追悼読書

今年亡くなった作家の作品の積んでいた本を読んだ。

グレッグ・ベア『凍月』と「鏖戦」

政治と宗教を描く短めの長篇で原題はHEADS、これが一番作品の概要を示している。脳の記憶を読みとる実験のために地球から月に運び込まれた冷凍保存されていた頭部、そして技術者の末裔で政治嫌いのなかにあって氏族をまとめる指導者、そして宗教の教祖、この三題。

22世紀の月で絶対零度達成実験をしている夫婦は、もののついでと装置の隙間に地球で冷凍保存されていた400個の頭部を買い取り、脳の記録を読みとる試みも始める。妻の弟はそこで起こるトラブル、月住人が嫌う政治に否応なく巻きこまれることになる。序文にあるように、SF作家たちの政治に対する「うぶさ加減」がきっかけとなって書かれたらしく、主人公ミッキーは氏族の一人として行動しながら、政治的策謀に加担したり、その報いを受けたりすることになる。政治とは何かについて、本作では危難を避け、疎外と排除を避けることを説いている。

わたしたちの先祖の多くは、地球からきた技師や鉱山労働者だった。保守的で独立心旺盛、権力を信用せず、集団がいくつ集まろうと、政府の官僚だのといった階層なしに、そこそこ平和に豊かにやっていけると、固く信じていた。
 先祖たちは、自然に発生してくるそうした階層をつぶすために奔走した。〝政治ははぶけ〟が終始変わらぬかれらの主張で、このスローガンを叫んでは、首を横にふり、目をつりあげていた。政治組織は悪、代議政体は不当な押しつけ。直接交流できるのに、なぜ代議員がいるんだ?
こぢんまりがいい、直接的で複雑でないのがいい、とかれらは信じていた。これには当然、自由がついてまわった。
 だが、こぢんまりのままではいられなかった。128P

政治の極意は、危難をさけることにあり、だ。敵をも含めて、あらゆる人々の利益となるよう、困難な事態をうまく処理する。人々が、なにがいいことなのかわかっていようといまいとな。その技術こそが、政治家にもとめられるものだ。そうだろ、ミッキー? 241P

政治を省いてはいられないけれども、かといって政治とはマキャベリズム、敵対勢力への攻撃や排除ではない、というのがポイントになっていて、相手の尊重すべきものを冒涜した策謀の結果をミッキーはその身に受けることにもなる。これは以下の部分がよく語っている。

外なるものを疎外することは、内なるものを疎外することにつながる――これはあらゆる社会階層そして個人にも通用する原則だ。同胞を、いやたとえ敵であろうと、人を傷つければ自分も傷つき、自尊心と自己イメージの本質的要素のいくばくかを失う。一人前に戦うとは、こういうことなのだと思ってみても、いっそう憂鬱になるだけだった。人は敵を殺すたびに、古い自分自身をも殺している。新しい自分がはいる余地があり、めざましい再興をとげることができれば、成長し、一段と成熟した、 一段と悲しい人間になる。余地がなければ、生ける屍になるか、気が狂うかだ。217P

「同胞を、いやたとえ敵であろうと、人を傷つければ自分も傷つき、自尊心と自己イメージの本質的要素のいくばくかを失う」、非常に大人な態度で、SF的ネタはあんまりピンとこなかったけど、この政治と宗教をめぐる話はなかなか印象的だった。説教臭いかも知れないけど、まともだと思った。

なお、作中の「ロゴロジー」という宗教はSF作家が作った新宗教サイエントロジーがモデルになっているのは序文にもある通り。この宗教の胡散臭さ、教祖の不道徳さを描きながらもそれを信じてしまった人間には共感を寄せるスタンスが感じられもする。そして、政治をめぐるテーマは「鏖戦」にも通ずる。

「鏖戦」

どれだけ経ったかもわからない遠未来、人類と異星人セネクシとの果てしない戦いを双方の側から語りつつ、敵を理解しなければ勝つことはできないし、敵を理解しているのなら話し合おうとするはずだ、という相互(不)理解のジレンマを描く反戦争中篇。

双方の力が伯仲していれば、敵を理解しないかぎり勝つことはできない。しかし、ほんとうに敵を理解しているのなら、戦おうとはせず、話しあおうとするはずだ。424P

これは人間側の戦士プルーフラックスが変わり者との交流で心に浮かんだ想念だ。

プルーフラックスの知り合いクリーヴォはこう言う。

だが、みずからの心を荒廃させてまで勝利すべき戦いなど――それほど重要な戦いなど、 ありはしない。436P
 
おしゃべりとは、われわれにできるもっとも人間らしい行為だよ。444P

ここに概ね今作の趣旨は尽きているとも言える。
この二作のカップリングで再刊された。

大江健三郎ピンチランナー調書』

1976年刊行の書き下ろし長篇小説。知的障碍を持って生まれた息子森と元原発技師の父とが、互いに二〇年年齢を入れ替え逆転した親子になるSF設定と、革命党派の原爆製造計画及びそれにかかわる右翼大物をめぐるスラップスティック大作。

同じ障碍児を持つ親として森父と出会った作家の「僕」が、森父の言葉を「幻の書き手」(ゴースト・ライター)として書き留めていくなかで、お互いのスタイル、文体が相互に影響し合うという設定の上に、森父もまた息子森の言葉を翻訳して喋るという三層の代行が重ねられる語りの構造がある。

大江らしいこうした書き方とともに、森が二十歳加齢し、森父が二十歳若返るという寓話的な「転換」という現象によって設えられた舞台で、核をめぐる政治的闘争が道化じみた道具立てで語られており、同時代の猥雑さを文章にすべて投入するような迫力があるものの、どうも波長が合わないというか。核の危機をめぐって「人間支配」を企む「パトロン」への抵抗を基調としている様子なのはわかるけれども喜劇というように時代的な空気を強く反映している感じで、五〇年も経つとその時代背景が掴めなくなっているのも理由かも知れない。

『洪水~』は悲劇として、本作は喜劇として「核時代」の物語を描いたらしいのだけれど、実は『洪水~』もピンとこなかった大作だった。鳥の声を聴く『洪水~』に対して宇宙の声を聴く『ピンチランナー調書』という解説の対比はなるほどと思った。「転換」のアイデアは面白いしその息子が普通に女子学生と性交しているところとかマジかよってなるし、プルトニウム強奪事件で被曝した技師の息子が障碍を持って生まれたときにそれを夫の被曝のためということにしてるという設定とかも色々面白い。

ミラン・クンデラ『冗談』

1965年作。社会主義時代のチェコを舞台に軽い冗談が大ごとになり大学・共産党を追われ、十数年を経てその復讐としてある男の妻を篭絡しにかかる主人公ルドヴィークの執念がしかし、もはや何の意味もないものとなる悲喜劇を民族の忘れられた伝統とも重ねて描く長篇小説。

ルドヴィークをメインに四人の主観視点を行き来しながら、それぞれの状況を描くことで別視点での謎が見えるようになっていく仕掛けや、最終章で主要人物が一堂に会してクライマックスが訪れる構成、そして最後の男たちの郷愁と悲哀の情感はかなり良いんだけど、ちょっとミソジニーがキツい。作者は本書を「ラヴ・ストーリー」だと言うけどちょっと疑問が。恨みのある男の妻を誘惑して復讐するという筋書きは、プレイボーイが内面化しているミソジニーの典型に見える。ただ、ルツィエからの拒絶とヘレナへの誘惑は、ルドヴィークのすさんだ肉体的愛として相対化されてはいるか。ルドヴィークが恋人に送ったはがきに書いた、社会主義建設を冒涜するような冗談が人の知るところとなり、共産党も大学も追い出されて懲罰隊に入れられた挫折を、女性を篭絡することによって回復しようとするわけで、まさに逆恨み。これはまあちょっと読んでて厳しいところはある。

ルドヴィーク、ヤロスラフ、そしてヘレナとこれまで語ってきた各人が集まり、「冗談」のようにやろうとしたことに挫折する流れが収束する最終章は圧巻ではある。そしてルドヴィーク、ヤロスラフが楽団として再びともに演奏することで、二人の失われた青春がひととき戻ってくる。

人生の基本的な状況はすべて、帰らないものである。人間が人間であるためには、十二分に意識して、この二度と戻らないことの中を通り抜けなければならない。173P

ルツィエが、肉体的愛をすさんだものとされ、人生で一番大事なものを奪われてしまったように、私の人生も、私が頼ろうとし、本来純粋であり、無実であった大切なものを奪われてしまった。361P

多弁なルドヴィークと主観視点が一切ないルツィエという二人の登場人物が双子の運命を持つものとしてルドヴィーク自身が気づくことで、共産党も大学も追われた挫折とルツィエとの恋愛の失敗という二つのことが彼自身のなかで決着がついて、そこで音楽が流れてる、ということかなと。

音楽が時間を超えて何かを取り戻すように描かれているようで、それ故に音楽が特権的な意味を持っているのかもしれない。何年積んでたのかわからないけどようやく読んだ。みすず書房版はチェコ語からの翻訳で岩波版はフランス語からの翻訳らしい。みすず版の序文は翻訳事情について詳しくて面白い。

ルドヴィーク、君も神を信じないがゆえに、人を許すことができないのだ。君は今もってあの総会の事を忘れないでいる。全員が一致して君に反対の手をあげ、君の人生をだめにしてしまうことに賛成したあの総会のことを。君は決して彼らを許しはしなかった。個々人としての彼らばかりではない。あの集会にはおそらく百人はいたろう、それはもう小さな人類社会を作りうる数だ。だから君は人類を決して許さなかった。271P

つまり彼女の運命(強姦された少女の運命)が私の運命に似通っており、私たち二人はすれ違いばかり重ねて、互いに理解し合わなかったが、私たちの人生での出来事は、双児のように似通っており関連し合っている、なぜならどちらもすさんだ事件なのだから。ルツィエが、肉体的愛をすさんだものとされ、人生で一番大事なものを奪われてしまったように、私の人生も、私が頼ろうとし、本来純粋であり、無実であった大切なものを奪われてしまった。361P

立岩真也『介助の仕事』

介護・介助のなかでも常時介護を要するものを対象にした「重度訪問介護」、重訪と呼ばれる制度の実習者に向けての講習を元にした新書。著者特有の込み入った話は省いた読みやすい一冊で、介護制度や障碍者運動の概要を語りつつ、さまざまな書籍への入り口にもなっている。

著者は「本書は、まったく実践的・実用的な本です」(22P)と述べる。研修の講師として話したことだからでもあるけれど、介護保険とは別の制度としての重訪がどのような経緯を経てできているのか、その土地土地で制度利用の運動を切り拓いてきた人のことの実例を挙げたり、細切れの労働になりがちな制度とまとまった時間働ける制度との労働として稼げるかどうかの話なども含まれており、話がかなり具体的なものをベースにしている。講習なので平易な話を基本にしつつ、より詳しく論じた自著や共著などを積極的に紹介しており、著者の仕事全体へのイントロにもなっている。

ALSの介助について役所との交渉によって24時間介助の支給ができるようになったという道のりについてこう言う。

「交渉力が強いかとか、役所にどれだけの理解力があるかとか、そういうことによって左右されるというのは困ったことなんです。そうなんですが、さっきも言いましたように、制度の「相場」からいったら例外的なものをなんとか認めさせて、そして定着させるという道のりでできた制度なので、こういうことになっています。」90P

自治体によって対応が違うことの理由が窺える話で、その場所での交渉の歴史が反映されてもいるんだろう。制度をどう使うかという場面で、個人でやるか組織を作るか、障碍者自身が誰かを雇用するなど色々なやり方が紹介されていたりするのも「実用」的な部分で、自分が受け取る場合でも不正が疑われやすくなるので一人でも事業として会計を公開するやり方の人もいることが書かれている。

生きることの権利と義務について、著者の基本的な考えが示されているところがある。

障害があろうとなかろうと、いや、あって、でいいや、障害がある人が生きていくっていうことは、当然のことだとしましょう。そうするとそれは「権利だ」ということになります、硬い言葉で言うとね。こないだも権利の話をどこか行ってしたら、僕より上の年の人になんか言われましたけど。「権利」って言葉好きじゃない人わりといますよね。わからんでもない。でも言います、「権利だ」と。あるいは、「義務」って言葉のほうが好きな人なら、「義務だ」と言います。同じことです。その権利を実現するのは、人々の義務だということです。ここまで全然間違ってないですよね。「その義務は誰にあるか?」と言ったら、誰にでもあるわけです。ここも間違ってないですよね。「家族に義務はあるが、他の人に義務はない」って言えるかって言ったら、それは言えないです。すると「誰にでもある」っていうのが正解になってきます。(中略)そう考えると、税金を払って、場合に よっては保険料を払って、そのお金で働く人の生活を支える。そうやって支えることが 人々の義務である。そういう仕組みしかないと私は思うんです。」147-148P

「確認!・「ああなったら私なら死ぬ」は普通は誹謗だ」(230P)という節タイトルも重要な指摘だと思う。私の印象では年老いていくことについて不安もあってこういうのに近いことが言われている気もするし考えることもあるけれど、あんな風になったら○○、という言い方は他者の尊厳を侵害しうると。気に留めて置かなければならないこと。

佐藤哲也『シンドローム

「僕」の恋心あるいは性欲を統御しようと格闘する理知的で屈折していてくだくだしい特異な語りが友人平岩と同級生久保田葉子との関係を分析しつつ、現実では日常を破壊する異星人の侵略が始まる。内宇宙と外宇宙の交錯を青春SFとして描いたような長篇小説。

語り手の論理・分析によってすべてを捉えようとする語りのスタイルはしかし欺瞞的な匂いがあり、それは恋敵とも言える級友平岩を繰り返し「非精神的」「迷妄」の存在として指弾するところで、それは語り手自身が恐れ陥りかねないと自覚しているからこそなされているようにも見えるからだ。やりたくてもできない、なろうとしてなれない。語り手は平岩の行動にそれを見ているからではないのかと疑いを抱かせる。そうした己の「迷妄」を抑えつけようとしながら平岩をかわして久保田へのアプローチをしようと続けていたある時、というか空から火球が落下してくるのが冒頭になっている。

回りからそう思われても平岩を友人のようなものとしか言わない語りのなかで彼や映画に詳しく侵略SF映画などから予測しうる展開を折に触れて呈示する倉石と連れだって火球落下の現地に行ってみたり、これから何が起こるかを話し合ったりするなかで、久保田へのアプローチと地域の異変が並行展開する。

「青春とは「ひとり相撲」である」という森見登美彦の解説がだいたいのことを語っていてあえて付け加えることもないとも言える。

言葉によって堅固な城壁を築こうとも、非精神的なものは精神的なものの領域を侵し、非日常的なものは日常を侵していく。272P

ここで倉石の「宇宙戦争なんだよ」というセリフが引かれている通り、そして解説者は「戦争」の言葉を強調しているけれど、私は前記したとおりここでは「宇宙」、つまり外宇宙と内宇宙の交錯・相克を指していると読んだ。空から落ちて地下に蠢く触手異星人は、恋心が性欲へ転じることの似姿ではないか。ともかくとして、久保田や平岩についての語り手の認識はあまり信用できるものではなく、それなりに親交があるようにも見える久保田との関係が実際にどうなのかはわからないところがある。

それでも解説者が言うように、久保田と校外のベンチで昼をともにした場面はきわめて印象的で、それはここでは語り手がその屈折した言語を使うことができず、切迫感とともにごくシンプルな感情と行動を記述する一行の連続と、ただ括弧付きの短いセリフのやりとりだけが続く、ページの白さとして形式的にも異色の形態を採っているからでもある。ここでは言葉が極限まで切り詰められている。「迷妄」を抑えつける入り組んだ文章がここでは影を潜め、ただシンプルな言葉だけが並ぶこの場面の印象は、論理思考の「ひとり相撲」が消えた率直なものが現われている。それ故の美しさがあるわけだ。それは本書の最後において「ぼくは思う。いまはもう、思うことをやめようと思う」(267P)と終わることとも繋がっている。言葉をこねくり回していくらでも正当化や現実認識を成立させてしまう論理の欺瞞性を突き崩すものとしてのエイリアンと恋愛。それが逆さまになった学校のように日常を転覆させていく。SFの題材を借りた言語・認識・語りの批判的相対化とも言えるか。

映画好き倉石が映画をたよりに話をするのも、映画が彼にとっての言語だからだろうか。しかし、語り手が国語教師を内心で罵倒しまくるのは彼が「二枚目」だからかもしれないと読み取れるくだりは結構面白い。

佐藤哲也、『イラハイ』『妻の帝国』『下りの船』『シンドローム』『ぬかるんでから』は読んでて『熱帯』『サラミス』『異国伝』を積んでる。電子でもまだ未読は多い。

酒見賢一墨攻

墨守」で有名なわりに歴史に痕跡の少ない墨子について、ある墨者が小国の防衛に派遣され大軍を相手に巧みな戦術を用いて渡り合う攻城戦を題材に描く、中篇歴史小説。「非攻」を旨とした墨家の防衛戦術を守りこそ最大の攻撃とばかりに墨攻と題するセンスが面白い。

厳格な規律を施し人々を管理し一糸乱れぬ行動を行なわせる墨者の脅威を目の当たりにした人物はこう考える

墨子教団に任侠奉仕以外の野心があるのならそれは一つしかない。天下を墨者で覆うことである。墨者による理想国家。中略 墨者の稀な義侠精神と粉骨砕身の奉仕活動は次第に民衆の支持を得つつある。天下の民衆がこぞって教団の下に集まった時、彼らは何を行なうのだろうか。墨者は確かに守ることしかしない。だが、その守りが彼らの最大の攻撃なのかもしれない。71-72P

戦争を仕掛ける君主は千回も一万回も死刑に処せられてしかるべきであろう。墨子は現実の不合理さと特に知識人代表である君子に対する非難を隠していない。墨子は「一人を殺せば単なる犯罪者だが、戦争によって多くを殺せば英雄である」という警句を二千年も前に憤激とともに吐き出しているのである。この主張を墨子は遺言のような形で弟子たちに伝えたのではないだろうか。百家争鳴の戦国時代が思想的にはかなり自由であったとはいえ、この墨子の非戦論はラジカルに過ぎ、危険だったのである。23P

シンプルで短く魅力的な作品だけど漫画版はこの後の話もあるらしいな。

百合SFとラノベ四冊

宮澤伊織『裏世界ピクニック8』

「怪異探検サバイバル、2人の佳境」ってあおり、それはそうなんだけどサバイバルの佳境じゃなくて二人の関係の佳境なところが笑ってしまう。友達か恋人か共犯者か、怪異と遭遇しつつも二人の関係を二人がどう捉えるかという百合としてのクライマックス。恋人という関係に内包される身体の関係にも進みたいという思いと、「共犯者」というこの世で最も親密な関係という言葉へのこだわりがすれ違っていて、色んな人に空魚が友達か恋人かの境界をめぐって恋愛相談をしていく巻になってる。

「空魚ちゃん、ちゃんと鳥子とファーストコンタクトしてるか?」という小桜のセリフが肝になっていて、隣にいて一緒に裏世界を探検してきた相棒のことをしっかり理解しようとしているか、という問いが、恋人や友達という言葉一般の延長ではなく、二人がどのように具体的に関係を築くかにかかわる。友達や恋人、共犯者、そのどれでもない、二人がお互いの何がしたくて、どうありたいか、という意見を汲んで結ばれた関係、ということに落ち着くのは堅実だし非常に誠実な展開だと思った。これはどんなことでもそう。

しかし、特に性的なことに関心がなかった空魚が鳥子の一人でしちゃおうかな発言に急に欲情しだしたのは本当にお前!って感じで面白すぎた。その後別の展開になって誤魔化された感じするけど、肉体的接触にそれほど興奮しないのに相手一人の行為を見ることに興味を示すの、目が目だけはあるというか。

宮澤伊織『そいねドリーマー』

半年にわたる不眠症の主人公が人を必ず眠りに誘う少女と出会い、その少女は眠りの世界ナイトランドで睡獣と呼ばれる怪物をハントしているスリープウォーカーなる少女たちの一人だった、という覚醒と睡眠の世界を行き来する百合SFファンタジー

裏世界ピクニックの短い変奏のようでもある、この世界と異世界の往還が主軸となる短めの長篇で、覚醒と睡眠の二つの要素が次第に混じり合い、入れ替わりする表と裏の構図がよりスピーディに展開するあたりはその骨組部分だけを取り出して短くまとめたような感触がある。現実感覚が崩れる異様な描写とかは裏世界でも使ってた手法でやっぱそういうのが好きなんだな、と思う。ほとんど一つの同じ生き物になる、というあたり裏世界の最新巻とも通じ合うとも思った。百合の花を食らって生きる竜が出てくるのには笑った。作者やんけ。

そういや表紙や挿絵の丸紅茜、でーじミーツガールの人だった。活動終了しちゃったんだよなー。

みかみてれん『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 4』

百合ラノベ第四巻。何を言ってもネタバレになる巻だけれども香穂がまさに伏兵として素性を露わにすることで、れな子の「行き過ぎた自虐はもはや犯罪的」(138P)だし他人を傷つけるという核心に切り込んで、同類だからこそお互いの欠点がよく分かるしお互いに励ます必要な迂回になっているのが良い。

真唯との関係の上に紫陽花からも告白されたことで、自己肯定感に欠けるれな子は逆に自虐の渦に落ち込んでしまうけれども香穂のコスプレ趣味に付き合うことで誰もがみな悩み苦しみながら自分になろうとしていることを知り、自虐を裏返す決断をする第一シーズンの締めくくり。人前での自分は作った自分でしかなく、本当の嫌いな自分が露呈する恋愛関係を拒絶するというのがれな子の心理の核心で、価値のない私というのに居続けることが逆に安心できるわけだけれども、それはしかし相手が好意を持った自分というものを否定し相手も否定することだというわけで。

持てる者の卑下は過ぎると相手を怒らせるだけだし、実際クインテットのみんなは見た目も良いのは再三描かれていて、それを引き受ける持てる者はさらに持つ選択肢を選ぶのはまあ笑っちゃうところはあるけど、自虐一人称のれな子を突っ込むというか応援したい気持ちにさせる語り口になっている。自己否定と肯定の揺れという思春期の心理を描きながら、上下や優劣ではなく、その形のその人が好きだという相手からの目線によって自分自身を肯定できるようになるというのはラブコメディの一つの王道だろうなと思う。

しかし、最後の決断を普通を外れるなら同じこととするの、同性婚が認められていない状況だから成立するロジックではあると思う。れな子は同性愛者なのかという問いかけがあったけれども、それは認めないのに初めて恋愛感情を認めたのが自分のコスプレ姿というひどいオチに繋がってて笑う。でもそれは間接的に認めたことになるのだろうか。香穂の色仕掛けにやられたあと、隙を見てここぞと一生の上下関係を叩き込もうとするあたり、かなり悪の匂いがするね。まあそれはともかく、「なんじゃそりゃあ!」までイラスト温存してたのは良い構成だった。頁調整もばっちりだ。

もののたとえでクラウドセフィロスが出てきたの、年がバレるぞと思ったけどPS4でリメイクが出たのは2020年なのか。しかしそうすると作中時間がコロナ禍にかぶることになりそう。

みかみてれん『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 5』

百合ラブコメ第五弾。主人公が恋人たちとつきあうことになった第二シリーズの開幕ということで日常回のはずが各キャラそれぞれの描写と後の仕込みなんかで500ページほどになったという。前巻の決断の責任を果たすための主人公の奮闘という感じ。

今更だけどスクールカーストが重要な題材なのは女性主人公異世界ものが貴族社会を舞台にするのに似た感触がある。クインテットという女王王塚とその仲間たちの「貴族」社会になんとか食らいつくという話になってて、「陽キャ」は特権ではなく責任なんだという叙述にもそれが見てとれる。本作もトップカーストのグループの女王に気に入られて不意に引き立てられてしまった主人公がその貴族社会に食らいつこうとする話とは言えて、そう見るとカーストを連呼する本作の趣向はわたおし的な階級社会への批判的視線があまりないのが気になってはくる。

陽キャ」は色んな人の物語にかかわり、色々なことを言われる立場に立たされる、それがれな子は無理だと言うけれど恋人との関係ができることは更なる他人との関係が始まるわけで、それを学ぶのがれな子の課題という話ではある。自己否定の反動で他人のためになんでもしようとしてしまう不安定なメンタルを彼女たちが支えつつのリハビリ。しかし次巻のメインとなる妹のフラグを立てるのが結構強引ではあった。花取さんメイン巻もまあそのうちありそうな雰囲気。

ボフミル・フラバル『十一月の嵐』

久々のフラバル・コレクションの新刊。アメリカのチェコ文学研究者への書簡体形式で、1989年の東欧革命の政治的動乱のさなか過去の弾圧の歴史を回想しつつ、権力との妥協を選んだ作家として屈折や痛みとともに現状を見つめながら、アメリカへの講演旅行の回想を差し挾む内的な記録のような小説集。

最初の二篇は別として、ほか八篇は若いチェコ文学研究者、エイプリル・ギフォード宛てとして書かれており、四月のチェコ語ドゥベンカと呼ばれる彼女を「卯月さん」と訳してある彼女に呼ばれてアメリカの大学をいくつもまわった講演旅行が本書の一つの軸になっている。各篇は89年の四月に行なった講演旅行でアメリカでの体験や亡命したチェコ人らとの出会いの記憶を回想しながら、「合衆国」をチェコ語の駄洒落で「満足国」と呼ぶ皮肉なユーモアを交えて書かれている。これは当然89年チェコスロヴァキアで進行していた民主化を求める政治的な動きや弾圧の渦中故だろう。ソクラテスを崇拝すると語るフラバルは、自作の出版のため妥協という毒杯を飲むことで友達を失ったり公開焚書をされたりと苦しい立場に立たされている。そもそも68年プラハの春への軍事的介入のチェコ事件のあとフラバルは自作が発禁となり、釈明によって部分的に出版を許されてきた歴史がある。

私はつまり、現状を認めているんです……私の国における政治状況は変えられないと、つまり、ここで起きたことはすべて、なしにはできないと、つまり、今また死者たちの中から起き上がっている不幸な一九六八年八月二十一日の後に言われたように、主権を制限された国に住んでいるのだと、認めているんです。73P

ただし、「けれども、私はそのことにただ戦き、驚き、怖れます」とフラバルは付け加える。この閉ざされた場所のなかで、アメリカの卯月さんへの呼びかけが随時挾まり、アメリカへの旅行が回想され、そこで出会った亡命者たちの存在が、国内の状況と対照的なアメリカの自由を思い出させる。

卯月さん、お分かりになるでしょう、自分の祖国にいて友達のことを密告することがどんな苦しみであるか、なんと恐ろしいことであるかが……。だからトシースカさんは、ロサンゼルスにいるんです。彼はチェコでは王様でした、どこへ行こうと人々が挨拶してきたもんです。ナンバーワンの俳優だったからです。それで、裏切るよりはむしろアメリカで俳優になっています。稼いではいるし、好かれていますが、彼が祖国で演じていた最高の役、それはアメリカではもう得られません……。それも、友達を、ヴァーツラフ・ハヴェル氏を、裏切らなかったためです……。253P

卯月さん、私はヴォスカ氏が大好きでしたし、トシースカ氏が大好きでした。私は彼らに詫びます――だって私は、少々曲がったことができて、それで、この国で生きていくことができたからです……。私は内務省に話をしに行くこと、いわゆる「泥」に行くことができて、その「泥」に耐えるだけの胃袋を持っていたんです――255P

両親はチェコスロヴァキア(現スロヴァキア)出身のルシン人のアンディー・ウォーホルのことが幾度も言及されたり、英国の詩人ディラン・トマスアメリカで死んだこと、そのニューヨークの酒場ホワイトホースのその席に座ったことが書かれるのも亡命のテーマだ。

そしてチェコスロヴァキア国内では、フラバルの妥協的立場ではなく、また自由を求めて亡命するのでもなく、国内で民主化運動を主導し幾度となく投獄されたヴァーツラフ・ハヴェルがフラバルとの対比をなしている。フラバルは以下のように憲章77のグループによる公開署名を拒否している。

そうだね、ヴァーツラフ、僕はその時「黄金の虎」にいたならそれに署名したかもしれない、けれども、今はもう決してしない。なぜか? だって僕は、この十一月に出ることになっている八万部の『あまりにも騒がしい孤独』を「幾つかのセンテンス」への署名と交換しようとは思わないからだ、八万部のミラン・ヤンコヴィチの「あとがき」をその「幾つかのセンテンス」と交換しようとは思わないからだ……。だって卯月さん、実のところ、私がこの世にいるのは、『あまりにも騒がしい孤独』を書くためだけだったんです。スーザン・ソンタグ氏が、これは二十世紀文学のイメージを作る二十冊のうちの一冊になるでしょう、とニューヨークで私に言った、あの「孤独」を……。116P

こうした立ち位置がフラバルに強いストレスを与え、引き裂かれた「痛み」に襲われる状況を作っている。最初の「魔笛」で「痛み」とともに語りはじめられ、カフカリルケチェコの詩人やセネカらの自殺やその衝動についてのエピソードに言及していくのもそのためだろう。

起きて意識を取り戻すと、私は時々部屋全体が、自分のむさ苦しい部屋全体が痛いんです、窓からの眺めが痛いんです。子供たちは学校に行き、人々は買い物に行き、誰もがどこへ行くべきか知っているのに、私だけが、どこへ行ったら良いのか分からない。7P

本書では鳥が複雑な意味を持っている。「卯月さん」への呼びかけが始まる第三篇「公開自殺」は、序盤から鳩について語られる。「数百世代の鳩の骨」が堆積しているドーム、人が鳩と戯れていたプラハで餌やりが禁止され、鳩の掃討作戦が行なわれている現在のこと。「卯月さん、私はやはり、結局のところ、良い人間が死ぬと、天で功績が称えられるように、その人の魂が鳩に変わるんだと思います」(55P)、とあるように、飛び降り自殺のイメージとともに鳥は死の要素を色濃く含んでいる。もちろん空や鳥に自由のイメージもあるけれども、その自由がこの世のものではないかのような陰鬱さが含まれている。それは自由を求める運動がつねに暴力による弾圧に繋がったフラバルの知る歴史のためでもあり、作中に記された抗議による自殺・焼身自殺の事例とも関連している。

だからこそ、鳥として死への誘惑に駆られたフラバルという凧の糸巻きを卯月さんが持っているということが本書の軸になっているわけだ。各篇だいたいに日付が記されていて、その時々の状況が題材になっているけれども、アメリカ旅行の果てに卯月さんと出会ったことは本書の最後に語られる。本書の各篇がどのように発表されたかは不明だけれども、「十一月の嵐」の後ハヴェルが大統領になった12月に四月・春の名を持つ彼女と出会ったアメリカ旅行の終点が描かれるのは、この国の政治的な春をそこに重ね、死に誘惑され鳥になりかねないフラバルを地に繋ぎ止める意味が込められている。

終盤では民主化運動が大きなうねりをあげ、革命を成功させた様子が以下のように触れられている。

卯月さん、それは歓喜であり、叫びであり、輝く目であり、それは、この国のすべてが半次元ではなくて丸一次元大きくなるための、男女の巡礼者たちの行進であり、自発的な行進でした。(中略)学生や若者たちは、私たちの生活と政治的生活にも若返りをもたらす、つまり一次元大きくする 権利を持っているからです。そして車が警笛を鳴らし、クラクションが叫び、幸福の輪に入っていなかった人々は泣き、啜り上げ、言うのでした―――こんなことはありえない、全くありえない、ならず者やのんき者として出会っていた若者たち、彼らが突然、奇跡的に別人になるなんて――245P

そしてヴァーツラフ・ハヴェル氏が学生たちにスピーチをして、その中でとりわけ、芸術だけでなく政治もまた、不可能なものの空間を創造することができるのだ、と言いました……。卯月さん、信じがたいことが現実になりました。303P

東欧革命に際会した、現状維持の作家の内面の自死への誘惑と自由への憧れの葛藤、自由を求める運動と弾圧の経験を振り返る随想、現在の状況への言及、その様々がうねり、脱線し、渾然一体となった時々刻々のドキュメント。政治的解放が訪れても、それとはズレた位置に立つしかなかった書き手の複雑な思いが込められた一作だ。

他に幾つか印象的な箇所を引用しておきたい。
語り手が繰り返し自分について「status quo(現状)」だと呼ぶことについての一節。

自分で言っているように、私はいつも「status quo(現状)」の人間でした。けれども同時に、自分なりの「modus vivendi(生き方・一時的妥協)」を望む人間でもあり、文学の本質であるもの、自分のグラスノスチを、自分の意見を、言えることを望んでいました。ただし、それに対して代償を、あらゆる代償を払ったりするのではなく、ハシェクが私に教えたように、私は「穏健な進歩の党」の人間なんです。それがこの中欧における、二十世紀のあの最初の四十年間の文学的実験室における、私の「modus vivendi(生き方・一時的妥協)」なんです。74P

私の祖国で価値のあるものはすべて、匿名なんです。すべて、平凡な人々が考え出したものです。それで私は酒場を飲み歩き、平凡な人々が言った本質的なことをすべて集めて、それを文学の中に入れるだけなんです。だから私は作家というよりも、むしろ記録者なんです……。134P

アメリカで東欧から文学や芸術の流れがあるという話になり、フラバルが自作の翻訳者からある批評家が
人から聴いた話として「一九六○年代から八〇年代までをポスト・モダン(Post-modem)と見なしていたけれども……しかしPを消して「東欧モダン(Ost-modern)」とするだけで現状を言ったことになる」と話していたという話をするところがある。

そして私たちは、本当にPを消すだけで、奇跡のようにポスト・モダン(Post-modern)が「東欧モダン(Ost-modern)」になることを喜んだんです……。それから私は、頭をつかんで叫びました――でも私たちは、更なる「東欧モダン(Ost-modern)」を忘れていました……アンディ・ウォーホルです……。卯月さん、銀髪のかつらをかぶった青白い男性のアンディ・ウォーホルは、メジラボルツェ出身の両親から生まれ、この町、この社会に鏡を差し出すためだけにやって来たんです。196P

訳者あとがきだと1989年作とあるけれど、原書クレジットには1990年刊行となっていて、作中に89年12月の日付があるので書かれたのが89年で刊行は90年だろうか。

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立教大学のフラバルイベントで、こんなことがあったと昔ブログに書いた。

凄かったのはイベント終了の歳の一言コメントで、フラバル訳者でもある石川達夫さんが、阿部賢一さんが『断髪式』を『剃髪式』としたのは、非常に問題があるのではないか、という指摘をしていたところで、チェコ文学の先達による容赦ない指導に恐るべし、と思ったのだった。

石川氏が訳者の本書でも本篇中では『断髪式』で通していた(訳注では『剃髪式』の訳書を参照)。


フラバル・コレクションの既刊については以下から。
フラバル・コレクション の検索結果 - Close To The Wall

おまけに、参考に本書の書き出し部分と、既訳の同等の部分を並べてみる。既訳はおそらく原文と一文の長さを揃えていると思われ、引用部分ではまだ句点が現われない、一ページまるまる一文という息の長さになっている。さすがにそれでは読みづらいということで、石川訳では適宜句点を置いていると思われる。

起きて意識を取り戻すと、私は時々部屋全体が、自分のむさ苦しい部屋全体が痛いんです、窓からの眺めが痛いんです。子供たちは学校に行き、人々は買い物に行き、誰もがどこへ行くべきか知っているのに、私だけが、どこへ行ったら良いのか分からない。私はのっそりと服を着て、よろよろし、ズボンをはくときに片足で飛び跳ねます。歩いて行って、電気カミソリで髭を剃りますが、もう何年も、髭を剃るときには鏡の中の自分を見ないようにして、暗がりか隅っこで髭を剃っています。私は狭い廊下の椅子に座っていて、プラグは浴室の中にあります。もう自分を見るのがいやで、浴室の中の自分の目つきにも、ぎょっとしてしまうんです。自分の目つきも痛くて、目の中に昨日の酔いが見えます。もう朝ご飯もとらず、とるとしてもちょっとコーヒーだけ飲んで煙草を吹かし、テーブルのところに座っています。時々両手がだらんと垂れて、私は自分に何度か繰り返すんです——フラバルよ、フラバルよ、ボフミル・フラバルよ、それでお前は自分に打ち勝ったのだ、無為の極致に到達したのだ、と。(石川達夫訳、7P)

ときどき眠りから覚めたとき、気を失った状態から意識を取りもどしたとき、私は部屋のすべてに、むさ苦しい部屋のすべてに苦痛を感じるし、窓からみえる眺めにも苦痛を感じてしまう、子供たちは学校へ行き、人びとは買い物に行く、みんな自分がどこへ行くべきか知っているのに、私だけ自分がどこへ行くのかわからない、ぼうっとしたまま服を着て、よろめき、片脚で飛び跳ねながらズボンをはいて、電気かみそりで髭を剃りにいく、髭を剃るときはもう何年も鏡をみずに、暗がりか隅っこのほうで髭を剃っている、私は廊下の椅子に座り、プラグのほうは浴室のなか、自分の顔がみたくないし、浴室のなかでは自分の眼差しにさえぞっとする、私は自分の眼差しにまで苦痛を感じてしまうんだ、眼には夕べの酔いがみてとれ、朝食もとらず、とるとしてもコーヒー少しとタバコで済ませて、テーブルに座る、ときどき腕組みをして、フラバルよ、フラバル、ボフミル・フラバルよ、おまえは自分に打ち勝ったんだ、無為の極みにまで到達したんだ、と何度かくりかえしていう、(赤塚若樹「魔法のフルート」、『世界文学のフロンティア3 夢のかけら』所収、191P)

高原英理『祝福』

文學界」「群像」や編著に発表された諸作を怪奇幻想誌「ナイトランドクォータリー」での連作「精霊語彙集」として引き継いで書かれた作品集。オルタナティヴなこの世の外への志向を、「呪なのか祝なのかもわからない言葉」の魔力をめぐる言語を通して描いた幻想小説

幻想小説といっても超常的な現象にフォーカスするというよりは、言葉が持つ力がこの世の平常を超えること、この身体を超えること、この世界そのものを超えること、そのようなものとしての言語を描いている点に幻想性がある。

「言葉が意味を通り越したところに呪(しゅ)はある」114P

九つの短篇が収められていて、私はこのうち二篇を独立して読んでいたのだけれど、なるほど全体としてはこういう関係だったのかというのも面白い。七年前に書かれた「リスカ」というリストカット癖のある少女からすべてが始まり、その言葉が信者を生み、宗教を生み、組織が立ち上がる。この宗教組織を主軸にしたり、各篇を連繋させる装置として用いたりしつつ、架空の小説についての評論という形で本を書いた人間、ある人の残した呪(しゅ)としての語彙を別の人に刻みつける者、宗教組織の教祖になる女性に取り憑いた魂、詩の記録を禁じた詩人、十七歳の美少女を自認する中年男性、街の隙間を探す遊歩者、そして呼びかけに応じて別世界に物語を語る女性など、それぞれ別様のアプローチで前記の「幻想」を描いている。

長篇小説の『観念結晶大系』とも根底では同じモチーフとも言えるけれども、この多彩なアプローチが同じ根っこから別の花が開くような多様さを生んでいる。『きのこの日々』が題材にしているきのこのように同じ菌から別々の子実体が生まれるようにというか。「正四面体の華」の80年代モチーフが『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』に、「隙間の心」が『詩歌探偵フラヌール』に、それぞれの短篇の文脈は他作品とも繋がりを感じる。全作読んでいるわけではないのでもっと他にもリンクは見てとれるだろうと思う。

女性の神がかりの言葉が宗教を生むのは明治の新宗教でもあったけれども、この連作の語り手が女性から始まり女性で終わるのは社会的抑圧とそれへの抵抗の側面が大いにある。「リスカ」のミレイは学校の教師からのセクハラを要因として不登校になっており、こう語る。

石女と書いてうまずめと読む。これはあのクズ教師が厭な口調で教えた言葉で、あの厭な言葉つきの記憶から今よくわかる、ああいった男たちにとって、石と女がひっつくととても忌まわしい負の意味になるのだ。ああいった、というのは奴みたいなののセクハラが生まれてくる根のところに、女が硬い石や結晶であってはならない、いつも肉質でぷるんぷるんしてて必要な時にはぬるぬるの液体を分泌して待っていて、突っ込まれる棒から出た汁で自分の中にもう一体の肉の組織を育て上げる、それだけが女の価値だから、っていう女たちへの蔑みがあるから出てくる言葉。25P

そんな彼女は「左手の小さな傷は夜への通路」(8P)と言い、「わたし、実は人間のふにゃふにゃしたとこが嫌いだから硬くて重い石が好きだった、手の肉を切るのは自分が軟らかいことへの懲罰だ」(23P)、とふと気づく。鉱物幻想がフェミニズム的な意味を持ってここで描かれている。

この一篇にも出てくる、「わたしは満ち足りているけど、不要なものがひとつある。それは自分の心」(34P)、という言葉が連作を通じて時折姿を現わしており、「正四面体の華」でも自己消滅的な言葉を組み合わせたところに超次元の観念を空想するところに繋がりもする。

リスカ」が女性性の押しつけに対する抵抗なら「かけらの心」では中年男性が自らを美少女と仮構する現実身体の否定という対比的な一篇にも繋がっており、著者が「お兄ちゃんはおしまい!」が好きなのもなるほどなと思うところがある。近作「ラサンドーハ手稿」も系列作といえるか。

最終篇「帝名定まらず」はどこかから響いてきた古語のような声に応えて、自ら解釈して作り上げたその物語の続きを異界に語り続ける女性の物語となっている。どこかから言葉を受け取り、それをまた別のところへ送るという行為は「リスカ」以来本作のもっとも重要な行動だろう。神の言葉を受け取る宗教が描かれてきたのも、言語にとってこの感染性、魔性、呪術性ともいうべき機能を本質的なものと捉えているからではないか。ミーム概念を思い出す。オルタナティヴなものを求める心に言葉は住み着き、呪いとも祝福とも言い難い役割を果たしていく。

不完全であっても、もしわたしの言葉が神の言葉として、かの地へ届いているのなら、それでも二人に何かの幸いを与えているだろう。
 これだけのためにわたしはいた。役割と言おう。わたしは最も望ましく聡明な女性二人を知の源たる処へ送り返した。わたしには行けない処である。251P

「わたしは満ち足りているけど、不要なものがひとつある。それは自分の心」という「リスカ」以来の誰のものかも不明な言葉がリフレインされて閉じられていく本篇だけど、この自己否定・この世の外のモチーフは読者にとって救いにも毒にもなりそうな魔性がある。薬は毒にもなり、ある言葉に人が衝撃を受けたりすることは呪われたのか救われたのかは判然としない。「帝名定まらず」の語り手は「物語を紡いでいるとき、わたしは許されている心地である」(235P)と言う。しかしその帰結を他人から見ればまた別の見解になるだろう。

本書は最終篇の描くように物語ることについての小説でもあり、「精霊の語彙」が描くように人は意味の分からない言葉でもそれを受け取り誰かに刻み込む媒介者になってしまうことがあり、それが救いなのか呪いなのかはともかく、言葉に動かされる者としての人を描いていると言える。

余談だけど、「目醒める少し前の足音」の最初の一文に古井由吉っぽさがあると思った。古井っぽさを感じた文章はもう一箇所あったんだけど忘れてしまった。

目醒める少し前の自と他との、人と人との区別の薄い時間に交わした約束を、守るため守るためと、そればかり気にしていて何の約束だったか忘れているような、乏しいことだ、雨の降る中、よく来てくれたと言いたいのに、来る人のいない朝の、覚醒という断崖が見え始めた。136P


言及した本とそれについてのブログ記事にリンク。

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雑誌「文學界」の幻想小説特集に掲載された「ラサンドーハ手稿」は以下の本に収録。

雑誌掲載の独立した短篇として読んだ時の感想はこのなかにある。
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最近読んでた本2023.11

高田公太『絶怪』

実話怪談本。著者が序文で、それまで怪談で怖いだけなのはダメだと変化球を投げていたのを、あえてストレートな恐怖譚を収めたと言ってるのもあるせいか、冒頭の「我が家」から、呪いとして理に落ちそうなところでずらす不可解さが印象的な話だったりする。

続く「テント」もあり得ない現象と異様な状況がありつつ、それが分かりやすい呪いの物語として解決しないという不可解さがあっていてなかなか面白い。かと思えば、「可愛い子には」のオチは確かに怖いけどそれじゃない!って思って笑った。「コンビニ伝説」の、異界への入り口がすぐそこにあることが逆に人を誘惑するのもなかなか良い。作品集としては「不安」というほぼ一ページに収まる掌篇が一話ごとに挾まれているのは本として面白い構成。

巻末の「ここに漂え」は実話怪談本のなかにあって事実を元にした小説という体裁で書かれている短篇で、こうなると何が何だか分からないけれども、被害者女性の晴らせぬ恨みを小説と言うことにしてぶつける志向は、怪談がしばしば被害者の怨念を代弁する機能を持っていることの反映なのかも知れない。

ただ、本書で一番怖かったのは「海」の「芳雄」さんなんですよね。普通に考えたら誤植なんだけど、これはただの間違いなのか、あるいは意図的なものなのかと混乱して、怪談本に誤植の形で知らない人が急に出てくるのは正直メタ怪異っぽくてリアルにぞっとしましたからね。語りがバグるのが一番怖いというか。

蛙坂須美『怪談六道 ねむり地獄』

『代わりに読む人0』でご一緒した実話怪談作者の初単著。冒頭の「噛夢」は歯にまつわるいやな生々しさとともに体験者が変容を遂げているという怖さがあり、冒頭から何篇かはこういう体験者が既に「向こう側」に行っている事例が続いていて、怪異がすぐそこまで迫っているギリギリ感で攻めてくる。聞いた話を語るという実話怪談の形式では当人の死にオチは不可能だけど、既に異質な認識に染まってしまった人とも言葉を交わすことはできる。それが恐ろしい。語りこそ読者が直接触れるものなわけで、本書はこの語りというインターフェースに意識的な点が特徴ではないか。

そもそも序文の「こんな話を聞いた」の連発は漱石夢十夜』の「こんな夢を見た」だし、ちょうど真ん中あたりにある「病膏肓」の「あなたは今、怪談本を読んでいる」という導入はおそらくはカルヴィーノ『冬の夜一人の旅人が』か、あるいは他のメタフィクション小説に参照元があるはずだ。帯にある「現実と非現実の境目が溶ける瞬間の恐怖」、「ねむり地獄」という題や元のタイトル案だった「奇睡域」という汽水域をもじった言葉などのように本書では夢と現の境界が意識されており、メタフィクションの引用も虚構と現実の境目をそこに重ねる意図があるからこそだろう。

ホラーと夢とメタフィクションは境界が溶けるという点で重なる点があり、だからこそ漱石メタフィクションが召喚されている。しかし本書は「実話怪談」なので一般の怪奇幻想小説とは異なり、語り自体をバグらせるわけにはいかない。そのギリギリを突いたのがカフカ感のある「K鍼灸院」だろう。別様のリプレイをするように二度同じルートを雰囲気の違う形で繰り返すというテクニックを使っていて、読者もまた違う次元に迷い込んだような感触をもたらす効果があるけど、しかしこれは「実話怪談」でやるには暗黙の前提?を踏み越えかけてる気もする。

これやって良いんだ?と思ったのは「土地」だ。ある場所で何度も事件が起こり店が建て変わっていった経緯を複数の人間の話から再構成する一話で、基本的に一人あるいはその知り合いぐらいから話を聞く場合が多い「実話怪談」としてはかなり珍しい手法で面白い。

タイトルに応接する一作として「ファントム・オ・テアートル」がある。自分だけしか見えていない不思議な存在を描いたもので、「現実に紛れ込んだ夢の断片」なのかと考える本作の冒頭には「現実と夢とは実のところ地続きなのではないか」という一文があり、境目は常に溶けていると示唆する。その意味では「犬目耳郎」の現実そのものが反転していくさまは夢を介さない分またいっそう恐ろしいとも言える。しかしそもそも「実話怪談」というジャンル名にしてからが撞着語法めいたもので、現実と非現実はそもそもそこから境目が揺らいでいる、とも言える、本書はそう思わせる。

加藤一編著『妖怪談 現代実話異録』

あやかしテーマの実話怪談本。最初の話に天狗が出てきたりするけれども、そういう既存の妖怪になる以前の、何か得体の知れないものとの遭遇の色が濃い。終盤には民俗学的知識を踏まえたものも配置され、末尾の長尺話は力作。

序文でも妖怪に言及しながら怪異全般、神や精霊との境界が曖昧なものだと書かれているように、そういう見慣れた妖怪として固定化される以前の現象なのが「妖」を冠した本書の肝だろう。民俗学知識を踏まえつつそれではないものとしてずらす「ちまりの話」もそうした一作。「ちまりの話」「しいらくさん」「ゥフゥヌン ヮヌゥーノッ――奇譚ルポタージュ」の三作は民俗学知識を交えたり家に伝わる正体不明の社だったりあやかしものの話らしくて面白い。「籠蛙力行」の謎めいた単語もなんかそれっぽくて印象に残る。

読んでておお、と思ったのは「デコトラ」の、長距離ドライバーは体の右側を日焼けしてしまうものだというところ。遭遇した人物が同業者らしいのに日焼けがないので怪しむ描写があり、この細部のリアリティは良いなと。「蛇精の菊」は『雨月物語』のタイトルっぽい。

しかしこれに限った話でもないけど、ホラーと差別は相性が良いのでいかにそれを避けるかが現代ホラーの一つのポイントになってるなというのは感じる。古典的なホラーをズラしていくというのも新鮮味とともに差別的な物語性の相対化でもあるというか。

鈴木悦夫『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』

幸せな家族という保険会社のCMの被写体として選ばれた一家が、いざ撮影を始めようとしたら父が、兄が、と次々家族が亡くなっていく連続変死事件の当事者となった小学生省一の語りで事件の様子が描かれていくジュヴナイルミステリ。

以下特にネタバレとか配慮しないで書いていく。

犯人はもう最初のプロローグでこいつ以外ないだろとわかるので実質倒叙ミステリの感触があるけど、事件の内実や何故こんなことがという部分は謎めいた形で進んでいく。それでも父と姉に怪しい関係がありそれが犯意かと思ったり、犯人は一人ではないのかもなど、結構読んでて迷わせられる。

「幸せな家族」を裏返してその実不幸せな家族だったという単純な露悪ではないだろう。父の姉への態度はやや熱心すぎてここに父の性虐待などがあるのかもと思ったけれどもそうではなく、事件の真相ではお互いをかばいあってこうした展開をたどる共犯関係の、「幸せな家族」ではあるわけだ。言ってみれば、時間差の一家心中のような状況が起きていて、大切な家族だからこそ殺すという慈悲的殺人が含まれている。まあ一人以外は。「頭の悪い男の子が大嫌い」という言葉がなかなか鮮烈で、約一名だけ誰にも庇われていないのが何か本作の黒い穴のようでもある。

作品自体もインパクトがあるけれど、本作が悪意を向けているのは幸福が絵になるなら不幸もまた絵になるというメディア、資本主義のありようだろうと思われる。ビデオカメラ、CM、テレビ週刊誌含めたマスコミ取材、そして語りに用いられるカセットテープと、道具立てには新しいメディアが溢れている。省一の罹った「たいくつ病」とはまさしくこの80年代的メディア環境そのもので、それこそが人を殺すものでもあり、プロデューサーやカメラマンの動き方が示すように幸福も不幸も美人も「絵」になるわけで、それに対抗するためにはこの複雑な陰惨さを向けるほかない、とでもいうような。

しかしこの家族の中心は姉なんだな。兄が非常に厳しい扱いを受けているのは唯一姉の魅力を認めない人間だからなのではないか。姉が褒められると不機嫌になって自分を中心にしようとする態度で、父からも省一からも姉からも嫌われているわけで。最初も最後も姉の存在ありきの話。

でも一番驚いたのは「その頃はやった唄」というのが実際にある詩だということだった。JASRACの登録番号が付記されてて、山本太郎の『覇王紀』という詩集も実在している。曲がどういうものだったのかはさすがにYoutubeとかにもなかったけれども、実際にあんな見立て殺人にぴったりの曲があるとは。

そういえば、この小説には服装に関する描写がほぼなかったと思う。服装の描写はすぐ古びると考えていたか、子供向けで服の描写は要らないと考えたのか。

花田清輝『箱の話・ここだけの話』

本と本の合間に時々読んでる花田エッセイ、本書は特に短い文章が多くて移動中やちょっとした空き時間に読むのにちょうど良い。老いの話や刺青の話、戦地で劇場を建てて演劇をした『南の島に雪が降る』に触れた文章が印象的だった。

花田の天邪鬼というか皮肉屋ぶりが面白くて、歌舞伎を褒めるとなにかと面倒になると言ってこう書いている。

わたしは、関根弘が、「佐多稲子は、もはやプロレタリアの魂をうしなっている。なぜなら、かの女は有頂天になって、カブキをみに行っているから。」といったような意味のことを口走ったので、すっかり、頭にきてしまい、佐多稲子をひいてはカブキを、口をきわめて礼讃し、長年の知り合いであるかれと、一時、絶交してしまった。14P

「口をきわめて礼讃し」、面白い書きようだし蔑視されたものを瞬時に庇いにかかる反射神経はすごい。
ここらも良い。

おもうに、もしも森鴎外が、かれの息子にもまさるとも劣らぬほどに耄碌していたなら、かれの歴史小説は、いっそう、精彩をはなったのではなかろうか。36P
 
山之口獏小野十三郎中野重治は、みな、わたしの古い知りあいだ。あえて知りあいといって、友だちとはいわない。わたしには友だちは一人もいない。77P
 
わたしは、小島政二郎を、近代以前の視聴覚文化を血肉化している点において、作家としては、永井荷風谷崎潤一郎の血族であり、近代の活字文化に首までどっぷりひたっている森鴎外芥川龍之介とは、およそ縁もゆかりもない人物ではないかとおもうのだ。116P

豊島与志雄が『ジャン・クリストフ』を訳したのはまだ許せるけど「『レ・ミゼラブル』を訳したのは終生の恨事」だと言っていたという話が紹介されてるんだけど、何でなんだろう。

反戦的であるということ」という文章が『南の島に雪が降る』という戦地で劇場をやったノンフィクションに触れている。世の中の縮図としての軍隊にはさまざまな職業人がおり、彼等の力によって劇場を建設し、芝居を演じる、そんな話に触れながら花田はこう言う。

軍隊もまた、さまざまな「平和の仕事」に従事していた職業人たちの集団であって、そんな連中が、みずからのプロフェッショナリズムにてっしていれば、いやでもかれは反戦的にならざるを得ない、というのが、わたしの大凡の見当だったのである。「文学はあくまでも平和の仕事ならば、文学者として銃をとるとは無意味なことである。」と称して、断固として銃をとることを拒絶するというのなら、わたしにもわかる。しかし、小林秀雄のように、そういったあとで、言葉を続けて、「戦うのは兵隊の身分として戦うのだ。銃をとるときがきたら、さっさと文学など廃業してしまえばよいではないか。簡単明瞭なものの道理である。」というのでは、首尾一貫しないことはなはだしい。すくなくともそこには、プロフェッショナリズムの片鱗さえみとめられないのだ。145P

花田は階級意識よりも職業意識を尊重するという。「わたしは、職業意識と縁のない階級意識を、すこしも信用するわけにはいかないのである。」(146P)しかし階級意識と縁のない職業意識があればどう思うのだろうか。現実を見ないための職業意識。それが今現在を支えているような気がしないでもない。
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現在、地味な仕事を貫くことはここでも触れられている。
「軍事大国ロシアの侵略に直面しながらも、人々の中のあるものは銃を取り、パン屋はパンを焼く。お笑い芸人は笑いに徹し、鉄道員は一日たりとも鉄道を止めず、ITエンジニアはサイバー空間でロシアと戦う。」
しかし『乱世今昔談』と『箱の話』から適宜取捨して本書を構成してあるらしく、独特の編集をしている。

R・D・レイン『好き? 好き? 大好き?』

サブカルその他さまざまな場所でオマージュされてきた異色の精神科医として知られる著者の詩的作品集。精神医療の現場での経験を元にしたと思われる対話から数行程度の短いものまで。表題作は素直に読めるけれども全体像は掴みづらい。

第一の詩篇「蕩児の帰宅Ⅰ」は認知症の父と母、息子との場面が描かれていて、瞬間瞬間に息子のことを忘れていく父親との会話がト書きなしの会話文だけで構成されているのがなんとも印象的。浮気関係の交錯を記す「寓話」連作はサリーアンテストみたいでもある。

最も長い「どうにもしかたがない」はなかなか緊張感があって、治療者と患者の関係らしい「彼」と「彼女」の会話のなかで彼女が幾度も「どうにもしかたがない」と繰り返しており、これがある種の「治療」への抵抗のようにも読める。男と女、医者と患者という上下関係への違和。「わたしはありのままのわたしとはちがうわ」「わたし自身なんてなくしてしまったわ」という述懐や、彼の「きみはなぜ しじゅうぼくに楯突くのかね?」「しじゅうあなたに楯突いてなんていないわ」というやりとりのなかで「おねがい わたしをたすけようとするのはやめて」と治療への批判が入る。ここで彼女がリフレインしてきた「どうにもしかたがない」が医者と思しき彼のセリフとして「どうにもしかたがないんだ」と発されるのがクライマックスのようで、精神病の治療という概念そのものに対する緊張があるように思える。もう一点ここには君は「ロボット」なのか、と問う箇所がある。

他の詩篇でもロボット的な題材が幾つもあり、ねじが抜けてるという言い方があったりして、解説でも言及されているように精神病者がロボット的な存在に陥る「石化」を精神病治療の一つの症状として批判的に描写しているんだろうと思われる。

第47篇の意味がわからい箇所が気になって原文を探したら脚韻がしっかりと踏まれた詩の形式になっていてこれは原文を見ないと読んだことにならない作品なんだなとわかった。「あれはなんでも」が最初「あればなんでも」の誤記かと思った。MENを人間と訳してたり、韻文は訳しにくいな。

はつかねずみを食べるのが好きだったが
あれはなんでも
ほくが十歳のころ
いま食べるのは人間だけど
あんなにうまくはないんだな 117P

原文はこう。

I liked to eat mice
that was then
I was ten
now it's men
they're not as nice

同じことを繰り返して訊ねる幼さを感じさせる「彼女」のリフレインが印象的な表題作では「彼」が彼女の問いにほとんどおうむ返しに肯定していくなかで「わたしのこと おかしいと思う?」「だって そこがいいんだなあ」というやりとりが挾まるのが良いところですね。

レインは制度的な精神病治療に対して批判的な反精神医学運動に携わっていたとのことで、「どうにもしかたがない」の「治療」への批判などは明確なその現れだと思われる。だからこそ、解説で本書の純粋さや美しさを褒めあげる美化志向はかなり問題だと思う。サブカルチャーにおける本書を元ネタにした作品群については参考になるけれども、本作の社会性・政治性・批評性を削ぎ落とすようなこの態度は、病者の聖化というか他者化というか、本書で批判されている「石化現象」そのものではないのか。

小山田浩子『工場』

新潮新人賞受賞のデビュー作他二作を収める作品集。謎めいた工場で必要性の分からない仕事に従事する労働者たちを描く表題作や鈍臭い女性社員を中心に会社組織の人間関係を描く「いこぼれのむし」と、労働とともに妊娠や動物の繁殖が描かれており、つまり「生産」の諸相と読める。

発達障碍というか社会にうまく馴染めない人間の疎外感を描いている印象も強いけれども、熱帯魚趣味の友人の死の知らせを受けて最後に会った時のことを回想する短篇「ディスカス忌」が挾まると、本書はずっと繁殖のこと、人間と動物というか、動物としての人間を描いてるような印象が出てくる。

短い「ディスカス忌」が地味に作風の種明かしのようになっていて、赤ん坊の誕生と熱帯魚という人間と動物を繁殖において重ねることと、途中に出て来た貧しい母子家庭が浦部の妻子の今後のイメージを先んじて作中に描く時間的順序の入れ替えという技法のコンパクトな提示に読める。

まあそういうことは良いとして表題「工場」は、労働がむしろ社会との関係を危うくする疎外感をもたらす不条理さを描きつつ、巨大工場の異様なスケールや不可思議生物などにSF的なサービス精神もあって、かなり楽しく読める中篇になっている。正社員、派遣、契約と三人の視点から描きつつ、校正、シュレッダー、コケによる緑化計画というそれぞれの仕事が時折繋がる仕掛けも良いし、時間軸のトリックは驚かされる。社員食堂が社内に100ある工場って何だよっていうのとか、川に架かる橋を歩いて渡るのに一時間かかるとかいう大きなハッタリも面白い。

「工場」の謎生物のレポート、灰色ヌートリアや工場ウは他でも出てきているのに洗濯機トカゲというのは他で見てないのに唐突にここで出てくるのが異様で、現実感を揺るがせる小さなヒビにも思えるけれど、よく読むと実は他で描写されてたりするんだろうか。黒い工場ウは生活環がわからず、子供の姿も見えず成体だけがいる繁殖の過程が不明の動物なことが不穏さを醸し出しているんだけれど、何ものかを生産する場所としての工場にこのウがいるのは奇怪で、ここが印刷工場でもあるっぽいこととあわせてコピー・複製の象徴なのかも知れない。

中篇「いこぼれのむし」は女性を主として描く人間関係の描写が綿密で、疎まれ孤立しているその鈍臭い女性社員をめぐる状況はなかなか生々しくやや読んでてつらいところもある。「工場」はそのハッタリの効いたスケール感や幻想性で楽しく読める。サービス精神とはそういう意味もある。帯にある「この労働は、ブラック?ホワイト?」という文言は全然本作そんな話じゃないだろと思ったけど、「いこぼれのむし」は主人公奈良が鬱病と思われるけれどもむしろ病んでいるのは職場の方ではないかという展開で、これは確かにそうかも知れなかった。主人公が自分の垢を食べてる結構ゾッとする描写があって、なにか精神の不調を抱えているのはそうかもとも思っていたので、著者がそうではないと言っていたのは意外に思うところがあった。鬱病とは言わずとも何か病んでいるんだとは思っていた。しかし、そういえば主人公がまわりに自分は鬱だと思われていると気づいたところにこんな文言があった。

ただ、私にとっての普通が、彼らにとっては病と見まがうばかりの不幸だったのだ。304P

そう、そういう話だった。

読んでて特に笑ったのは「「メンタルヘルス・ケアハンドブック~あなたもわたしもなやみにサヨナラ~」という大便のようなタイトル」(39P)という一文で、これは普通なら「クソみたいな」と言うところだと思うんだけど「大便のような」という端正な表現が非常にツボに入った。ここに付箋を貼っていて、読み終わった後にぺらぺらめくってたら、「メンタルヘルス・ケアハンドブック」は「いこぼれのむし」にも出てきていて、ここに既に出てたのか、と驚かされた細部でもあった。

allabout.co.jp
このインタビューのここ、最高だった。作中に出てこないと思った洗濯機トカゲもこれは作中のあの子供がいると思って書いてるものとして書かれているものなのではないか。

小山田 私は幻想のつもりはなくて、一応リアリズムと思って書いているんですよ。でも幻想ととってくださる方がいるのはありがたいなと。
 
――えっ。でも工場ウとか、洗濯トカゲとか、実際にはいない生き物が出てきますよね。
 
小山田 私にとってはいるんですよ。図鑑に載っていなくても、この世界にはいると思って書いています。

最近読んでたもの

原民喜『夏の花』

広島原爆投下直前までのある一家とその周辺を綴る「壊滅への序曲」、原爆投下直後の広島での悲惨な状況を短いなかに淡々と書き留めていく表題作、そして生き延びても後遺症などで死んでいく人を目の当たりにする「廃墟から」の三部作を収める。

表題作では最愛の妻を亡くして千葉から広島に戻ってきていた語り手は、妻の墓に花を手向けた翌々日に被爆する。厠にいたために爆発の瞬間を見ず、熱線での火傷などもない語り手は、家族や工場の従業員などと合流したりしながら、屍や水を求めうめく人々のあいだを避難していく。

水に添う狭い石の通路を進んで行くに随って、私はここではじめて、言語に絶する人々の群を見たのである。既に傾いた陽ざしは、あたりの光景を青ざめさせていたが、岸の上にも岸の下にも、そのような人々がいて、水に影を落していた。どのような人々であるか……。男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかないほど、顔がくちゃくちゃに腫れ上って、随って眼は糸のように細まり、唇は思いきり爛れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼らは横たわっているのであった。84P
 
ギラギラと炎天の下に横たわっている銀色の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があった。そして、赤むけの膨れ上った屍体がところどころに配置されていた。これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった。94-95P

頭髪が刈り上げられた人を見て、後でそれが帽子によって熱線で焼けたところとその境目になっていることに気づく細部はぞっとさせられる。

表題作で気になったのは以下の箇所だ。

私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だという気持がした。長い間脅かされていたものが、遂に来たるべきものが、来たのだった。さばさばした気持で、私は自分が生きながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふと己が生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた。
 このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知ってはいなかったのである。79-80P

裏表紙のあらすじにもある「このことを書きのこさねばならない」というのは、原爆の被害というより、語り手が恐れていた二つに一つの生死という脅えがある破局を迎えて生き延びたことへの安堵してしまったこと、についてだと思った。そういう文章だろうと。その後からそういう安堵という問題を吹き飛ばしてしまう異様な惨状にぶつかるわけだけれども。次第にそうした小説的文章は影を潜め、ある種記録的な文章になっていき、それがこの作品の淡々とした地獄という感触を与える。事実著者のリアルタイムの記録、ノートを元にしているという。

地獄のような状況を脱し、ある村で落ち着く頃には青田の上を飛ぶトンボが目に入り、ある女中は火傷にウジが湧いて一月ほどして死に、甥は頭髪が抜け鼻血を出して死ぬ間近かと思われながらも、次第に持ちこたえていくという自然と生命力の描写で締められるのが印象的だ。

最後に挿入されたNという人物が妻を探して広島中の女性の屍を実検していく部分は、「廃墟から」の最後の一文「実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出そうとしているのでした。」という箇所とも同様の締め方で、いかにここで人々が消えてしまったかが示唆される。

「瀬戸内海のある島では当日、建物疎開勤労奉仕に村の男子が全部動員されていたので、一村挙って寡婦となり、その後女房たちは村長のところへ捻じ込んでいったという話もありました」130P、壮絶な話だけど何を捻じ込みにいったんだろう。

冒頭にある「壊滅への序曲」は原爆直前の戦時下の一家の様子を描いており、被爆以後のものに比べて人間の描写などぐっと小説的な彩りがあって、書かれたのは三部作で最後だといい、いくらか時間が経ってから、その時失われたものがなんだったのか、をたどり返すような一篇。

集英社文庫版は冒頭に地図があって、市内をどのように動いたかがある程度把握できるようになっているのが良い。研究者による詳細な解説、リービ英雄による鑑賞、年譜もあり充実しているけれど、語注はつける基準がよくわからなくてやたら簡単な語句についたり初出でつかなかったりしてる。

文學界」2023年5月号の特集「12人の“幻想”短篇競作」

山尾悠子や川野芽生といった近刊書からの抄出や近年の新鋭も多く参加した書き下ろし幻想短篇特集。日常から幻想へ繋がるものや文章で世界を作り出す力のあるものまで多彩で、特に山尾、諏訪、石沢、川野、高原、大濱が良かった。

山尾悠子メランコリア」は『海泡石たち――親水性について』という著書からの抄出という短篇で、海辺の街を舞台に昭和と思われる風景が独特の感触で描かれており、それだけでも良いんだけど、享保雛と陸に上がった船がぶつかるカタストロフがまたなかなか。「何度か生まれ変わって、いまここに来ているのかと思うことがある。よく造り込まれた箱庭のようにひどく特殊で、いかにも狭すぎるこの世界に」(76P)。闇を底に抱えた一つの街区を擁する、鬱あるいは虚無という名の黒く巨大な船に乗る旅が始まるらしいのが非常に期待を持たせる。

諏訪哲史「昏色の都」、本特集で一番「幻想文学」の力を感じる一篇で、硬質で堅牢な文章で組み立てられた世界は文章で読者を異世界に拉し去る力がある。一番長いのもこの作品だし、強度のある一篇だ。表題や巻頭引用など『死都ブリュージュ』オマージュらしく、日本とブリュージュを舞台にしている。盲目の主人公が目が見えるようになってからまた見えなくなりはじめているという状況を背景に幼少期からの来歴を語っていて、子供同士の性的な接触のエロティシズムやスカトロジーには仏文ぽさを感じる。東京とブリュージュ、日本語とフラマン語、視覚と触覚、そして虚構と現実。「記憶が時間のなかの形象を発酵させ、時がたつほど、現実は夢と等価になりゆく。夢は凝固して現実に、記憶は凝固して事物になる」(97P)。生まれた年が1969年ということでホテル・カリフォルニアが引用されたりする。視覚を獲得して文字が事物を表わすことや騙し絵と実物がどうして違うのか、という違和感の描写を経て、ブリュージュをひらがなの形に歩くという行動によって、都市を文字に虚構に取り込むかのような、言語と現実・虚構についての一篇。

沼田真佑「茶会」、謎の儀式めいた会社の茶会に行く途中に出会った不思議な道連れを経て、ラストシーンでは身体と精神の入れ替わりになっているようなちょっとSF小説っぽい感触もする。

石沢麻依「マルギット・Kの鏡像」、七人の同名の妹たちの一人の訃報が画家の兄のもとに届いたことで帰郷に同行した語り手が出会う奇妙な出来事。雰囲気があり同名の妹たちや鏡像という個人を揺るがすギミックも面白い。タイトルに勝手にカフカを感じたけどカフカの妹はマルギットではなかった。

谷崎由依「天の岩戸ごっこ」、子供に日本の神話を読み聞かせる身辺エッセイのように始まりながら天岩戸ごっこというのが出生や胎内回帰のようなイメージに繋がっていき、語りもひらがなまじりで絵本的な擬音も効果的なものになっていく終盤の幻想性へと雪崩れ込んでいく。

高原英理「ラサンドーハ手稿」、タイトルは『サラゴサ手稿』を踏まえたのか東欧圏を舞台にした翻訳された手稿という形式で始まり、飛行船での自殺計画や謎の塔などを題材に、「自分でありたくない、自分を逃れたい」病という著者通有の脱主体的な幻想のギミックが描かれる一篇。自殺、亡命、あるところから逃れようとする人々。記憶も含め身体はそのままで、確かに自分ではない自分に入れ替わったという体験が描かれており、SF的な自己の転移とはまた違う感触に幻想小説らしさがある。このテーマと翻訳を経る手稿という形式も必然的な繋がりとして選ばれたものだろうか。

川野芽生「奇病庭園(抄)」、長篇小説の冒頭部分の抄出。角が生えたり翼が生えたりする奇病の流行のなかで、血で写字する青年と角の生えた頭部の奇妙な二人連れや数奇な運命の人々が描かれる。女性を青年と呼んだり「娼夫」と表記したり通念に逆らいながらの記述も面白いのでいずれ本篇も読みたい。

マーサ・ナカムラ「串」、串に突き刺されたクシダヒメという人柱の人形が生まれる秘所の守り人を描くファンタジー。稲田、クシダなど日本神話モチーフで、「天の岩戸ごっこ」と繋げて読むのも良いかも。

坂崎かおる「母の散歩」、娘が死んだ母の遺品整理などをしているうちに、母は架空の犬の散歩という不可思議な行動をしていたことを知ってという短篇。架空の、虚構の、幻想の意味を語っている。「想像の犬だよ。誰も、なにも、傷ついていない。傷つけていない」、果たしてそうか?という。

大木芙沙子「うなぎ」、うなぎが腹から出てくる現象に見舞われた男の少年時代の回想が語られていて、近所のおじさんとふとしたはずみで仲良くなって楽しい時間をすごすんだけれども、新しい父、母と一緒にすれ違うときつい無視してしまう体験のばつの悪い心残りが印象的なノスタルジック少年小説。

大濱普美子「開花」、ある老女が団地で引っ越しをして新しい住居に来た時近所の格子に掛かった子供の赤い傘が気になる。女性は若い頃奔放な親に無理やり預けられた姪の世話をしていたことを思い出し、どうも老女にとって子供がいないことが強い執着としてあるようで、赤い傘が不気味にだんだんと近づいてくるような幻想的な描写はその老女のこだわりの反映のよう。間接的な描写で女性のオブセッションを強調してくる描き方がやはり印象的。

吉村萬壱「ニトロシンドローム」、爆破能力を得た人間たちという『新世界より』とかの超能力SFの始まりっぽいアイデアなんだけれど、なんとも生々しい欲望のありさまや鼻毛の出ていた高校生といった嫌な細部、猥雑で暴力的な雰囲気が充満してヒリヒリとしている。

『水都眩光』として書籍化されたけれども、山尾、諏訪、川野は未収録。川野作は既に刊行されているし元々序章部分の採録だからいいとしても、本特集で一番の読みどころだと思った諏訪作が未収録なのは非常にもったいない。山尾作も本が出るのはいつかわからないし雑誌で読む方が良さそう。

伊野隆之『ザイオン・イン・ジ・オクトモーフ』

SFRPGエクリプスフェイズのシェアードワールド小説。地球から救出されたなかに埋もれていた伝説的資産家の「エゴ」を見つけ出した人物が、資産を横取りしようとタコ型義体、オクトモーフに蘇らせるも取り逃がしたことで始まるコミカルな逃走行。

意識を小さい装置に格納し、様々な義体を乗り換えることができるポストヒューマンSFで、資産家ザイオン・バフェットが地球の災禍に巻きこまれて後その「魂ego」を見つけたマデラという金星の鉱区開発会社の人間がタコ型義体に蘇らせて拷問にかけようとしたところを逃げられる。

タコ義体ザイオンの他にも知性化(アップリフト)された動物も存在しており、ザイオンもしばしば人間ではなく知性化タコという身分として見られたりもする。ケースという表情のない金属の義体を使うものや、女性の姿をした戦闘用義体フューリーなど、個性の表われのようにさまざまな義体が登場する。

人間は人間でAIの秘書を使用し、精神に作用をする安定剤をインストールして仕事をしている。物語は上司の来訪に怯えるタージというアップリフトのタコの視点から始まるけれども、ヒントがあるようにこれはザイオンの偽装人格で、金星の地表からいかに脱出するかの騙し合いが始まる。

囚われの立場からの脱出行が軽快かつ痛快なエンターテイメントなんだけれども、楽しさの要因はほぼ常にコンビで話が進んでいくところにある。ザイオンはカザロフという元々マデラの元にいた用心棒と成り行きで同行することになって、このタコと無表情な金属義体のコンビが楽しいし、マデラもインドラルという騒がしい子分気質の知性化カラスと凸凹コンビという感じで、個性的なインドラルが後々まで出番があるのは良い。今作はこのコンビ感が重要だよなと思っていたら最後の方の展開でもなるほどと思わされるところがあって、最初から考えてたみたいな着地をした感がある。

作者いわくプロットは作らないとのことで、書いていくことで作品から掘り出された展開が最初からそうなるように見えるものでもあるんだなと思った。八本腕があって多少ちぎれても再生するタコ型義体の便利さが様々に描かれているのも楽しい。

SF Prologue Waveに掲載されたザイオンシリーズの連作のほか、別主人公の短篇が二つ入っている。それぞれ本篇と交差する場面を別の人物から語り直した別伝になっていて、鉱区の労働争議の激化と虐殺を防ぐ動きが描かれている。経産省出身という作者の体験が幾ばくか反映されているのかと思った。

日本と英語圏の作家のEPシェアードワールド短篇集の『再着装の記憶』には、ザイオンとコンビだったカザロフがマデラに命じられてタコ型義体を追跡していた頃のことが描かれている。その相方は本書の短篇の主人公ゲシュナだったりしているので、併読するとより面白い。

本書はアトリエサード様より恵贈いただきました。ありがとうございます。

小野寺拓也、田野大輔『検証ナチスは「良いこと」もしたのか?』

本やネットで流布されるナチスがしたとされる「良いこと」を列挙しそれがナチスの政策においてどのような意味やどういう効果を上げたのかを検証して、それらがナチスの戦争経済、民族共同体の差別主義と表裏一体のものだと示す小著。

短いながらも非常に良い啓蒙書になっていて、俗説に対する歴史学的検証の過程を通じて、個別の政策と全体の目的との連関を解説しつつ、俗説が歴史的事象の「事実」「解釈」「意見」という三段階のうち「解釈」をすっ飛ばして説かれることの指摘など、学問的プロセスの案内にもなっている。

ナチスが六百万人の失業者を完全雇用にしたのはすごいなと思ったら、それが戦争準備のための持続性のなさそうな経済体制だったというのは驚きで、他の政策もアーリア人の「民族共同体」形成のために排他的、差別的弾圧を伴っていたことや、ユダヤ人や他国からの略奪を前提にしていたりと、思った以上に暴力的性格があったり、あるいは鳴り物入りで宣伝されたフォルクスワーゲンが積立金を支払っても買えなかったなどの豊かな生活、希望の宣伝には熱心でもほとんどが空手形に終わった実態を検証して、「良いこと」とされる政策を軒並み論駁していくさまは圧巻。

読んでいくとナチス体制がいかに戦争という破綻に突き進んでいく暴走車のような代物だったかが感じられるし、多くの社会福祉が眼前につり下げられたニンジンのごときものだったか、そしてその過程での厄介者と見なされた存在への弾圧がいかに激しかったかが示唆される。

以下、興味深い箇所を引用しておく。

「共同体の敵」とされた人びとはそうした恩恵を受けられなかっただけでなく、政治的敵対者は強制収容所に送られ、ユダヤ人は暴力を振るわれたり財産を安値で買いたたかれたりし、障害者は断種手術を強制されるなどしたのである。15P
 
アウトバーン建設はじめとする雇用創出政策はさほど効果的なものだったとは言えない。景気回復をもたらした決定的要因はむしろ軍需経済にほかならなかったのである。48P。
 
このようにドイツは戦争準備が不十分なまま、無謀な戦争へと突き進んでいくのだが、戦争はあらゆる問題を解決する万能な処方箋だった。戦争に勝利して他国を征服すれば、十分な資源が得られるばかりでなく、膨大な負債も帳消しにできるというのがヒトラーら政府首脳部の考えだった。50P
 
ナチ・ドイツは占領国からの輸入についてこれを「ツケ」として口座に記入し、実際には支払いを行わないことで、事実上タダで商品を入手していた。一九四四年六月末の時点でドイツは約二九○億RM(約一七兆一〇〇〇億円)を「ツケ」として諸外国に押し付けていた。52P
 
こうして一九四四年九月の段階で、戦争捕虜を含めて約七六〇万人ないし八九〇万人の外国人労働者、さらに強制収容所の囚人約五〇万人がドイツ国内で働き、ドイツの労働人口のおよそ四分の一ないし五分の一に相当する数に達した。56P
 
ナチ政権下の労働者は様々な権利を奪われ、官製の労働組織に組み入れられたが、そうした監獄のような体制のなかでも彼らが文句を言わずに働くようにするため、一種のご褒美として導入されたのが一連の福利厚生措置だった。67P
 
フォルクスワーゲンに至っては、数十万もの人びとが積立金を支払い、巨大な生産工場が建設されたにもかかわらず、予約購入者に一台たりとも納車されないまま、開戦後に生産ラインが軍用車生産に切り替えられた。結果的にそれは巨額の積立金を軍事目的に流用するだけに終わったわけで、そこには国民からかき集めた資金を元手に無謀な戦争に突き進む「ならず者国家」としてのナチ体制の本質があらわれている。69P
 
ナチスの動物保護には、たしかに「先進的」と評価できる部分もあるかもしれない。しかしその背後には、人間だからといって何も特別扱いする必要はない、「排除」すると決めた人間を動物以下の扱いにして何が悪いのかという、開き直りにも似た姿勢があったことも忘れてはならないだろう。92P
 
アウシュヴィッツやマイダネクではパウダー状になった人骨が畑に散布されていた可能性が高いし、ブーヘンヴァルトでは人間の血が馬の糞尿と混ぜられた上で肥料とされた。「人間中心主義」の否定が行き着いた極北、それが強制収容所における有機農法であったとも言える。94P

ナチスの略奪経済に関する部分も相当だけれど、この自然保護と人間の資源化が表裏一体のものとして描写されるところは本書でも特に衝撃的な箇所だ。また、ナチスのさまざまな空手形、夢を振りまいて人を動かすところに戦後の大量消費社会の淵源を見るところも示唆的。

将来の消費を現在の宣伝で先取りするというこの「バーチャルな消費」こそ、戦後の大量生産・大量消費社会を支えるメンタリティを形成したものと言えよう。70P

禁煙、癌対策などさまざまな健康増進の政策は、アルコール中毒患者、精神病患者などの断種などと密接な繋がりを持つ「民族体」を保つための全体主義優生学的政策の一環でもあったわけだけれど、現在行なわれる類似の健康増進・少子化政策などもまた必ずしもそこから逃れられてはいない気もする。破綻必至の戦争・略奪経済のプログラムに含まれることでその凶悪な姿を露呈している印象だけれども、健康増進、少子化対策などの政策目的には個々人の権利だけではなく、国家の維持やコストの眼目もあるわけで、ナチスの研究にはそうした彼我の懸隔を測る意味合いもあるか。

ソマイア・ラミシュ編『NO JAIL CAN CONFINE YOUR POEM 詩の檻はない アフガニスタンにおける検閲と芸術の弾圧に対する詩的抗議』

表題通りのアフガニスタンの検閲に対して編者が呼びかけたアピールに応答して集められた日本の詩と世界の詩の一部を訳載した抵抗詩集。表紙にはラミシュの名前だけがあるのでこう表記したけれど、日本版は柴田望さんの編集。既刊詩集からの採録とはいえ文月悠光が参加しているのが目を引くけれど、八歳の子供からラッパー、新進の詩人らが日本各地から同列にこの「詩的抗議」に加わり、さまざまな形で詩を書き、弾圧がもたらす夜へと抵抗を示している。

高細玄一の詩の一節がこうして詩のあり方を語っているの印象的だった。

そのことをどうやって記録に留めよう
写真だけではない人の生きかたを
詩を書かずに どうやって留めよう 54P

さまざまな抵抗の詩があるけれども、岡和田晃の詩は闘争的な姿勢を持ちつつ諷刺的な笑い・ユーモアの要素があるのが他にないところ。

天狗も河童も新型コロナ・ウィルスに感染し、
ゲイシャやサムライにもPCR検査が必須だ。31P

セシル・ウムアニの本書表題の元になったらしい詩も印象的だけど、クリストファー・メリルのこの一節も。

正義の都市国家の守護者たちは
詩の一節を反乱に等しい
と見なす――厳密に言えば、
確かに、詩は政府を倒すことができる。112P

岡和田晃さまより詩誌「フラジャイル」18号を恵贈いただきました。

向井豊昭の詩「火花」や岡和田さんによるその解説のほか、本誌主宰柴田望さんの関わった『詩の檻はない』とも関連したソマイア・ラミシュさんの寄稿や、アフガニスタンの楽団を書いた詩なども掲載されています。アフガニスタンの楽団についての詩の高細玄一さん、ラミシュさんの詩の翻訳もしている木暮純さんの詩は『詩の檻はない』とも関連した作品で、『詩の檻はない』スピンオフの側面も多少あります。

『ナイトランド・クォータリー vol.20』

「バベルの図書館」をテーマに高山宏インタビューから始まり、創作ではジヴコヴィッチの佳品、ジーン・ウルフの難題、樺山三英ボルヘスパロディなどが印象的。創作は全体的に本そのものが人でもあるという発想が諸作に通じている。高山宏インタビュー、色々面白いけど澁澤龍彦は元ネタ探しの名人だけど種村季弘はそれに終わらないし自分は種村を買う、と言っててでもさらに誰にも評価されない由良君美を第一に推す、と言ってる。

安田均のアンソロジーコラムで紹介されている、ボルヘスとビオイ=カサーレス共編の幻想小説アンソロジー推理小説アンソロジーは面白そうだし確かに邦訳を期待したいけど、幻想小説アンソロジーは75編と量が多くて既訳の「バベルの図書館」とも重複がありそうってのがあるか。

ジヴコヴィッチ「夜の図書館」は存在しないはずの夜の図書館に紛れ込んで、そこには自分の人生を記した本――まだ本になってないバインダーに挾まれたもの、を借りることができるという幻想譚。図書館をめぐる幻想的連作の一作らしく、是非まとめて訳されて欲しいところだなと思ってたらリトルプレスで既に訳されておりしかも既に入手困難になっていた。しかしこれは同じくセルビアの作家ダニロ・キシュ「死者の百科事典」のオマージュではないかと思った。キシュ作は、自身の父を含めたホロコーストで大量虐殺された、数としての人間にも一人一人が尊い生を持つことを描こうとしたものだと思っていて、ただこっちは特にそういう感じはないけれども。

橋本純「おかえりなさい」、男性が森で出会ったある少女は迷子で自分が誰かも分からずという導入で、しかしジヴコヴィッチ同様、本とは人そのものでもある、というテーマがくっきりと描かれた寓話的ファンタジーなのは良い。作中の描写も少女の素性に絡んだものだったかは原典を未読なので不明。

ジーン・ウルフ「シュザンヌ・ドラジュ」は本誌一番の話題・問題作。さっと読むと街や学校で間近にいながら特に知り合いになることもなかったある娘そっくりの子供と一瞬遭遇し、表題の女性の名前が不意に浮かび上がるというちょっとした体験を語っているだけのように見える。仕掛けとは何か。「住んでいる」という表現からスペイン風邪で亡くなっているわけでもなさそうで、娘というのは本人だという吸血鬼説も見かけたけれど、誰かはわからなくても写真に映っているということはキャプションからも誰かには確認されていると思われるし、どうにも核心が掴めない。最後に出会う生まれてこの方ずっと知り合いの女性は双子だという指摘を見て、なるほどとも思ったけれどだからといって何かがわかりもしない。二回結婚した相手のどちらか、ということでもないのか。クイズが難問過ぎてよくわかんないなという。そういや『書架の探偵』積んでるな。

樺山三英「post script」、ボルヘスの「バベルの図書館」を踏まえ「図書館すなわち宇宙」で起こる詩人の亡骸をめぐる事件を起点に、頁が通貨になったり思想の抗争など、ワイドスクリーンバロックとコメントにあるように人類史を短篇に圧縮したような一作。人類史というかむしろもっと卑近な現代史というか思想界隈の話のようでもあり、日本の失われた30年云々といったダイレクトに現在の話をしてるんじゃないかという感触もある。無限についての思索、再解釈という感じもあって、不死鳥のような死と再生の運動が描かれる。

クトゥルー図書ものといえるモネット「バーナバス・ウィルコックスの遺産相続」とローリック「ギブソン・フリンの蒐集癖」だけど、古典的な雰囲気のあるモネットに対して、派手というかパルプ的でコント的なローリックという感じだ。ローリックの注文の多い感じは楽しくもある。

ジェイムズ・ブランチ・キャベルの『マニュエル伝』の第一巻から芸術論が抄訳されていて、大意はともかく、「どこの国のどんな作家でも、シンデレラの話を(あまり極端にではなく)改作することで、読者に愛されるようになる」166Pという1919年の指摘は今も全然有効だなって思った。

随所に挾まれたコラムや批評、楽譜の歴史、映画作成裏話も色々面白く読んだけど、深泰勉の図書館映画についての文章に、ボスニア内戦でサラエボ国立図書館オスマン帝国時代からの二百万冊の蔵書の九割が焼けてしまったという一文はなかなかショックだ。

本誌には自分自身について書かれた本に出会うという話や、本自体が人でもあるという話が複数ある。本はある人がその人の生から生んだもう一人の人間でもあるということだろう。

ついでに「紙魚の手帖」Vol.04掲載の若島正の「シュザンヌ・ドラジュ」論を読んだ。吸血鬼説やらなんやらの百花斉放な解釈の「信頼できない語り手」を前提にするのではなく、表題の人物が『失われた時を求めて』からそこに現われていることを知るという読者側に起きていることこそが重要だと言っているのは良かった。ウルフ作品の信頼できない語り手、深読みを誘う超絶技巧、みたいな言われ方や、これ見よがしに謎を置いて深読みしてくれ、みたいなのにはただ面倒と思っていたけど、「シュザンヌ・ドラジュ」もそういうのかと思ったらちょっと違ったのでまあこれはこれで知識を求めるものだけど、なるほどなと。

高原英理『詩歌探偵フラヌール』

「フラヌールしよう」とメリとジュンの二人が「中方線」沿線を歩き回りながら、様々な詩と出会う連作短篇集。ジュンのゆるいというかふわっとしてるというか、口語的で遊び心があり浮遊感のある語り口につられてふわふわと遊歩していくような読み心地が楽しい。

一篇目はベンヤミンの「フラヌール」概念にふわっと触れつつ、朔太郎の詩や彼とも交友のあった乱歩の怪奇趣味にも話を向けながら、ベンヤミンと乱歩の生年が二つ違いだったという同時代性を指摘しつつ、アパートの地下の地面に朔太郎(の詩を思わせる模様)を見つけて探偵団は今日はおしまいとなる。

面白そうな小物屋さんと古本屋さんの合間から空を見上げて、
ね、
ね、
ね、
とうなずきながら、僕たちは、道幅の狭い街をゆっくり、フラヌール、フラヌール。29P

と一篇目は締められる。猫を「おわあ」と呼ぶ朔太郎を引いてみたり、フラヌールという言葉の語感を生かした語り口はここを見てもよく分かる。永遠を見つけるランボーの詩の翻訳を複数参照しながら、癖になる言葉遣いの小林秀雄訳のランボー詩集を持って永遠を見つける回や、エミリ・ディキンスンの詩をすべて暗誦する謎の人間ジュークボックス、同著者の『日々のきのこ』以来のきのこテーマで山登りをしながらきのこ句を参照する回などなど、タモリクトゥルーやバルタン星人や、雑多な雑談を交えながら歩みを進めていく。

終盤は富豪の遊び心あるプロジェクトにかかわって、謎解きゲームをしながら古代から現代までの詩歌を選出する展開になって、万葉集などの古典や近代の訳詩集、そして現代女性詩人にフォーカスしつつ、最後にはモダニズム詩として左川ちかが扱われている。モダニズムの伝統否定、技法の実験などの要点を後からちゃんと説明するんだけども、作中の講師役の人が、「あたりで一番高いビルと支える機械とそこから見える空。これがモダニズムです」とざっくり言ってしまうところは笑う。

「逆光線」第19号


バルザック、ヴェルヌの翻訳や幻想小説などの著書がある私市保彦氏主宰の同人誌「逆光線」。岡和田晃さんから譲り受けて読んだ。一般に入手できるのかは不明。

樺山三英「僭主と牧人」は、太宰治走れメロス」の暴君を語り手にした短篇。メロスをローンウルフ型のテロリストではないかという視点から、情緒の物語によって動かされるポピュリズムとしてその物語を相対化する試みになっており、プラトンをも登場させて、古代ギリシャから現代に至る「政治」という広いパースペクティヴへ接続する読み直しにもなっている。暴君とされた王を、友情、信頼を知らぬ可哀相な人間不信ではなく、民を煽動する政治の分からぬ若者に仕方なしに付き合うしかない苦労人という人物像に変えている。その苦労性ぶりがコミカルで、メロスの向こう見ずな行動を邪魔するのではなくむしろサポートするために色々手を尽くしていて、あいつ妹の結婚のためとかいってまだ承諾されてなかったのかよと突っ込むところや川下に橋があるのに無理やり渡って時間ロスしてるのに文句を言ってたり。王が予想の付かないメロスの行動に一喜一憂する様はゲーム実況にも似た感触があり、この時代にそんな遠隔地の部下の行動をコントロールできるものかなという疑問はあえて無視しているような感じなのが笑いを誘う。メロスの物語に巻きこまれた悲哀を滲ませる王に政治と物語の寓話がある。

高木道郎「闇の突堤」、釣り人怪談とでも言えそうなある港町での出来事を描く短篇。自分が他人と同一化して引きずり込まれそうになる恐怖は引きずり込まれる、という海への恐れに繋がる。作中、二階建ての家を「平屋」と呼んでる箇所があり混乱した。救命胴衣は必要だ、と思った。

谷一哉「マドゥライ小品」、インドのマドゥライの猥雑さを感じさせる情景描写のなかに孔雀=不死鳥の再生を幻視する小品。市川宏「花に毒あり」、少女と庭園、地下の秘密の部屋での殺人、バーでの女性との出会いが、ある人物の日記を中心に絡まりあう雰囲気のある幻想小説

私市保彦「闇」、梶井「闇の絵巻」に言及しながら道端の闇に恩師が引き込まれる恐怖体験を語った怪奇譚。原子力を意識したと思しき破滅へ向かう人間への警告と、老人が若者をかばって消える物語に寓意はかなりダイレクトに示されている。

手元にある樺山作品をもう一つ読んだ。『NOVA6』収録、樺山三英「庭、庭師、徒弟」。「庭園すなわち世界」という無限の庭を舞台にウィトゲンシュタインの哲学を振り返る思弁的短篇。無限にまつわる思弁で最初はカントールとかルーディ・ラッカー方面の話かと。言語という思考の道具にして制約の外へは出ることができないという言語論小説。「庭園すなわち世界」は「post script」の「図書館すなわち宇宙」にも繋がる感じで、無限論の連作になっているのかも知れない。

『代わりに読む人1 創刊号』、「文學界」2023年9月号、『ふたりのアフタースクール』

『代わりに読む人1 創刊号』

準備号を経てのいよいよの創刊第一号。「矛盾を抱えていることこそが、真に思考の原動力となる」という特集巻頭言に続いて小説、エッセイ、漫画などが載っている。自己矛盾だったり他者だったり、何かと何かのズレや対立や挾み撃ちや葛藤が様々に描かれる。

巻頭に置かれている今年読んだ本はこんな本を挙げるこの人はどんな人だろうかと興味を引く第二の目次になっている。『ステパンチコヴォ村~』がドストエフスキーで一番読まれない長篇とあるけれど、私は『ネートチカ・ネズワーノワ』だと思います。未完だし。私は読んだので。

はいたにあゆむ「環 感 勘 歓」、これは踏切のカンカンという音にあわせてDJプレイをするイベントについて書かれた文章で、踏切そばの長屋の一角がその瞬間クラブハウスに変身する、騒音と音楽のマッシュアップの実践になっている。街中とイベント、待機時間をエンタメにする、相反するものの融合。早く終わって欲しいのか早く始まって欲しいのか逆転していく。色んなものが集まる公園という場としての文芸雑誌、そして矛盾というテーマの特集として、また本をほとんど読まないというこの書き手のエッセイが冒頭に置かれていることの意味が強く感じられて良い導入になっている。イベント動画はこんな感じ。

今村空車「芝生の習作」、ある短篇映画を撮ろうとした女性との出来事を回想する話だけど大江健三郎についてのイベントで駒場に語り手が赴く冒頭からエッセイだと思いながら読んでたけどこれは小説、ですね? 羊奈子の撮影中断した映画の断片が再利用されていたことを知るラスト、大江の徹底した改稿での原稿用紙のありさまと、いつかの映像が数年を経て別の形で使われていることとが重なるというか、テクストの改稿のモチーフを映画を題材にしているというか。立ち上がる青白い炎が時間を超えて執拗な映画への熱意の表れのように見える。

わかしょ文庫「よみがえらせる和歌の響き 実朝試論」、若くして死んだ実朝にはだからこそその可能性の空白に色んな人間の思い入れが投影されると論じるエッセイで、近年の研究者が考証に入った大河ドラマでの描き方などに触れつつ、実朝の和歌に反復される音を空洞に響く音として聴き取る。

松尾模糊「海浜公園建設予定地」、田舎に里帰りしたらそこでは実家そばの浜辺が埋め立てられていることに伯父が憤懣を滾らせている。丸楠商店と火亜流くんという名前がまずもうマルクスなのが笑ってしまうけど、コミカルなようで大資本に開発されゆく地方と抵抗する一個人の縮図でもあった。

蛙坂須美「幽霊は二度死ぬ、あるいはそこにないものがある話」、やられたっ!て最後に思わされたエッセイ。怪談における幽霊は不在を描こうとすると存在することになってしまう矛盾をテーマにしながら文中の実話怪談から著者の怪談体験へと繋がっていく仕掛けはテクニカルだし、「不在」を描く課題と実作になっていて、「実話怪談」というジャンルそのものに矛盾にも似たものを感じて喰えねえんだよなと思っていたらまさにそういうものを読まされた、という感じだった。

小山田浩子「こたつ」、恋人とこたつで鍋を準備するやりとりのなかに、愛犬の危篤に取り乱す彼女がコタツからみつかったハムスターの死骸の話をケラケラと軽く話す矛盾・不気味さが露わになるけれども、犬もハムスターも同じところに埋葬していることで軽く話す意味もまた別様に読める。ペットと肉のことが触れられているように、また死と性が並置されてもいて、このコタツ一つで生と死、食べることや生きることという人間の営みが圧縮された短篇になっている。作品に不気味さが漂うけれどもそれは人が生きることにつきまとう根源的なものだ、という話かも知れない。

松尾信一郎「水の滴るような積分記号について」、「数学において正しさに価値はない。当たり前だからだ」という痺れる書き出しから、数学者の著者が数学を志すきっかけについて書いていくエッセイ。カントール対角線論法を解説する「これは矛盾」に惹きつけられたことや、Fの字に似た積分記号を描くことにこだわったという数学の美の魅力が描かれ、「詩というものが、言語の道具的使用を離れてその自己目的的な使用を希求するものであるならば、カントール対角線論法は詩だった」へと行き着く。数学は確かに「美」へのこだわりが重要な学問という印象がある。

永井太郎「健康」、毎回健康診断があると聞いてからテストの一夜漬けのように身体作りをしていたことを同居を始めた恋人にそれは健診の目的に反する矛盾ではないかといわれてしまう。一理あるけれども恋人がサプリの多用をしているのは健診前の身体作りにも似た矛盾がないだろうか? 食べなければいけないし健康でなくてもならない、という健康、ダイエットにまつわる葛藤は現代的矛盾の最たるものでもあるかも知れない。エッセイのつもりで読んでいたけど、これは小説なのかも知れない。

陳詩遠「ありえない秩序」、物理学者になろうと思っていた数学者松尾氏は「矛盾」に惹かれていたけれど、この文章では「物理学は「無矛盾」の学問である」と説き起こされる。コロナ陽性で足止めされて渡されたペットボトル、「実はトイレを渡されたのか(?)」という一文はかなり笑った。

二見さわや歌「骨を撒く」、病床の末期の母とその死をめぐる文章で、他者支配的な母に対する愛憎相半ばする感情を淡々とした記述のなかに封じ込めるような、読んでいて厳粛な気持ちになる。父の遺影すら捨てる母、今まで要らなかったものはこれからも要らないとアルバムも捨てる著者。

牧野楠葉「瑠衣」、首締め、殴打などの暴力的嗜癖のある彼との短い関係を描く短篇で、愛と暴力あるいは依存と拒絶の矛盾をグルグルとまわって関係が破綻するまで。DVではないからこそ警察がきても抵抗することのない瑠衣にも悲しみがある。

伏見瞬「「さみしさの神様」を待ちながら」、エッセイを書けないという苦手意識について語られていて、それは「他人に興味がない」からではないかという指摘は私自身もまたエッセイが書けないタイプで同じことを思っていたので、非常にわかる、と思いながら読んでしまった。

伊藤螺子「鶴丸さんの分身」、分身がいる、と言い出した会社の隣の席の人について描いた短篇で、師匠に習った分身がどうこうといい、分身同士の対立という信じがたいような話をしてくる変な話なんだけど、つまりこれ、小説もまた現実の分岐で分身なんですよね、という話だと思った。

友田とん「矛盾指南」、コント台本のような掌篇で語られているのはつまり矛盾を指摘することは一種のツッコミでもあるという。「矛盾は見つけるもんで、人に教えられるようなもんじゃない」、ともあり、世にある矛盾を自分の目でいかに見つけるか、それをこそ指南しているようだ。

ここからは連載小特集の「これから読む後藤明生2」で、評論家、書店、漫画家とそれぞれに違った角度から書いている。

細馬宏通「蕨、遡る歌」、後藤明生の「歌」の意味については少しだけ拙著でも論じたことがあるけれど、『挾み撃ち』に引かれた歌詞の考証から記憶違いのありかたに様々な別の歌の反響を聴き取り、分岐・分身のテーマにもたどり着く論考で非常に面白い。この角度からの論考はなかったはず。そもそもこの文章では『挾み撃ち』の蕨を実地に歩いてみることから始められていて、去年の夏に友田さん主催のオリエンテーリングで私も歩いた道をこの著者が歩いているのを読むのは面白い体験だし、友田さんが話を聞いたせんべい屋でその話が出てきて笑ってしまう。実際の歌詞とは違う覚え違いに当時の他の流行歌の残響を聴き取っていく分析は非常に面白く、「歌はそもそも歌われるたびに歌い替えの可能性を含んでおり、歌われるたびに分岐する」との一文は俊徳丸伝説の分岐と分身を描く『しんとく問答』のことを言っているかのようだ。私の『後藤明生の夢』でも、『しんとく問答』について語りの一回性と分岐=分身について論じているので参照いただければ。

深澤元「後藤明生を売る」、『挾み撃ち』読書会でお会いした、後藤明生フェアを続けているつまずく本屋ホォルの方のエッセイで、人からもらったというデラックス版『挾み撃ち』を持って読書会に来るまでの前史を読んだようで面白い。オカワダアキナという知人と一文字違いの人が出てきたのに驚いた。

panpanya「読み方」、脱線する読書。ハエ叩きといえば前に実家に行ったら小さなテニスラケットみたいなものがあって何かと思ったら電池が入ってて網に電気を流してバチバチ言わせながら叩いて蠅を殺す電気ショック式ハエ叩きで、これが良いんだよ~と父が言っていたことがあった。今も現役。

コバヤシタケシ「dessin 2 ミイラ」、装幀を担当した方の兄との相当に大変だったらしいあれこれと実家が存在しないという人生の一端がデッサンとともに描かれていてなかなかに重い読み味がする。親族と散骨が「骨を撒く」と被るという奇妙なシンクロを演じている。

文學界」2023年9月号 特集「エッセイが読みたい」

エッセイ特集は知らない人も多いけど、同じ雑誌に書いたことがあったり読書会やイベントで会ったことがあったりという人が何人か混ざっているうえに文学フリマでレポされた日は自分もいたのでやけに距離の近い特集だった。おそらく特集のきっかけは論考でも触れられている個人で作る小規模の雑誌を指すZINE作りの流れと、それを出展する文学フリマという場があってのことだろうし、私も寄稿したことがあり特集のうち四人が参加している文芸雑誌「代わりに読む人」もその流れの一端だからでもあるだろう。

表紙に載ってるのもだけど、特集を開いて巻頭の堀江敏幸野崎歓のあいだに「オルタナ旧市街」さんが挾まれてるのは笑ってしまった。仏文学者の著名人のあいだにある不可解な名前から繰り出される見事なスナップショットのようなエッセイについてのエッセイ。

米澤穂信のエッセイは山田風太郎陳舜臣の食についてのエッセイを題材にしたもので、そこに常識という各人の私的なルールを読み込み、「作家の資質とは奇矯さにではなく常識にこそあらわれる」点で陳舜臣チェスタトンとの「同類項」を抽出する論述があまりにも推理作家然としていてそこに感動した。

文面から既に独特な人もいるし、書き手がどんな人かというのを知っているか知らないかで同じエッセイでも意味が全然違うんだろうなということも思う。何か別の本業で有名な人が楽屋裏を明かすような面白みもあるように、エッセイ集の後日談になっている植本一子のものも印象的。

小山田浩子のエッセイで「スペシャ」というのが最初なにかわからなかったけどスペースシャワーTVだった。その流れで「プレイグス中村一義フラワーカンパニーズ」等々とあって、この流れでプレイグスが一つ目に出てくるのはビックリした。当時みんなに通じなかったから。GRAPEVINEとかくるりとかピロウズとかナンバーガールでもいいけどこの頃聴いてたバンド中、なぜかプレイグス知名度が低かったという話が私の持ちネタだった。ニューホライズンのCMを見て近所のCD屋で昇る陽より東へのシングルを買ったのが入り口だったかな。


ある種のエッセイは日常をいかに文章で切り取るか、という写真のようなものだと感じている。その点、この特集に参加している穂村弘が何人もの他の寄稿者から言及されているほど存在感が大きいのは、短歌とエッセイで使う思考回路が似ているからではないかと思った。そんな穂村弘はエッセイの冒頭を「小説でも詩でもなく、同時に、その両方であるような、そんな文章に憧れている。位置づけることのできない言葉の塊は、エッセイと呼ばれることもあるようだ。」と書きだしているのが面白い。

日常のスナップショットとしてのエッセイという点で浮かぶのはこの特集のエッセイもそうだけどオルタナ旧市街の普段ネットプリントで発表している文章だった。そしてある点で対照的なのはわかしょ文庫のもので、こちらは語りの内に書き手の人生が丸ごとそこに現われてくる。並べてみる。

「人間の営みのなかで、1分、1秒にも満たないわずかな時間が内包する永遠をとらえて描くことのできる作家たちは、世界の秘密をやわらかくにぎっているのだから」13P
「寒さと恐怖と悔恨の思いに震えながら孤独のうちに命が尽きるその瞬間も、二つのあとがきはわたしと共にあるだろう。」67p

瞬間と永遠。あまり鮮やかな対置ではない気もするけれど、日常、瞬間を切り取るというニュアンスのオルタナ旧市街の一つ目に対して、わかしょ文庫の二つ目にはある小さなものに人生の重さが掛かってるようなところがある。これは『うろん紀行』や長めのエッセイもそう。

論考パートの二つのうち、柿内正午の論考は日本と西洋近代の日記の歴史を遡って位置づけを試み、マスに回収されないための言語使用の実践として論ずるもので特に面白い。節々に私的な好悪の判断をしつつ進めていく論述はエッセイ的でもある。資本主義批判を明確に基礎に置く批評的なスタイルもむしろ今珍しいかも知れない。「流通しやすい言葉」への警戒感を語り、「わかりやすく整えられたケアの言葉はメンテナンスの言葉に、アジテーションはマニュアルに、簡単に転化してしまう」と危惧し、言語や人間を代替可能な歯車、貧しいものにしないための取り組みとして日記、エッセイを考える。

「書くとはつねにこれは自分ではないと言語との距離を思い知る行為である。個人が個人の固有性を素材としつつも、文法や語という他者を他人と共用することで誰かと共同しうる場をつくる。言語運用を共同の演技の場を構築するための使用としてとらえる。」
「僕はおそらく、日記をそのようなものとして扱いたいのだろう。」
「際限なく自己を市場価値に変換するような風潮に抗うための手段のひとつとして、僕は日記を使用している」83-84P

宮崎智之の論考はエッセイを定義を攪乱、拡張する形式だとしており、境界を揺るがせ、外部を取り込み内部へ開いていく運動から「先行の作品を読み、書き、継承し、反発し、発展させていく」「文」の「芸」と見る論述は小説のジャンル混淆性、後藤明生の言う超ジャンル性とも接近していて面白い。実際、境界が曖昧で「嘘の最大含有量」で随筆と小説を区別する吉田健一が参照されている。後藤が批判したけれども、志賀直哉は随筆と小説との差異をそれに向かう「気分」だと言ったはずで、発表時とその後で区分を変えている事例があったはず。書き手の気分とは別に読む方も、「私」と書かれたものがエッセイとして作者と同一のものを指すのか、それとも仮構された小説の一人称としてなのか、実は読んでも分からないことが多かったりする。自己を内部に開いていくなかで境界を画定せずにいることで内的対話に外部を取り込み、内向きさや原理への還元を拒否する循環運動をイメージするエッセイ論で、この厳格でない境界が内外の柔軟な出入りを促すところは生体の細胞膜を思わせるところがある。生命の運動としてのエッセイという感じ。

両論考ともにエッセイだとしてもそれは演技・芸と見る視点があり、エッセイに書き手のありのままが書かれてると思う見方への批判でもある。以下の時評で田山花袋が引かれてるように、やはりこれは私小説の話にも繋がるところがある。
note.com
平野謙『芸術と実生活』、伊藤整『小説の方法』がそこら辺の私小説、心境小説と演技や破滅型私小説の問題なんかを論じてたと思うけど、今ぱらっとめくって何か言えるほどわかってないな。

文學界」2023年9月号 仙田学「その子はたち」

小学生の一人娘を育てている西山夫妻は、出産後性関係がなくなり妻多恵は一人でベッドに寝て夫をソファに追いやっている。そんななか娘と仲良くなった友達の家族に見えた四人は実は夫婦でも姉妹でもない片親同士で、という非定型「家族小説」。

前作「赤色少女」がトリッキーなギミックで独自の家族を描いていたけれど、本作では飛び道具は抑えて落ち着いた筆致になっている。多恵の子育てへの強いこだわりや夫をベッドから追いやる自分勝手さ、繊細なようで傲慢な性格に見えたけれども、過去が見えてくるとその理由がわかってくる。過去の事件に原因を持つその頑なさを乗り越えて向こう側からやってくる、娘の友達とその親たちの、人との壁を感じさせない、言いようによっては無神経に踏みこんでくる無遠慮さは最初不穏なものに感じられるけれども、多恵の神経質さを浮き彫りにして外へ開いていくきっかけでもある。

父親と娘、母親と娘の四人が一見家族のように見えるというのは、前作の独自の家族形態を外から見ているようなところもある。家族ではないのに家族のように共同で子育てをしている四人と、家族なのに一人で子育てしているような西山夫妻が対置され、子育ては一人ではできないことが描かれる。一人ではできないこととは過去の事件を抱えることでもあり、それは前夫とのあいだにできた娘が三歳の時、家を離れた隙に義実家に奪われ離婚させられたという誰にも言えなかった秘密だった。前夫に裏切られ娘を奪われた経験が今の結婚生活や子育てに影響していることがわかる。

千夏がいなくなってからも、わたしは千夏の親でい続けた。千夏の親でありながら、優愛の親にもなった。思えば優愛が熱をだすたびに、けがをするたびに、言葉でも態度でも大げさなほど心配していると伝えてきた。それは千夏の親だからできたこと。そんなふうにして、千夏はずっと一緒にいてくれた。166P

この部分の子供に育てられる親という観点が印象的だった。そして、子供はまたつねに親の親たる資格を裁く存在でもあるということが終盤の展開で感じられる。二十歳のその子の多恵への態度は、前夫に騙されたとも言えるけれども、叔母という連絡手段があったことがあとからわかることで、多恵が捨てたという論難を否定できなくなっている。読み進めていくと多恵の正当性が作中で二転三転していく描き方になっていて、そこも面白い。ただ、この調子だと続きそうな話にも思える。

太田靖久、友田とん『ふたりのアフタースクール』

ZINE、自主制作本を作ってフリマで売り、各地の書店に置く活動もしていた二人の全四回にわたる配信対談の内容を書き起こしてまとめたもの。作って売って書店営業とすべて自分でやってきた二人による実用的、体験的トークが面白い。

私はまさにこの本を文学フリマで友田さんから買って……あれ、確かそうだったはず。不安になってきた。まあともかく、私も文学フリマは幻視社で第三回から参加していて、実は弊誌も「準備号」から始めて第八号までの九冊を出している。新刊ありの参加は2014年、翌年第二十回に参加したのが最後か。私は文フリで売った後はメールでの個別の通販をするだけだったので、こうして各地のチェーン店などではない独立系書店に置いてもらうという発想はなかった。書店めぐりで全国、というほどではないにしろかなり色んなところまで行くこのバイタリティというか行動力、それがやはりすごい。秋田まで行商に行くっていうのは本の売り上げとしては赤字も良いところなんだけれど、『百年の孤独』を題材にした本には行商がマッチしているし、そこまで遠出もしなかったのが色んな各地をまわって本屋と電車にしか行ってないのにそれがとても楽しかったという下りが印象的。

卸すときの掛け率の重要性なんかの実用的な話もあるけど、友田さんが会社をやめるきっかけとして、目先の利益を言い過ぎるあまり無駄な仕事をしてまた長期的な利益を失っていると考えるところが大事だと思った。巻末の文章で採算を取る・度外視する双方の立場を取るという箇所にも繋がっていて、この対立する二つを行ったり来たりしながら考えるという矛盾する立場、それが重要だというのは『代わりに読む人』創刊号のテーマに直接繋がっていると思われる。矛盾のテーマが採算から来ているとすれば面白い、と思ったけど創刊号ではIntelの戦略を例示しているわけでちゃんと書いてあるな。

太田氏は「僕は、人はいつかクリエイターにならなきゃいけないと思っているんです。どこかのタイミングでそれが二〇歳なのか八〇歳なのかわからないですけど、何かを作るというか、試合でいったら先攻めする時を手に入れたほうが絶対にいい」(81P)と言っている。自分で作れるZINEがその一つでもあるけれど、受け取るだけでは視野に限界がある、というこの発言はなかなか面白くて、これは実際そうだろうとは思う。本を読むだけではなく作ってみる。旅をするってこともそうだろうとは思いつつ、しかしまあ腰は上がらないよね、と。

しかし、序盤から何度も出てくる、友田さんに作った本を古書店とかに置いてもらう提案をした人というのが最後に三柴よしこと蛙坂須美さんだと明かされたのにビックリした。bk1でレビューをよく読んでた書き手が後に同人メンバーにもなった渡邊利道さんだと知った時くらい。