第九回文学フリマ本の感想

ずいぶん遅くなったけれども、買った本の大まかな感想を。

文芸空間「新文学02」

文芸空間
まずは松平耕一さん編集の一冊。ゼロアカ道場破り組だったとき、第一号は買っていた。そしてこの本は売り子をしていたid:sk-44さんから買ったのだった。次回はsk-44さんが書く側になるのだろうか。
ゼロ年代の六十八選と題して、さまざまな論者にゼロ年代の五選を選出してもらうという企画になっている。ネットを重要な拠点と見なすこの雑誌では、ほぼ全員がネットで書いている人ということで、ブログを見たことがある、知っているという人が結構いる。カバー範囲が皆それぞれ違っていて、この多様性と雑多さはなるほど雑誌らしいアプローチで面白い。それぞれの記事は手軽な短さで、すべては読んではいないけど、興味のあるところを拾い読んだ。また、それぞれの執筆者が会するふたつの座談会が面白く、やはりこういうのがないとなあ、と思った。
真っ先に読んだid:wtnbt、渡邊さん(幻視社にも参加してもらいました)の記事はやはり面白い。「アウステルリッツ」は読まねばならない感。ブログで紹介していた時に興味を持ったンディアイと、変な小説っぽいフラナガンが気になる。そんな渡邊さんの参加した座談会、これがまた面白くて、渡邊さんの議題リード具合が半端ないことになっている。最後の方は松平さんが渡邊さんにインタビューしている体になっていて、主役が変わってるじゃないかとツッコミを入れたくなる。渡邊さんはこの記事が恥ずかしすぎると言っていたけれど、確かにこれは面白すぎる。
白石昇さんの小説は、ホームレス状態となった男が再生を期して底辺労働をこなしていくだけの話なんだけど、内面性を排した徹底して即物的な描写がキビキビした速度を持っていて気持ちいい。

筑波批評社筑波批評 二〇〇九年 冬号」

http://www.tsukubahihyou.com/
筑波批評社のによる批評同人誌。本全体の七割がシノハラユウキ(id:sakstyle)さんのフィクション論で占められたパワフルな一冊。その他、ハイエクを読んだり、ウェブサービスのコラムがあり、藤田直哉さんのサイバースペース論が載っている。
このフィクション論、「想像の涯ての眩暈」は序盤、分析哲学とかの話が多くて、そちらにまるで弱い私には難物だったけれど、作品分析が始まる中盤あたりからは面白く読めて、結論部あたりではかなり面白く読み終えることができた。フィクション論というか、フィクション体験についての論で、物語に我を忘れてのめり込む「没入」とその没入を解除して「眩暈」をもたらすメタフィクションを論じている。
感想の代わりに、いくつか考えたことを書いておく。
シノハラ氏の論の全体や論旨自体に何か批判があるわけではないのだけれど、小さい部分で結構違和感を感じるところが多い。細かいところだけれどフィクション論としつつ、ここで扱うのはすべて物語作品を指す、というのとか。「小説、映画、演劇、マンガ」を例に出していて、ただ、だからといって小説等が全てフィクションではない、とはいうのだけれど、フィクションだって別にすべてが物語ではない。Wikipediaでは「鼻行類」という有名な作品に触れられているけれど、架空のものを列挙するようなフィクションも当然ある*1。そうした例外的なものは確かに論旨には関係がないのだけど、どうにも気になる。小説、映画と物語、フィクションというのはすべて異なる概念なので、あまりそこの整理をしないで進んでいくところがあるなあ、と。
もうひとつ、メタフィクションの説明として、フィクション批判として成立してきたジャンルとして、その最大の特徴を「「没入」を解除してしまう」こと、作り物であることを明示して、没入させなくするものだ、と言うのだけれど、ここにものすごく異議を唱えたくなった。
私なりの言い方だと、メタフィクションというのはフィクションのルール、構造への問いのことだ。たとえばコルタサルの「続いている公園」が典型的な作品で、これは読んでいる読者自体を作品に取り込むという、いわば逆向きのメタフィクションになっている。フィクションといえば、嘘、架空のものだけれど、それを読んでいる私(読者)はまごうことなき現実で、これは嘘のなかに現実を取り込むという、境界を破るかたちのメタフィクションになる。コルタサルは他にも「ジョン・ハウエルへの指示」という、演劇の舞台と観客との境界が崩れる短篇を書いていて、ルール、境界をいじる作品がいくつか見られる。他にも、「冬の夜〜」ばかりが取り沙汰されるカルヴィーノの「宿命の交わる城」という小説は、集まった男たちが一言も喋らずに、タロットカードを順番に提示するだけで他人に自分の身の上話を伝える、という言葉を使った表現(小説を書くことも含め)そのものを寓話化したような作品で、これも小説を書くことについての小説、メタフィクションの一種だろうと思う。
これらの、没入を解除するという説明では漏れるだろうメタフィクション類を、シノハラ氏がどう考えるのかは気になるところ。シノハラ氏が読んでくれたという幻視社第四号のプリースト論はそのことを書いた(小説のルールを可視化する小説だ、という感じ)文章で、見えないものとメタフィクションという点でシノハラ氏のこの論考ともかかわる点があるのがまた読んでいて面白いところだった。

他の文章もそれぞれ面白い。けれど、藤田氏の2ch論は、田代まさしはなぜ「神」と呼ばれ、永井先生は「先生」なのか、という問いの立て方は面白かったのだけれど、論の展開がどうにも納得できない方向に流れていく。もっと長いサイバースペース論の一部ということだけれども。

文芸同人UMA-SHIKA「UMA-SHIKA vol2」

id:uma_shikaは、id:Geheimagentさん主宰のサークル。全員がはてなダイアリーを利用している書き手で占められている。主宰のブログは読んでいるのだけれど他の人はid:Delete_Allさんを知っている程度。小説書きとしては知られた人たちみたいだけれど、読むのは始めて。ブログをまわっているときに他の記事と並んで創作っぽい記事を見ても、モードが切り替えられずについ閉じてしまうのでほとんど読んでいない。
とりあえずすべて読み通して、どれもなかなか面白い。同人臭さみたいなものがほとんどなく、結構洗練された印象だ。超自然的要素を含むものが多く、幻想小説的なものからユーモアSF風、ナンセンスなものから絹子まで多彩。皆それぞれに個性的で埋もれる作品がない。
無理矢理三つほど選んでみると、主宰MKさんの「書物と城」、宮本彩子さんの「ヨアンナと教授」、石渡一雄さんの「トーク・ショウ・ホスト」か。私的に他と差がある訳ではないのだけれど、選ぶとするとこうなる。
「書物と城」は元々ブログを読んでいたのと表題から期待していた一作。期待通り前半は非常に面白いのだけれど、結末の展開が無理矢理落ちをつけた感があってそれがすごくもったいないと思った。古典的な幻想小説風からユーモア小説に切り替わった印象。最初のあたりのホラ吹きぶりとか良い感じなんだけれど、まあ現代においてこういうネタは良くできたレディメイドにしかならない、という批判なのかもと思った。
「ヨアンナと教授」は、劇中劇の昔話風の物語に「教授」が出てくるという異物感がまず面白い。お、というところでそれが寸断され、メタフィクションになる。そいでもって民話風物語と現代との「男は獣」ぶりが描かれることになる。教授の気持ち悪さが良い感じだ。余談だけれど、作中で出てくる外国文学が、ポーランド語、チェコ語、スロヴァキア語、とすべて西スラヴ語群。作者の趣味か。
トーク・ショウ・ホスト」はお昼の番組で有名な人をネタにしたユーモアSF。どうも読んでいて、渡辺浩弐を思い出してしょうがなかった。ここ数年の彼の作品は読んでいないけど、ゲームキッズシリーズや「Black Out」は好きだったなー。

西瓜鯨油社「一つの愛とその他の狂気について」

旧・西瓜鯨油社
牟礼鯨id:murekujiraさんのどことも知れない国での愛と狂気についての物語、と。これは良いです。40ページほどの文庫本サイズのマジックリアリズム短篇。熱気と混沌と狂気と愛を独特の距離感から眺めた印象で、見事なもの。

西瓜鯨油社「コルキータ」

これも面白かった。文学フリマで入手した小説のなかでは牟礼鯨さんの作品が一番面白かった。とはいってもフリマではほとんど本を買っていないのだけれど。
これは長篇といっていいのか、文庫判で130ページほどの作品。コルキータというかかわるもの皆死に至らしめる少女をキーとしたファムファタルものといっていい作品で、上掲作と世界観を共有する。呪われた美少女によって国が傾き、戦争が起こり、歴史が動かされていくなかで、一人の青年のコルキータへの思いを描く。
なかでも印象的だったのは、皇帝が自ら遠征するときのこの台詞。
「そうだ、キルキウス。叙事詩をはじめよう」
格好いいじゃないですか。カミュの「カリギュラ」に確か「明日から飢饉だ」という素晴らしい台詞があったけれど、それを思い出した。
これらの二作は「破瓜祭」という十六歳になった少女は教会の司祭によって処女を奪われるという儀礼が存在する架空の世界を舞台にしている。中世ヨーロッパあたり?をベースにアレンジを加えている印象で、太陽が二つ昇ったり、羽竜兵(何と読むのか)という背中に羽根をつけて飛ぶことが出来る兵士、将棋ならぬ象棋という遊びがあったりする。これは他のも読んでみたいものだ。
またこの作品ではマジックリアリズム的というか、血が城から街路まで流れていく場面とか、愛のテーマとかマルケスをたぶんに意識しているところが伺える。
というわけでとても面白い作品だと思うのだけれど、難点が一つ。どうもところどころ文章がぎこちないように感じられてならない。推敲が足りていないのか意図的な崩しなのか、どうしても気になる部分が多かった。しかし、とにかく非常な力作で面白い。
あ、でも一番面白いのは表紙の写真かな。「表紙の女子高生は娼婦の原型ということもあるが、日本人にしたのはファンタジー世界の美女=アングロサクソン系という固定観念を突き崩す意図もある」と鯨さんは言っていて、作中での描写も明らかに表紙の日本人女性を描写しているのが分かるようになっている。でも名前はコルキータです。

27日追記
西瓜鯨油社の牟礼鯨さんのコメントがあまりに素晴らしく、面白かったので、ここに軽く編集して追記します。

鯨「こんにちは、鯨です。レビューありがとうございます。一番悩み、そして最も力を入れた表紙を褒めていただいて光栄です」
king「力を入れた、というのはどういう点で?」
鯨「女子高生を口説き落とすのに力を入れました」

特に力入れた。

エディション・プヒプヒ パウル・シェーアバルトセルバンテス

プヒプヒ日記
垂野創一郎id:puhipuhiさんのところの著作権切れ野良翻訳。他にも気になるものはあったのだけれど、金の問題で「小遊星物語」(私は積んでいる)のシェーアバルトが「セルバンテス」とは何事か、と思ってこれとボルヘスの書評集だけを買った。なんでも当時の作家たちが文豪の評伝小冊子を書くシリーズの一つとして1904年に出されたものらしい。評伝といいながら、「私」が訪れた鍛冶屋で職人たちが地面を搗くとそこからセルバンテスドン・キホーテサンチョ・パンサが現れて、彼らと空飛ぶ冒険をしながら三人がそれぞれセルバンテスの伝記的事実や作品評を語っていく、という遊び心あふれる趣向を凝らした代物で、メタフィクションでもある「ドン・キホーテ」の作者セルバンテスの評伝をこうしたメタフィクション形式で書くという、シェーアバルトセルバンテスへの思い入れが伺える愛すべき一篇だ。ある種の二次創作ともいえ、サンチョとドン・キホーテの原作を彷彿とさせるやりとりに、彼らの創造主たるセルバンテスをくわえて、一点変わった関係を描いているところが面白い。セルバンテスの伝記的事実を簡潔に知ることができるだけではなく、それぞれの作品に対する批評―詩はひどいが散文は良い―もなされ、なおかつ外枠では幻想冒険譚がしっかり楽しめるのがうれしい。


アリの穴 日雇いくん「冒険記」
「アリの穴」という何の集まりだか全然分からない同人誌。検索してみるとどうも2chを拠点とした人たちみたいだ。心苦しいけれど、とりあえず向井作品目当てで幻視社を買ってくれた人の書いた上掲作だけを読んだ。バブル当時の状況のなかで自衛隊を辞めた人間が出てくる作品。父親と仲違いし家を出て、自衛隊に入ったものの稼いだ金をどんどん使いまくる癖がつき、自衛隊をでても底辺生活からはい上がれない男を描いていて、その彼の何とも人間くさい哀しい感じが良い。上掲の白石昇作品が感傷を排したドライさで底辺生活脱出のプロセスを描いていたのと対照的。


ということで、これでフリマで買った同人誌の大体ぜんぶ。Thornさんが買っていたのを見ていたせいで科学魔界の自分の分を買うのを忘れていたりした。

*1:なんだか他に有名なものがあったような気がするけど思い出せない