガジン」2021年6月号「異常論文特集」

書籍化前に積んでたのを読む。論文形式のフィクションに異常やらとつけるのはツイッターバズ文体的誇張に見えてどうかとは思ったものの試み自体は興味があった。読んでみると特に最後の二篇で近代日本と怪談のテーマが立ち上がってくるのが面白い。

論文形式つまりノンフィクションの顔をして書かれるフィクションというのはむしろ近代小説の古典的な形式に回帰してるようで、さも当然のように小説として語り始められる小説よりも形式への意識が強く出てくるし、いっそう事実と虚偽の境界が揺らぐところがあるように思える。その点で特に印象的だったのは倉数茂「樋口一葉の多声的エクリチュール」で、樋口一葉の文体分析の部分は概ね実際の論文にもありそうな叙述で、一葉入門のような読み味がありながら、二十二宮人丸についてのあたりから怪しくなっていって近代以前の文体論が怪談と密接に繋がってくる。テクストを読んでいくことがテクストに潜む怪異を解放してしまう恐怖、のメタフィクション的ホラーの様相があり、その面からはもっと踏み込めそうなそうでもないような。そして参考文献に挙げられた本を持ってたので該当ページを開いたらそんなこと一切書いてなくて、嘘引用なんですよね。その村上重良『国家神道と民衆宗教』は新装版のほうを持っていたので、版面は古いままだしページ数もさほど動いてないだろうと思って開いてもその前後も大本教についての部分で人丸なんか出てきそうになくて、この一応本を開いてみるところまで合せての虚実の皮膜に触れる感覚があった。

その一つ前にある大滝瓶太「ザムザの羽」ではテクストをめぐる分裂が描かれていて、ザムザが二人いて二重化している点もそうだし、テクストを挾んで同一人物が書く側と書かれる側での分裂を起こしていて、ディックの『ヴァリス』の他に、Kといえばでカフカ漱石が混在させられたりする。「ザムザの羽」に二人「K」がいたかと思えば「樋口一葉の多声的エクリチュール」にも「K」が出てきて、これにはちょっとしたホラーを感じたけれど、作品分析の生み出す恐怖や近代の怪談がテーマになっている「無断と土」と一葉論とで連続しているのはやはり意図してのものか。

鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」は最も長い一篇でかなりの密度の情報と作中作の組み立てが込み入っていて、なかなか読みこなすのが難しい。あんまり把握できていないんだけど、日本近代と怪談、詩、天皇制、VRゲームその他もろもろ。「上演」というキーワードが一葉論とも通じていて、それが恐怖と関連してたりもする。一葉論でもあった語りの現前性についての問題は、論文形式を採っているこの特集の作品にとっては重要な論点で、一葉論と「無断と土」ではともに「上演」という言葉が共通しているのは偶然ではないはずだ。読むこと分析することが「上演」になるというか。ここはちょっと未整理。

そういえば手記や書かれたテクスト、という形式の小説をたくさん書いた作家としては安部公房が浮かぶ。よくある小説で書かれる文章は、書かれたものなのにそれが現実のどこにもないということがしばしばあり、そこに迫真さ、現前性があっても宙に浮いたような違和感を覚えることがある。論文や手記という書かれた言葉の形式を採ると、現在形の文章が使えないために最後の二篇の「怪談」や「上演」という手法になるのかも知れない。一葉論文は言文一致体が現前性を作り出したこととそれが隠蔽したものを論じつつ、怪談的恐怖の現前性を別の形で取り出そうとしたものなわけで。

一葉論文も「無断と土」も、作品読解の過程で恐怖に類する感情を惹起せしめるような手法で書かれているけれども、現在進行形で語りを進められない論文形式においては、作品を読み込む分析過程そのものが台本を演じてリアリティを出す「上演」としてあるような印象があった。

他に、柞刈湯葉「裏アカシック・レコード」はなんと言うかこういう形式の模範的なスタイルってこれかな、というようなところがありちょっと円城塔っぽさもある一作で、なかなかちゃんと面白くて良かった。

小川哲「SF作家の倒し方」はおいおい内輪ネタか、と思ったら出てくるエピソードがどれも破壊力が高くて、こういうスタイルのエッセイとして面白く読んだ。これ、出てくるエピソード、どれも本当なんだろうか。マシンガンエゴサーチは私も目の当たりにしたのでよくわかるけれど。

アニメはいかにレンズの効果を模倣してきたか - メディア芸術カレントコンテンツ
余談。感想書いてる時に思いだしたのがこのアニメに取り入れられたカメラレンズの表現についての記事。アニメにおいてはリアリティを出すためにレンズ表現を導入し、異常論文でも叙述のフレームとして論文という形式を採ることで現実性の担保としている、というかなんというか。そして安部公房は手記という形式とともにカメラにもこだわりがあり、監視カメラが出てくる『密会』や箱から覗く『箱男』、そして戯曲を書いて演劇スタジオを作っていたことなどを思い出して、ここまで書いたことが全部そこに収斂していくようだ。

酉島伝法『るん(笑)』

「群像」に発表した「三十八度通り」とそれに続ける形で「小説すばる」に発表した二篇を加えた中篇集。これは怖い。疑似科学やスピリチュアルと科学の立ち位置が逆転した世界で、癌を「蟠り」や果ては「るん(笑)」と言い換える精神論や素手のトイレ掃除、マコモ風呂など怖気を振るう風習が日常となり、著者お得意の人外譚を描く造語技術が異形の日常にも活用されていて鮮烈。

病院や薬の服用が忌避され、乳酸菌が入れてあって何ヶ月も水を替えない風呂とか、米にかける「ミカエル」という得体の知れない何かとか、食べるものに尿を混ぜられたりとか、免疫力を高める水だとか、EM菌、風水、その他周波数だとかなんやかんやの偽科学が生活を支配する。どれも生々しく気持ち悪くて、そして違和感がありつつもそれを普通だと思っている人たちの日常と特殊な語彙のベールの向こうにある、現実に何をしているのか、がじわじわと分かってくる怖ろしさはかなりのものがある。そういう気持ち悪さとともに精神的な束縛もあり、子供は常に監視されているし、思考盗聴を防ぐためのアイテムが貧富の差を目立たせるものにもなっている。人々は血縁ならぬ「心縁」の繋がりがどうだとかで水や諸々のグッズを買わされたり、結婚式以外にも離婚式やひとり結婚式などことあるごとに式をやらされる。子供は神代文字由来だとされる漢字の書き取りを「書き詰めさせていただく」と言い習わされ、このきわめて「修身」的な教育は国家主義の下にあることが匂わされている。

序盤、一本一本というものの数え方が「にっぽんにっぽん」と言っているところでぎょっとさせられるんだけれど、このスピリチュアルなニセ科学と言葉の変造はもちろん、事実、状況の正確な把握を困難にするもので、国家主義的な隠蔽ときわめて相性がよいばかりか、それを目的にすらしている様子がある。龍というものがあるのは何かファンタジー要素だろうかと思っていると終盤正体がわかるところは、この世界全体の仕組みが見えてくるようなインパクトがある。偽科学とともに、おそらくは隠蔽、ごまかし、詭弁という政治の世界での言葉の崩壊がこの作品群の発想の根っこにあるのではないか。「未曾有」の読みが「みぞゆう」なのもその露骨なヒントだろうし、出てくるもののいくつかはEM菌や親学など時の大臣が関係してもいたものを思い出させる。言語の変容と科学の退潮のなかで、国家主義とともに相互監視の草の根のファシズムのような動きが捉えられてもいる。

多くの人の場合、ニセ科学がおかしいと感じるの科学的ロジックよりも、常識的にあり得るかどうかというようなものではないかと思うし、その時、周りが全てオセロのように反転したら、そのおかしさは果たして感じ取れるものだろうか、という生々しい恐怖を感じさせてくれる。と同時に、そこに欺瞞と詭弁で押し通す政治が絡んでくれば、という問題でもあり、権力によるプロパガンダデマゴーグは喫緊のニュースでもあるわけで、三十八度が平熱になった世界、というのはたとえば感染症対策が失敗した後でそれを認めず誤魔化した状況のように解釈できないでもない。

「千羽びらき」では病状の進行が字面において病垂の文字が増えていくという手法で演出されていて、特にそれについて触れることなく言葉が禍々しくなっていくのはなかなかの恐怖だ。病気は「丙気(へいき)」だし、「猫気(びょうき)」という忌み言葉とともに猫が排除された世界でもある。

一読しただけでは作中事実を掴み切れていないけれど、酉島伝法作品としてはもっとも入りやすいかも知れない。『オクトローグ』は結構自分には難物だったけど、これは全然読みやすいので。言語の違和が手法として大きい一見ふわっとしたディストピアものという点で多和田葉子の『献灯使』と結構似ている。

最近読んでた本 2021.10.

米澤穂信『いまさら翼といわれれても』

古典部シリーズ第六弾、文庫出てすぐ買ったのに二年寝かせてしまった。折木の過去やモットーの原点、伊原の漫研での諍いの結末、千反田の心境を簡潔に示した一言にたどりつく表題作などなど、部員の過去と未来の結節点となっている短篇集。

弁護士という将来を意識しはじめた福部の「箱の中の欠落」、折木を軽蔑した中学の事件の真相にたどり着く伊原を描いた「鏡には映らない」、「無神経」な振る舞いを避けようと真実を探る折木を描いた「連峰は晴れているか」の序盤三作は部員それぞれを探偵役にして個々人の行動原理を描いてる。折木のモットーの原点となる、他人に便利に使われる小さな悪意に気づいたエピソードを語る「長い休日」は同時にその明ける時が来ることを示して終わっていて、将来の話では前述のもののほか、伊原の未来への決断を描く「わたしたちの伝説の一冊」がその役目を果たしている。

そして将来が既に決まっていたはずの千反田の「自由」を描く表題作。子供ながらに家に縛られ責任ある人間として生きようとしてきたことも充分に重いけれども、そうした人生が急に前提からすべてが崩れ去ってしまうという二重の屈折が刻まれる苦さは相当のものがある。三人の生きる指針とその未来への道を描いた後に千反田のそれが無惨に消え失せる話を置くというなかなかの仕打ち。自由、歌、翼、というポジティブな象徴が反転してしまう蔵という「箱の中」。雨、箱、休日等々、収録作のタイトルが微妙に表題作の内容にも掛かっている感じもするけれどどうだろう。

で、面白いは面白いけれど、カードゲームアニメにデュエルがあるように必ず推理要素があるのがちょっと窮屈じゃないかなと感じてしまうのは私が専らキャラクター小説的に読んでるからだけではないような気もした。まあミステリだからミステリ要素があるのはそうなんだけど。同時に、最近小市民シリーズ読んだ時にはあまり思わなかった覚えがあるからこのシリーズの方針かも知れないけど、人間の身近な悪意が思ったよりも嫌な気分にさせられるところがある。殺人者出てくるよりもじわっと嫌な感触がある。

これは「鏡には映らない」が特にそうで、その嫌がらせ仕込むのそいつバカすぎないかと思ってしまう。悪意や悪人の底が浅いと主人公たちを引き立たせるための書き割りにすぎないように感じられてそこにこそ嫌な感じが出る。表題作は露骨な悪人がいないところが余計に苦みを増していて効果的ではあった。伊原の反省した?からの「隣に座って!」はちょっと萌えキャラが過ぎるぞ、とは思った。

平野嘉彦編、柴田翔訳『カフカ・セレクションⅡ 運動/拘束』

カフカの中短篇をテーマ別に三巻に分け、短いものから順に収めていくというちくま文庫独特の編集を行なったセレクションの二巻。当時買い損ねていまちょっとプレミアだけどブックオフで二巻だけ発見。本巻の訳者は作家でゲーテ研究の柴田翔

夢のようにもどかしいすれ違いを描いて非常にカフカ的な徒労感がある「珍しくもない出来事」や、ヨーゼフ・Kが自分の名前を彫られた墓石を見る夢「ある夢」とかシュヴァルツヴァルトで崖から落ちて以来「私は死んでいます」と1500年はしけ舟に乗り続けている「狩人グラフス」、『木のぼり男爵』みたいに空中ブランコの上に住む曲芸師の「最初の悩み」と断食芸の衰退を描く「ある断食芸人の話」などのサーカスもの、親への罪悪感?が断罪される奇怪な「判決」、処刑機械に士官自ら乗り込みすべてが崩壊する植民地の「非西欧圏的」な裁判制度の一コマ「流刑地にて」、そして最も長くてしかも未完の、もぐららしき生き物が自身の巣造りについて省察する「巣造り」。最後にマックス・ブロート兄弟との旅行を描いたエッセイを収める。「巣造り」はたぶん初めて読んだけど、安部公房を感じさせる閉鎖環境での完全な巣をめぐる思考の堂々めぐりが面白い。

「私はまたしても完全無欠な巣穴造りの夢に耽り始めるのだ」241P、と言うように決してなしえない「完全」を目指してあっちが気になりこっちが気になり、外に繋がる巣穴という原理的に排除できない「穴」をめぐって考察を続け、ついには自分より大きい何者かの生き物が近くに現われる予感で終わる。閉鎖環境が舞台の「巣造り」は「運動/拘束」というテーマの典型のようでもあって、そして「ある断食芸人の話」の「断食に完璧に満足する見物人となり得る可能性を持つのは、ただ彼自身だけだった」108P、という「巣造り」や「流刑地にて」の士官などの独身者の系譜にも繋がるものだろう。

一冊ものの作品集は数多いけど、カフカの短い作品を網羅した選集がいま入手できるものがなくなってるので、ちくま文庫カフカセレクションは復刊してほしいね。池内訳のUブックスのものでも短篇の巻は高値だった気がするし。

コナン・ドイルシャーロック・ホームズの帰還』

久しぶりにホームズ読んだ。ライヘンバッハの滝から復帰したホームズが描かれる第三短篇集。恐喝王ミルヴァートンの話そのほか、法より道義を優先してしばしば殺人犯を見逃すことがあるのがそういやそういう人間だったなと。短篇なので合間の時間にサクサク読めてしっかり楽しめるのとこれ翻案ものアニメとかで見たやつの元ネタかなってのも時々あったりして色々面白い。アガサって人物やチェスタートンという地名が出てきてお、と思った。光文社のホームズ新訳全集は未読があと四冊残ってる。

坂上弘『ある秋の出来事』

訃報を聞いて、そういえばまともに作品読んでないなと最初の作品集のこれを持っていたので手に取った。しかしこれほど合わない本は久しぶりで読むのがつらかった。難解とかいうわけでもないんだけどとにかく文章が入ってこないしところどころいつ誰が何をしているのか把握できなくてストレスばかりが溜まった。家族との軋轢や男女の関係といった青年の鬱屈を描いていて、特に家族関係は兄や母、父との問題が諸篇に共通していて連作のようにも読める作品群で、まあ女は妊娠し堕胎し死ぬという昭和のよくある純文学だったりするんだけどそれ以前に全然作品に入り込めない。表題作はそこそこ読めたけど、とにかく相性が悪いとしかいいようのない感覚で、何が悪いと言ったら自分の頭が悪いんだろうと思うけど、さすがに二十歳の頃の第一作品集だけでなんとも言えないので中後期のものもなんか読んでみないとなと思った。

ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』

一人しか入れない国や機械と生体の組み合わせでできた人間たちという童話的な世界観で、国境地帯の警備官が強権的行動とカリスマによって成り上がる独裁者の誕生を描いた、アメリカの作家による「ジェノサイドにまつわるおとぎ話」。

解説では911イラク戦争愛国者法、アブグレイブなどが触れられてるけれど、相手の土地をどんどん奪う周囲を包囲してる国というのはパレスチナ問題を連想した。外の国というのはイスラエルかなって。まあそういう何に当てはまるかというのはいいとして、短いしさらっと読めるけど評価は難しい。土地や自然を税と言い立て奪っていく暴力、権力に追従するメディアはともかく、日々の楽しみのためには世界のどこかで不幸があるのはよくないという微温的善意、最後に創造主がものごとを解決する宗教的救済はどうだろうというのもあるけどこの粒度で独裁者を語ることにどういう意味があるのか、と疑問に思ってしまった。

コミカルで童話的な感触は悪くないけど、何にでも当てはまりそうな抽象的独裁者と人種差別、のように普遍的すぎると具体性やリアリティを失ってしまうのではないか。詳細すぎると長いと文句を言い、短すぎると具体性がないという面倒な読者に自分がなってる気がするけど、今ひとつ手応えを感じない。というか作者の政治的スタンスを知らないけれど、フィルに虐げられた国を助けに行く「大ケラー国」には民主主義国家にして「世界の警察」というアメリカ的なものを感じてしまう。テロとの戦いと称して戦争をしかけるアメリカ的なものを肯定しているように見える。暴力はいけない、という正しさが防衛の名目での侵略の正当化に繋がるように、独裁者は悪、という理念が武力を含めた介入の正当化になってないかという懸念を感じる。アメリカにおいて今作がどう受け取られたものなのかは詳しく知らないけど、どう読んだらいいのかよくわからないな。

高原英理『観念結晶大系』

ビンゲンのヒルデガルトからノヴァーリスニーチェユングなど鉱物志向の系譜を独自の人物も交えて点描する第一部、ヴンダーヴェルトという鉱物でできた異世界を描く第二部、現実で人が結晶化するSF的な第三部を通して真理、永遠彼方への憧れを結晶化させた幻想小説

永遠、普遍の真理の象徴としての石、鉱物というモチーフを中心に、「心に結晶を育てる」人々を描いている。第一部は歴史上の人物や架空の人物を散りばめながら、さまざまな鉱物幻想のありようが各所に配置されていく布石のような感があり、これは第三部で形を明確にする。第二部では大きな結晶を中心に回っていて思念が石になったりする不可思議な世界のさまざまなエピソードや博物学的描写とともに、この世界の真理の探究と空の果てへの憧れを抱いて高位の飛宙士を目指す二人の物語となる。それと同時に、自由と相反する独裁者の暴虐も。第三部では第一部の鉱物幻想を共有する登場人物たちが次々と石となってゆく奇妙な病を発症していく様子を医師の視点から批判的に描きつつ、全体主義化する政治のありようが二部に続いて描かれていて、鉱物幻想、結晶化とそうした政治性が密接なものとして描かれている。

作中人物の言葉にこうある。

理想主義が内に向かったときには、例えば結晶観想のような超越への志向となったが、それが外へ向かったときファシズムをはじめとする全体主義と独裁をもたらした。この二つは実は盾の両面なのである。320P

幾何学的、結晶的な整然としたイメージが全体主義と親和的だというのは確かにそうで、鉱物志向の持つ永遠、無限への憧れの帰結がそうした危機と隣り合わせだということは本作の印象的な部分で、郷原佳以はドイツロマン派とナチスの問題に対する著者の応答だと指摘していてなるほどなと。作中の鉱物志向についてある重要な人物は、人付き合いや他人と共同作業をさせられるのが苦手だという性格で、そうした性格と石化する人たちの世界観に共有のものがあるとされている。第三部は石化症で時間感覚が他人とかけ離れていくポストアポカリプス的な世界になるのも孤絶の一つの形だろう。

石に惹かれ、石を夢見、石になりゆく人々の「鉱物志向性」を丹念に描き込んでいく小説で、第一部のオカルト的な歴史から鉱物志向を系譜づけたり、作中人物が「石の観想法」を広めていたり、本作自体が孤独を好みながらその志向において共鳴する、鉱物幻想に惹かれる人との共鳴に賭けられている。

『ゴシックハート』に「人間の外の世界に目を向けてしまう異端者」というゴシック性の指摘があったけれども、本書の鉱物幻想も芯にはそうした異界への憧れが感じられる。タイトル、装幀で気になった人以外にも、エヴァンゲリオン使徒ラミエルが一番好きだったという人に、オススメ、かな……?

西崎憲『未知の鳥類がやってくるまで』

空を渡る誰も見ることができない行列、つねに同級生が持ってきていた軽い箱、校正刷りを紛失した編集者の奇妙な週末、生まれる前の赤子の冒険、自称宇宙人の島田、とSFとも幻想小説ともつかない、現実を半歩ずらしたような光景を淡々と綴る少し奇妙な小説集。

SF系の媒体に載ったものも多いけど、SFマガジン掲載の「廃園の昼餐」は一応理に落ちる感じはありつつも他はだいたい明確なルールやロジックで落とさないように書かれていると思しく、言葉で現実をじりじりとずらしていくような、そういう不可思議な浮遊感を味わえる。「東京の鈴木」は鈴木を名乗るテロリズムらしきものの話なんだけど、ここに出てくる首相の描写には具体性がないのに、政商のほうは言動や童顔という形容が明らかに竹中平蔵をモデルにしているのが面白い。首相は変わっても政商は変わらないっていう叙述になっている。

現実というのは、夢の論理を使って人間が作ったものだ。29P
どこかに旅をすると空想するわけではない。自分が現在いる場所を旅行で訪れたように空想するのだ。見慣れた土地を初めて訪れたように想像するのである。177P

という箇所は本作の方法の一端を示しているようにも見える。二つ目の引用、ちょうど最近翻訳が出たメーストル『部屋をめぐる旅』についての言及のように見える。暗くなっていく街のなかを描写しながら、「灯火がつく瞬間はつねに脅威の瞬間だ」(144P)という一文がなかなか印象的だった。

みすずはずっと本が好きだった。本は扉であり道だった。けれどあらゆる場所あらゆる時間には入ったことのないドアが無数にあり、入ったことのない小道が無数にあったのではないか。220P

林美脉子『レゴリス/北緯四十三度』

著者最新の詩集で、北海道侵略者の屯田兵の末裔という植民地の問題を沖縄とも繋げつつ、被害者の血が染みこむ大地と男性原理の屹立する塔という上下の構図の頂上に勅諭する高御座の天皇を位置づけ、雪のごとく舞うレゴリスに闇を照らす光を託すような絵が浮かぶ。

今までは宇宙的なスケールという印象があったけれど、祖父の遺した「屯田兵手牒」を題材に自身の歴史や身体に歴史的な加害性とジェンダー構造の被害性の双方を読み込むと同時にコロナ禍の日常など身近な地点からアイヌへの加害そして天皇の責任にまで、地面から見上げていく視角を感じる。

加害の歴史を忘れ
逃げ切るおまえ
侵略者の末裔の
足底の痛みよ 29-30P

死者の特権はもう死なないことだが 見返してくる骨のまなざしは生きた姿で追い迫り 無数の鋭い眼光に睨み返される その怨の罪業に追われ 地誌の汚れたぬかるみを 這う 40P

こうした大地の底に這うような歴史の闇を看取しながらそびえ立つ塔に男性原理ひいては天皇の姿を読み込むなかに、次のような散る光がよぎっていく印象がある。

レゴリスが太陽の光を乱反射し
自らを明るくして闇を照らすが
零れ落ちてくる被害の歴史は暗く
あったことがなかったことにされた 17P

どう対応しているかは確認できてないけど小熊秀雄の「飛ぶ橇」へのアンサーだろうと思われる「飛ぶ屯田兵手牒」で、散らばって飛んでいく細切れの屯田兵手牒も、上と下のあいだで浮遊するイメージがあるように感じられる。

逆井卓馬『豚のレバーは加熱しろ(二回目)』

異世界での旅と帰還を経て、今度は転移者仲間とともに再び異世界へと転移してイェスマ制度からの解放を目指し戦乱の地に身を投じる連続シリーズに突入した模様の第二巻。一巻の最後は蛇足とも思ったけどこれはこれで悪くない。異世界転移だけれど豚なので戦うこともできず、状況から推理をめぐらせる安楽椅子探偵じみたところがあるのはそのままに、今巻ではイェスマという奴隷解放闘争において、その奴隷以下の家畜の豚というラインが示されているのが今後の展開の布石だろう。あんまりな呼称など罵られることへの嗜癖というのも地味にこの階級や上下関係に絡んでくる感じなのは笑って良いのか企まれたことなのか。一度別れたジェスと再会するのに、旅を忘れるという試練を与えられてそれを乗り越えることでジェスと豚のコンビが再び組まれたここからが本番かな。

アレクサンダル・ヘモン『私の人生の本』と『ノーホエア・マン』と『愛と障害』など

松籟社の〈東欧の想像力〉シリーズにエクストラとしてエッセイ集が出ると聞いて、そういえば出た当時話題になってたけど読んでなかったアレクサンダル・ヘモンの第一長篇からはじめて結局既訳書を全部読んだ。

『ノーホエア・マン』

アメリカ滞在中にボスニア紛争によって故郷サラエヴォに帰れなくなり、そのままシカゴに残って英語で書くようになったボスニア出身の作家による第一長篇。作者とも似た境遇の青年の人生を様々な語り手から描き出し、その技法に故郷を離れた人間の分裂的な様相を埋め込んでいる。これはだいぶ良かった。

紛争の悲惨なニュースが届く国外の生活と、故郷でバンドをしたりしていた青春時代を描きつつ、そのどうしようもない分裂というのがおそらく謎の語り手「私」と「ヨーゼフ・プローネク」という主人公とに引き裂かれ、100年前のスパイとも結びつけられていく。プローネクの名も、キエフで彼に恋心を抱くシェイクスピアクィアリーディングを研究しているゲイの名前もが最終章の実在のスパイのくだりに埋め込まれており、亡命者とスパイとを名の複数性において重ね、さらにメタフィクション的な虚実の皮膜のなかに折り込んでいく手の込んだ相対化がある。

スラヴ圏からアメリカに来て英語で書いた作家と言うことなどでナボコフの名前が出ることも多いけど、今作の内容には『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』的な分身的な語りを連想した。ディック『暗闇のスキャナー』なんかも。書き出しの「別人になる夢」やシャム双生児の話が出てくる一章はかなり露骨に分身の示唆がある。

最初の章でボスニアから亡命してアメリカで英語教師の職を探している語り手「私」が同郷のプローネクの姿を認める一章から、サラエヴォで親友とビートルズの楽曲を演奏したり、詩を書いていた青春時代、プローネクの父の故地ウクライナキエフブッシュ大統領の演説を聴き、アメリカでグリーンピースに職を見つけ寄付金を募りながら色んな人と出会い、恋人に始終英語の定冠詞や助詞の文法ミスを指摘されて、バケツで水に沈められるネズミを目の当たりにして怒りが爆発するくだりなどの移民プローネクの人生とともに、故地ボスニアでの惨劇を親友からの手紙で知るやるせなさも描き込まれる。

亡命地アメリカでお前は誰だと問われて、毎回違う人間、「誰でもない人間」に成り代わることが、語りの形式に捉え返される。タイトルや二章の表題「イエスタデイ」はサラエヴォ時代のプローネクがバンドをやっていた頃に演奏していたビートルズの楽曲に由来する。

副題に「プローネクの夢想」とあり、そういえば

分かちあえない記憶は夢想になり、ささいなことがらにあふれた人生は伝説になる。51P

という印象的な一文があって、ささいな描写と分かち合えない記憶というのが本作の骨子のように思えてくる。

『私の人生の本』

〈東欧の想像力〉のおそらくはノンフィクションを扱うスピンオフシリーズ〈東欧の想像力エクストラ〉第一弾はヘモンの自伝的エッセイ集。母国語と英語、戦争の前と後、サラエヴォとシカゴなど幾つもの分裂において、それでも物語ることを選ぶ「人生」の諸相。本書原題はThe Book of My Livesとあり、所収エッセイの半分ほどにLife、Lives、人生、生活と言う言葉が表題に入っている。

妹が生まれた子供の頃のこと、新聞の文化面の記者として活動していた頃のこと、山小屋にこもって本を読んだ生活、家族の食卓、飼い犬をボスニア脱出にも同伴させた家族、内戦が始まり友人が民族主義を煽りファシストとなったことや、ボスニアを離れシカゴで暮らし始めサラエヴォとシカゴの都市の違いに直面したこと、信仰のように毎週土日にサッカーの試合を開催する男、父親とのチェス、そして生まれて九ヶ月の娘が闘病の末亡くなるまでの著者のさまざまな人生が描かれる。

最初に書いたようにこれらのエッセイに散見されるのは分裂、引き裂かれてあること、複数のもののあいだにあるということだ。とりわけ本書表題エッセイ「私の人生の本」(原題ではLife)は、『ノーホエア・マン』の直後に読んだので、わずか数ページの文章なのにとても重い一撃を食らった気分になった。シェイクスピア学者のニコラ・コリェヴィチ教授はヘモンが文学の指導を受け、エッセイのライティングを教わった恩師といっていい存在だった。しかし

コリェヴィチ教授はラドヴァン・カラジッチ率いる悪意に満ちた民族主義政党であるセルビア民主党の幹部になった。111P

かつて教授と同じ道を歩きながら肩に手を置かれたことに「境界を越えてくれた」親密さを感じた後、人種差別を煽るカラジッチの隣にいた教授と記者として境界を挾んで対面する。著者は教授の「ジェノサイド的な傾向」に気づけたのではないかと悩み、「悪」に影響を受けた可能性に苛まれる。上で『ノーホエア・マン』は「手の込んだ相対化」がなされていると書いたけれど、これを読むとその理由がよくわかる。自身の故郷、人生の分裂とともに、それを語る文学、芸術自体に「悪」、内戦への加担の契機がないかということがおそらくはあのメタ的な構成を必要としたわけで、そのことには気づかなかった。

また、コリェヴィチ教授の授業ではニュークリティシズム的な立場から詩を分析し、テクスト以外の作者の伝記的背景や政治的立場を排除して読むことを学んだという。そして芸術のなかにぬくぬくしていれば歴史や邪悪から逃れ果せると信じていたことが、いまの彼の「ブルジョワ的戯言」への憤りとなっているという。作者や政治性を排したテクストの分析という方法がそれまでの読解への抵抗的スタンスではあるにしても、ここで著者はそうした脱政治的な文学理論が「悪」に加担することとどこか繋がるのではないかと危惧しているわけだ。

本書にはサラエヴォがいかに著者の内面と切り離せないものかが描かれてもいる。

当時の私は、知覚と表層、嗅覚と視覚を収集し、サラエヴォの建築物と相貌を完全に内面化した。しばらくして、内面は外面と切り離せないことに気づいた。肉体的にも、精神的にも、私はところをえたのだ。122P

そしてアメリカで、サラエヴォで破壊された建物の写真を渡され、場所を特定する「死体の身元確認のようなもの」をしていた経験。写真をばらまいたように心が乱れる、という歌があるけれど、そんな破壊されたサラエヴォを見て、「もし心と街が等しいのなら、私は心を失っていたのだ」(134-5P)と書いている。

移民がおかれた状況は、自己他者化にもつながる。故郷喪失がもたらすのは過去との――かつて別の場所で存在し、行動していた自己との関係の希薄化である。つまり、その場所で自分をかたちづくっていた性質と交渉の余地がなくなってしまうのだ。移民は存在論的危機である――なぜなら、不断に変化する存在論的環境のもとで自己のありかたを交渉しなくてはならないからだ。故郷を失った人間は、ナラティヴの安定を求める――これが私の物語だ!――それは、理路を整えたノスタルジアのかたちをとってあらわれる。24P

故郷喪失者の安定したナラティヴへの欲望とともに、そのナラティヴを記す文学という方法への不安が入り交じったところに第一長篇のあの構成があるのかも知れない。


最後に置かれた「アクアリウム」は希少難病に罹った九ヶ月の娘にまつわる長めの文章で、夫婦と三歳になる長女とでその状況に直面した様子が描かれている。「非定型奇形腫様ラブドイド腫瘍」という病名で、三歳未満の生存率は10パーセント以下だという。幼児に行なわれる度重なる手術、急変する容体に振り回されるなか、ふと他の人たちとまったく違う世界に住んでいる、自分たちはアクアリウムのなかに閉ざされていると感じる。そんななか妹とも親とも引き離されがちな長女エラはイマジナリーフレンドを作り出し、さかんに会話を始めた。

ミンガスと言う名になったその想像上の友達はエラの言語能力の向上に寄与し、慰めにもなり外界からの情報を処理するツールにもなっていた。作家でもある著者は、架空の登場人物たちや物語というものが、理解できないものを理解し、言語を生成し吸収するプロセスと結びついていると分析する。

物語の想像力(ナラティヴ・イマジネーション)――ひいてはフィクション――は、生き残るために必要な進化論的手段だった。私たちは物語を語ることで世界を紡ぎ、想像上の自分とつきあうことで人たる知恵を生み出したのだ。217P

アクアリウムという断絶、イサベルの死という喪失を語る言葉。内戦と亡命を小説で語った著者が、子の喪失と外界との断絶のなかで言葉、物語とは何か、を問いながら言葉にしているのが「アクアリウム」だろう。本書は先に引いた「他者の人生」の一節ともども、さまざまな人生の分岐、分裂のなかで物語ることや「私」とは何か、が問われ続けている。

宗教の一番卑しむべき誤謬とは、苦難を貴いもの、啓示や救済に至る道の第一歩であると説くところにある。イサベルの苦難と死は、あの子にとって、私たちにとって、世界にとってまったくの無価値だった。イサベルの苦難の対価は、その死だけだった。学ぶ価値のある教えなんてなにもなかった。誰かの益になる経験なんてなにも得られなかった。222P

ボサナツ(ボスニア出身者)ではあってもボシュニャクボスニアムスリム)ではないというのがヘモン及びその作品の語り手の属性だけれど、それはこんなところにも顔を出している。

本書は『ノーホエア・マン』がなぜあのような分身的でもある複数の視点から描かれたのかということのヒントにもなるし、解説にある、本書の表題が複数形なことの理由を問われて答えた、アイデンティティとは中心や本質ではなく複数の人生の可能性が実践できる領域だという言葉も印象的だ。

ヴェバにあちこち見せて、シカゴについて、エッジウォーターでの私の生活について話をするうちに、私の移民としての内面はとっくに、アメリカという外面と混ざりだしていたんだと気づいた。シカゴのかなりの部分は私の中に入ってきて、そこに居ついてしまっていた。いまとなっては、すっかり自分のものだ。私はシカゴをサラエヴォの目で見ていた。そしてこの二つの街が絡まりあってひとつの内面のランドスケープを創り、そこで物語が生まれていく。一九九七年春、初めてのサラエヴォ訪問から帰ったとき、帰ってきたシカゴは私に合っていた。故郷から、故郷に戻ってきたのだ。139P

著者にとってサラエヴォとシカゴとが二つの故郷となったように、そうした複数形のありようをあるひとつの物語のうちに統合しようとせず、さまざまな人生の可能性の実践として、想像上のそれをも含めた言葉による対話によって、想像力と物語を肯定しようとする本のようにも思える。

本書は小説家の背景や小説の裏面を明かしたものとしても読めるけれども、ボスニア内戦での亡命者の人生について語った自伝的な本としても興味深い一冊だ。ナボコフの文体に学んだというヘモンを、ナボコフの翻訳や研究書も刊行している秋草俊一郎が訳しているというのも面白い。また、ヘモンを訳していた岩本正恵が2014年、50歳で亡くなっていたのを知った。子宮頸癌だという。ヘモンが二作目以降訳されていないのはそれがあったからか。そしてマトリックスレザレクションズの脚本に参加しているとは知らなかった。ウォシャウスキー姉妹もシカゴ生まれという縁もあるのかも知れない。アレクサンダル・ヘモンとSF作家のデヴィッド・ミッチェルが監督とともに共同脚本だという。

そういえば『ノーホエア・マン』でスパイが出てくるけど、こちらにもル・カレのスマイリーシリーズを若い頃夏になるといつも読み返していた、という記述がある。

『愛と障害』

同じくヘモンによる短篇集で、サラエヴォの少年時代や家族とザイールで過ごした夏、アメリカで仕事を始めた頃のことや作家となってからのことなど、作者を思わせる語り手の思い出を語りながら、連作的な短篇の連なりからはやがて文学への愛と文学という障害の両面が浮かび上がるように読める。

冒頭の「天国への階段」は、家族と現コンゴのザイールで過ごした少年期の思い出を描いており、真夜中にドラムを叩く現地で知り合った男とロックなどに触れる、さまざまな思春期の様相が描かれながら、最後には少年は目の前に突き出されるその男のペニスの暴力性が自意識を打ちのめす壁のようにして現われる。鳴り響くロックミュージックと少年の自意識、外への志向とその壁。

本書には外と内の境界、それを越える移動の要素が多くの作品にあり、続く「すべて」は冷凍庫を買いにサラエヴォからハンガリーとの国境近くの街に行く様子が書かれ、そこで見たアメリカ人夫婦の妻が自分と関係を持ちたいはずだという妄想から暴走し、ホテルマンに殴打されるオチとなる。「愛と障害」という書名はこの短篇のなかで引用される自作の詩の題で、「世界とぼくのあいだには壁があり/僕はそれを歩いて通り抜けなければならない」というもの。しかしここで買った冷凍庫はサラエヴォ包囲という壁のなかで電力が途絶え、すべて溶けてしまった。

後の短篇でも出てくるけれども、本書の少年期の語り手には性欲や粗暴さが目立っており、それは「愛と障害」に示唆される外への志向と表裏一体のもののように思われる。しかし、サラエヴォ包囲という著者自身の帰郷を阻んだ壁のように、しばしば壁や暴力が短篇を終わらせる。

ここまでの短篇でコンラッド『闇の奥』やランボー詩集を携えていた語り手と「ボスニア最高の詩人」の交流を描いた「指揮者」は、内戦を外で見た語り手と、内から見ていた詩人がアメリカで再会する。詩人のその後の仕事や内戦での戦争犯罪の証拠集めをしていたアメリカ人弁護士との結婚など、詩人の人生がたどられていき、詩を書かなくなった語り手は再会した詩人に「知ってるか、わたしはおまえの詩を書いた」と言われるけれど、どれかは不明のままだ。内戦直前のサラエヴォを想起させる911以後のアメリカの俗悪さのなかで、飲んだくれとなった詩人の思い出に込められた詩と紛争以前のサラエヴォへの哀惜。

われわれは今ほど美しかったことはない。93P

虚構を憎む父が映画を撮ろうとした時のことを回想する「蜂 第一部」は、真実と虚構についての主題を父の視点からたどっていて、真実を撮るためのはずなのに台本を作り何度も撮り直した皮肉な体験が思い出され、内戦後カナダに移住していた父から届いた原稿の表題が短篇のタイトルになっている。父の祖父がウクライナから持ち込んだ養蜂についての歴史を語ったその原稿では、第二次大戦時チェトニクに脅され置いていった巣箱が隣人に盗まれたり、伝染病で打撃を受けたりという歴史の記述が途中で終わっている。ボスニア内戦後、カナダへ移る時に置いていった巣箱はセルビア義勇兵に破壊されたと語り手は補足する。家族の養蜂の歴史をたどる父と、自身の物語を小説として書く語り手で、どこかしらやはり似たもの家族の話になっているのが面白い。そして映画という演出された真実という部分は、この次の短篇で描かれるテーマでもある。

その「アメリカン・コマンドー」は、作家となった語り手のことを映画にしたいという若者に応えて、カメラの前で子供の頃友達とアメリカ特殊部隊のつもりで自分たちの「領土」を侵略してきた工事現場に対して破壊活動をしていた、という話を縷々語り続ける一篇。領土を区切るフェンスを越えて侵入し、破壊活動を行なう語り手たちの姿には先に述べたような外と内と暴力の要素が顕著に現われており、そして過激化していく特殊部隊ごっこの思い出話は次第に本当かどうか怪しくなってくる。「嘘は、僕らの任務には絶対に欠かせない一部だった」(178P)とあるように。印象的なのは、撮る前にカナダの両親の元を訪れていた若者から、子供の頃の語り手が知らなかった母親の癌治療のことを知るくだりだ。何故その年の夏休みは毎年行かされていた祖父母の元に行かなかったのか、その謎が解ける。一族のなかでただ一人物語を語るプロ――「僕が唯一の語り手のはずだった」という確信が揺らぐわけだ。

最後の「苦しみの高貴な真実」は、書くことについてとりわけクリティカルな意味を持っている。作家となった語り手が、ボスニアを訪れたピュリッツァー賞受賞のアメリカの作家と知り合い、実家に招く。マカリスターというおそらく架空のその作家と家族との会話は、その後マカリスターの作品に使われる。しかし、そこでは語り手はヴェトナムで戦死した兵隊となり、父から息子は優れた作家かどうかを問われたことが戦死した息子はすぐれた兵士だったか、という問いに変換されている。作家らしい体験の「翻訳」といえるここで小説は終わっており、印象的ながらもこの事態の意味はよくわからなかった。なるほどと思ったのは藤井光の移民作家の小説における「翻訳」についての論文で、ここではボスニアの作家としての「僕」とその家族の物語が、ヴェトナム戦争というきわめてアメリカ的な物語のなかに収奪されていると指摘する。(藤井光「オリジナルなき翻訳の軌跡 ダニエル・アラルコンとアレクサンダル・ヘモンにおける複数言語と暴力性」(「文学」2016年9、10月号))外と内の構図はこうして、書くことと書かれることへ変奏される。

「天国への階段」や「すべて」での文学、書くことへの憧れから始まった本書は、作家になってから「アメリカン・コマンドー」の信憑しがたい自分語りとともに家族のことを他人から聞く語りの死角に直面し、父の原稿を読む側になり、そしてマカリスターによって書かれる側へと送り返される。連作のような短篇集は全体としてそういう構成になっており、本書の「愛と障害」という表題はおそらくはこの文学をめぐる表と裏を指しており、そこにあるいはサラエヴォ包囲という壁のモチーフが滲んでいると読むこともできなくはない。

書くことを主題化したものとしては『ラザルス計画』が特にそうらしく、これがよく代表作だと言われているので訳されないかな。

他のヘモン関連書籍

以上三冊で既訳書は全部だけれど、短篇が他に一つ訳されている。

柴田元幸選『昨日のように遠い日 少女少年小説選』、には未訳の第一短篇集『ブルーノの問題』から「島」が柴田元幸訳で収録されている。子供の頃に伯父の住む島を訪れた夏の日々が、断章形式で小さな記憶にも触れつつ描かれている。ここにもウクライナからボスニアに養蜂を持ち込んだのは自分たちの一族だという話や、スターリン時代にアルハンゲリスクやシベリアに送られ、誰彼が殺されたという経験を聞いたりする。同一の短篇が「島々」という題でこちらに訳されているらしい。

また、ヴィエト・タン・ウェン編『ザ・ディスプレイスト』という多数の難民作家が「場所を追われた者たち」について書いたエッセイ集に、「神の運命――ボスニアからアメリカへ」という一文を寄せている。これは自分の体験ではなく、内戦時にあるムスリムの男が収容所に入れられ、そこを脱してさらにアメリカまで来た壮絶な物語を聞き書きしたもの。兄を殺されたこと、同性愛者だったこと、逃げる途上で守護天使を見て、そしてアメリカに渡って、同性愛者として宗教コミュニティから排除された経験を語る。この本自体がトランプ大統領が生まれたことをきっかけに企画された本で、このエッセイにも「ぼくはイスラム教徒で難民で同性愛者です」「トランプの完璧なターゲットですね」という言葉がある。

早稲田文学2014年冬号」には都甲幸治との対談が掲載されている。『私の人生の本』刊行にまつわるもので、ナボコフの影響とともに学士論文の対象にしたというジョイス、そしてダンテなど「構築的」な作品の影響を語っている。その都甲幸治の主に未訳の本の紹介をした書評集『21世紀の世界文学30冊を読む』に、『愛と障害』(『愛と困難』と試訳されてる)、『ラザルス計画』の書評が載っている。同著者の『生き延びるための世界文学』では、第一短篇集『ブルーノの問題』の書評があるので、特に未訳の作品についてはこちらを参照するのが良いと思う。

柴宜弘、山崎信一編『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』

参考に読んだもの。明石書店のおなじみのシリーズ、エリア・スタディーズの一冊。多民族共存の象徴的な土地が民族主義の煽動によって分断され、ボスニア内戦に至り陰惨なイメージに彩られてしまったこの国の歴史と、現在さまざまな融和への取り組みを取り上げる。

ボスニアユーゴスラヴィアのなかで唯一多数派民族のない地域名称による構成共和国で、そのために「ユーゴスラヴィアの縮図」とも呼ばれていたという。多民族共存だからこそ、民族主義の煽動が深い民族間暴力に至ってしまったわけで、隣家の住人に家族が殺された類の記憶はそうそう癒えるものでもない。内戦や民族浄化によって、混住していた地域も棲み分けが進んでしまっており、地域のみならず学校においても一つ屋根の下で二つに分かれて授業を受ける光景が日常となっている。政治においても民族主義的な政党が有力で、この分離傾向と融和の理想のジレンマが本書では様々に論じられている。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナはデイトン合意によって、セルビア人のスルプスカ共和国と、クロアチア人とボシュニャクボスニアムスリム)のボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦という二つの政体によって構成される連邦国家として再出発している。しかしながらクロアチア人の政体を求める声も依然強いという。デイトン合意については、内戦を終わらせることには成功したけれど、国家を自立させることには失敗した、という言い方がされてもいる。新憲法の制度的不備があっても合意の一部なので見直しが難しいことや、国際機関、上級代表事務所が持つ強い権力が国内政治の空洞化をもたらしてもいるという。

多民族共存の地が二十世紀に入って二度にわたる民族間暴力にさらされた歴史をたどりながら、政治、文化、社会の様相を各章コンパクトに述べつつ、概説的な全体像がイメージできる。ボスニアはボスナ川に由来し、ヘルツェゴヴィナというのは「公(ヘルツェグ)の土地」に由来するらしい。ソール・ベローの『ハーツォグ』というのも同語源だろうか。意外なことに一章、角田光代が書いてたりする。

現代文学を扱った章でヘモンについても触れられており、ヘモン作品で少し出てきた伝統音楽セヴダ、セヴダリンカについても一章あてられている。