赤染晶子「うつつ・うつら」

うつつ・うつら

うつつ・うつら

ずっと前に一作読んだときになかなか面白かったので、文学界新人賞受賞作併録のこれを読んだ。

その時読んだ「花嫁おこし」はとらえどころがないが、独特の笑いが印象深く、非常に妙な作家だと感じた。が、本書収録の二篇を読み通してみると、関西的な笑いとともに、ひどく地味でしかし日常を少しずつ浸食していくような生活の苦しみが重く立ちこめている。笑いがまぶされているがそれがより生活の苦みを引き立てているような皮肉な構成がなされている。

昭和か、というようなちょっと古めかしく生活感あふれる風景と、重苦しい生活との取り合わせはまるでいかにも「文学」だという感じも受ける。

新人賞受賞作「初子さん」は、洋裁が好きでそれを仕事にしている独身の女性を主人公としていて、自身の生活に対する微妙な疑問がわだかまっている様子が描かれている。洋裁は好きで仕事でやっているのも自分の選択なのだけれど、この日々続いていく日常の繰り返しと、周囲の人々からのそんなことをしていていいのか、というような声が小さな疑問を形作る。ある時、主人公に服の注文をした女性が、服の代金をツケにしたまま、夫ともども夜逃げしてしまう。主人公はその女性が、この町は苦しい、といったことを想起して、非難するのではなくむしろ羨望を抱いている。

生活は苦しい。その認識が作品を形作っている。それは真綿で首を絞めるように、弱くしかし確実に迫ってくる。

人は生きて動くものである。踏みつけられた蟻は死ぬまで生きることを諦めない。逃げ場へ辿り着こうと努力する、足一本の痙攣も蟻が生きるために最後まで続ける未練である。所詮、人間は生活や人生から逃げられない。
51P

表題作「うつつ・うつら」は女性芸人を主人公とした作品で、冒頭のあたりでは非常に笑いの要素の強い印象があるが、だんだんと息苦しい逃げ場のない苦しみが滲みだしていく。逃げ場のないだけではなく、自分の立っている足場がどんどん切り崩されていき、徐々に追いつめられていく。下の階の映画から聞こえる断片的な台詞や、九官鳥の発する無意味な山彦といった、意味を失った言葉が、主人公の世界の意味を切り崩していく。

この作品は一見非常に非現実的だ。主人公の舞台生活以外は書かれず、現実的に見て無理のある展開があり、夢の話のように非現実的な雰囲気がある。しかし、夢のなかで、私は水や泥に足をとらわれて、いっこうに前に進むことが出来ない、という体験をすることがあるのだけれど、この作品での逃げ場のない苦しみ、焦り、意味を切り崩されていく崩壊感などは、まるで夢の中の体験のようにリアルだ。


二作通じて、一種の閉塞感と苦しみが滲み出ている。独特の笑いのなかにも生活の疲れが浮き上がってくるようでもある。苦しみ、といってもそれは明確な形をとるのではなく、泥のようにとらえ所のない不定形のものと認識されている。きわめて現実的でもあり、夢のことのようでもある、生ぬるい泥の苦しみ。古めかしい時代とべたべたな笑いのなかからそれが浮かび上がってくる。

読む前はもっとユーモラスな作品だと思っていたが、想像以上にシリアスな核をもつ作品だった。しかし、なかなか妙な面白みのある人ではある。