市川沙央『ハンチバック』

文學界新人賞芥川賞受賞作。難病により背骨が曲がっており人工呼吸器を使って生きる主人公が、中絶という「障害者殺し」が日常化したなかにあって、それなら「殺すために妊娠する障害者がいてもよくない?」と計画する。生きることと殺すことの挑発的な問いを投げかけるばかりか、作品の大枠には「当事者性」についての問いも込められている。

作者が作中人物と同様の疾患だということで「読書バリアフリー」についての問題意識を投げかけ、障碍「当事者」の芥川賞受賞としても話題になった。

健常者社会への批判

本作は子供の頃「ミオチュブラー・ミオパチー」という遺伝性筋疾患を発症し、「右肺を押し潰すかたちで極度に湾曲したS字の背骨」を持つ「ハンチバック(せむし)」となり、車椅子を使用し仰臥時には人工呼吸器を装着した語り手の生活と困難が具体的に描かれる日常をベースに、健常者社会への鋭い批判が随所に仕込まれている。亡き両親が建てたグループホームで生活しており、一億を他人に融通できる資産を親から譲り受けたある種のひきこもりがその視点から世の中への批判を繰り出す、という点で阿部和重が選評でドストエフスキー地下室の手記』を引き合いに出しているのはなるほどと思った。

息苦しい世の中になった、というヤフコメ民や文化人の嘆きを目にするたび私は「本当の息苦しさも知らない癖に」と思う。「文學界」2023年5月号13P

せむし(ハンチバック)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。16P(括弧内はルビ・以下同)

「日本では社会に障害者はいないことになっている」状況から、自虐を含みねじくれながらも批判は鋭く、的確に刺してくる印象がある。怒りを内に滾らせながらも慎重さあって、そうでなければ「感情的」などと言って被害者を気取って批判を取り合わないでいられる健常者の姿を知っているからでもあるだろうか。

以下少々長くなるけれど障碍と社会の点で重要だと思った箇所を引用しておく。

障害を持つ子のために親が頑張って財産を残し、子が係累なく死んで全て国庫行きになるパターンはよく聞く。生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりとも溜飲を下げてくれるのではないか? 14P

私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。(中略)紙の本を読むたびに私の背骨は少しずつ曲がっていくような気がする。私の背骨が曲がりはじめたのは小3の頃だ。私は教室の机に向かっていつも真っ直ぐ背筋を伸ばして座っていた。クラスの3分の1ほどの児童はノートに目をひっ付け、背中を丸めた異様な姿勢で板書を写すのだった。それなのに大学病院のリハビリテーション科でおじさんたちに囲まれながら裸に剥かれた身体に石膏包帯を巻き付けられたのは私だった。姿勢の悪い健常児の背骨はぴくりとも曲がりはしなかった。あの子たちは正しい設計図を内蔵していたからだ。17P

紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残りページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい。出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ、と私はフォーラムに書き込んだ。軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の活躍の場を用意しているじゃないですか。出版界が障害者に今までしてきたことと言えば、1975年に文芸作家の集まりが図書館の視覚障害者向けサービスに難癖を付けて潰した、「愛のテープは違法」事件ね、ああいうのばかりじゃないですか。あれでどれだけ盲人の読書環境が停滞したかわかってるんでしょうか。フランスなどではとっくにテキストデータの提供が義務付けられているのに……。20P

1996(原文傍点)年にはやっと障害者も産む側であることを公的に許してやろうよと法が正されたが、生殖技術の進展とコモディティ化によって障害者殺しは結局、多くのカップルにとってカジュアルなものとなった。そのうちプチプラ化するだろう。
 だったら、殺すために孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない?
 それでやっとバランスが取れない?
(中略)
博物館や図書館や、保存された歴史的建造物が、私は嫌いだ。完成された姿でそこにずっとある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるものたちが嫌いなのだ。生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし、多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老化とも違う。
 本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた。
 生きるために芽生える命を殺すことと何の違いがあるだろう。23P

せむしとこびと

難儀する日常生活の描写も、それをベースにしている文章も、背後に確固たる土台(皮肉に響く)が感じられる。しかしそれは私が作者が当事者だと知っているから感じることかも知れない。そうした「当事者性」については作者自身も自覚していて、随所にそれに対する仕掛けが仕込まれている。障碍当事者による健常者社会への批判に留まるならそれは小説でなくてもいいかもしれないけれど、本篇はウェブ風俗記事という切り貼りでできた「コタツ記事」から始まっているのはその一つだ。風俗嬢は、語り手が決してなることのできない「人間」の象徴にもなる。

そんななか語り手「井沢釈華」は妊娠を「人間になれるチャンス」と呼ぶ。また同時に本作では「弱者」を自称する田中という男性が重要な意味を持っていて、釈華とのやりとりのなかで彼に対する軽侮の念、「インセル」「弱者男性」に対する差別心を露わにしており、被差別者も持つ差別心が書き込まれる。ネットの情報から釈華が妊娠と中絶がしたいと投稿したのを知った田中は釈華を蔑みなかば脅迫し、妊娠中絶を試みる計画の共犯者に近い関係になる。この時、釈華は田中に渡す金額を1億5500万円と決める。

「田中さんの身長分です。1センチ100万。あなたの健常な身体に価値を付けます」 27P

履歴書で彼の身長を知ったくだりはそんなこと書くものかと不自然だけれども、ここには決定的な侮辱がある。田中が弱者と自認するのはおそらくこの低身長と無縁ではなく、立てば釈華からも見下ろされる田中の一番痛いところを突くいやらしさがあることを示してもいる。それでいて「田中さんとの子どもなら呵責なく堕胎できる」という苛烈な一文には笑わされてしまった。グループホームから出られない障碍者と、その身長も要因かも知れないいじめなどの経験があってこのグループホームに来た田中とで、社会のイレギュラーな者同士のいびつな関係が描かれている。

そしてその後、障碍者の立場から健常者を刺す語り手の言葉は、健常者でも安定した居場所のない人間に屈辱を与えて逆に刺し返されるわけだ。当事者ではなれない立場からの切り返す視点。本作ではそうした尊厳の交錯が描かれており、お互いの尊厳の尊重といったような穏和さではなく、闘争的なところがある。そもそもが障碍者殺しの中絶に対する障碍者自身の妊娠中絶を持ってくるわけで、対立軸を浮き上がらせる闘争は本作の基調をなす。ここは、黄泉で腐敗した身体を見られたイザナミはお前の国の民を一日千人殺すといい、イザナギはそれならば一日千五百人を産もうといった神話を思い出させる。

生むことと殺すことがそうした神話的ニュアンスを帯びた闘争を演じている雰囲気がある。イザナミを読み込むの勝手な推測としても、後半でのエゼキエル書の引用、そして涅槃の花やシャカやブッダというアカウント名の仏教的要素など、ここでその位置づけはできないけれども、かなり意識的な宗教の引用があるのは確かだ。宗教という「物語」の示唆とも取れるけれども。

物語と当事者

ラストシーンは選評で賛否が別れた。突然の別の語り手の登場の意味が判然とせず、カットした方が良いという意見が多い。しかし、私の解釈が妥当かどうかはわからないけれど、ここはやはり重要な意味と必然性があり、それは「当事者性」と「物語」についての仕掛けなのではないか。

「私は29年前から涅槃に生きている」という釈華は冒頭のエロ記事やティーンズラブ小説(女性向けポルノ)で稼いだ金を行き場のない少女のシェルターやフードバンク、あしなが育英会などに寄付している。そして暮らすグループホームの「イングルサイド」は『赤毛のアン』由来だという。芥川賞受賞など本件では「当事者性」が云々されるけれども、障碍者やさまざまな「当事者」は不意に当事者になってしまうものではないか。釈華も当事者故に当事者以外の者になれない、不如意で壊れていく身体に縛られている。釈華が書くエロ記事なりTLなりのポルノはそうした身体の制約の裏返しだろう。

つまり「物語」こそがそうした「当事者」ではない者になる手段なのではないか。「当事者」でしかいられない現実を生きるひとつの方法なのではないか。

 私の紡いだ物語は、崩れ落ちていく家族の中で正気を保って生き残るための術だった。
 彼女の紡ぐ物語が、この社会に彼女を存在させる術であるように。37P

殺人事件加害者家族の述べた、本作末尾のここでは物語の二つの機能が述べられている。空想的な物語が過酷な現実を生きるよすがになることと、物語によって自分のような存在を社会に認めさせること。物語を読むことと書くことの二つの相だ。そしてもう一つが釈華がずっと望んでいた、別のものになること、だ。

赤毛のアン由来の名前のグループホームで生きる釈華は、物語によって生きることを示唆してもいる。本作の冒頭や末尾のような風俗、ポルノメディア的な物語は釈華のような存在にとって不可能でもそうなりたいような空想的な意味を持っており、「物語」とは「当事者」を超える夢なのではないか。釈華と沙花はお互いに読み・書くメビウスの帯のような構造になって、物語の二つの相のその両面が相互に乗り入れるようになっている。お互いがお互いを書く=生んでいるようなメタフィクショナルな構成は、妊娠することと人を殺すことをめぐる本作のもう一つのレイヤーだ。

つまり妊娠と中絶という本作の中心軸には、もう一つ「物語」をめぐるテーマが重ねられている。だからこそ冒頭は創作記事で始まり、最後は釈華の物語を沙花が書いたのかあるいはその逆なのかと疑わせる位相にあり、あるいは物語を「孕む」ことを示唆して終わっているのではないか。人を殺す物語を生むことで生きること。釈華が性にまつわる書き物で稼いだお金を恵まれない子の生きる糧にしようとしているのもそうしたねじれた関係の一つだろう。他者を生み、他者に成り代わり、別の現実を作り出していく物語についてのフィクション。

作者はこれが初めての「純文学」で、それまではファンタジー、SF、ライトノベルを投稿してきたというのは障碍当事者を超え出る物語を求めてではないかという気がする。そして本作でデビューできたというのは、障碍当事者でいることから逃れられない点で皮肉なことでもあったのではないか。読書に関する障碍者対応の遅れへの怒りが執筆の動機だともいい、記事などで当事者として扱われることを受け入れると語っていたから、声を上げるためににあえての行動で、そのあたりは分かった上でのことだろうとは思うけれども。

過日「当事者が当事者を描いた作品」で受賞したことを批判する意見を見たけれども、作者の投稿歴もそうだし「当事者性」についての問いが既に本作には埋め込んであって、そうした意見がいかに底の浅いものだったかというのが実作を読むことではっきりしたと思った。

この一連の発言だ。


おそらく、「重度障害者の受賞者や作品がこれまであまりなかったことを考えてほしい」という発言を報じた記事へのリアクションかと思われるけれども、本作を読む前にこれが流れてきてひどいものだと思ってツイッターでも反応してしまった。つまらなくなった読者が減ったのは○○のせいだという事実とは思えない単純化による煽動で、なんだか「ポリコレ」批判みたいな語り口だなと思ったし、ちょっとまえ文学賞受賞者が全員女性作家になったことがあったりしたけど、それも「当事者」と思ってそう、と思った。


こういう指摘もあるけれど、そもそも芥川賞井口時男が「社会と接点を持った文学賞」と表現してたのを先日聞いて上手い言い方だなと思ったように、被爆者、在日朝鮮人被差別部落、沖縄、トランスジェンダー様々な当事者がいたし、近年でも最年少受賞者や元ミュージシャン、芸人その他色々話題性には事欠かないし、想像力によって世界を構築するような作品が受賞する文学賞かといえばそうではないわけで。公募ではないものの新人賞だし。

色んな「当事者」がこれまでいたのに障碍者が獲った時に当事者性をあげつらうのは、よほどそれが気にくわなかったのかと思ってしまう。読書バリアフリーや障碍当事者の書き手など、この件は「文学」がこれまで限られた者たちの間だけで書かれていたというニセの普遍性への告発を含んでいるのに、この人はこの件で「普遍性」を失ったと書くわけです。かなりすごいなと思う。悪い意味で。参加者が開かれる意味での普遍性と作品自体の普遍性は別とも言えるけど、具体例を挙げるわけでもなく受賞作を読んだわけでもなさそうな書き方というのが、「ポリコレ」叩きでウケ狙いって感じがしましたね。「○○特権」を言い出すまであと何歩だろう、というか。

重度障碍者のリアルを描くには重度障碍者でないとならないわけではもちろんない。しかし、本作は読書バリアフリーの遅れといういないことにされていた障碍者の存在を描くという強い動機を持ったものが当事者しかいなかったというかたちでその普遍性への批判を突きつけたものだった。この過程において当事者だから選ばれた、というロジックはその死角を不可視化するものだし、芥川賞がそもそもそういう賞だったか、という点においても詐術的なものだと思う。

そんなことを思って作品を読んだらそんなことはもちろん「当事者」自身が百も承知なんだな、と。

www.nhk.or.jp

ラストシーンの解釈に困りながらも感想を書いていて、ある程度書いてもまだわからなかったんだけど、ある瞬間これは物語と当事者についてのテーマがある、と気づいて自分なりにようやく消化できた。「物語と当事者」の節より前はそのことに気づいてない状態で書いてる。新人賞選評でラストは要らないのではという意見があったのは、そのテーマに気づいてないというよりは、作中の健常者批判の新規性に対して、物語についての仕掛けが凡庸だ、ということなのかも知れない。

そして私は近年、漫画はほぼ電子書籍でしか買わないけれども、文字の本については紙の本しか買わない人間だ。専門の眼科に行っても原因を突き止められなかった目の不調のせいもあって、一日中ディスプレイを見ているということができないからだ。だからその点では作中人物が目は健康そうなのは羨ましいと思った。ここに老眼とかがきたらどうなるかはあまり考えたくない。

文學界」は最新号から電子版の配信を始めた。おそらく今作や作者の主張を受けてのことで、作品を選んだ雑誌としての責任を果たしたかたちだ。

きのこ、腿太郎、ライト文芸、文庫ノンフィクションなど

高原英理『日々のきのこ』

半分以上菌類に侵された人数が人口の半分を超えるという菌類支配が進んだ世界で、菌類と共生あるいは侵食され、意識ごと変容していく人間たちを安らぎにも近い感触で描いた連作集。幻想小説の心でSFを書いたような、『観念結晶大系』の菌類版と言えなくもない。

菌類に支配される人間というSFホラーになりそうな題材を、むしろ快さとして描いている小説で、SF的ではあるけれども夢想的な何ものかへの変容を描こうとしている幻想小説要素が主軸だろう。ふわふわしていて、ユーモラスで、穏やかな、鉱物幻想とはまた対極的な感触の小品。

ホコリタケを踏んで胞子の拡散を助ける仕事というのが最初に出てくるけれど、これが成立しているのは土地の皆がホコリタケに侵されているからではないか、というところから始まる。人間それぞれが個別に持つ意識に対して、菌類の特徴は自他の消滅と生命の限界まで伸びていくものだとされている。

菌はあらゆる物質に取り付き、生命あるものならその細胞の間に入り込み、その隙間を埋め、自他の区別を消滅させてゆく。生命たちを取り込み、また取り込まれ、生命の可能性を限界まで引き延ばそう。48P

印象的なのは「一〇八型粘菌」持ちのパート。胞子を撒くための粘菌の変容によって人間が空を飛ぶことができるようになるところは、『観念結晶大系』にもあった空への志向を感じさせて著者の一貫性を感じるとともに地下的な菌が飛散する空のテーマが鮮やかで本書でも特に気持ちいい箇所だ。

意識の変容、時間感覚の変容の証なのか、三つの短篇で構成された本書の二つ目の「思い思いのきのこ」はどうも部分部分で描かれていることが繋がりそうで繋がらないなと思っていたけれど、時系列が組み換えられてるんだろうか。一篇目44Pの時茸はこの二篇目の説明としてあるように思った。

三篇目では冒頭、一文ごとに文章を書くものの意識が入れ替わるようなところがあり、菌に認識を支配されかかっていることを描く実験的な箇所もある。三篇目の主軸となるジンレイというほとんど菌になってる菌人と旅人が同じ山小屋に住むくだりは、性別もわからない相手との性的な関係がエロティックで、菌となった身体が女性器にも男性器にもなり、旅人の男性との不可思議な性的結合は精液すらも栄養になる菌人にとっては得でしかなく、旅人の小屋の外でした排泄物すらも菌糸から吸収していて、この二人がほとんど同化していく展開自体が官能的。

意識があるということへの疲れや重荷を眠るように下ろし、プール一杯の水のなかに薄まることを志向する心性が、菌類に安らかに取り込まれる魅惑的な同化へと手招きするような小説で、読んでいるうちに描かれている不気味なことが不気味でないように感じられてくる感染性がある。

ばふんばふんから始まる擬音や造語やの文章の触覚的なところも印象的で、言葉を通じて食指を伸ばす菌糸のごとき文章なのかもしれない。二篇目のみ初出が10年前の短篇で、それを真ん中において説明ともなる導入の第一篇と発展部の三篇目を書いた形なのかなと想像する。

深堀骨『腿太郎伝説(人呼んで、腿伝)』

デビューから30年を経て著者初の長篇小説。GさんとBURさんに拾われた女性の腿から生まれた腿太郎という、桃太郎をベースにしながら小林旭など昭和の芸能ネタや下ネタの類を満載して自由すぎる語り口でドタバタ劇が展開する「怪作」の快作。

突拍子もない展開や奇抜なキャラクター、独自の造語をその場で作ったり自己言及やキャラが語り手に言及したりもする融通無碍な語り口の素っ頓狂な作風で、こういうのは場合によっては駄々滑りしそうという懸念が序盤はあったけれども、ノリに慣れてくるとネタが分からなくても楽しめた。

腿太郎以外にもバラバラになった女性の体から生まれた者が何人かおり、この「コミュニティ」こと村では、過去にある女性が行方不明になっていて、バラバラ殺人が行なわれた過去が浮上してくるというのが物語の土台になっている。この殺人事件には年長の男性たち村の有力者が関わっていて、彼らによって犠牲になった若い女性の遺児たちが協力して戦うことになる。桃太郎の敵にあたる「鬼ヶアイランド」は実は有力者たちと繋がりがあって、そうした社会構造の描写は現代日本を意識した諷刺的な設計だろうか。

また、腿太郎を拾ったGさんとBURさんは爺さん婆さんと思って読んでいると実は若いゲイカップルだったと明かされるところは文章ならではの意表の付き方だったり、諷刺的な社会構造同様、荒唐無稽のようでいながら男性社会とマイノリティへの意識も感じられる。ゲイカップルもいれば占師姉妹のように飲んだくれもいたり、奇抜なキャラクターばかりなのもフリークス的な登場人物それぞれの肯定という意味もあるだろうけれどもそれと同時に、「行き当りばったリズム」とあるような語りというかギャグが楽しめれば楽しい。

最終盤であれが急に言及されるところは嘘だろ?って思った。アレが伏線だったのか、という。パラテクストを利用したトリックというか。

支倉凍砂『瀬戸内海の見える一軒家 庭と神様、しっぽ付き』

東京で会社がなくなって愛媛松山の祖母の遺した家に住むことになった女性が、腹を空かせた化け狐の少年を拾い同居生活を始めたら、そこに龍神の少女や狸の美女も訪れるようになって、という異種族同居ものの中公文庫のライト文芸ぽい本。表紙を見て絵が良いなと思って、そういや女性主人公ケモミミ同居ものが読みたいと思ってたんだ、という気持ちになって買ったんだけど、そういう気分にしっかり応えるちょうどいいエンタメ小説という感じ。キャラが揃ったところで話が大きく動いていくので、平穏な日常パートがもっと欲しかったなと思う。

狼と香辛料』の作者だけど、にわかデザイナー志望の転職活動中の成人女性主人公で、狐の少年への龍神少女のほんわか恋模様を間近で応援するみたいなところとか、わりと女性向けに設定組んできたなと思った。イラストの感じも美少女も描けばBLも描いてそうな人の良さがあるなと思ったけど実際そういう感じ。途中ネットのバズに頼る展開があるんだけど、そこでツイッターが出てこないのは昨今の情勢を見てのことだろうか。狸の国だという松山を支配する年寄りたちに対する若者世代の反抗、というジュヴナイル的なスタンスは懐かしくもあり、ネット世代の反映でもあり。

ただ、老人が強いため未来志向の政策が通らず年金と医療費で国の予算が食いつぶされるなんていう話にさらっと触れてるところ(168P)は気になった。そういや死んだ祖母が残した家に転がり込むところから話が始まることを思い出して、この二つが揃うとちょっと嫌な感じが高まってくる。年寄りはみな一人で生きてる訳ではないので高齢者福祉を削減した場合その家族に負担が行くので話は簡単ではないとはよく言われる。この主人公はそれをうまく回避している。本書の反大人的な若者の抵抗という物語が高齢者批判のニュアンスを帯びるとなると話は変わるし、死んで遺産を残す老人だけが良い老人なのか、と訊ねたくなる。この一節は、権力者の老人批判が老人がお荷物だという批判にスライドしていく不気味さがある。経済に詳しいという人、しばしば経済合理性を人権の上に置くことをリアリズムと思ってそうなことを言うのでわりに警戒している。維新的、というか。

そして、本書では年長世代がはっきりとした名前を持って出てくることがほとんどないのはその点で気になる。家の持ち主の祖母ですらそうだし、土地の有力者との交渉は狸の千代さんが肩代わりしている。登場人物を絞る意味では理解できるけれども、上記の件があると不気味な含みを感じないでもない。

実際作者は愛媛に住んでいたことがあるらしく、住んでないとわからないような実感的なニュアンスがあるのはだからか、と納得した。松山市というより伊予北条のあたりに祖母の家があり、松山市の合併での巨大化ぶりにはツッコミが入ったりしてる。松山市の観光案内の趣もある小説で、グーグルマップで地名をたどりつつ読んだ。上記の気になるところはありつつ、日常パートを増やして漫画とかにすると良さそうだなとは思った。

杉井光『世界でいちばん透きとおった物語』

そういえばこの人読んだことないなと思ってちょうど新刊が出てたので買って、帯にネタバレ厳禁とあり話も死んだ作家の遺稿を探す話でまあその手のトリックがあるんでしょと思ってたら、それでもマジかよと驚かされた。トリックというか労力がすごい。こういうやつは作者が名前をイニシャルで出してる人がなんかそういうので有名な人らしいので類似例があるかも知れなくてマニアならまた違う感想かもだけど、よくやったなという感じだ。この仕掛け、作中のあれにしか意味がないのか、現実で利用できるものなのかどうか。

ちょい内容に触れるけど、犯人は早めにわかる。ただ本書が作中でノンフィクションとして書かれたものなのに、推理で特定個人を窃盗や器物損壊の犯人だと述べる文章がそのまま刊行されるのかと思うし、真犯人が一度も顔を見せないまま犯人として作品の外に排除される構成はえげつないなと思う。なんというか、感動的な話を仕組むための今作の犯人はまさに小説の設定を成立させるための装置でしかなく、それ故に人格も顔も名前も?与えられないようなものになっているところが気になった。しかしそれは見えるということが重要な意味を持つ本作においてあえてのことなのかも知れない。

やけに読みやすくてサクサク読めたんだけど、なるほどそれは仕掛けとも関係していて、なおかつこのリーダビリティゆえに仕掛けに気づかせないトラップにもなっていると思う。ある種の人はすぐ気づくかも知れない。しかしこれはこれで面白いけど大仕掛けなので別のも読んだ方が良いな。音楽ものとか。

柳瀬博一『国道16号線 「日本」を創った道』

日経ビジネス記者を経て現在大学教員をしている著者が、東京をぐるっと取り囲む郊外の象徴とも言える国道16号が走るエリアを日本近代の立役者として、また音楽文化の揺籃として、あるいは江戸以前から重要地域だったと主張する大掴みの16号線文化論。

「日本を創った」は過言だし論述が我田引水的になりがちで荒いところもあるんだけれど、このエリアに住む身としては色々面白く読める。そもそも私は免許を持っておらず専ら鉄道網で生きているので、道路からものを見る習慣がなかった。『生物から見た世界』でいう環世界の違いというか。

横浜横須賀などの港と生糸の生産で主要な役割を果たした八王子などの内陸部を繋ぐ重要なルートとして富国強兵の一端を担った歴史や、地形について、小流域という概念について、ユーミンクレイジーケンバンドに至る音楽の土台となった米軍基地の存在など、雑多な題材の情熱的闇鍋の観がある。

1945年、第二次世界大戦で日本が敗北すると、横須賀、横浜、相模原、八王子、福生、入間、柏などのちに16号線となる道路沿いに配備された旧日本軍施設は、進駐軍GHQに接収され、その多くが米軍基地とされた。結果、周辺は突如として日本のどこよりもアメリカに近い場所となった。映画、洋書、ファッション、家具、料理、酒、自動車……。まじりっけなしのアメリカ文化が流れ出した。そして米軍由来の音楽は日本の芸能を根本から変えた。36P

こうした戦後の音楽文化とのかかわりや、ユーミンが八王子の呉服屋出身だとか、矢沢永吉が横浜から音楽キャリアを始めたなど芸能史的エピソードが興味深い。

16号線エリアは「山と谷と湿原と水辺」がワンセットの「小流域」地形で、古来から人が好んで住んでいた場所だったという地形論の話や養老孟司の言う昆虫の独特の分布の仕方でわかることなども面白い。ただそれを16号線の特色として切り出すには比較検討の手続きが薄いと思う。激化する学生運動を都市部から剥がす目的で、法政大学、中央大学ほか私大などがキャンパスを郊外に移した、という歴史があるのはなるほどとは思うけれど、大学や城や貝塚がこのエリアには多数ある、というプロットの仕方も注意書きがあるようになんか恣意的な印象。

当時自由民権運動が高まっていた奥多摩、八王子、町田、立川、東久留米、三鷹、吉祥寺、調布、成城、喜多見などの含まれる三多摩地域の勢力を弱体化する目的で神奈川から東京に移管する、という話があり、これは大学の郊外移転と同目的の逆パターンだ。本書では触れてないけれど三多摩移管は他に水利権の問題もあるらしい。

相模原の古淵でヨーカドーとジャスコの巨大店舗ができたという話があり、あそこは友達の運転する車で通ることがあって、このエリアは何なんだろうと思ってたので有名な場所だったのか、と。「鉄道駅前よりもロードサイドが巨大な商業地区になった典型的な地域」、とある。

また、ブックオフ古淵で花開いたと書いてあって古淵店は行ったことがありあそこが一号店なのかと検索したら、一号店は古淵とはやや離れた相模原市の千代田にあったとあり、千代田は近いのはJRでは矢部、淵野辺、相模原なのでちょっと違う。現在本社が古淵にあるのは確かだけれど。一号店は確かに16号線裏手で古淵にもほど近い場所なので丸めればそういえるかも知れないけど、ちょっと気になる丸め方をしてるなとは思う。同様に、「16号線エリアは、あらゆる時代のあらゆる人間に好かれてきた」(252P)という末尾の一節も情熱がほとばしっているけど、どうかな、と思ってしまう。

ポケモン田尻智が町田出身とか解説が町田に縁のある三浦しをんなのとか、いろいろな文化をこの地域視点で見てみるという視点の置き方としては面白い。著者としては音楽、漫画、映画の16号線とのかかわりを論じたいという意欲があるようで、そっちのほうが面白いかも知れない。

ただ、16号線を論じるというなら鉄道との関係も比較対象として重要なんじゃないかと思った。都心で働く人が自然があって暮らしやすい郊外を選ぶという時の交通機関は鉄道が多いだろうし、環状道路と交差する放射状の鉄道網はセットで考えられてるはずじゃないかと思うので。

16号線エリアを擁する関東は、中国大陸や朝鮮半島から遠い上に、水害の危険もあり、当時の技術で大型都市をつくるのに適した規模の盆地や平地がなかった。関東平野はあまりに巨大な湿原であり、近世までの水利土木技術ではコントロールできない規模だった。266P

前近代では東京都心ではなくその周囲に重要拠点があったというのはこうした地形的な必然性があるというのは納得だけれど、16号がそこを走る地形的必然性への掘り下げが欲しかったかな。16号線の先行研究なども触れられてて参考文献が充実してるのは良い。

原武史『「線」の思考 鉄道と宗教と天皇と』

天皇と鉄道にまつわる著作を多く持つ著者が、北は北海道から南は九州までの鉄道に乗車し、天皇や宗教にまつわる土地を実際に訪れる紀行エッセイ。鉄道の走る空間とそこに潜む歴史の絡まりを体験的にも捉えようとする試み。「線」といえば前回『国道16号線』の感想を書いたけれど、こちらは道路ではなく鉄路が主題になっており、原本が一月違いで出ていた両書を同月に文庫化したのは線の思考としてワンセットだと版元が考えたからだろうし私もこれらが並んでるのを見てセットで買ったわけで狙い通りだった。

学者の書いたこちらのほうが色んなところへ赴く紀行文なのはちょっと面白い。鉄道マニアで天皇研究をしている学者なだけに、鉄道知識のよくわからない細かさや、記念館の新人ガイドの説明に詳細なツッコミを入れてこれじゃダメだと返してしまうなかなか面倒なオタクぶりはちょっと笑う。

軍都旭川の衰退を描く章もあるけれど、小田急江ノ島線沿いにあるカトリック学校の創設者の皇室とのかかわりから始まり、日蓮ゆかりの地が多数存在する房総半島、古代天皇の事跡と重なる阪和線新宗教の施設が多数ある山陽本線など、副題通り鉄道、天皇、宗教の関係を素描している。

上皇后が元々カトリックの家に育ちカトリックの女子大出身で、江ノ島線沿いにある聖心の布教姉妹会の前身聖心愛子会と関係があり、それをたどったところでは布教姉妹会がなぜかその創設者聖園テレジアを歴史から消しているという謎にぶつかるところは面白いけど、真相が明らかになるわけではない。バチカンの意向が働いているらしいけれど、その詳細は不明のままだ。戦後広大な土地を入手できたりと色々謎めいたところがあり、その謎が人脈とも絡まって皇室とカトリックとの意外な関係の糸口が見えてくる。

日蓮を追う章では、東京から房総半島東側の上総一ノ宮に向かうルートを陸地沿いに行くルートとフェリーを使って南側からまわるルートを繋げて、「房総三浦環状線」と著者なりに名付けている。前記国道16号を右にズラしたような環状線なのがちょっと面白い。なおここでは日蓮を襲撃した「東条景信」という私と同姓?の地頭が出てくる。実は私の父のさらに祖父が千葉にいたらしく、もしかしたらこの東條氏は私とも何か繋がりがあるのかも知れない。東條姓は徳島や千葉に多いらしく、千葉には東條郷、東條潘なんてのもあったらしいし東條英機は祖先が安房東條氏だという。遡ると同郷だったりするんだろうか。

九州での章では神功皇后への聖母信仰が取り上げられており、この聖母信仰はほぼ九州北部に限られるという。この中世からの聖母(ショウモ)信仰が浦上などに代表される九州のカトリック受容に影響しているのではないか、という推測は興味深い。

こうした知見を散りばめた鉄道旅行エッセイで、同行者と駅弁を食べたり行き先が地元のタクシー運転手も知らない場所だったり、色々なヒントを探りに行く、という風で必ずしも謎に答えがあるわけでもないけど、鉄道から見る歴史という視点は面白い。

奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

ボルネオ島に住む狩猟採集で生きる少数民族プナンの、感謝や反省をするということがなく、私有を否定する社会のありようを観察し、私たちの生きる社会との違いを考える文化人類学エッセイ。

狩猟採集民プナンの社会がどのようなあり方をしているかを題材に、毎回さまざまな文献を引きながら考察を加えていくまさに試論・エッセイのスタイル。すべての章にニーチェエピグラフが掲げられているほか、文化人類学、哲学、倫理学政治学、文学などがその都度参照され、著者の守備範囲も広い。

人から何か貰ったりした時感謝がない、というのはプナン社会で私有が否定されていることから来ている。狩りで手に入れた獲物は、誰が獲ったからだとかの傾斜配分をせず、必ず均等に成員に分配される。人のものを悪びれずに勝手に使ってしまうのも、人のものという観念がないことから来る。

慾を捨てよ、とプナンは言う。いわば、「本能」としての個人的な所有慾は、徹底的に殺がれる。つまり、人間には、生まれながら、自動的に共同所有の観念が植えつけられているわけではない。個人的な所有慾は殺がれ、後天的にシェアする心が養われる。
 なぜ、プナンは、独り占めを忌み嫌い、隣人にも分け与えようとするのだろうか? なぜ、みなでシェアしようとするのだろうか? それは、その場にいるすべての人間存在に、すべてのプナンに、自然からの恵みに頼って生き残るチャンスを広げるためではないだろうか。「今」分け与えて、あとで、「ない」時には分けてもらう。そうすることで、互いに支えあって、みなで生き延びることができる。個人所有を前提として貸すとか借りるのではない。そこには、ある〈もの〉はみなで分かち合うという精神がある。126P

いつ獲物が手に入るかわからない狩猟採集社会ではこのように均等配分を徹底することで、他日に受け取れる保証となる。こうした何ごとも状況次第な環境や、学校にも行かないプナンには、近代社会的な向上心や将来性といった観念がなく、「今を生きる」実践ゆえに反省が意味をなさない。

このような私たちの社会とはまるで異なる様相で成立しているプナンの生活は確かに、自分たちの社会を相対化する契機として非常に面白くはあるけれども、私的所有がないということは人権もない社会ではないか、という気もしないではない。プライベートという観念もなく人権以前の社会ではあるだろう。人権が必要とされるような社会的抑圧がそもそもない、というべきかも知れない。そういう尺度で見ようとすることが誤りだろう。赤ん坊の頃からの私有を否定する教育がなされるくだりの描写は、プナンがありのままの姿で生きているというユートピアではなく、その社会にはその社会の教育がある証左だ。

一つ思うのは、プナンの社会は非常時・緊急時が常態化したもののように見えるところだ。資源の独占を禁止したり子供たちも皆で育てたり、すべては状況次第で今しかない、将来性を考慮しない思考スタイル。プナンでなくとも、緊急時・災害時にはある程度プナン的な社会になるような気もする。私有、人権、未来、将来、学校等々、近代社会の常識的な観念は平常時というか、農耕社会的なものがあって始めて生まれるのかも知れないなんてことを思った。つまり、そうだとしたらプナンから学ぶとは一体どのように学ぶのか、それを私たちが何かしら取り入れることが可能なのかが気になった。

死者に戒名を与える日本と死者の家族が名前を変える葬送儀礼の違いも面白い。名前はおろかその人の身近な家財道具を焼き払ってその場を立ち去るという死者の痕跡をあらゆる形で消去するプナンの慣習は感染症対策にも似ている。

しかし本書で一番驚愕したのは日本でのことだ。著者が過去小学校で女子には男性器がないことを不審に思った小四男子が女子の下半身を触りだして騒動になった時のことを著者はこう書いている。

青木先生は、ある日のホームルームの授業でこの問題を取り上げた。先生は、最近女子の下半身を触ろうとしてくる男子がいます、と優しげに語り始めたが、名指しして、高橋くん、女の子が嫌がっています、そんなことは学校ではやるものではありませんよと、みなの前で高橋くんを諭した。 同じクラスには、高橋くんと同じ家に住んでいる彼のいとこにあたる、同じ高橋姓の女子がいた。青木先生はそれに続けて、もし女の子にどうしてもそんなことをしたいのなら、家に帰ってから、いとこの高橋さんにお願いして触らせてもらいなさいと付け足したのである。211P

おぞましいにもほどがあると思った。担任は女性教師だという。学校での問題を女の子一人を生贄に解決する提案が教師からなされるというのに本当に驚いてしまった。学校でのことは家庭に押しつけてことなかれ、という態度も見えるし、著者がこれに当時は良い解決だと感心したというのも、ちょっと、どうか、と。

現代人とは隔絶した生活をしている民族を描く人類学エッセイで一番驚いたのが七〇年代の日本でのこと、というのに色々考えなくもないけど全体には興味深いエッセイだ。


よく見ると分かるけど杉井光からの四冊はすべて同月に出た新潮文庫の新刊で、なんか気になるのが複数まとまっていたので、ちょうどよい、とまとめて買ってまとめて読んだ。ノンフィクションも含めていつもなら読まなかったかも知れない本をあえて買ってみたもので結構面白かったかな。

ジャン=ルイ・ド・ランビュール編『作家の仕事部屋』

バルト、レヴィ=ストロースル・クレジオビュトール、モディアノ、サガンソレルストゥルニエ等々1970年代フランスの錚々たる書き手に仕事の方法、執筆の仕方を聞くインタビュー集。筆記用具、部屋、時間、さまざまなこだわりが読める。

収録作品:作家の仕事部屋/ジャン=ルイ・ド・ランビュール 中公文庫 - 紙の本:honto本の通販ストア
リンク先にもあるけれどインタビュイーを列挙する。
ロラン・バルト
アルフォンス・ブダール
エルヴェ・バザン
ミシェル・ビュトール
ジョゼ・カバニス
ギ・デ・カール
エレーヌ・シクスー
アンドレ・ドーテル
マックス・ガロ
ジュリアン・グラック
マルセル・ジュアンドー
ジャック・ローラン
J・M・G・ル・クレジオ
ミシェル・レリス
クロード・レヴィ=ストロース
フランソワーズ・マレ=ジョリス
J・P・マンシェット
A・P・ド・マンディアルグ
パトリック・モディアノ
ロベール・パンジェ
クリスチアーヌ・ロシュフォール
フランソワーズ・サガン
ナタリー・サロート
フィリップ・ソレルス
ミシェル・トゥルニエ

ノーベル文学賞受賞者を含む名だたる書き手によるインタビューで、とはいえ半分近くが知らない作家だったし読んでない人の方が多いけれども、それでもバラエティ豊かな書き手の各人10ページほどでその人にとって書くとはどういうことかというのが語られていてだいぶ楽しく読める。仕事風景はそれぞれにとってどうしたら書けるかという試行錯誤の末に選びとられたスタイルなわけで、信念の体系というか迷信の体系というか、各々の困難と解決法はその人固有のもので共通の正解はない、とは解説にもある通り。

決まった時間に書く人、一気に書く人、筆記用具にこだわる人、こだわらない人、カフェで書く人、都市で書く人、静かな場所で書く人、観察する人、想像する人、聞く人、手書きの人、タイプする人、口述する人、異常な回数推敲する人、名義で違う書き方をする人、色んな人あるいはやり方がある。


最初に置かれたロラン・バルトの章では彼はこの質問に対して、「多くの人々が一致して、ある問題をとるに足らぬものと判断する時、一般にそれは重要な問題だということなのです」27P、と非常に前向きに捉えている。最後から二番目に置かれたソレルスとかなり対照的だ。

エレーヌ・シクスー「私が耳を傾けようと努めるのは沈黙であり視線であり肉体が語る時の語り方です。私は禁じられたものについてしか仕事しないのです(私のテクストが難解なのはそのせいです)」111P

ジュリアン・グラック「『森のバルコニー』を書くまえ、私は非常に生き生きした、非常に強烈な戦争の記憶をもっていましたが、今ではそれがより漠然としたものになっているのに気づきます。とりわけそれらの記憶が生気を失い、反響も延長もひき起さないのです。小説を書くと、人はそれだけ貧しくなる」142P

マルセル・ジュアンドー「創作したものなんて、なにもありません。私は想像力をもっとも軽蔑しています。それに私自身、想像力などというものをほとんどもちあわせていませんしね」150P。ジュアンドーは「私は生きた録音機だという事実があります」とも言っている。あと面白いのは次の一節。「私にとって絶対に不可欠な条件があります。私の仕事場は、住む家の最上階になければならないということです。私は信者です。自分の上に空があることは容認します。容認できるのはそれだけです」157P。これはあまり聞いたことのないこだわりで面白い。

ジャック・ローランはその名義での仕事は手書きで行ない、セシル・サン=ローランという「通俗歴史小説」を書いている名義では口述するという使い分けをしている。ジャック名義では綿密なプランを立てないけれど、セシル名義ではプランを作る、という違いもあるという。

マンディアルグが書けない時は無害なヴォルテールを読むという話の次にこう述べている。「ついでにあげればピエール・ロチの文章のいくつかも、その点では有効かもしれません。彼はとどのつまり馬鹿でしたが、文体という点では比類がありませんから」230P。ひどいことを言う。

ロベール・パンジェが朝起きてまず何も飲み食いせずに数十分仕事に取りかかる、正確に言えば「文章をひとつ産み出すまで」。それさえ出来ればメカニズムが始動できる、というのはわかるところがある。取っ掛かりを作るまでが大変で、そこで調子を決められればあとはそれを伸ばしていける。

クリスチアーヌ・ロシュフォールが、途中放棄した原稿をある時読み直して続きが書けることがあるという話で、「トマとクリストフという二人の若者の真実を発見した時、言いかえれば《友情》という言葉を《愛情》と言い換え」ることで続きを書けたというのがあって、BLを発見している、と思った。

フランソワーズ・サガンは「口述すれば、そのたびにテクストの調子を自分の耳で聞くことができます。読み直す手間が省けるので、時間の節約になります」269Pと言っている。口述筆記の利点はそういうところもあるのか。

しかしソレルスのインタビューは初っ端からこう切り出しててさすが前衛作家だという感じ。
「あなたに自分の書き方を話すだけで満足している作家たちは、まさにその点で、彼らの仕事観がいかに伝統的で物神主義的であるかを証拠立てているのです」「秩序壊乱的な作家はすべて、逆に、仕事が絶え間なく不断になされることを強調しています」「作家というものは四六時中言語の生産のなかに浸りきっているわけですから、その立場を定義できるのは、眠りや夢もふくめてその生全体との関係においてだけなのです。それが私の出発点です」289P。


アルファベット圏だと手書き、口述の他にタイプライターがある、というのは書く時に結構な日本との違いがありそうな気もしないでもない。概ね清書の時に使うようだけれど、バルトもル・クレジオもタイプができなくて、「二本指」で打っているという共通点があったりする。

なお、ロブ=グリエにインタビューはしたものの、雑誌掲載前に推敲のため原稿を数か月預からせて欲しいと主張したため、本書に収録することは諦めざるを得なかったらしい。この不在もまた、彼流の一つの仕事の仕方といえるかも知れない。

私はまだスマホで文字を打つのが苦手というか思ったことをこれでは表現できないという気分になるので、最終的にはPCのキーボードでないとものが書けない人間になっている。手書きももどかしいし、ノートパソコンのキーボードも間に合わせにしかならない。家のPCが必須になってる。

これを書いてる時聴いてたラジオで、鷲崎健は新幹線の席が一番集中できる、ということを言ってて、原稿にしろ作曲にしろ、新幹線が一番良いという。それしかできないという状況が良いというのはありそうだけど、私は外では簡単な作業しかできないな。

本書は担当編集様より恵贈いただきました。ありがとうございます。

室井光広『おどるでく 猫又伝奇集』

初期小説集二冊に未収録短篇やインタビューなどを増補した著者初の文庫本。著者の故郷南会津を「猫又」と呼ぶ一連の作品は「猫又拾遺」の土俗的奇譚・幻想譚から始まり、方言、外国語、外国人など言語の土俗性とその外とが交錯する「翻訳」の主題が貫かれているように読める。短い奇譚を集めたかたちの中篇「猫又拾遺」を見返してみたら最後の「魂柱」が、在日外国人が一度母国語で書いたものを日本語にしたという翻訳を介した手紙だとされていて、マラルメの翻訳の引用で終わるこの「猫又拾遺」の結句から「和らげ」まで、「翻訳」という問いが通底している。

どうも読んでいると著者は「言語」とは「翻訳」なのではないか、「翻訳」が言葉、言語の本質をなすものだと思っているのではないかという気がしてきた。方言と外国語、ローカルと世界、固有性と普遍性、読むことと書くこと、これら諸要素を通じて言語を捉えようとしているように見える。本書で著者は郷里南会津を一貫して舞台にして、その方言の語義を探ったり解釈したりするけれど、一度都会に出てその後故郷の方言を探求することは、母語を外国語に翻訳する過程と相似の構造を持っている。著者が故郷を描くことと翻訳が主題になることにはそういう必然性が感じられる。

一見小説らしくない小説を書いていて、カフカについて単著があることなど、私としてはやはり後藤明生が連想される。拙著『後藤明生の夢』で太宰治連作『スケープゴート』について、ものを書くことは言葉から声や表情を切り離し、つまり故郷から切り離されるという箇所に言及したことがある。室井光広は「翻訳」を通じてそれとは別の行き方をしている。書くことの原理が故郷喪失だとすれば、翻訳の原理は帰郷と言えるのではないか。本書収録作品にはそう考えさせるものがある。してみると、ジョイスに関するエッセイが収録されている本書と、あるいはジョイスユリシーズ』と『挾み撃ち』の関係についても何か言えるような、ないような……

それはともかく。「猫又拾遺」は猫又を舞台にして短い短篇を連ねた猫又奇譚集という塩梅の中篇。これは結構面白いなと思っていたけど個人的には次の作品「あんにゃ」が本書のなかでは一番好きだった。傑作という点では他作に譲るけれども個人的にはこれが良かった。

「あんにゃ」は喉頭ガンで声を失った兄と語り手の妹の関係を描く短篇で、語り手の戸籍上の兄はある時産着に包まれて父の病院に置かれており、兄は実の親を「犯人」と呼んでいる。その犯人をめぐるミステリー小説のスタイルでは語り手は書けない、というところから始まる。この兄と妹の「共作」が子供の頃の作文、そして声を失った兄の短い言葉から妹が長い物語を引き出すようになる末期の二人の共同作業の様子はとても感動的だった。

兄がホワイトボードに文字を綴った二年ほどの間、私は兄の声を供養していたことになる。兄が眼の前にいるのに、声だけが死んでいる。ちょうど祖母の口寄せと逆の状態だ。95P

二年の間、兄が筆記する言葉の断片から言いたい内容の全体をおしはかるトレーニングを、私はむしろ楽しんだ。このため、兄の短い文字ひとつに対し、私の言葉は洪水のようにあふれた。〈そうじゃない、俺がいいたいのはそんなことではない〉といった苛立ちを兄はほとんど示さなかった。兄が、まるでタイトルのように字を書くと、私はそういう標題の短い物語を一気にまくしたてる。兄も、きっと二人して合作する小説家のつもりだった頃を思い出していたと思う。私たちに共通の思い出にまつわるキーワードのようなものを兄は選び出し、ゲーム感覚で書きつける。たとえば「象の水」と。すると、私の脳裡に、なつかしい場面が浮かんでくる。そうそう、そんなことがあったわねえ、あのときは三人で大笑いだったわねえ、と私は語りはじめる。97-98P

声とイタコ、代弁、筆談など書くことと声のモチーフも興味深く、血のつながりのない二人が、ひとつながりの言語機能を持っているかのような時間を過ごしているさまは読んでいてとても沁みるものがあった。兄の言葉の代弁、代言、これも俗に言う翻訳だろう。しかし、もしかして実の親は作中の情報から類推できるミステリ的な仕掛けがあるんだろうか、とちょっと思った。

そして「おどるでく」は傑作。東北の寒村でローマ字日記ならぬロシア字日記を見つけた語り手が、その子供の頃からの友人の日記を日本語に翻字しながら書くこと、読むこと、言語の営みのなかに住まう幽霊的存在=おどるでくを見つけ出す怪談でもある。非常に面白いけれども説明もまた難しい。郷里の友人の書いたロシア字日記を翻字するというプロセスをベースにしつつ、カフカの「オドラデク」ならぬ「おどるでく」を「踊る木偶」?とも読み換えたりしつつ、それを「おんぞこない」(御損ない)「やくざれ」(役立たず)「おいなしっぽ」(生い無しっぽ? 成長し損ない)など方言(作中の方言は半分くらい創作したもの、と著者が後の併載インタビューで語っている)と絡め、部屋の隅に住まう「スマッコワラシ」という土地の幽霊的存在とも結びつける。著者は平成新難解派などと呼ばれた一人で思索、考察が多めの批評寄りのスタイルではあるけれど、特に文章が難しいわけではない。書かれていることの広がりを捉え切れているかが難しい。

おどるでくは要するに(と私はそのあいまいさにがまんできず一義的な定義をする)幽霊である。いや単なる幽霊ではないと氏に反論されるだろうから、霊的存在といいかえる。182P

小説が語られる内容で勝負するとしたら、おどるでくは語り方、その表層に姿を現す。191P

ここ一年間の私の翻字作業が翻訳の名に値するかどうかは別として、あらゆる翻訳は最終的に原作の行間にただようおどるでくを読者の心底にうつすことを目的とするといっていいだろう。そのうつし方は、病気をうつすようにしてなされる。198P

存在しない言葉、より正確にいえば、実在する言語の意味を捨てて読みと文字だけを採用した段階でわがイロハは産声をあげたのであるから、氏の指摘通り、日本語は幽霊=おどるでくそのものといっていい。228P

郷里の友人が異言語の文字で記した日記を翻訳しつつ、それと自分の記憶をすり合わせて他者がものを書くことの意味を考えながらそれを読み解釈していくことで、方言含めた寒村の固有性と翻訳という普遍化への回路を見出し、言語とは何かを問うていくことが「おどるでく」に込められたもの、だろうか。

感動的だったのは肥田岩男の二大事件についての箇所だ。伊勢神宮式年遷宮に遠い地にもかかわらず大工として呼ばれたことと、小屋を建てたり伐採したり炭焼きをしたり牛馬の病の簡単な手当が出来たりといった故郷で生きるための「最低限の技術」がシベリアの収容所で労働英雄として賞賛されたところだ。「「御損ない」(専門家でない)」の生きるための技術が遠い異国で賞賛される技となること、ここに翻訳という営為にも似たものがあって、これが幾つもの方言とともに語られるのも本作のコンセプトを示している箇所だとも思う。

ロシア字日記の元ネタと言える石川啄木のローマ字日記やキリスト教の懺悔録などを引き合いに出してもいて、ロシア字日記、ローマ字日記に懺悔、告解という私的行為とそれを印刷する「写し」という相反する行為にも「おどるでく」が関わる。キリスト教は本書で随所に出てくる。

ほかに「大字哀野」、オオアザアイノと読むべき地名を舞台に、ユダヤ人と中国人のあいだに生まれ「アイヤー」という中国語の感動詞を使うことで「アイヤさん」と呼ばれている医者を軸に、彼と語り手の妹の国際結婚にいたる往時を振り返るオウジアイヤという読み換え・言語の交錯をめぐる中篇や、「和らげ」という単行本未収録だった短篇はまさに翻訳や語注、辞典の別称としての「和らげ」という言葉を主題にした作品で、「キリシタン版『エソポ物語』」が出てくるキリスト教要素もあり、「木偶人形」の劇という「踊る木偶」との繋がりもあったりして、裁判、夜尿症、神がかりの祖母など幾つもの作品に共通して出てくるものがあるだけではなく、この猫又サーガを通じて翻訳、方言を通じて言語を考えるベースが一貫していることがわかる。


二作についてばかり書いてしまったけれど、というわけでこれは非常に面白かった。この人の文章は「群像」に載った「『ドン・キホーテ』私註」を読んだなという記憶しかないけれどその頃からいくらか興味はあって『おどるでく』の単行本などは持っていただけで積んでいたんだけれど、故郷と方言と言語と翻訳をめぐってこういう小説が書かれていたというのは知らなかった。
inthewall.hatenadiary.com
本書は担当編集様より恵贈頂きました。ありがとうございます。

八杉将司『LOG-WORLD ログワールド』

LOG-WORLD

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月の磁場から発見された地球外生命の残した知識を用いた技術革新によって発展した近未来、さらに月には人類の記憶ログが埋め込まれていることがわかり、そのログにアクセスして調査する仕事に関わることになった主人公が、この世界、この私の唯一性をめぐる事件に遭遇するSF長篇。歴史と可能性、情報と生命、分岐したもう一人の自分、仮構された現実などなど、この私は本当に自分なのか、この世界は本当に現実なのだろうか、という意識・自己のテーマをヒトラーの死んだ改変歴史やフッサールとの出会いといったSF・哲学を用いて正面から問う青春小説SFでもある。

急逝した著者が生前pixivにアップしていた小説を、個人が作った版元からAmazonのオンデマンド出版で刊行した上下二段組300ページというボリュームの作品。情報の海から回答を探り出すAIシステムはChatGPTを想起させるし、突如第一次世界大戦の戦場に放り込まれ右往左往する描写も含めて扱われている題材は公開時以上に身近かも知れない。

主人公は18歳で結婚した新田瑞樹、妻は雨子。妻が月で従事していた仕事に瑞樹が誘われるところから話が始まる。瑞樹は人工子宮で生まれており、雨子の母がそれを嫌悪した差別発言のために雨子は母と絶縁しているという背景がある。このイレギュラーな発生は作品全体に通底するものにもなっている。月の磁場に埋め込まれた人類のログ、ログワールドの探査というのは他人の主観的記憶を覗き見ることしかできず、誰のログにアクセスできるかはランダムだ。まるで他人のFPSゲームのリプレイを見ているようなものと思えばいいだろう。しかし主人公がアクセスした時、なぜか身体操作ができるというイレギュラーが起きる。

再度アクセスした時、上司は時代と場所からそこに一兵卒のアドルフ・ヒトラーがいることを突き止め、ヒトラーを殺せと瑞樹に秘かに指示を出す。その指示に従うか迷うちに、瑞樹の目の前でなんとヒトラーは戦死してしまう。そして瑞樹は現実世界との通信が途絶し、現地の青年の意識に閉じ込められてしまう。見ているだけのはずが身体操作ができるようになり、さらにはログアウトできなくなるという事故が起こったわけで、ゲーム世界転移ものに近いかも知れない。しかし、本来の瑞樹は事故のあと本来の世界で目覚めており、ログワールドに取り残された瑞樹とは事故によって分岐してしまったことになる。

瑞樹がアクセスしたログの持ち主は第一次世界大戦の戦場にいたドイツ語を話せるインド人青年で、瑞樹はその人物を乗っ取る形で、しかし彼の記憶などがいっさいわからない状態で生き抜かなければならなくなる。瑞樹が分岐したのはこのヒトラーの死の直後だった。そしてヒトラーの認識証を持っていたため、ヒトラーを名乗って生きることになった瑞樹がその後部隊で出会ったのが、フッサールの息子二人だった。

こうして、改変歴史にかかわるヒトラー現象学とこの世界の唯一性の問いを担うフッサール、この両者を組み合わせてこの自分・世界はリアルなのかログなのかという問いや、人間とは何か、意識とは何かを問うていく大がかりなSFの仕掛けが露わになるとかなり面白くなってくる。

「人間が戦争の本質であり原因か」195P

「ログワールドは単純な記録ではなく、人類の精神世界です。意識によって構築される世界でもあるので、現実にはなかった会話も認識を再構築することによりできています。つまり意識を持つことは、自分の中にログワールドを作るのと同じことだと言える。ひいては実際のところ現実もログワールドも同じかもしれない……」221P

フッサール教授は、自由とは身体によってもたらされた概念だと述べられた。そうであるならログワールドの人々にもそれぞれ独自の自由を持っていてもおかしくない。そんな自由を備えた身体には、主観性のある自意識が宿っているとみなされるべきだ」296P

「幸福とは、死がある人生を持った人類が創作した価値観にすぎません。死がなくなったことで新たな価値観が創作されるとは思いませんか」260P

これ以上は内容に触れないけれども、地球外生命の関与にしろ、実験の事故によるものにしろ、偶発的に生まれたものをそれでも肯定していくポジティヴな姿勢が爽やかな読後感を与えてくれる。人間の定義から外れたものを否定するか、定義の拡張に至るか、その葛藤。

歴史改変と哲学的疑問がヒトラーフッサールに代表される形で題材となっていて、インド人の青年がアドルフ・ヒトラーと呼ばれてフッサールの息子達と親交を深めるという展開として描かれているのがなんともおかしく魅力的なフックになっていて、これがきちんと出版されたのは良かった。ウェブに公開されていたのは知ってたけれど、紙の本でないと読む気が起こらずタイミングを逃していたので。

膨大なログの集積とそこに生まれる知性、そして身体性について、人間とは何かという問いについての本作の問いの構成は今井むつみの以下の記事と素材が共通してもいるけれど、色々違っているのが面白い。現今、ChatGPTが身近になったことで本作の問題意識はよりリアルに感じられるのではないか。
chuokoron.jp

しかし、瑞樹が憑依したドイツ語を話せる謎のインド人青年、史実に何か元ネタがあるんだろうか。

同作者同版元からは電子版短篇集成が出ている。原稿用紙800枚を超える分量の短篇を収めたものとのこと。こちらは未読。

『Delivery』をめぐるジュンク堂でのイベントには私も参加したことがあり、その映像が残っている。
www.youtube.com

「リベラシオン」190号に鶴田知也についての記事を寄稿


リベラシオン 人権研究ふくおか」190号(2023年夏)に「鶴田知也再考――『リベラシオン』第一八九号を読む」を寄稿しました。表題通り前号での鶴田知也特集に寄せられた論考にコメントをしつつ、私の鶴田知也論と後藤明生論についての概要を紹介した記事です。

後藤明生の夢』のあとがきに書いた通り、後藤を論じるのに朝鮮引揚げという観点を軸に据えることにしたのは、その前に鶴田知也論を北海道・植民地・アイヌというアプローチで論じたことの延長だったわけです。奇しくも鶴田も後藤も福岡に縁のある作家で、この両者を植民地問題を通じて繋げつつ、鶴田知也アイヌ差別に抗したという側面だけではなく体制翼賛に加担した時代のものも含めてその可能性と限界を視野に入れることが必要なのではないか、と主張しています。

鶴田知也研究において私の評論を参照したものが少ないという問題意識から今回の依頼になったとのことで、たいへんありがたい話だと思います。事実、鶴田の戦前の作品のほとんどをカバーした評論というのはあまりないように思うのでアピールする甲斐もあるんじゃないかと。雑誌は今はまだ一般流通前のようでどこの書店でもリストに出てきませんけれど、以下のサイトやhontoなどネット書店でも買えるようです。
福岡県人権研究所
福岡県人権研究所の書籍一覧 - honto
honto.jp

books-f-jinken.raku-uru.jp


以下、書く時に参考にというかついでに読んでいた本。

道籏泰三編『葉山嘉樹短篇集』

戦前プロレタリア作家の代表格ともいえる作家の選集で、「セメント樽の中の手紙」「労働者のいない船」「淫売婦」という三大短篇は入っているけれどもそれ以外は角川文庫や岩波の旧版ともかぶらない短篇が入っていて、結構独自の編集と思われる。既述の短篇は定番なだけに出来が良くて、葉山には短篇が上手い作家という印象があったけれども本書ではそういうのとは別の側面、解説では「グロと暴力」が階級闘争の理念よりも前面化してしまう「肉体から発する言葉」に着目していることが述べられていて、なるほどそういう作品が多い。

作品に現われた「グロと暴力」とはつまり「裸の人間」への視線、「最底辺の人間に対する思いやりと慈しみ」ゆえに現われるものだと編者は指摘している。そしてそういう陰惨さへの関心が怪奇小説的あるいは「痛快な「残酷趣味」」という側面に繋がっていくとも述べられている。困窮、悲惨は今でも見せ物的興味を喚起するわけで、労働者――人間の置かれた悲惨の果てを見せ物にして生きている姿を描いた「淫売婦」がまさに生身の人間ひいてはプロレタリア文学の似姿として自覚的に選ばれているようにも見える。見せ物性を逆用して突きつける方法。

このことに作家はかなり自覚的だったようで、「猫の踊り」という作品にはこうある。

猫に、踊りを教え込む時は、焼けた鉄板の上に載せるのだそうだ。猫奴、足が熱いものだから、飛び上ったり、逆毛を立てたり、後足で立ってみたり、前足で逆立ちをやったりして足の熱さを冷まそうとするのだ。これが習慣になったのが、猫の踊りと称される奴だ。
 ところがどうだ。
 私たちの足の下も、焼けた鉄板なのだ。138-139P

「人間肥料」という作品にはこうある。

プロレタリアートの前衛は、も少し朗に、快活に、闘争的に私を歓待してもいいではないか。これでは全でプロレタリアートの解放なんかという考えはケシ飛んでしまって、グロテスクな作風を好む、作家の気味悪い仕事部屋へ連れて来られたようなものだ。110P

「グロテスクな作風」の「猫の踊り」を踊ってみせることへの自覚的態度の先に、「裸の命」の主人公として出てくる「中西には、売るための労働力さえなかったのだ」というところからの思弁性が出てくる構成にもなっている。最後に置かれた「安ホテルの一日」での生命保険に入ってからのくだりも示唆的だ。

私は私の命を味気ないものに思い始めた。早く死なねば損であるし、生きていればいるだけ、私は自分の命に支払いをしなければならないのだった。今までは漫然と生きていられたのに、今では生きているのに、何か一つ立派な云い訳の立つような理由を、発見しなければならなかった。306P

身体がコンクリートとなり建築物の一部となるところから始まり、生身の体さらには命そのものが投機の対象となり、自己自身と生命すらが剥離していく感覚に行き着く構成なのかも知れない。

紅野謙介編『黒島伝治作品集』

岩波文庫の旧版四篇に新たに作品やエッセイを加えて再編された作品集。シベリア出兵に従軍した黒島を移動・越境の文学として捉え、村内と村外の境界や、シベリアでの異民族との遭遇、そして肺を患い帰郷した郷里小豆島でのスケッチに至る流れがある。

最初の「電報」は村内でのヒエラルキーに抗して成績優秀な息子を村外の学校に行かせようとした父親がさまざまな圧力に負けて試験を通過した息子にすぐ帰れと電報を打ってしまうまでを描いていて、近代的な学業による階層移動とそれへの共同体側からの抵抗の一断面になっている。

「老夫婦」は逆に、都会に出た息子のもとに身を寄せた老夫婦が畑のない都会の暮らしに慣れず、田舎に帰ろうとする話で、いざ外に出ようと思っても地元に引き寄せられてしまう力学は作者自身のその後を思わせるようでもある。

労働争議をめぐって、差し押さえに対抗するためすべての豚を野に放って誰のものかわからなくする作戦のさなか、地主側につく裏切り者が出るかどうかの攻防を描いた「豚群」はプロレタリア文学でも特に爽やかな読み味があってやはり良い。

近代日本が領土拡大を目指し、シベリア出兵に至る時期、従軍した経験を生かした「橇」と「渦巻ける烏の群」はいずれも国の支配者がのうのうと後方で指示を出して戦争をけしかけ、それによって前線でいかに無駄に人命が失われるのかをシベリアの雪の荒野を舞台に描いたもの。

でも戦争をやっとる人は俺等だ。俺等がやめりゃ、やまるんだ。98P

と「橇」で気づいた兵士たちが軍紀に抵抗し処刑される。ここでは兵士たちは何の恨みもないロシア人となぜ殺し合うのか、と疑問を呈し士気が上がらない。だからこそ、敵対、被害者意識を煽って恨みを醸成しようとするわけだ。

「穴」は葉山嘉樹の「労働者の居ない船」と似た感触がある短篇で、偽札が出回った時にその主犯を老いた朝鮮人に決めつけて処刑しても、偽札はウィルスのように出回り続けることで差別という穴に自らはまってしまう愚かしさが描かれる。

兵士が中国兵と苦難をともにして仲良くなり、それを上官に見咎められる「前哨」も反戦文学の一作だ。

後半は黒島の郷里小豆島を描いたと思しい作品が印象的で、作品にしばしば出てくる醤油屋を題材にして小村で労働運動の立ち上げに尽くした老人の生涯を描く「岬」、そして未発表の遺稿で未完の連作の一篇らしい「小豆島のスケッチ」は台風一過の島で災害で死んだ事件も利用する人々のたくましさを島の自然、風景とともに描いていて続きが書かれなかったのが惜しい。ほかに軍隊経験、プロレタリア作家としての自画像、小豆島についてなどのエッセイや同村出身の壷井繁治のエッセイも併録。

石純姫『朝鮮人アイヌ民族の歴史的つながり』

北海道において差別されていたアイヌが、時に労務動員から逃げてきた朝鮮人を保護し匿ったり、婚姻して子供を作ったりといった様々な交流があったことを史料や聞き取り調査などから明らかにし、郷土史からも疎外される歴史をたどる一冊。

編集委員会は「このようなことが明らかになると国際問題となり、遺骨発掘などをされると迷惑だ」と明言した。多くの自治体では現在に至るまで、朝鮮人に関する歴史的事実を公的記録に記述することは執拗かつ周到に排除されてきた。59P

振内の郷土史編纂過程において朝鮮人犠牲者に関する史実が排除されかけ、著者の取り組みによって、共同墓地内に埋葬されていることを盛り込むことができたことなど、厄介な問題と扱われがちなマイノリティの歴史を記録に留めようとする闘いの様子が窺える。

茅辺かのうの『アイヌの世界に生きる』でも日本人の子供が捨てられ、アイヌとして育てられた話があったけれども、同様に朝鮮人の子供をアイヌが育てた事例が取り上げられている。

筆者の聞き取り調査によれば、当時のアイヌコタンでは、子どもを養育できなくなった和人や朝鮮人などがアイヌの人々にその養育を託したり、その養育を託したり、子どもがいない、または少ないアイヌの家庭に、自分の子どもを養子として渡すという例が数多くあった。また、アイヌの親戚同士のなかでも、子どもに恵まれない兄弟姉妹の家庭に自分の子どもを養子に出すというようなことも多かったという。67P

アイヌであることは、北海道穂別の地元では差別される要因ではなかった。本州からの移住者もいて、土地を持つアイヌの人と世帯を持つことも多かったからである。しかし、アイヌのなかでも、朝鮮のルーツを持つことに対する差別は歴然としてあったとTさんは認識している。Tさんの姉妹も、嫁ぎ先で半分が朝鮮ルーツであることを侮辱されてきたという。70P

このような複合的な要因が触れられており、またどの要素で差別されるかについては環境や個別の事例ごとに色々なパターンがあったらしい。門別ではアイヌの人から朝鮮ルーツを蔑まれたけれど、静内ではそのどちらでもいじめられたりはなかった、という人も出てくる。

アイヌ民族朝鮮人、中国人など、帝国主義下の北海道では、さまざまな人の多様な繋がりが各地で展開した。共に助け合い、共存する話がある一方で、相手を貶める差別意識が相方にあった。90P

統計に記録されない時期に北海道で馬喰として移住した朝鮮人がいることを明らかにし、少数民族同士の助け合いや差別などの関係にも踏みこんでいる。またサハリンでのアイヌ朝鮮人についても章を割いており、日本人の官憲による朝鮮人虐殺事件についても難を逃れた当事者に聞き取りをしている。

ほかに印象的な一節をいくつか。

学校行っていろいろありましたけど、家ではしあわせでしたね、私は両親は仲はよかった。でも、一応父さんは頭にくると朝鮮語になり、母さんはアイヌ語になる。私自身はどちらもさっぱりわからない。85P

私、非常に不思議なことには、シャモの人には馬鹿にされてない。みなさん、協会で差別云々っていって、良ちゃんもそうでしょ、って言われて、面倒くさいから、そうだよっていうけど、実際は違うんです。87P

和人の子どもにアイヌと馬鹿にされることが多く、その侮辱と屈辱に対する対抗は、子どもには単純な暴力しかなかった。それを教師がアイヌの子どもが暴力的であるとか反抗的であるといってアイヌの子を罰した。213P

黒川創『世界を文学でどう描けるか』

タイトルからは大上段の理論的な本にも思えるけれども、主な内容は著者が2000年にサハリンを訪れた旅の様子だ。複雑な歴史と民族構成を持つこの島での旅を回想しながら、しかし後半で「世界文学」としての『フランケンシュタイン』についての試論が差し挾まれる意外な構成を採っている。「回想(メモワール)」と「試論(エッセ)」と著者は後書きで記しており、この二つの文学ジャンルを混淆したスタイルを採りながら、多民族、多言語、幾度も統治者の変わった複雑な歴史の「辺境」をたどり、そこにこそ「方法」を編み上げる手がかりを求める、試論による試作とも言える本になっている。

ナポレオン戦争後に、「ヨーロッパ文学総体」を「普遍的な世界文学」として捉え直すことを企図したゲーテの「世界文学」概念について、著者は「多言語間でのコミュニケーションの際限なき進展を想定する、かなりに楽観的な言語観に基づいて構想されている」(84P)と批判的に要約する。西欧社会で用いられる独英仏伊語やギリシャラテン語などのゲーテ自身も身につけている言語を想定した、相互に調整できる関係をベースに構想されており、そこにディスコミュニケーションが想定されていない、と。

言語の意味からディスコミュニケーションを排除することに、ある種の「理想」を見出す点で、「ニュースピーク」は、案外、ゲーテが思い描いた「世界文学」のユートピアに重なるところがあるのではないだろうか? 私は、そうした疑いも、ひそかに打ち消しきれずにいる。86P

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』がゲーテの世界文学構想に先立つこと10年前に書かれ、これこそが「世界文学」の嚆矢だと著者が言うのは、こうしたことを背景にしている。

フランケンシュタイン』での、言語の習得、多言語環境、亡命(エミグレ)、流浪、本書では強調されているわけではないけれど継ぎ接ぎで生まれた怪物の素性などなど、ズレ、すれ違いの諸要素と著者が旅するサハリンのありようが相互に関係し合う、それが本書の方法になっている。

朝鮮人と結婚した日本人女性は法的な本名は李姓で、子供たちはそれぞれロシア名、朝鮮名、日本名を持っているという家族、「だから、うちはインテルナショナルだ、と言っているの」(44P)、そういうサハリンで出会う様々な意味でインターナショナルな人々をどう描くか。一見突飛な組み合わせに見えるサハリンと『フランケンシュタイン』が徐々に重なり合い、あるいは日本軍のトナカイ部隊にトナカイを提供した「トナカイ王」ヤクート人のヴィノクロフが日ソ両国に翻弄されながら、ヤクートの独立国を目指していたことを詳述し、国籍の狭間の人間の姿も伝える。

サハリンは第二次大戦後ソ連領になって労働者が募集され、多数のウクライナ人がやってきた。2002年の人口調査ではロシア人84%、朝鮮人5%、ウクライナ人4%と続く。本書が書かれるきっかけはロシアのウクライナ侵攻で、旅で多くのウクライナ人と出会った経験が思い出されたからだろう。

200ページに満たない小著である島を訪れたことが主に書かれているけれども、そこから世界を望もうとする広がりのある本。

フランケンシュタイン』の物語は、いくつもの国にわたる舞台設定、登場人物たちによる多言語での会話、という複雑な状況をあえて次つぎに現出させながら、進んでいく。しかも、これらを順序立てて明晰に描き分ける、という首尾一貫性(コンシステンシー)に挑んでいる。小説という表現を採るさいの叙述上のルールを、あえて酷使している、と言うべきか。ここに、本書をもって「世界文学」の嚆矢と呼ぶべき特徴があると、私は考える。
 高齢のゲーテによる「世界文学」観は調整的で、若きメアリー・シェリーによる「世界文学」の実践は挑戦的である。そして、いつの場合も、独創性は、より挑戦的なほうに属している。87-88P

トーマス・ベルンハルト『息 一つの決断』

オーストリアの作家ベルンハルトの自伝的五部作の三作目、邦訳としては四作目になる。語り手が死の淵を彷徨う肺の病によって終末期患者の病室で死を間近にして過ごしている時、敬愛する祖父の死を知ることで逆説的に「息」を吹き返し、一人の力で立ち直り二度目の誕生を迎えた転機を描いている。以前の作では自殺願望すらあった語り手が、「今、私は生きたいと願った」(16P)というほどの大きな転機。

祖父の入院を契機に体調が悪いのを我慢し続けていた主人公も限界に達し、意識を取り戻しても胸から溜まった水を毎日穿刺して抜かなければならない状態になっていた。語り手も危地にあっただけではなく、病室では今にも死にそうな人間ばかりが集められており、幾人もの死を目の当たりにしていた。「医師たちは、横たわっている人々を既に死んだ人と見做しており、死者には関心を示さず通り過ぎねばならぬと思っていた」(48P)という状況にあり、

数百人の医者と呼ばれる人の中に、本物の医者は稀にしか見つからない。そう考えたとき、入院患者というのはいずれにしても常に、衰え、死んでいくよう定められた人々の社会なのだ。医者とは誇大妄想狂か、または呆然としてなす術を知らない人か、どちらかだ。いずれにしろ患者にとっては害になるから、患者自身が自分で何とかしなければならない。52P

「死んでいく過程がない、こんな幸せな死に方ほど、羨ましいものはない」(60P)。という突然死への感慨は肺という呼吸に困難をもたらす病気故のことでもあるだろうか。語り手は、この病室での様子を「もっとも哀れな人間たちの生活」(69P)と言う。

ほとんどの医師はダメだと言い募り、病院の牢獄性を語ってやまないだけではなく、最初の病気から回復したあとに結核ではないのに結核療養所に送られることで結核感染をもたらしたということへの悪罵は著者通例と言えるけれども、本作ではそうした苛烈さよりは病室での死を眺める厳粛さと再生の契機が印象深い。

私は、生きたかった。ほかのことはすべて、何の意味もない。生きるのだ、それも、自分の人生を生きるのだ。自分が生きたいように生きたいだけずっと。これは誓いではなかった。これは、既に匙を投げられてしまった人間が、自分の前でほかの誰かが息をしなくなった瞬間、心に決めたことだった。
(中略)
私は、自分の頭側にいた人のように、息をするのをやめようとはしなかった。私は呼吸し続け、生き続けようとした。おそらく私が死ぬだろうと思っていた看護婦に、無理にも私を浴室から運び出させ、病室に戻させずにはおかなかった。つまり、私は息をし続けなければならなかったのだ。一瞬でもこの意志を緩めたら、もはや一時間すら生きてはいなかっただろう。息をし続けるかやめてしまうかは、私にかかっていた。16P(強調は原文傍点)

これはごく初期の記述だけれど、本当の再生は祖父の死によってもたらされる。

祖父の死は、凄まじい姿で私を訪れ、凄まじい影響を私に与えずにおかなかったとはいえ、それはまた解放でもあった。生まれて初めて私は自由であったし、突然感じたこの完全なる自由を、私は自分の命を救うために利用したのだということが、振り返ってみると分かる。これを認識し、この認識を実際に利用した瞬間から、私は、病との戦いに勝ったのだ。79P

私は最初の古い人生、古い存在を終了し、それまでの人生でおそらくもっとも重大な決断をして、新しい人生、新しい存在を始めたのだ。91P

私はいつも、ただ私になりたいと思っていたのだ。115P(強調は原文傍点)

フェッタールでの療養所での生活で家族から持ってきてもらった本を読むことで、肺病によって閉ざされた音楽、歌手への道を断たれた代わりのように世界文学への扉を開き、シェイクスピアシュティフターといった祖父の本棚の本を読み始める。語り手は祖父とともにあり、祖父によって他の家族から切り離されていて、祖父を大変敬愛してはいるけれども、それは同時に庇護下の人生でもあったものが、祖父の死によって一人で自分自身の人生を決めなければならない自由を手に入れ、それによってこそ祖父の残した本を読むようにもなる。

ここに後の作家ベルンハルトの契機があり、自伝的五部作の核心があるのだろうと思える。死のなかからの生還、祖父と別れてそれまで疎遠だった母との関係の変化という二度目の誕生はそこにかかる。祖父は入院などで思索の領域に入ったことのないような人間は芸術家として大成することはない、という芸術化信仰のようなことを言うけれど、この時語り手はその資格をも得た状態で再起することになる。

五部作の翻訳は残すところあと一作。
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文学フリマ東京36のメモ

2023年5月21日、文学フリマ東京に行ってきた。行く途中の電車で和装の男性を複数見かけて、これは文学だろう、文学に違いない、と思っていたら浜松町でモノレールに乗り換えていたのでやはり文学だった。

文学が来た

かなり長い行列
アーリーバード・ブックスさんのブース
私が書いた文学講義CDのリスニングガイド、折り畳むととてもちょうど良いのが発見でした

前回『後藤明生の夢』刊行後で自著を後藤の著作権継承者松崎元子さんのアーリーバード・ブックスさんのブースに置いて頂き、同時に売り子として参加したけれど、それとだいたい同じ感じでブースにお邪魔させてもらっていた。アーリーバードさんは今回は新しく自筆原稿のレプリカを実際の本になったページとセットで販売していて、面白い試みで笑えるおまけもついてたり、幾つか売り切れていた。拙著をお買い上げ頂いた方々、挨拶させて頂いた方々、あるいはそれ以外の方もありがとうございました。

今回の行列では目の前に後藤明生オリエンテーリング企画で会ったフォロワーさんが並んでいた。列の長さに驚いた上記ツイートの写真の一番下に後頭部が写ってる人が知り合いだったわけだ。ツイッターに投稿したらリプライがついて、それが目の前の人だったのは笑った。前回の行列では折り返しですれ違う行列に私の本を読んでる人がいて、奇遇が続いていてビビる。

今回は出店者・来場者あわせて11279人という過去最高の数字で、混雑も頷ける。五類移行後ということでなのか来場者数がかなり増えたようで、前回と同じ時間帯に来たはずなのに会場の外の行列に並ぶことになった。会場でも通路の狭いところではもう前に進むのも難儀するありさま。活況はともかく、マスク率も下がっていてこれはこれで怖いところ。

当日は色々な方と会って、なかには広島から来られた方もいて、なかなか素敵な差し入れを頂いたのでした。

こんな綺麗なジャムがあるんだ

この広島に要人が集まっている最中、広島からこられた方がブースに来られ、友田とんさんのフリーペーパーではサミットとサミット(スーパー)の話が語られ、松崎さんは会場に来られた某編集の人をサミット(スーパー)で見たという話をしていた。サミット、広島、文フリ。5/21はそれですべてが語れそうだった。

アホなのでこれを買って資金が尽きた

ヴェルヌ研究会のブースでこれが二割ほど安い値段だったので、これは、と買うことにしたので幾つか買うつもりだったものが買えませんでしたね。

以下、当日買ったものとそのなかでさっと読めるものだった本についての簡単な感想。

オルタナ旧市街『ハーフ・フィクション』

ネットプリントのうち表題通りの日常と空想のあわいに浮遊する作を集めた一冊。「パブリック・シアター」の勢いがやはり良い。「スパゲティ闘争」は「ふうわり」という言葉であ、これは読んだことある!と思い出せたのが面白かった。闘争・逃走。ここでのフィクションは形容にこそあるのではと思わせるものがあり、形容つまり見る人の見方次第で現実はフィクションにもなる。エッセイのアプローチでもあるよな、と思う。ハーフなだけに。短い文章を小さい本にしてきらきら光る加工の表紙に包むトータルなつくりがやはり良い。

沖鳥灯、瀬希瑞世季子『平成文学全集』

平成文学全集の目次案を列挙し解説を付したり付さなかったりした素描的な小冊子。作品名には概ね覚えがあるけど自分も読んでないのが多くて、へーとなってしまうところが多い。選者も読んでないのが入っているというのにはオイ!と思った。解説も半分ほどしかついておらずいかにも叩き台だ。倉数茂『名もなき王国』が挙がっていて、当日倉数さんも会場に来られてて挨拶したけどその時はこれ買ってなかったのであとで見た時教えたかったなと思った。

奥山さと『きらきら大切商店街』

概ね10ページ内外の短篇を収めた100ページほどの短篇集。著者は2014年文學界新人賞を受賞した板垣真任の別名義。「特別でない」の共感性の欠けた行動はちょっとしたホラーで、他の作品も短いなかに独特の距離感、ひねりがあって面白い。喪失感と焦燥感を感じるなと思っていたら最終作がまさにその集成の感があった。通底する喪失感と焦燥感が「霊歌」の小説への志向とまとめてしまうとあまりに簡単だけれど、積極的で肯定的な友人と何かをしばしば憎んでいる語り手の交流を通じて生の肯定への「祈り」のようなものを書いていて良かった。いずれも簡単にこうだとは言い難い短篇という感じ。作中、文学と大衆文芸をわけるのは「きらきら」というような擬音があるかどうかだ、というくだりがあり、そして最初に大切なものなど何もないところから始めろというはしがきから始まる本書が「きらきら大切商店街」と名付けられている捻くれ方にはおかしみがある。

グスタフ・マイリンク『マイリンク綺譚集2』

垂野創一郎訳の短篇二篇。ある結社のなかでアリオストという男が不倫の子をなし、相手の父は息子と不倫相手の子で扱いを変えて憎しみを育て、という恐怖譚の「アルビノ」は不倫相手と息子の婚約者の名前が同じなところも不気味だ。執筆から20年先が舞台になっている「思い邪なるものに災いあれ」は不思議な雰囲気でギブソンという人物は未来世界へ紛れ込んだようなことを言ったりする。「アルビノ」、「ナイトランド・クォータリー」26号に採録されてるのに気づいた。表紙には「綺談集」とあるけど、扉や奥付の「綺譚」が正しそう。

『文章講座 植物園』より松本寛大「舎利の花」

津原泰水文章講座の受講生作品集で、とりあえず松本寛大「舎利の花」だけ読む。亡くなった友人から託された竹筒に入った樒の謎を追う話で、その抹香の香りが充満する気配のなかで次第に語りの現実が揺らいでくる。超常的なことは起こらない鋭利な幻想譚。松本さんが受講生だったとは、と驚いたけど作風に納得感もある。



わかしょ文庫さんのフリーペーパーはこの表紙が一番インパクトがある。二つのエッセイを通じて、空でチキンを食べ、川や海では魚がたくさん死んでいる、何かしら不穏な気配のある食が描かれていて、機内食や焼き魚を食べる話がなんでこんなに不穏なのか。

あとは『カモガワGブックスvol2』のクリストファー・プリースト特集や柴田元幸アンソロジーレビューなどをパラパラと読む。やっぱりアファーメイションは訳出て欲しいな。

そしてemitonさんからこちらの本を頂いたのでした。追分で『笑坂』『吉野大夫』を踏まえた後藤明生ツアーをされていた方がツイートを自家製の本にまとめたもので、カラー印刷して手作業で本にしたもので、手間がかかっています。場所と著作の頁とを丁寧に照合されていて資料価値が高い一冊。

emitonさんの手作り本


行く前にグーグルに東京流通センターと入れてルート検索したら、30分かからないくらい近くてそんなわけないだろ、とよく見たら最寄りの東京靴流通センターへのルートが表示されていた。駅名は「流通センター駅」で東京がつかないためか、グーグル的には「東京靴流通センター」のほうが適切と判断したらしい。青梅と青海みたいな。