ボフミル・フラバル『十一月の嵐』

久々のフラバル・コレクションの新刊。アメリカのチェコ文学研究者への書簡体形式で、1989年の東欧革命の政治的動乱のさなか過去の弾圧の歴史を回想しつつ、権力との妥協を選んだ作家として屈折や痛みとともに現状を見つめながら、アメリカへの講演旅行の回想を差し挾む内的な記録のような小説集。

最初の二篇は別として、ほか八篇は若いチェコ文学研究者、エイプリル・ギフォード宛てとして書かれており、四月のチェコ語ドゥベンカと呼ばれる彼女を「卯月さん」と訳してある彼女に呼ばれてアメリカの大学をいくつもまわった講演旅行が本書の一つの軸になっている。各篇は89年の四月に行なった講演旅行でアメリカでの体験や亡命したチェコ人らとの出会いの記憶を回想しながら、「合衆国」をチェコ語の駄洒落で「満足国」と呼ぶ皮肉なユーモアを交えて書かれている。これは当然89年チェコスロヴァキアで進行していた民主化を求める政治的な動きや弾圧の渦中故だろう。ソクラテスを崇拝すると語るフラバルは、自作の出版のため妥協という毒杯を飲むことで友達を失ったり公開焚書をされたりと苦しい立場に立たされている。そもそも68年プラハの春への軍事的介入のチェコ事件のあとフラバルは自作が発禁となり、釈明によって部分的に出版を許されてきた歴史がある。

私はつまり、現状を認めているんです……私の国における政治状況は変えられないと、つまり、ここで起きたことはすべて、なしにはできないと、つまり、今また死者たちの中から起き上がっている不幸な一九六八年八月二十一日の後に言われたように、主権を制限された国に住んでいるのだと、認めているんです。73P

ただし、「けれども、私はそのことにただ戦き、驚き、怖れます」とフラバルは付け加える。この閉ざされた場所のなかで、アメリカの卯月さんへの呼びかけが随時挾まり、アメリカへの旅行が回想され、そこで出会った亡命者たちの存在が、国内の状況と対照的なアメリカの自由を思い出させる。

卯月さん、お分かりになるでしょう、自分の祖国にいて友達のことを密告することがどんな苦しみであるか、なんと恐ろしいことであるかが……。だからトシースカさんは、ロサンゼルスにいるんです。彼はチェコでは王様でした、どこへ行こうと人々が挨拶してきたもんです。ナンバーワンの俳優だったからです。それで、裏切るよりはむしろアメリカで俳優になっています。稼いではいるし、好かれていますが、彼が祖国で演じていた最高の役、それはアメリカではもう得られません……。それも、友達を、ヴァーツラフ・ハヴェル氏を、裏切らなかったためです……。253P

卯月さん、私はヴォスカ氏が大好きでしたし、トシースカ氏が大好きでした。私は彼らに詫びます――だって私は、少々曲がったことができて、それで、この国で生きていくことができたからです……。私は内務省に話をしに行くこと、いわゆる「泥」に行くことができて、その「泥」に耐えるだけの胃袋を持っていたんです――255P

両親はチェコスロヴァキア(現スロヴァキア)出身のルシン人のアンディー・ウォーホルのことが幾度も言及されたり、英国の詩人ディラン・トマスアメリカで死んだこと、そのニューヨークの酒場ホワイトホースのその席に座ったことが書かれるのも亡命のテーマだ。

そしてチェコスロヴァキア国内では、フラバルの妥協的立場ではなく、また自由を求めて亡命するのでもなく、国内で民主化運動を主導し幾度となく投獄されたヴァーツラフ・ハヴェルがフラバルとの対比をなしている。フラバルは以下のように憲章77のグループによる公開署名を拒否している。

そうだね、ヴァーツラフ、僕はその時「黄金の虎」にいたならそれに署名したかもしれない、けれども、今はもう決してしない。なぜか? だって僕は、この十一月に出ることになっている八万部の『あまりにも騒がしい孤独』を「幾つかのセンテンス」への署名と交換しようとは思わないからだ、八万部のミラン・ヤンコヴィチの「あとがき」をその「幾つかのセンテンス」と交換しようとは思わないからだ……。だって卯月さん、実のところ、私がこの世にいるのは、『あまりにも騒がしい孤独』を書くためだけだったんです。スーザン・ソンタグ氏が、これは二十世紀文学のイメージを作る二十冊のうちの一冊になるでしょう、とニューヨークで私に言った、あの「孤独」を……。116P

こうした立ち位置がフラバルに強いストレスを与え、引き裂かれた「痛み」に襲われる状況を作っている。最初の「魔笛」で「痛み」とともに語りはじめられ、カフカリルケチェコの詩人やセネカらの自殺やその衝動についてのエピソードに言及していくのもそのためだろう。

起きて意識を取り戻すと、私は時々部屋全体が、自分のむさ苦しい部屋全体が痛いんです、窓からの眺めが痛いんです。子供たちは学校に行き、人々は買い物に行き、誰もがどこへ行くべきか知っているのに、私だけが、どこへ行ったら良いのか分からない。7P

本書では鳥が複雑な意味を持っている。「卯月さん」への呼びかけが始まる第三篇「公開自殺」は、序盤から鳩について語られる。「数百世代の鳩の骨」が堆積しているドーム、人が鳩と戯れていたプラハで餌やりが禁止され、鳩の掃討作戦が行なわれている現在のこと。「卯月さん、私はやはり、結局のところ、良い人間が死ぬと、天で功績が称えられるように、その人の魂が鳩に変わるんだと思います」(55P)、とあるように、飛び降り自殺のイメージとともに鳥は死の要素を色濃く含んでいる。もちろん空や鳥に自由のイメージもあるけれども、その自由がこの世のものではないかのような陰鬱さが含まれている。それは自由を求める運動がつねに暴力による弾圧に繋がったフラバルの知る歴史のためでもあり、作中に記された抗議による自殺・焼身自殺の事例とも関連している。

だからこそ、鳥として死への誘惑に駆られたフラバルという凧の糸巻きを卯月さんが持っているということが本書の軸になっているわけだ。各篇だいたいに日付が記されていて、その時々の状況が題材になっているけれども、アメリカ旅行の果てに卯月さんと出会ったことは本書の最後に語られる。本書の各篇がどのように発表されたかは不明だけれども、「十一月の嵐」の後ハヴェルが大統領になった12月に四月・春の名を持つ彼女と出会ったアメリカ旅行の終点が描かれるのは、この国の政治的な春をそこに重ね、死に誘惑され鳥になりかねないフラバルを地に繋ぎ止める意味が込められている。

終盤では民主化運動が大きなうねりをあげ、革命を成功させた様子が以下のように触れられている。

卯月さん、それは歓喜であり、叫びであり、輝く目であり、それは、この国のすべてが半次元ではなくて丸一次元大きくなるための、男女の巡礼者たちの行進であり、自発的な行進でした。(中略)学生や若者たちは、私たちの生活と政治的生活にも若返りをもたらす、つまり一次元大きくする 権利を持っているからです。そして車が警笛を鳴らし、クラクションが叫び、幸福の輪に入っていなかった人々は泣き、啜り上げ、言うのでした―――こんなことはありえない、全くありえない、ならず者やのんき者として出会っていた若者たち、彼らが突然、奇跡的に別人になるなんて――245P

そしてヴァーツラフ・ハヴェル氏が学生たちにスピーチをして、その中でとりわけ、芸術だけでなく政治もまた、不可能なものの空間を創造することができるのだ、と言いました……。卯月さん、信じがたいことが現実になりました。303P

東欧革命に際会した、現状維持の作家の内面の自死への誘惑と自由への憧れの葛藤、自由を求める運動と弾圧の経験を振り返る随想、現在の状況への言及、その様々がうねり、脱線し、渾然一体となった時々刻々のドキュメント。政治的解放が訪れても、それとはズレた位置に立つしかなかった書き手の複雑な思いが込められた一作だ。

他に幾つか印象的な箇所を引用しておきたい。
語り手が繰り返し自分について「status quo(現状)」だと呼ぶことについての一節。

自分で言っているように、私はいつも「status quo(現状)」の人間でした。けれども同時に、自分なりの「modus vivendi(生き方・一時的妥協)」を望む人間でもあり、文学の本質であるもの、自分のグラスノスチを、自分の意見を、言えることを望んでいました。ただし、それに対して代償を、あらゆる代償を払ったりするのではなく、ハシェクが私に教えたように、私は「穏健な進歩の党」の人間なんです。それがこの中欧における、二十世紀のあの最初の四十年間の文学的実験室における、私の「modus vivendi(生き方・一時的妥協)」なんです。74P

私の祖国で価値のあるものはすべて、匿名なんです。すべて、平凡な人々が考え出したものです。それで私は酒場を飲み歩き、平凡な人々が言った本質的なことをすべて集めて、それを文学の中に入れるだけなんです。だから私は作家というよりも、むしろ記録者なんです……。134P

アメリカで東欧から文学や芸術の流れがあるという話になり、フラバルが自作の翻訳者からある批評家が
人から聴いた話として「一九六○年代から八〇年代までをポスト・モダン(Post-modem)と見なしていたけれども……しかしPを消して「東欧モダン(Ost-modern)」とするだけで現状を言ったことになる」と話していたという話をするところがある。

そして私たちは、本当にPを消すだけで、奇跡のようにポスト・モダン(Post-modern)が「東欧モダン(Ost-modern)」になることを喜んだんです……。それから私は、頭をつかんで叫びました――でも私たちは、更なる「東欧モダン(Ost-modern)」を忘れていました……アンディ・ウォーホルです……。卯月さん、銀髪のかつらをかぶった青白い男性のアンディ・ウォーホルは、メジラボルツェ出身の両親から生まれ、この町、この社会に鏡を差し出すためだけにやって来たんです。196P

訳者あとがきだと1989年作とあるけれど、原書クレジットには1990年刊行となっていて、作中に89年12月の日付があるので書かれたのが89年で刊行は90年だろうか。

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立教大学のフラバルイベントで、こんなことがあったと昔ブログに書いた。

凄かったのはイベント終了の歳の一言コメントで、フラバル訳者でもある石川達夫さんが、阿部賢一さんが『断髪式』を『剃髪式』としたのは、非常に問題があるのではないか、という指摘をしていたところで、チェコ文学の先達による容赦ない指導に恐るべし、と思ったのだった。

石川氏が訳者の本書でも本篇中では『断髪式』で通していた(訳注では『剃髪式』の訳書を参照)。


フラバル・コレクションの既刊については以下から。
フラバル・コレクション の検索結果 - Close To The Wall

おまけに、参考に本書の書き出し部分と、既訳の同等の部分を並べてみる。既訳はおそらく原文と一文の長さを揃えていると思われ、引用部分ではまだ句点が現われない、一ページまるまる一文という息の長さになっている。さすがにそれでは読みづらいということで、石川訳では適宜句点を置いていると思われる。

起きて意識を取り戻すと、私は時々部屋全体が、自分のむさ苦しい部屋全体が痛いんです、窓からの眺めが痛いんです。子供たちは学校に行き、人々は買い物に行き、誰もがどこへ行くべきか知っているのに、私だけが、どこへ行ったら良いのか分からない。私はのっそりと服を着て、よろよろし、ズボンをはくときに片足で飛び跳ねます。歩いて行って、電気カミソリで髭を剃りますが、もう何年も、髭を剃るときには鏡の中の自分を見ないようにして、暗がりか隅っこで髭を剃っています。私は狭い廊下の椅子に座っていて、プラグは浴室の中にあります。もう自分を見るのがいやで、浴室の中の自分の目つきにも、ぎょっとしてしまうんです。自分の目つきも痛くて、目の中に昨日の酔いが見えます。もう朝ご飯もとらず、とるとしてもちょっとコーヒーだけ飲んで煙草を吹かし、テーブルのところに座っています。時々両手がだらんと垂れて、私は自分に何度か繰り返すんです——フラバルよ、フラバルよ、ボフミル・フラバルよ、それでお前は自分に打ち勝ったのだ、無為の極致に到達したのだ、と。(石川達夫訳、7P)

ときどき眠りから覚めたとき、気を失った状態から意識を取りもどしたとき、私は部屋のすべてに、むさ苦しい部屋のすべてに苦痛を感じるし、窓からみえる眺めにも苦痛を感じてしまう、子供たちは学校へ行き、人びとは買い物に行く、みんな自分がどこへ行くべきか知っているのに、私だけ自分がどこへ行くのかわからない、ぼうっとしたまま服を着て、よろめき、片脚で飛び跳ねながらズボンをはいて、電気かみそりで髭を剃りにいく、髭を剃るときはもう何年も鏡をみずに、暗がりか隅っこのほうで髭を剃っている、私は廊下の椅子に座り、プラグのほうは浴室のなか、自分の顔がみたくないし、浴室のなかでは自分の眼差しにさえぞっとする、私は自分の眼差しにまで苦痛を感じてしまうんだ、眼には夕べの酔いがみてとれ、朝食もとらず、とるとしてもコーヒー少しとタバコで済ませて、テーブルに座る、ときどき腕組みをして、フラバルよ、フラバル、ボフミル・フラバルよ、おまえは自分に打ち勝ったんだ、無為の極みにまで到達したんだ、と何度かくりかえしていう、(赤塚若樹「魔法のフルート」、『世界文学のフロンティア3 夢のかけら』所収、191P)

高原英理『祝福』

文學界」「群像」や編著に発表された諸作を怪奇幻想誌「ナイトランドクォータリー」での連作「精霊語彙集」として引き継いで書かれた作品集。オルタナティヴなこの世の外への志向を、「呪なのか祝なのかもわからない言葉」の魔力をめぐる言語を通して描いた幻想小説

幻想小説といっても超常的な現象にフォーカスするというよりは、言葉が持つ力がこの世の平常を超えること、この身体を超えること、この世界そのものを超えること、そのようなものとしての言語を描いている点に幻想性がある。

「言葉が意味を通り越したところに呪(しゅ)はある」114P

九つの短篇が収められていて、私はこのうち二篇を独立して読んでいたのだけれど、なるほど全体としてはこういう関係だったのかというのも面白い。七年前に書かれた「リスカ」というリストカット癖のある少女からすべてが始まり、その言葉が信者を生み、宗教を生み、組織が立ち上がる。この宗教組織を主軸にしたり、各篇を連繋させる装置として用いたりしつつ、架空の小説についての評論という形で本を書いた人間、ある人の残した呪(しゅ)としての語彙を別の人に刻みつける者、宗教組織の教祖になる女性に取り憑いた魂、詩の記録を禁じた詩人、十七歳の美少女を自認する中年男性、街の隙間を探す遊歩者、そして呼びかけに応じて別世界に物語を語る女性など、それぞれ別様のアプローチで前記の「幻想」を描いている。

長篇小説の『観念結晶大系』とも根底では同じモチーフとも言えるけれども、この多彩なアプローチが同じ根っこから別の花が開くような多様さを生んでいる。『きのこの日々』が題材にしているきのこのように同じ菌から別々の子実体が生まれるようにというか。「正四面体の華」の80年代モチーフが『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』に、「隙間の心」が『詩歌探偵フラヌール』に、それぞれの短篇の文脈は他作品とも繋がりを感じる。全作読んでいるわけではないのでもっと他にもリンクは見てとれるだろうと思う。

女性の神がかりの言葉が宗教を生むのは明治の新宗教でもあったけれども、この連作の語り手が女性から始まり女性で終わるのは社会的抑圧とそれへの抵抗の側面が大いにある。「リスカ」のミレイは学校の教師からのセクハラを要因として不登校になっており、こう語る。

石女と書いてうまずめと読む。これはあのクズ教師が厭な口調で教えた言葉で、あの厭な言葉つきの記憶から今よくわかる、ああいった男たちにとって、石と女がひっつくととても忌まわしい負の意味になるのだ。ああいった、というのは奴みたいなののセクハラが生まれてくる根のところに、女が硬い石や結晶であってはならない、いつも肉質でぷるんぷるんしてて必要な時にはぬるぬるの液体を分泌して待っていて、突っ込まれる棒から出た汁で自分の中にもう一体の肉の組織を育て上げる、それだけが女の価値だから、っていう女たちへの蔑みがあるから出てくる言葉。25P

そんな彼女は「左手の小さな傷は夜への通路」(8P)と言い、「わたし、実は人間のふにゃふにゃしたとこが嫌いだから硬くて重い石が好きだった、手の肉を切るのは自分が軟らかいことへの懲罰だ」(23P)、とふと気づく。鉱物幻想がフェミニズム的な意味を持ってここで描かれている。

この一篇にも出てくる、「わたしは満ち足りているけど、不要なものがひとつある。それは自分の心」(34P)、という言葉が連作を通じて時折姿を現わしており、「正四面体の華」でも自己消滅的な言葉を組み合わせたところに超次元の観念を空想するところに繋がりもする。

リスカ」が女性性の押しつけに対する抵抗なら「かけらの心」では中年男性が自らを美少女と仮構する現実身体の否定という対比的な一篇にも繋がっており、著者が「お兄ちゃんはおしまい!」が好きなのもなるほどなと思うところがある。近作「ラサンドーハ手稿」も系列作といえるか。

最終篇「帝名定まらず」はどこかから響いてきた古語のような声に応えて、自ら解釈して作り上げたその物語の続きを異界に語り続ける女性の物語となっている。どこかから言葉を受け取り、それをまた別のところへ送るという行為は「リスカ」以来本作のもっとも重要な行動だろう。神の言葉を受け取る宗教が描かれてきたのも、言語にとってこの感染性、魔性、呪術性ともいうべき機能を本質的なものと捉えているからではないか。ミーム概念を思い出す。オルタナティヴなものを求める心に言葉は住み着き、呪いとも祝福とも言い難い役割を果たしていく。

不完全であっても、もしわたしの言葉が神の言葉として、かの地へ届いているのなら、それでも二人に何かの幸いを与えているだろう。
 これだけのためにわたしはいた。役割と言おう。わたしは最も望ましく聡明な女性二人を知の源たる処へ送り返した。わたしには行けない処である。251P

「わたしは満ち足りているけど、不要なものがひとつある。それは自分の心」という「リスカ」以来の誰のものかも不明な言葉がリフレインされて閉じられていく本篇だけど、この自己否定・この世の外のモチーフは読者にとって救いにも毒にもなりそうな魔性がある。薬は毒にもなり、ある言葉に人が衝撃を受けたりすることは呪われたのか救われたのかは判然としない。「帝名定まらず」の語り手は「物語を紡いでいるとき、わたしは許されている心地である」(235P)と言う。しかしその帰結を他人から見ればまた別の見解になるだろう。

本書は最終篇の描くように物語ることについての小説でもあり、「精霊の語彙」が描くように人は意味の分からない言葉でもそれを受け取り誰かに刻み込む媒介者になってしまうことがあり、それが救いなのか呪いなのかはともかく、言葉に動かされる者としての人を描いていると言える。

余談だけど、「目醒める少し前の足音」の最初の一文に古井由吉っぽさがあると思った。古井っぽさを感じた文章はもう一箇所あったんだけど忘れてしまった。

目醒める少し前の自と他との、人と人との区別の薄い時間に交わした約束を、守るため守るためと、そればかり気にしていて何の約束だったか忘れているような、乏しいことだ、雨の降る中、よく来てくれたと言いたいのに、来る人のいない朝の、覚醒という断崖が見え始めた。136P


言及した本とそれについてのブログ記事にリンク。

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雑誌「文學界」の幻想小説特集に掲載された「ラサンドーハ手稿」は以下の本に収録。

雑誌掲載の独立した短篇として読んだ時の感想はこのなかにある。
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最近読んでた本2023.11

高田公太『絶怪』

実話怪談本。著者が序文で、それまで怪談で怖いだけなのはダメだと変化球を投げていたのを、あえてストレートな恐怖譚を収めたと言ってるのもあるせいか、冒頭の「我が家」から、呪いとして理に落ちそうなところでずらす不可解さが印象的な話だったりする。

続く「テント」もあり得ない現象と異様な状況がありつつ、それが分かりやすい呪いの物語として解決しないという不可解さがあっていてなかなか面白い。かと思えば、「可愛い子には」のオチは確かに怖いけどそれじゃない!って思って笑った。「コンビニ伝説」の、異界への入り口がすぐそこにあることが逆に人を誘惑するのもなかなか良い。作品集としては「不安」というほぼ一ページに収まる掌篇が一話ごとに挾まれているのは本として面白い構成。

巻末の「ここに漂え」は実話怪談本のなかにあって事実を元にした小説という体裁で書かれている短篇で、こうなると何が何だか分からないけれども、被害者女性の晴らせぬ恨みを小説と言うことにしてぶつける志向は、怪談がしばしば被害者の怨念を代弁する機能を持っていることの反映なのかも知れない。

ただ、本書で一番怖かったのは「海」の「芳雄」さんなんですよね。普通に考えたら誤植なんだけど、これはただの間違いなのか、あるいは意図的なものなのかと混乱して、怪談本に誤植の形で知らない人が急に出てくるのは正直メタ怪異っぽくてリアルにぞっとしましたからね。語りがバグるのが一番怖いというか。

蛙坂須美『怪談六道 ねむり地獄』

『代わりに読む人0』でご一緒した実話怪談作者の初単著。冒頭の「噛夢」は歯にまつわるいやな生々しさとともに体験者が変容を遂げているという怖さがあり、冒頭から何篇かはこういう体験者が既に「向こう側」に行っている事例が続いていて、怪異がすぐそこまで迫っているギリギリ感で攻めてくる。聞いた話を語るという実話怪談の形式では当人の死にオチは不可能だけど、既に異質な認識に染まってしまった人とも言葉を交わすことはできる。それが恐ろしい。語りこそ読者が直接触れるものなわけで、本書はこの語りというインターフェースに意識的な点が特徴ではないか。

そもそも序文の「こんな話を聞いた」の連発は漱石夢十夜』の「こんな夢を見た」だし、ちょうど真ん中あたりにある「病膏肓」の「あなたは今、怪談本を読んでいる」という導入はおそらくはカルヴィーノ『冬の夜一人の旅人が』か、あるいは他のメタフィクション小説に参照元があるはずだ。帯にある「現実と非現実の境目が溶ける瞬間の恐怖」、「ねむり地獄」という題や元のタイトル案だった「奇睡域」という汽水域をもじった言葉などのように本書では夢と現の境界が意識されており、メタフィクションの引用も虚構と現実の境目をそこに重ねる意図があるからこそだろう。

ホラーと夢とメタフィクションは境界が溶けるという点で重なる点があり、だからこそ漱石メタフィクションが召喚されている。しかし本書は「実話怪談」なので一般の怪奇幻想小説とは異なり、語り自体をバグらせるわけにはいかない。そのギリギリを突いたのがカフカ感のある「K鍼灸院」だろう。別様のリプレイをするように二度同じルートを雰囲気の違う形で繰り返すというテクニックを使っていて、読者もまた違う次元に迷い込んだような感触をもたらす効果があるけど、しかしこれは「実話怪談」でやるには暗黙の前提?を踏み越えかけてる気もする。

これやって良いんだ?と思ったのは「土地」だ。ある場所で何度も事件が起こり店が建て変わっていった経緯を複数の人間の話から再構成する一話で、基本的に一人あるいはその知り合いぐらいから話を聞く場合が多い「実話怪談」としてはかなり珍しい手法で面白い。

タイトルに応接する一作として「ファントム・オ・テアートル」がある。自分だけしか見えていない不思議な存在を描いたもので、「現実に紛れ込んだ夢の断片」なのかと考える本作の冒頭には「現実と夢とは実のところ地続きなのではないか」という一文があり、境目は常に溶けていると示唆する。その意味では「犬目耳郎」の現実そのものが反転していくさまは夢を介さない分またいっそう恐ろしいとも言える。しかしそもそも「実話怪談」というジャンル名にしてからが撞着語法めいたもので、現実と非現実はそもそもそこから境目が揺らいでいる、とも言える、本書はそう思わせる。

加藤一編著『妖怪談 現代実話異録』

あやかしテーマの実話怪談本。最初の話に天狗が出てきたりするけれども、そういう既存の妖怪になる以前の、何か得体の知れないものとの遭遇の色が濃い。終盤には民俗学的知識を踏まえたものも配置され、末尾の長尺話は力作。

序文でも妖怪に言及しながら怪異全般、神や精霊との境界が曖昧なものだと書かれているように、そういう見慣れた妖怪として固定化される以前の現象なのが「妖」を冠した本書の肝だろう。民俗学知識を踏まえつつそれではないものとしてずらす「ちまりの話」もそうした一作。「ちまりの話」「しいらくさん」「ゥフゥヌン ヮヌゥーノッ――奇譚ルポタージュ」の三作は民俗学知識を交えたり家に伝わる正体不明の社だったりあやかしものの話らしくて面白い。「籠蛙力行」の謎めいた単語もなんかそれっぽくて印象に残る。

読んでておお、と思ったのは「デコトラ」の、長距離ドライバーは体の右側を日焼けしてしまうものだというところ。遭遇した人物が同業者らしいのに日焼けがないので怪しむ描写があり、この細部のリアリティは良いなと。「蛇精の菊」は『雨月物語』のタイトルっぽい。

しかしこれに限った話でもないけど、ホラーと差別は相性が良いのでいかにそれを避けるかが現代ホラーの一つのポイントになってるなというのは感じる。古典的なホラーをズラしていくというのも新鮮味とともに差別的な物語性の相対化でもあるというか。

鈴木悦夫『幸せな家族 そしてその頃はやった唄』

幸せな家族という保険会社のCMの被写体として選ばれた一家が、いざ撮影を始めようとしたら父が、兄が、と次々家族が亡くなっていく連続変死事件の当事者となった小学生省一の語りで事件の様子が描かれていくジュヴナイルミステリ。

以下特にネタバレとか配慮しないで書いていく。

犯人はもう最初のプロローグでこいつ以外ないだろとわかるので実質倒叙ミステリの感触があるけど、事件の内実や何故こんなことがという部分は謎めいた形で進んでいく。それでも父と姉に怪しい関係がありそれが犯意かと思ったり、犯人は一人ではないのかもなど、結構読んでて迷わせられる。

「幸せな家族」を裏返してその実不幸せな家族だったという単純な露悪ではないだろう。父の姉への態度はやや熱心すぎてここに父の性虐待などがあるのかもと思ったけれどもそうではなく、事件の真相ではお互いをかばいあってこうした展開をたどる共犯関係の、「幸せな家族」ではあるわけだ。言ってみれば、時間差の一家心中のような状況が起きていて、大切な家族だからこそ殺すという慈悲的殺人が含まれている。まあ一人以外は。「頭の悪い男の子が大嫌い」という言葉がなかなか鮮烈で、約一名だけ誰にも庇われていないのが何か本作の黒い穴のようでもある。

作品自体もインパクトがあるけれど、本作が悪意を向けているのは幸福が絵になるなら不幸もまた絵になるというメディア、資本主義のありようだろうと思われる。ビデオカメラ、CM、テレビ週刊誌含めたマスコミ取材、そして語りに用いられるカセットテープと、道具立てには新しいメディアが溢れている。省一の罹った「たいくつ病」とはまさしくこの80年代的メディア環境そのもので、それこそが人を殺すものでもあり、プロデューサーやカメラマンの動き方が示すように幸福も不幸も美人も「絵」になるわけで、それに対抗するためにはこの複雑な陰惨さを向けるほかない、とでもいうような。

しかしこの家族の中心は姉なんだな。兄が非常に厳しい扱いを受けているのは唯一姉の魅力を認めない人間だからなのではないか。姉が褒められると不機嫌になって自分を中心にしようとする態度で、父からも省一からも姉からも嫌われているわけで。最初も最後も姉の存在ありきの話。

でも一番驚いたのは「その頃はやった唄」というのが実際にある詩だということだった。JASRACの登録番号が付記されてて、山本太郎の『覇王紀』という詩集も実在している。曲がどういうものだったのかはさすがにYoutubeとかにもなかったけれども、実際にあんな見立て殺人にぴったりの曲があるとは。

そういえば、この小説には服装に関する描写がほぼなかったと思う。服装の描写はすぐ古びると考えていたか、子供向けで服の描写は要らないと考えたのか。

花田清輝『箱の話・ここだけの話』

本と本の合間に時々読んでる花田エッセイ、本書は特に短い文章が多くて移動中やちょっとした空き時間に読むのにちょうど良い。老いの話や刺青の話、戦地で劇場を建てて演劇をした『南の島に雪が降る』に触れた文章が印象的だった。

花田の天邪鬼というか皮肉屋ぶりが面白くて、歌舞伎を褒めるとなにかと面倒になると言ってこう書いている。

わたしは、関根弘が、「佐多稲子は、もはやプロレタリアの魂をうしなっている。なぜなら、かの女は有頂天になって、カブキをみに行っているから。」といったような意味のことを口走ったので、すっかり、頭にきてしまい、佐多稲子をひいてはカブキを、口をきわめて礼讃し、長年の知り合いであるかれと、一時、絶交してしまった。14P

「口をきわめて礼讃し」、面白い書きようだし蔑視されたものを瞬時に庇いにかかる反射神経はすごい。
ここらも良い。

おもうに、もしも森鴎外が、かれの息子にもまさるとも劣らぬほどに耄碌していたなら、かれの歴史小説は、いっそう、精彩をはなったのではなかろうか。36P
 
山之口獏小野十三郎中野重治は、みな、わたしの古い知りあいだ。あえて知りあいといって、友だちとはいわない。わたしには友だちは一人もいない。77P
 
わたしは、小島政二郎を、近代以前の視聴覚文化を血肉化している点において、作家としては、永井荷風谷崎潤一郎の血族であり、近代の活字文化に首までどっぷりひたっている森鴎外芥川龍之介とは、およそ縁もゆかりもない人物ではないかとおもうのだ。116P

豊島与志雄が『ジャン・クリストフ』を訳したのはまだ許せるけど「『レ・ミゼラブル』を訳したのは終生の恨事」だと言っていたという話が紹介されてるんだけど、何でなんだろう。

反戦的であるということ」という文章が『南の島に雪が降る』という戦地で劇場をやったノンフィクションに触れている。世の中の縮図としての軍隊にはさまざまな職業人がおり、彼等の力によって劇場を建設し、芝居を演じる、そんな話に触れながら花田はこう言う。

軍隊もまた、さまざまな「平和の仕事」に従事していた職業人たちの集団であって、そんな連中が、みずからのプロフェッショナリズムにてっしていれば、いやでもかれは反戦的にならざるを得ない、というのが、わたしの大凡の見当だったのである。「文学はあくまでも平和の仕事ならば、文学者として銃をとるとは無意味なことである。」と称して、断固として銃をとることを拒絶するというのなら、わたしにもわかる。しかし、小林秀雄のように、そういったあとで、言葉を続けて、「戦うのは兵隊の身分として戦うのだ。銃をとるときがきたら、さっさと文学など廃業してしまえばよいではないか。簡単明瞭なものの道理である。」というのでは、首尾一貫しないことはなはだしい。すくなくともそこには、プロフェッショナリズムの片鱗さえみとめられないのだ。145P

花田は階級意識よりも職業意識を尊重するという。「わたしは、職業意識と縁のない階級意識を、すこしも信用するわけにはいかないのである。」(146P)しかし階級意識と縁のない職業意識があればどう思うのだろうか。現実を見ないための職業意識。それが今現在を支えているような気がしないでもない。
kadobun.jp
現在、地味な仕事を貫くことはここでも触れられている。
「軍事大国ロシアの侵略に直面しながらも、人々の中のあるものは銃を取り、パン屋はパンを焼く。お笑い芸人は笑いに徹し、鉄道員は一日たりとも鉄道を止めず、ITエンジニアはサイバー空間でロシアと戦う。」
しかし『乱世今昔談』と『箱の話』から適宜取捨して本書を構成してあるらしく、独特の編集をしている。

R・D・レイン『好き? 好き? 大好き?』

サブカルその他さまざまな場所でオマージュされてきた異色の精神科医として知られる著者の詩的作品集。精神医療の現場での経験を元にしたと思われる対話から数行程度の短いものまで。表題作は素直に読めるけれども全体像は掴みづらい。

第一の詩篇「蕩児の帰宅Ⅰ」は認知症の父と母、息子との場面が描かれていて、瞬間瞬間に息子のことを忘れていく父親との会話がト書きなしの会話文だけで構成されているのがなんとも印象的。浮気関係の交錯を記す「寓話」連作はサリーアンテストみたいでもある。

最も長い「どうにもしかたがない」はなかなか緊張感があって、治療者と患者の関係らしい「彼」と「彼女」の会話のなかで彼女が幾度も「どうにもしかたがない」と繰り返しており、これがある種の「治療」への抵抗のようにも読める。男と女、医者と患者という上下関係への違和。「わたしはありのままのわたしとはちがうわ」「わたし自身なんてなくしてしまったわ」という述懐や、彼の「きみはなぜ しじゅうぼくに楯突くのかね?」「しじゅうあなたに楯突いてなんていないわ」というやりとりのなかで「おねがい わたしをたすけようとするのはやめて」と治療への批判が入る。ここで彼女がリフレインしてきた「どうにもしかたがない」が医者と思しき彼のセリフとして「どうにもしかたがないんだ」と発されるのがクライマックスのようで、精神病の治療という概念そのものに対する緊張があるように思える。もう一点ここには君は「ロボット」なのか、と問う箇所がある。

他の詩篇でもロボット的な題材が幾つもあり、ねじが抜けてるという言い方があったりして、解説でも言及されているように精神病者がロボット的な存在に陥る「石化」を精神病治療の一つの症状として批判的に描写しているんだろうと思われる。

第47篇の意味がわからい箇所が気になって原文を探したら脚韻がしっかりと踏まれた詩の形式になっていてこれは原文を見ないと読んだことにならない作品なんだなとわかった。「あれはなんでも」が最初「あればなんでも」の誤記かと思った。MENを人間と訳してたり、韻文は訳しにくいな。

はつかねずみを食べるのが好きだったが
あれはなんでも
ほくが十歳のころ
いま食べるのは人間だけど
あんなにうまくはないんだな 117P

原文はこう。

I liked to eat mice
that was then
I was ten
now it's men
they're not as nice

同じことを繰り返して訊ねる幼さを感じさせる「彼女」のリフレインが印象的な表題作では「彼」が彼女の問いにほとんどおうむ返しに肯定していくなかで「わたしのこと おかしいと思う?」「だって そこがいいんだなあ」というやりとりが挾まるのが良いところですね。

レインは制度的な精神病治療に対して批判的な反精神医学運動に携わっていたとのことで、「どうにもしかたがない」の「治療」への批判などは明確なその現れだと思われる。だからこそ、解説で本書の純粋さや美しさを褒めあげる美化志向はかなり問題だと思う。サブカルチャーにおける本書を元ネタにした作品群については参考になるけれども、本作の社会性・政治性・批評性を削ぎ落とすようなこの態度は、病者の聖化というか他者化というか、本書で批判されている「石化現象」そのものではないのか。

小山田浩子『工場』

新潮新人賞受賞のデビュー作他二作を収める作品集。謎めいた工場で必要性の分からない仕事に従事する労働者たちを描く表題作や鈍臭い女性社員を中心に会社組織の人間関係を描く「いこぼれのむし」と、労働とともに妊娠や動物の繁殖が描かれており、つまり「生産」の諸相と読める。

発達障碍というか社会にうまく馴染めない人間の疎外感を描いている印象も強いけれども、熱帯魚趣味の友人の死の知らせを受けて最後に会った時のことを回想する短篇「ディスカス忌」が挾まると、本書はずっと繁殖のこと、人間と動物というか、動物としての人間を描いてるような印象が出てくる。

短い「ディスカス忌」が地味に作風の種明かしのようになっていて、赤ん坊の誕生と熱帯魚という人間と動物を繁殖において重ねることと、途中に出て来た貧しい母子家庭が浦部の妻子の今後のイメージを先んじて作中に描く時間的順序の入れ替えという技法のコンパクトな提示に読める。

まあそういうことは良いとして表題「工場」は、労働がむしろ社会との関係を危うくする疎外感をもたらす不条理さを描きつつ、巨大工場の異様なスケールや不可思議生物などにSF的なサービス精神もあって、かなり楽しく読める中篇になっている。正社員、派遣、契約と三人の視点から描きつつ、校正、シュレッダー、コケによる緑化計画というそれぞれの仕事が時折繋がる仕掛けも良いし、時間軸のトリックは驚かされる。社員食堂が社内に100ある工場って何だよっていうのとか、川に架かる橋を歩いて渡るのに一時間かかるとかいう大きなハッタリも面白い。

「工場」の謎生物のレポート、灰色ヌートリアや工場ウは他でも出てきているのに洗濯機トカゲというのは他で見てないのに唐突にここで出てくるのが異様で、現実感を揺るがせる小さなヒビにも思えるけれど、よく読むと実は他で描写されてたりするんだろうか。黒い工場ウは生活環がわからず、子供の姿も見えず成体だけがいる繁殖の過程が不明の動物なことが不穏さを醸し出しているんだけれど、何ものかを生産する場所としての工場にこのウがいるのは奇怪で、ここが印刷工場でもあるっぽいこととあわせてコピー・複製の象徴なのかも知れない。

中篇「いこぼれのむし」は女性を主として描く人間関係の描写が綿密で、疎まれ孤立しているその鈍臭い女性社員をめぐる状況はなかなか生々しくやや読んでてつらいところもある。「工場」はそのハッタリの効いたスケール感や幻想性で楽しく読める。サービス精神とはそういう意味もある。帯にある「この労働は、ブラック?ホワイト?」という文言は全然本作そんな話じゃないだろと思ったけど、「いこぼれのむし」は主人公奈良が鬱病と思われるけれどもむしろ病んでいるのは職場の方ではないかという展開で、これは確かにそうかも知れなかった。主人公が自分の垢を食べてる結構ゾッとする描写があって、なにか精神の不調を抱えているのはそうかもとも思っていたので、著者がそうではないと言っていたのは意外に思うところがあった。鬱病とは言わずとも何か病んでいるんだとは思っていた。しかし、そういえば主人公がまわりに自分は鬱だと思われていると気づいたところにこんな文言があった。

ただ、私にとっての普通が、彼らにとっては病と見まがうばかりの不幸だったのだ。304P

そう、そういう話だった。

読んでて特に笑ったのは「「メンタルヘルス・ケアハンドブック~あなたもわたしもなやみにサヨナラ~」という大便のようなタイトル」(39P)という一文で、これは普通なら「クソみたいな」と言うところだと思うんだけど「大便のような」という端正な表現が非常にツボに入った。ここに付箋を貼っていて、読み終わった後にぺらぺらめくってたら、「メンタルヘルス・ケアハンドブック」は「いこぼれのむし」にも出てきていて、ここに既に出てたのか、と驚かされた細部でもあった。

allabout.co.jp
このインタビューのここ、最高だった。作中に出てこないと思った洗濯機トカゲもこれは作中のあの子供がいると思って書いてるものとして書かれているものなのではないか。

小山田 私は幻想のつもりはなくて、一応リアリズムと思って書いているんですよ。でも幻想ととってくださる方がいるのはありがたいなと。
 
――えっ。でも工場ウとか、洗濯トカゲとか、実際にはいない生き物が出てきますよね。
 
小山田 私にとってはいるんですよ。図鑑に載っていなくても、この世界にはいると思って書いています。

最近読んでたもの

原民喜『夏の花』

広島原爆投下直前までのある一家とその周辺を綴る「壊滅への序曲」、原爆投下直後の広島での悲惨な状況を短いなかに淡々と書き留めていく表題作、そして生き延びても後遺症などで死んでいく人を目の当たりにする「廃墟から」の三部作を収める。

表題作では最愛の妻を亡くして千葉から広島に戻ってきていた語り手は、妻の墓に花を手向けた翌々日に被爆する。厠にいたために爆発の瞬間を見ず、熱線での火傷などもない語り手は、家族や工場の従業員などと合流したりしながら、屍や水を求めうめく人々のあいだを避難していく。

水に添う狭い石の通路を進んで行くに随って、私はここではじめて、言語に絶する人々の群を見たのである。既に傾いた陽ざしは、あたりの光景を青ざめさせていたが、岸の上にも岸の下にも、そのような人々がいて、水に影を落していた。どのような人々であるか……。男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかないほど、顔がくちゃくちゃに腫れ上って、随って眼は糸のように細まり、唇は思いきり爛れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼らは横たわっているのであった。84P
 
ギラギラと炎天の下に横たわっている銀色の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があった。そして、赤むけの膨れ上った屍体がところどころに配置されていた。これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった。94-95P

頭髪が刈り上げられた人を見て、後でそれが帽子によって熱線で焼けたところとその境目になっていることに気づく細部はぞっとさせられる。

表題作で気になったのは以下の箇所だ。

私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だという気持がした。長い間脅かされていたものが、遂に来たるべきものが、来たのだった。さばさばした気持で、私は自分が生きながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふと己が生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた。
 このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知ってはいなかったのである。79-80P

裏表紙のあらすじにもある「このことを書きのこさねばならない」というのは、原爆の被害というより、語り手が恐れていた二つに一つの生死という脅えがある破局を迎えて生き延びたことへの安堵してしまったこと、についてだと思った。そういう文章だろうと。その後からそういう安堵という問題を吹き飛ばしてしまう異様な惨状にぶつかるわけだけれども。次第にそうした小説的文章は影を潜め、ある種記録的な文章になっていき、それがこの作品の淡々とした地獄という感触を与える。事実著者のリアルタイムの記録、ノートを元にしているという。

地獄のような状況を脱し、ある村で落ち着く頃には青田の上を飛ぶトンボが目に入り、ある女中は火傷にウジが湧いて一月ほどして死に、甥は頭髪が抜け鼻血を出して死ぬ間近かと思われながらも、次第に持ちこたえていくという自然と生命力の描写で締められるのが印象的だ。

最後に挿入されたNという人物が妻を探して広島中の女性の屍を実検していく部分は、「廃墟から」の最後の一文「実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出そうとしているのでした。」という箇所とも同様の締め方で、いかにここで人々が消えてしまったかが示唆される。

「瀬戸内海のある島では当日、建物疎開勤労奉仕に村の男子が全部動員されていたので、一村挙って寡婦となり、その後女房たちは村長のところへ捻じ込んでいったという話もありました」130P、壮絶な話だけど何を捻じ込みにいったんだろう。

冒頭にある「壊滅への序曲」は原爆直前の戦時下の一家の様子を描いており、被爆以後のものに比べて人間の描写などぐっと小説的な彩りがあって、書かれたのは三部作で最後だといい、いくらか時間が経ってから、その時失われたものがなんだったのか、をたどり返すような一篇。

集英社文庫版は冒頭に地図があって、市内をどのように動いたかがある程度把握できるようになっているのが良い。研究者による詳細な解説、リービ英雄による鑑賞、年譜もあり充実しているけれど、語注はつける基準がよくわからなくてやたら簡単な語句についたり初出でつかなかったりしてる。

文學界」2023年5月号の特集「12人の“幻想”短篇競作」

山尾悠子や川野芽生といった近刊書からの抄出や近年の新鋭も多く参加した書き下ろし幻想短篇特集。日常から幻想へ繋がるものや文章で世界を作り出す力のあるものまで多彩で、特に山尾、諏訪、石沢、川野、高原、大濱が良かった。

山尾悠子メランコリア」は『海泡石たち――親水性について』という著書からの抄出という短篇で、海辺の街を舞台に昭和と思われる風景が独特の感触で描かれており、それだけでも良いんだけど、享保雛と陸に上がった船がぶつかるカタストロフがまたなかなか。「何度か生まれ変わって、いまここに来ているのかと思うことがある。よく造り込まれた箱庭のようにひどく特殊で、いかにも狭すぎるこの世界に」(76P)。闇を底に抱えた一つの街区を擁する、鬱あるいは虚無という名の黒く巨大な船に乗る旅が始まるらしいのが非常に期待を持たせる。

諏訪哲史「昏色の都」、本特集で一番「幻想文学」の力を感じる一篇で、硬質で堅牢な文章で組み立てられた世界は文章で読者を異世界に拉し去る力がある。一番長いのもこの作品だし、強度のある一篇だ。表題や巻頭引用など『死都ブリュージュ』オマージュらしく、日本とブリュージュを舞台にしている。盲目の主人公が目が見えるようになってからまた見えなくなりはじめているという状況を背景に幼少期からの来歴を語っていて、子供同士の性的な接触のエロティシズムやスカトロジーには仏文ぽさを感じる。東京とブリュージュ、日本語とフラマン語、視覚と触覚、そして虚構と現実。「記憶が時間のなかの形象を発酵させ、時がたつほど、現実は夢と等価になりゆく。夢は凝固して現実に、記憶は凝固して事物になる」(97P)。生まれた年が1969年ということでホテル・カリフォルニアが引用されたりする。視覚を獲得して文字が事物を表わすことや騙し絵と実物がどうして違うのか、という違和感の描写を経て、ブリュージュをひらがなの形に歩くという行動によって、都市を文字に虚構に取り込むかのような、言語と現実・虚構についての一篇。

沼田真佑「茶会」、謎の儀式めいた会社の茶会に行く途中に出会った不思議な道連れを経て、ラストシーンでは身体と精神の入れ替わりになっているようなちょっとSF小説っぽい感触もする。

石沢麻依「マルギット・Kの鏡像」、七人の同名の妹たちの一人の訃報が画家の兄のもとに届いたことで帰郷に同行した語り手が出会う奇妙な出来事。雰囲気があり同名の妹たちや鏡像という個人を揺るがすギミックも面白い。タイトルに勝手にカフカを感じたけどカフカの妹はマルギットではなかった。

谷崎由依「天の岩戸ごっこ」、子供に日本の神話を読み聞かせる身辺エッセイのように始まりながら天岩戸ごっこというのが出生や胎内回帰のようなイメージに繋がっていき、語りもひらがなまじりで絵本的な擬音も効果的なものになっていく終盤の幻想性へと雪崩れ込んでいく。

高原英理「ラサンドーハ手稿」、タイトルは『サラゴサ手稿』を踏まえたのか東欧圏を舞台にした翻訳された手稿という形式で始まり、飛行船での自殺計画や謎の塔などを題材に、「自分でありたくない、自分を逃れたい」病という著者通有の脱主体的な幻想のギミックが描かれる一篇。自殺、亡命、あるところから逃れようとする人々。記憶も含め身体はそのままで、確かに自分ではない自分に入れ替わったという体験が描かれており、SF的な自己の転移とはまた違う感触に幻想小説らしさがある。このテーマと翻訳を経る手稿という形式も必然的な繋がりとして選ばれたものだろうか。

川野芽生「奇病庭園(抄)」、長篇小説の冒頭部分の抄出。角が生えたり翼が生えたりする奇病の流行のなかで、血で写字する青年と角の生えた頭部の奇妙な二人連れや数奇な運命の人々が描かれる。女性を青年と呼んだり「娼夫」と表記したり通念に逆らいながらの記述も面白いのでいずれ本篇も読みたい。

マーサ・ナカムラ「串」、串に突き刺されたクシダヒメという人柱の人形が生まれる秘所の守り人を描くファンタジー。稲田、クシダなど日本神話モチーフで、「天の岩戸ごっこ」と繋げて読むのも良いかも。

坂崎かおる「母の散歩」、娘が死んだ母の遺品整理などをしているうちに、母は架空の犬の散歩という不可思議な行動をしていたことを知ってという短篇。架空の、虚構の、幻想の意味を語っている。「想像の犬だよ。誰も、なにも、傷ついていない。傷つけていない」、果たしてそうか?という。

大木芙沙子「うなぎ」、うなぎが腹から出てくる現象に見舞われた男の少年時代の回想が語られていて、近所のおじさんとふとしたはずみで仲良くなって楽しい時間をすごすんだけれども、新しい父、母と一緒にすれ違うときつい無視してしまう体験のばつの悪い心残りが印象的なノスタルジック少年小説。

大濱普美子「開花」、ある老女が団地で引っ越しをして新しい住居に来た時近所の格子に掛かった子供の赤い傘が気になる。女性は若い頃奔放な親に無理やり預けられた姪の世話をしていたことを思い出し、どうも老女にとって子供がいないことが強い執着としてあるようで、赤い傘が不気味にだんだんと近づいてくるような幻想的な描写はその老女のこだわりの反映のよう。間接的な描写で女性のオブセッションを強調してくる描き方がやはり印象的。

吉村萬壱「ニトロシンドローム」、爆破能力を得た人間たちという『新世界より』とかの超能力SFの始まりっぽいアイデアなんだけれど、なんとも生々しい欲望のありさまや鼻毛の出ていた高校生といった嫌な細部、猥雑で暴力的な雰囲気が充満してヒリヒリとしている。

『水都眩光』として書籍化されたけれども、山尾、諏訪、川野は未収録。川野作は既に刊行されているし元々序章部分の採録だからいいとしても、本特集で一番の読みどころだと思った諏訪作が未収録なのは非常にもったいない。山尾作も本が出るのはいつかわからないし雑誌で読む方が良さそう。

伊野隆之『ザイオン・イン・ジ・オクトモーフ』

SFRPGエクリプスフェイズのシェアードワールド小説。地球から救出されたなかに埋もれていた伝説的資産家の「エゴ」を見つけ出した人物が、資産を横取りしようとタコ型義体、オクトモーフに蘇らせるも取り逃がしたことで始まるコミカルな逃走行。

意識を小さい装置に格納し、様々な義体を乗り換えることができるポストヒューマンSFで、資産家ザイオン・バフェットが地球の災禍に巻きこまれて後その「魂ego」を見つけたマデラという金星の鉱区開発会社の人間がタコ型義体に蘇らせて拷問にかけようとしたところを逃げられる。

タコ義体ザイオンの他にも知性化(アップリフト)された動物も存在しており、ザイオンもしばしば人間ではなく知性化タコという身分として見られたりもする。ケースという表情のない金属の義体を使うものや、女性の姿をした戦闘用義体フューリーなど、個性の表われのようにさまざまな義体が登場する。

人間は人間でAIの秘書を使用し、精神に作用をする安定剤をインストールして仕事をしている。物語は上司の来訪に怯えるタージというアップリフトのタコの視点から始まるけれども、ヒントがあるようにこれはザイオンの偽装人格で、金星の地表からいかに脱出するかの騙し合いが始まる。

囚われの立場からの脱出行が軽快かつ痛快なエンターテイメントなんだけれども、楽しさの要因はほぼ常にコンビで話が進んでいくところにある。ザイオンはカザロフという元々マデラの元にいた用心棒と成り行きで同行することになって、このタコと無表情な金属義体のコンビが楽しいし、マデラもインドラルという騒がしい子分気質の知性化カラスと凸凹コンビという感じで、個性的なインドラルが後々まで出番があるのは良い。今作はこのコンビ感が重要だよなと思っていたら最後の方の展開でもなるほどと思わされるところがあって、最初から考えてたみたいな着地をした感がある。

作者いわくプロットは作らないとのことで、書いていくことで作品から掘り出された展開が最初からそうなるように見えるものでもあるんだなと思った。八本腕があって多少ちぎれても再生するタコ型義体の便利さが様々に描かれているのも楽しい。

SF Prologue Waveに掲載されたザイオンシリーズの連作のほか、別主人公の短篇が二つ入っている。それぞれ本篇と交差する場面を別の人物から語り直した別伝になっていて、鉱区の労働争議の激化と虐殺を防ぐ動きが描かれている。経産省出身という作者の体験が幾ばくか反映されているのかと思った。

日本と英語圏の作家のEPシェアードワールド短篇集の『再着装の記憶』には、ザイオンとコンビだったカザロフがマデラに命じられてタコ型義体を追跡していた頃のことが描かれている。その相方は本書の短篇の主人公ゲシュナだったりしているので、併読するとより面白い。

本書はアトリエサード様より恵贈いただきました。ありがとうございます。

小野寺拓也、田野大輔『検証ナチスは「良いこと」もしたのか?』

本やネットで流布されるナチスがしたとされる「良いこと」を列挙しそれがナチスの政策においてどのような意味やどういう効果を上げたのかを検証して、それらがナチスの戦争経済、民族共同体の差別主義と表裏一体のものだと示す小著。

短いながらも非常に良い啓蒙書になっていて、俗説に対する歴史学的検証の過程を通じて、個別の政策と全体の目的との連関を解説しつつ、俗説が歴史的事象の「事実」「解釈」「意見」という三段階のうち「解釈」をすっ飛ばして説かれることの指摘など、学問的プロセスの案内にもなっている。

ナチスが六百万人の失業者を完全雇用にしたのはすごいなと思ったら、それが戦争準備のための持続性のなさそうな経済体制だったというのは驚きで、他の政策もアーリア人の「民族共同体」形成のために排他的、差別的弾圧を伴っていたことや、ユダヤ人や他国からの略奪を前提にしていたりと、思った以上に暴力的性格があったり、あるいは鳴り物入りで宣伝されたフォルクスワーゲンが積立金を支払っても買えなかったなどの豊かな生活、希望の宣伝には熱心でもほとんどが空手形に終わった実態を検証して、「良いこと」とされる政策を軒並み論駁していくさまは圧巻。

読んでいくとナチス体制がいかに戦争という破綻に突き進んでいく暴走車のような代物だったかが感じられるし、多くの社会福祉が眼前につり下げられたニンジンのごときものだったか、そしてその過程での厄介者と見なされた存在への弾圧がいかに激しかったかが示唆される。

以下、興味深い箇所を引用しておく。

「共同体の敵」とされた人びとはそうした恩恵を受けられなかっただけでなく、政治的敵対者は強制収容所に送られ、ユダヤ人は暴力を振るわれたり財産を安値で買いたたかれたりし、障害者は断種手術を強制されるなどしたのである。15P
 
アウトバーン建設はじめとする雇用創出政策はさほど効果的なものだったとは言えない。景気回復をもたらした決定的要因はむしろ軍需経済にほかならなかったのである。48P。
 
このようにドイツは戦争準備が不十分なまま、無謀な戦争へと突き進んでいくのだが、戦争はあらゆる問題を解決する万能な処方箋だった。戦争に勝利して他国を征服すれば、十分な資源が得られるばかりでなく、膨大な負債も帳消しにできるというのがヒトラーら政府首脳部の考えだった。50P
 
ナチ・ドイツは占領国からの輸入についてこれを「ツケ」として口座に記入し、実際には支払いを行わないことで、事実上タダで商品を入手していた。一九四四年六月末の時点でドイツは約二九○億RM(約一七兆一〇〇〇億円)を「ツケ」として諸外国に押し付けていた。52P
 
こうして一九四四年九月の段階で、戦争捕虜を含めて約七六〇万人ないし八九〇万人の外国人労働者、さらに強制収容所の囚人約五〇万人がドイツ国内で働き、ドイツの労働人口のおよそ四分の一ないし五分の一に相当する数に達した。56P
 
ナチ政権下の労働者は様々な権利を奪われ、官製の労働組織に組み入れられたが、そうした監獄のような体制のなかでも彼らが文句を言わずに働くようにするため、一種のご褒美として導入されたのが一連の福利厚生措置だった。67P
 
フォルクスワーゲンに至っては、数十万もの人びとが積立金を支払い、巨大な生産工場が建設されたにもかかわらず、予約購入者に一台たりとも納車されないまま、開戦後に生産ラインが軍用車生産に切り替えられた。結果的にそれは巨額の積立金を軍事目的に流用するだけに終わったわけで、そこには国民からかき集めた資金を元手に無謀な戦争に突き進む「ならず者国家」としてのナチ体制の本質があらわれている。69P
 
ナチスの動物保護には、たしかに「先進的」と評価できる部分もあるかもしれない。しかしその背後には、人間だからといって何も特別扱いする必要はない、「排除」すると決めた人間を動物以下の扱いにして何が悪いのかという、開き直りにも似た姿勢があったことも忘れてはならないだろう。92P
 
アウシュヴィッツやマイダネクではパウダー状になった人骨が畑に散布されていた可能性が高いし、ブーヘンヴァルトでは人間の血が馬の糞尿と混ぜられた上で肥料とされた。「人間中心主義」の否定が行き着いた極北、それが強制収容所における有機農法であったとも言える。94P

ナチスの略奪経済に関する部分も相当だけれど、この自然保護と人間の資源化が表裏一体のものとして描写されるところは本書でも特に衝撃的な箇所だ。また、ナチスのさまざまな空手形、夢を振りまいて人を動かすところに戦後の大量消費社会の淵源を見るところも示唆的。

将来の消費を現在の宣伝で先取りするというこの「バーチャルな消費」こそ、戦後の大量生産・大量消費社会を支えるメンタリティを形成したものと言えよう。70P

禁煙、癌対策などさまざまな健康増進の政策は、アルコール中毒患者、精神病患者などの断種などと密接な繋がりを持つ「民族体」を保つための全体主義優生学的政策の一環でもあったわけだけれど、現在行なわれる類似の健康増進・少子化政策などもまた必ずしもそこから逃れられてはいない気もする。破綻必至の戦争・略奪経済のプログラムに含まれることでその凶悪な姿を露呈している印象だけれども、健康増進、少子化対策などの政策目的には個々人の権利だけではなく、国家の維持やコストの眼目もあるわけで、ナチスの研究にはそうした彼我の懸隔を測る意味合いもあるか。

ソマイア・ラミシュ編『NO JAIL CAN CONFINE YOUR POEM 詩の檻はない アフガニスタンにおける検閲と芸術の弾圧に対する詩的抗議』

表題通りのアフガニスタンの検閲に対して編者が呼びかけたアピールに応答して集められた日本の詩と世界の詩の一部を訳載した抵抗詩集。表紙にはラミシュの名前だけがあるのでこう表記したけれど、日本版は柴田望さんの編集。既刊詩集からの採録とはいえ文月悠光が参加しているのが目を引くけれど、八歳の子供からラッパー、新進の詩人らが日本各地から同列にこの「詩的抗議」に加わり、さまざまな形で詩を書き、弾圧がもたらす夜へと抵抗を示している。

高細玄一の詩の一節がこうして詩のあり方を語っているの印象的だった。

そのことをどうやって記録に留めよう
写真だけではない人の生きかたを
詩を書かずに どうやって留めよう 54P

さまざまな抵抗の詩があるけれども、岡和田晃の詩は闘争的な姿勢を持ちつつ諷刺的な笑い・ユーモアの要素があるのが他にないところ。

天狗も河童も新型コロナ・ウィルスに感染し、
ゲイシャやサムライにもPCR検査が必須だ。31P

セシル・ウムアニの本書表題の元になったらしい詩も印象的だけど、クリストファー・メリルのこの一節も。

正義の都市国家の守護者たちは
詩の一節を反乱に等しい
と見なす――厳密に言えば、
確かに、詩は政府を倒すことができる。112P

岡和田晃さまより詩誌「フラジャイル」18号を恵贈いただきました。

向井豊昭の詩「火花」や岡和田さんによるその解説のほか、本誌主宰柴田望さんの関わった『詩の檻はない』とも関連したソマイア・ラミシュさんの寄稿や、アフガニスタンの楽団を書いた詩なども掲載されています。アフガニスタンの楽団についての詩の高細玄一さん、ラミシュさんの詩の翻訳もしている木暮純さんの詩は『詩の檻はない』とも関連した作品で、『詩の檻はない』スピンオフの側面も多少あります。

『ナイトランド・クォータリー vol.20』

「バベルの図書館」をテーマに高山宏インタビューから始まり、創作ではジヴコヴィッチの佳品、ジーン・ウルフの難題、樺山三英ボルヘスパロディなどが印象的。創作は全体的に本そのものが人でもあるという発想が諸作に通じている。高山宏インタビュー、色々面白いけど澁澤龍彦は元ネタ探しの名人だけど種村季弘はそれに終わらないし自分は種村を買う、と言っててでもさらに誰にも評価されない由良君美を第一に推す、と言ってる。

安田均のアンソロジーコラムで紹介されている、ボルヘスとビオイ=カサーレス共編の幻想小説アンソロジー推理小説アンソロジーは面白そうだし確かに邦訳を期待したいけど、幻想小説アンソロジーは75編と量が多くて既訳の「バベルの図書館」とも重複がありそうってのがあるか。

ジヴコヴィッチ「夜の図書館」は存在しないはずの夜の図書館に紛れ込んで、そこには自分の人生を記した本――まだ本になってないバインダーに挾まれたもの、を借りることができるという幻想譚。図書館をめぐる幻想的連作の一作らしく、是非まとめて訳されて欲しいところだなと思ってたらリトルプレスで既に訳されておりしかも既に入手困難になっていた。しかしこれは同じくセルビアの作家ダニロ・キシュ「死者の百科事典」のオマージュではないかと思った。キシュ作は、自身の父を含めたホロコーストで大量虐殺された、数としての人間にも一人一人が尊い生を持つことを描こうとしたものだと思っていて、ただこっちは特にそういう感じはないけれども。

橋本純「おかえりなさい」、男性が森で出会ったある少女は迷子で自分が誰かも分からずという導入で、しかしジヴコヴィッチ同様、本とは人そのものでもある、というテーマがくっきりと描かれた寓話的ファンタジーなのは良い。作中の描写も少女の素性に絡んだものだったかは原典を未読なので不明。

ジーン・ウルフ「シュザンヌ・ドラジュ」は本誌一番の話題・問題作。さっと読むと街や学校で間近にいながら特に知り合いになることもなかったある娘そっくりの子供と一瞬遭遇し、表題の女性の名前が不意に浮かび上がるというちょっとした体験を語っているだけのように見える。仕掛けとは何か。「住んでいる」という表現からスペイン風邪で亡くなっているわけでもなさそうで、娘というのは本人だという吸血鬼説も見かけたけれど、誰かはわからなくても写真に映っているということはキャプションからも誰かには確認されていると思われるし、どうにも核心が掴めない。最後に出会う生まれてこの方ずっと知り合いの女性は双子だという指摘を見て、なるほどとも思ったけれどだからといって何かがわかりもしない。二回結婚した相手のどちらか、ということでもないのか。クイズが難問過ぎてよくわかんないなという。そういや『書架の探偵』積んでるな。

樺山三英「post script」、ボルヘスの「バベルの図書館」を踏まえ「図書館すなわち宇宙」で起こる詩人の亡骸をめぐる事件を起点に、頁が通貨になったり思想の抗争など、ワイドスクリーンバロックとコメントにあるように人類史を短篇に圧縮したような一作。人類史というかむしろもっと卑近な現代史というか思想界隈の話のようでもあり、日本の失われた30年云々といったダイレクトに現在の話をしてるんじゃないかという感触もある。無限についての思索、再解釈という感じもあって、不死鳥のような死と再生の運動が描かれる。

クトゥルー図書ものといえるモネット「バーナバス・ウィルコックスの遺産相続」とローリック「ギブソン・フリンの蒐集癖」だけど、古典的な雰囲気のあるモネットに対して、派手というかパルプ的でコント的なローリックという感じだ。ローリックの注文の多い感じは楽しくもある。

ジェイムズ・ブランチ・キャベルの『マニュエル伝』の第一巻から芸術論が抄訳されていて、大意はともかく、「どこの国のどんな作家でも、シンデレラの話を(あまり極端にではなく)改作することで、読者に愛されるようになる」166Pという1919年の指摘は今も全然有効だなって思った。

随所に挾まれたコラムや批評、楽譜の歴史、映画作成裏話も色々面白く読んだけど、深泰勉の図書館映画についての文章に、ボスニア内戦でサラエボ国立図書館オスマン帝国時代からの二百万冊の蔵書の九割が焼けてしまったという一文はなかなかショックだ。

本誌には自分自身について書かれた本に出会うという話や、本自体が人でもあるという話が複数ある。本はある人がその人の生から生んだもう一人の人間でもあるということだろう。

ついでに「紙魚の手帖」Vol.04掲載の若島正の「シュザンヌ・ドラジュ」論を読んだ。吸血鬼説やらなんやらの百花斉放な解釈の「信頼できない語り手」を前提にするのではなく、表題の人物が『失われた時を求めて』からそこに現われていることを知るという読者側に起きていることこそが重要だと言っているのは良かった。ウルフ作品の信頼できない語り手、深読みを誘う超絶技巧、みたいな言われ方や、これ見よがしに謎を置いて深読みしてくれ、みたいなのにはただ面倒と思っていたけど、「シュザンヌ・ドラジュ」もそういうのかと思ったらちょっと違ったのでまあこれはこれで知識を求めるものだけど、なるほどなと。

高原英理『詩歌探偵フラヌール』

「フラヌールしよう」とメリとジュンの二人が「中方線」沿線を歩き回りながら、様々な詩と出会う連作短篇集。ジュンのゆるいというかふわっとしてるというか、口語的で遊び心があり浮遊感のある語り口につられてふわふわと遊歩していくような読み心地が楽しい。

一篇目はベンヤミンの「フラヌール」概念にふわっと触れつつ、朔太郎の詩や彼とも交友のあった乱歩の怪奇趣味にも話を向けながら、ベンヤミンと乱歩の生年が二つ違いだったという同時代性を指摘しつつ、アパートの地下の地面に朔太郎(の詩を思わせる模様)を見つけて探偵団は今日はおしまいとなる。

面白そうな小物屋さんと古本屋さんの合間から空を見上げて、
ね、
ね、
ね、
とうなずきながら、僕たちは、道幅の狭い街をゆっくり、フラヌール、フラヌール。29P

と一篇目は締められる。猫を「おわあ」と呼ぶ朔太郎を引いてみたり、フラヌールという言葉の語感を生かした語り口はここを見てもよく分かる。永遠を見つけるランボーの詩の翻訳を複数参照しながら、癖になる言葉遣いの小林秀雄訳のランボー詩集を持って永遠を見つける回や、エミリ・ディキンスンの詩をすべて暗誦する謎の人間ジュークボックス、同著者の『日々のきのこ』以来のきのこテーマで山登りをしながらきのこ句を参照する回などなど、タモリクトゥルーやバルタン星人や、雑多な雑談を交えながら歩みを進めていく。

終盤は富豪の遊び心あるプロジェクトにかかわって、謎解きゲームをしながら古代から現代までの詩歌を選出する展開になって、万葉集などの古典や近代の訳詩集、そして現代女性詩人にフォーカスしつつ、最後にはモダニズム詩として左川ちかが扱われている。モダニズムの伝統否定、技法の実験などの要点を後からちゃんと説明するんだけども、作中の講師役の人が、「あたりで一番高いビルと支える機械とそこから見える空。これがモダニズムです」とざっくり言ってしまうところは笑う。

「逆光線」第19号


バルザック、ヴェルヌの翻訳や幻想小説などの著書がある私市保彦氏主宰の同人誌「逆光線」。岡和田晃さんから譲り受けて読んだ。一般に入手できるのかは不明。

樺山三英「僭主と牧人」は、太宰治走れメロス」の暴君を語り手にした短篇。メロスをローンウルフ型のテロリストではないかという視点から、情緒の物語によって動かされるポピュリズムとしてその物語を相対化する試みになっており、プラトンをも登場させて、古代ギリシャから現代に至る「政治」という広いパースペクティヴへ接続する読み直しにもなっている。暴君とされた王を、友情、信頼を知らぬ可哀相な人間不信ではなく、民を煽動する政治の分からぬ若者に仕方なしに付き合うしかない苦労人という人物像に変えている。その苦労性ぶりがコミカルで、メロスの向こう見ずな行動を邪魔するのではなくむしろサポートするために色々手を尽くしていて、あいつ妹の結婚のためとかいってまだ承諾されてなかったのかよと突っ込むところや川下に橋があるのに無理やり渡って時間ロスしてるのに文句を言ってたり。王が予想の付かないメロスの行動に一喜一憂する様はゲーム実況にも似た感触があり、この時代にそんな遠隔地の部下の行動をコントロールできるものかなという疑問はあえて無視しているような感じなのが笑いを誘う。メロスの物語に巻きこまれた悲哀を滲ませる王に政治と物語の寓話がある。

高木道郎「闇の突堤」、釣り人怪談とでも言えそうなある港町での出来事を描く短篇。自分が他人と同一化して引きずり込まれそうになる恐怖は引きずり込まれる、という海への恐れに繋がる。作中、二階建ての家を「平屋」と呼んでる箇所があり混乱した。救命胴衣は必要だ、と思った。

谷一哉「マドゥライ小品」、インドのマドゥライの猥雑さを感じさせる情景描写のなかに孔雀=不死鳥の再生を幻視する小品。市川宏「花に毒あり」、少女と庭園、地下の秘密の部屋での殺人、バーでの女性との出会いが、ある人物の日記を中心に絡まりあう雰囲気のある幻想小説

私市保彦「闇」、梶井「闇の絵巻」に言及しながら道端の闇に恩師が引き込まれる恐怖体験を語った怪奇譚。原子力を意識したと思しき破滅へ向かう人間への警告と、老人が若者をかばって消える物語に寓意はかなりダイレクトに示されている。

手元にある樺山作品をもう一つ読んだ。『NOVA6』収録、樺山三英「庭、庭師、徒弟」。「庭園すなわち世界」という無限の庭を舞台にウィトゲンシュタインの哲学を振り返る思弁的短篇。無限にまつわる思弁で最初はカントールとかルーディ・ラッカー方面の話かと。言語という思考の道具にして制約の外へは出ることができないという言語論小説。「庭園すなわち世界」は「post script」の「図書館すなわち宇宙」にも繋がる感じで、無限論の連作になっているのかも知れない。

『代わりに読む人1 創刊号』、「文學界」2023年9月号、『ふたりのアフタースクール』

『代わりに読む人1 創刊号』

準備号を経てのいよいよの創刊第一号。「矛盾を抱えていることこそが、真に思考の原動力となる」という特集巻頭言に続いて小説、エッセイ、漫画などが載っている。自己矛盾だったり他者だったり、何かと何かのズレや対立や挾み撃ちや葛藤が様々に描かれる。

巻頭に置かれている今年読んだ本はこんな本を挙げるこの人はどんな人だろうかと興味を引く第二の目次になっている。『ステパンチコヴォ村~』がドストエフスキーで一番読まれない長篇とあるけれど、私は『ネートチカ・ネズワーノワ』だと思います。未完だし。私は読んだので。

はいたにあゆむ「環 感 勘 歓」、これは踏切のカンカンという音にあわせてDJプレイをするイベントについて書かれた文章で、踏切そばの長屋の一角がその瞬間クラブハウスに変身する、騒音と音楽のマッシュアップの実践になっている。街中とイベント、待機時間をエンタメにする、相反するものの融合。早く終わって欲しいのか早く始まって欲しいのか逆転していく。色んなものが集まる公園という場としての文芸雑誌、そして矛盾というテーマの特集として、また本をほとんど読まないというこの書き手のエッセイが冒頭に置かれていることの意味が強く感じられて良い導入になっている。イベント動画はこんな感じ。

今村空車「芝生の習作」、ある短篇映画を撮ろうとした女性との出来事を回想する話だけど大江健三郎についてのイベントで駒場に語り手が赴く冒頭からエッセイだと思いながら読んでたけどこれは小説、ですね? 羊奈子の撮影中断した映画の断片が再利用されていたことを知るラスト、大江の徹底した改稿での原稿用紙のありさまと、いつかの映像が数年を経て別の形で使われていることとが重なるというか、テクストの改稿のモチーフを映画を題材にしているというか。立ち上がる青白い炎が時間を超えて執拗な映画への熱意の表れのように見える。

わかしょ文庫「よみがえらせる和歌の響き 実朝試論」、若くして死んだ実朝にはだからこそその可能性の空白に色んな人間の思い入れが投影されると論じるエッセイで、近年の研究者が考証に入った大河ドラマでの描き方などに触れつつ、実朝の和歌に反復される音を空洞に響く音として聴き取る。

松尾模糊「海浜公園建設予定地」、田舎に里帰りしたらそこでは実家そばの浜辺が埋め立てられていることに伯父が憤懣を滾らせている。丸楠商店と火亜流くんという名前がまずもうマルクスなのが笑ってしまうけど、コミカルなようで大資本に開発されゆく地方と抵抗する一個人の縮図でもあった。

蛙坂須美「幽霊は二度死ぬ、あるいはそこにないものがある話」、やられたっ!て最後に思わされたエッセイ。怪談における幽霊は不在を描こうとすると存在することになってしまう矛盾をテーマにしながら文中の実話怪談から著者の怪談体験へと繋がっていく仕掛けはテクニカルだし、「不在」を描く課題と実作になっていて、「実話怪談」というジャンルそのものに矛盾にも似たものを感じて喰えねえんだよなと思っていたらまさにそういうものを読まされた、という感じだった。

小山田浩子「こたつ」、恋人とこたつで鍋を準備するやりとりのなかに、愛犬の危篤に取り乱す彼女がコタツからみつかったハムスターの死骸の話をケラケラと軽く話す矛盾・不気味さが露わになるけれども、犬もハムスターも同じところに埋葬していることで軽く話す意味もまた別様に読める。ペットと肉のことが触れられているように、また死と性が並置されてもいて、このコタツ一つで生と死、食べることや生きることという人間の営みが圧縮された短篇になっている。作品に不気味さが漂うけれどもそれは人が生きることにつきまとう根源的なものだ、という話かも知れない。

松尾信一郎「水の滴るような積分記号について」、「数学において正しさに価値はない。当たり前だからだ」という痺れる書き出しから、数学者の著者が数学を志すきっかけについて書いていくエッセイ。カントール対角線論法を解説する「これは矛盾」に惹きつけられたことや、Fの字に似た積分記号を描くことにこだわったという数学の美の魅力が描かれ、「詩というものが、言語の道具的使用を離れてその自己目的的な使用を希求するものであるならば、カントール対角線論法は詩だった」へと行き着く。数学は確かに「美」へのこだわりが重要な学問という印象がある。

永井太郎「健康」、毎回健康診断があると聞いてからテストの一夜漬けのように身体作りをしていたことを同居を始めた恋人にそれは健診の目的に反する矛盾ではないかといわれてしまう。一理あるけれども恋人がサプリの多用をしているのは健診前の身体作りにも似た矛盾がないだろうか? 食べなければいけないし健康でなくてもならない、という健康、ダイエットにまつわる葛藤は現代的矛盾の最たるものでもあるかも知れない。エッセイのつもりで読んでいたけど、これは小説なのかも知れない。

陳詩遠「ありえない秩序」、物理学者になろうと思っていた数学者松尾氏は「矛盾」に惹かれていたけれど、この文章では「物理学は「無矛盾」の学問である」と説き起こされる。コロナ陽性で足止めされて渡されたペットボトル、「実はトイレを渡されたのか(?)」という一文はかなり笑った。

二見さわや歌「骨を撒く」、病床の末期の母とその死をめぐる文章で、他者支配的な母に対する愛憎相半ばする感情を淡々とした記述のなかに封じ込めるような、読んでいて厳粛な気持ちになる。父の遺影すら捨てる母、今まで要らなかったものはこれからも要らないとアルバムも捨てる著者。

牧野楠葉「瑠衣」、首締め、殴打などの暴力的嗜癖のある彼との短い関係を描く短篇で、愛と暴力あるいは依存と拒絶の矛盾をグルグルとまわって関係が破綻するまで。DVではないからこそ警察がきても抵抗することのない瑠衣にも悲しみがある。

伏見瞬「「さみしさの神様」を待ちながら」、エッセイを書けないという苦手意識について語られていて、それは「他人に興味がない」からではないかという指摘は私自身もまたエッセイが書けないタイプで同じことを思っていたので、非常にわかる、と思いながら読んでしまった。

伊藤螺子「鶴丸さんの分身」、分身がいる、と言い出した会社の隣の席の人について描いた短篇で、師匠に習った分身がどうこうといい、分身同士の対立という信じがたいような話をしてくる変な話なんだけど、つまりこれ、小説もまた現実の分岐で分身なんですよね、という話だと思った。

友田とん「矛盾指南」、コント台本のような掌篇で語られているのはつまり矛盾を指摘することは一種のツッコミでもあるという。「矛盾は見つけるもんで、人に教えられるようなもんじゃない」、ともあり、世にある矛盾を自分の目でいかに見つけるか、それをこそ指南しているようだ。

ここからは連載小特集の「これから読む後藤明生2」で、評論家、書店、漫画家とそれぞれに違った角度から書いている。

細馬宏通「蕨、遡る歌」、後藤明生の「歌」の意味については少しだけ拙著でも論じたことがあるけれど、『挾み撃ち』に引かれた歌詞の考証から記憶違いのありかたに様々な別の歌の反響を聴き取り、分岐・分身のテーマにもたどり着く論考で非常に面白い。この角度からの論考はなかったはず。そもそもこの文章では『挾み撃ち』の蕨を実地に歩いてみることから始められていて、去年の夏に友田さん主催のオリエンテーリングで私も歩いた道をこの著者が歩いているのを読むのは面白い体験だし、友田さんが話を聞いたせんべい屋でその話が出てきて笑ってしまう。実際の歌詞とは違う覚え違いに当時の他の流行歌の残響を聴き取っていく分析は非常に面白く、「歌はそもそも歌われるたびに歌い替えの可能性を含んでおり、歌われるたびに分岐する」との一文は俊徳丸伝説の分岐と分身を描く『しんとく問答』のことを言っているかのようだ。私の『後藤明生の夢』でも、『しんとく問答』について語りの一回性と分岐=分身について論じているので参照いただければ。

深澤元「後藤明生を売る」、『挾み撃ち』読書会でお会いした、後藤明生フェアを続けているつまずく本屋ホォルの方のエッセイで、人からもらったというデラックス版『挾み撃ち』を持って読書会に来るまでの前史を読んだようで面白い。オカワダアキナという知人と一文字違いの人が出てきたのに驚いた。

panpanya「読み方」、脱線する読書。ハエ叩きといえば前に実家に行ったら小さなテニスラケットみたいなものがあって何かと思ったら電池が入ってて網に電気を流してバチバチ言わせながら叩いて蠅を殺す電気ショック式ハエ叩きで、これが良いんだよ~と父が言っていたことがあった。今も現役。

コバヤシタケシ「dessin 2 ミイラ」、装幀を担当した方の兄との相当に大変だったらしいあれこれと実家が存在しないという人生の一端がデッサンとともに描かれていてなかなかに重い読み味がする。親族と散骨が「骨を撒く」と被るという奇妙なシンクロを演じている。

文學界」2023年9月号 特集「エッセイが読みたい」

エッセイ特集は知らない人も多いけど、同じ雑誌に書いたことがあったり読書会やイベントで会ったことがあったりという人が何人か混ざっているうえに文学フリマでレポされた日は自分もいたのでやけに距離の近い特集だった。おそらく特集のきっかけは論考でも触れられている個人で作る小規模の雑誌を指すZINE作りの流れと、それを出展する文学フリマという場があってのことだろうし、私も寄稿したことがあり特集のうち四人が参加している文芸雑誌「代わりに読む人」もその流れの一端だからでもあるだろう。

表紙に載ってるのもだけど、特集を開いて巻頭の堀江敏幸野崎歓のあいだに「オルタナ旧市街」さんが挾まれてるのは笑ってしまった。仏文学者の著名人のあいだにある不可解な名前から繰り出される見事なスナップショットのようなエッセイについてのエッセイ。

米澤穂信のエッセイは山田風太郎陳舜臣の食についてのエッセイを題材にしたもので、そこに常識という各人の私的なルールを読み込み、「作家の資質とは奇矯さにではなく常識にこそあらわれる」点で陳舜臣チェスタトンとの「同類項」を抽出する論述があまりにも推理作家然としていてそこに感動した。

文面から既に独特な人もいるし、書き手がどんな人かというのを知っているか知らないかで同じエッセイでも意味が全然違うんだろうなということも思う。何か別の本業で有名な人が楽屋裏を明かすような面白みもあるように、エッセイ集の後日談になっている植本一子のものも印象的。

小山田浩子のエッセイで「スペシャ」というのが最初なにかわからなかったけどスペースシャワーTVだった。その流れで「プレイグス中村一義フラワーカンパニーズ」等々とあって、この流れでプレイグスが一つ目に出てくるのはビックリした。当時みんなに通じなかったから。GRAPEVINEとかくるりとかピロウズとかナンバーガールでもいいけどこの頃聴いてたバンド中、なぜかプレイグス知名度が低かったという話が私の持ちネタだった。ニューホライズンのCMを見て近所のCD屋で昇る陽より東へのシングルを買ったのが入り口だったかな。


ある種のエッセイは日常をいかに文章で切り取るか、という写真のようなものだと感じている。その点、この特集に参加している穂村弘が何人もの他の寄稿者から言及されているほど存在感が大きいのは、短歌とエッセイで使う思考回路が似ているからではないかと思った。そんな穂村弘はエッセイの冒頭を「小説でも詩でもなく、同時に、その両方であるような、そんな文章に憧れている。位置づけることのできない言葉の塊は、エッセイと呼ばれることもあるようだ。」と書きだしているのが面白い。

日常のスナップショットとしてのエッセイという点で浮かぶのはこの特集のエッセイもそうだけどオルタナ旧市街の普段ネットプリントで発表している文章だった。そしてある点で対照的なのはわかしょ文庫のもので、こちらは語りの内に書き手の人生が丸ごとそこに現われてくる。並べてみる。

「人間の営みのなかで、1分、1秒にも満たないわずかな時間が内包する永遠をとらえて描くことのできる作家たちは、世界の秘密をやわらかくにぎっているのだから」13P
「寒さと恐怖と悔恨の思いに震えながら孤独のうちに命が尽きるその瞬間も、二つのあとがきはわたしと共にあるだろう。」67p

瞬間と永遠。あまり鮮やかな対置ではない気もするけれど、日常、瞬間を切り取るというニュアンスのオルタナ旧市街の一つ目に対して、わかしょ文庫の二つ目にはある小さなものに人生の重さが掛かってるようなところがある。これは『うろん紀行』や長めのエッセイもそう。

論考パートの二つのうち、柿内正午の論考は日本と西洋近代の日記の歴史を遡って位置づけを試み、マスに回収されないための言語使用の実践として論ずるもので特に面白い。節々に私的な好悪の判断をしつつ進めていく論述はエッセイ的でもある。資本主義批判を明確に基礎に置く批評的なスタイルもむしろ今珍しいかも知れない。「流通しやすい言葉」への警戒感を語り、「わかりやすく整えられたケアの言葉はメンテナンスの言葉に、アジテーションはマニュアルに、簡単に転化してしまう」と危惧し、言語や人間を代替可能な歯車、貧しいものにしないための取り組みとして日記、エッセイを考える。

「書くとはつねにこれは自分ではないと言語との距離を思い知る行為である。個人が個人の固有性を素材としつつも、文法や語という他者を他人と共用することで誰かと共同しうる場をつくる。言語運用を共同の演技の場を構築するための使用としてとらえる。」
「僕はおそらく、日記をそのようなものとして扱いたいのだろう。」
「際限なく自己を市場価値に変換するような風潮に抗うための手段のひとつとして、僕は日記を使用している」83-84P

宮崎智之の論考はエッセイを定義を攪乱、拡張する形式だとしており、境界を揺るがせ、外部を取り込み内部へ開いていく運動から「先行の作品を読み、書き、継承し、反発し、発展させていく」「文」の「芸」と見る論述は小説のジャンル混淆性、後藤明生の言う超ジャンル性とも接近していて面白い。実際、境界が曖昧で「嘘の最大含有量」で随筆と小説を区別する吉田健一が参照されている。後藤が批判したけれども、志賀直哉は随筆と小説との差異をそれに向かう「気分」だと言ったはずで、発表時とその後で区分を変えている事例があったはず。書き手の気分とは別に読む方も、「私」と書かれたものがエッセイとして作者と同一のものを指すのか、それとも仮構された小説の一人称としてなのか、実は読んでも分からないことが多かったりする。自己を内部に開いていくなかで境界を画定せずにいることで内的対話に外部を取り込み、内向きさや原理への還元を拒否する循環運動をイメージするエッセイ論で、この厳格でない境界が内外の柔軟な出入りを促すところは生体の細胞膜を思わせるところがある。生命の運動としてのエッセイという感じ。

両論考ともにエッセイだとしてもそれは演技・芸と見る視点があり、エッセイに書き手のありのままが書かれてると思う見方への批判でもある。以下の時評で田山花袋が引かれてるように、やはりこれは私小説の話にも繋がるところがある。
note.com
平野謙『芸術と実生活』、伊藤整『小説の方法』がそこら辺の私小説、心境小説と演技や破滅型私小説の問題なんかを論じてたと思うけど、今ぱらっとめくって何か言えるほどわかってないな。

文學界」2023年9月号 仙田学「その子はたち」

小学生の一人娘を育てている西山夫妻は、出産後性関係がなくなり妻多恵は一人でベッドに寝て夫をソファに追いやっている。そんななか娘と仲良くなった友達の家族に見えた四人は実は夫婦でも姉妹でもない片親同士で、という非定型「家族小説」。

前作「赤色少女」がトリッキーなギミックで独自の家族を描いていたけれど、本作では飛び道具は抑えて落ち着いた筆致になっている。多恵の子育てへの強いこだわりや夫をベッドから追いやる自分勝手さ、繊細なようで傲慢な性格に見えたけれども、過去が見えてくるとその理由がわかってくる。過去の事件に原因を持つその頑なさを乗り越えて向こう側からやってくる、娘の友達とその親たちの、人との壁を感じさせない、言いようによっては無神経に踏みこんでくる無遠慮さは最初不穏なものに感じられるけれども、多恵の神経質さを浮き彫りにして外へ開いていくきっかけでもある。

父親と娘、母親と娘の四人が一見家族のように見えるというのは、前作の独自の家族形態を外から見ているようなところもある。家族ではないのに家族のように共同で子育てをしている四人と、家族なのに一人で子育てしているような西山夫妻が対置され、子育ては一人ではできないことが描かれる。一人ではできないこととは過去の事件を抱えることでもあり、それは前夫とのあいだにできた娘が三歳の時、家を離れた隙に義実家に奪われ離婚させられたという誰にも言えなかった秘密だった。前夫に裏切られ娘を奪われた経験が今の結婚生活や子育てに影響していることがわかる。

千夏がいなくなってからも、わたしは千夏の親でい続けた。千夏の親でありながら、優愛の親にもなった。思えば優愛が熱をだすたびに、けがをするたびに、言葉でも態度でも大げさなほど心配していると伝えてきた。それは千夏の親だからできたこと。そんなふうにして、千夏はずっと一緒にいてくれた。166P

この部分の子供に育てられる親という観点が印象的だった。そして、子供はまたつねに親の親たる資格を裁く存在でもあるということが終盤の展開で感じられる。二十歳のその子の多恵への態度は、前夫に騙されたとも言えるけれども、叔母という連絡手段があったことがあとからわかることで、多恵が捨てたという論難を否定できなくなっている。読み進めていくと多恵の正当性が作中で二転三転していく描き方になっていて、そこも面白い。ただ、この調子だと続きそうな話にも思える。

太田靖久、友田とん『ふたりのアフタースクール』

ZINE、自主制作本を作ってフリマで売り、各地の書店に置く活動もしていた二人の全四回にわたる配信対談の内容を書き起こしてまとめたもの。作って売って書店営業とすべて自分でやってきた二人による実用的、体験的トークが面白い。

私はまさにこの本を文学フリマで友田さんから買って……あれ、確かそうだったはず。不安になってきた。まあともかく、私も文学フリマは幻視社で第三回から参加していて、実は弊誌も「準備号」から始めて第八号までの九冊を出している。新刊ありの参加は2014年、翌年第二十回に参加したのが最後か。私は文フリで売った後はメールでの個別の通販をするだけだったので、こうして各地のチェーン店などではない独立系書店に置いてもらうという発想はなかった。書店めぐりで全国、というほどではないにしろかなり色んなところまで行くこのバイタリティというか行動力、それがやはりすごい。秋田まで行商に行くっていうのは本の売り上げとしては赤字も良いところなんだけれど、『百年の孤独』を題材にした本には行商がマッチしているし、そこまで遠出もしなかったのが色んな各地をまわって本屋と電車にしか行ってないのにそれがとても楽しかったという下りが印象的。

卸すときの掛け率の重要性なんかの実用的な話もあるけど、友田さんが会社をやめるきっかけとして、目先の利益を言い過ぎるあまり無駄な仕事をしてまた長期的な利益を失っていると考えるところが大事だと思った。巻末の文章で採算を取る・度外視する双方の立場を取るという箇所にも繋がっていて、この対立する二つを行ったり来たりしながら考えるという矛盾する立場、それが重要だというのは『代わりに読む人』創刊号のテーマに直接繋がっていると思われる。矛盾のテーマが採算から来ているとすれば面白い、と思ったけど創刊号ではIntelの戦略を例示しているわけでちゃんと書いてあるな。

太田氏は「僕は、人はいつかクリエイターにならなきゃいけないと思っているんです。どこかのタイミングでそれが二〇歳なのか八〇歳なのかわからないですけど、何かを作るというか、試合でいったら先攻めする時を手に入れたほうが絶対にいい」(81P)と言っている。自分で作れるZINEがその一つでもあるけれど、受け取るだけでは視野に限界がある、というこの発言はなかなか面白くて、これは実際そうだろうとは思う。本を読むだけではなく作ってみる。旅をするってこともそうだろうとは思いつつ、しかしまあ腰は上がらないよね、と。

しかし、序盤から何度も出てくる、友田さんに作った本を古書店とかに置いてもらう提案をした人というのが最後に三柴よしこと蛙坂須美さんだと明かされたのにビックリした。bk1でレビューをよく読んでた書き手が後に同人メンバーにもなった渡邊利道さんだと知った時くらい。

江馬修『羊の怒る時』、石井正己編『関東大震災 文豪たちの証言』

江馬修『羊の怒る時』

「もとより今度の震災は歴史上稀なるものであるに違いない」と自分は言った。「然しそれはそうであるにしても、それは不可抗な自然力の作用によって起ったことで、もとより如何とも仕方がない。運命とでも呼ぶなら呼ぶがいい。しかし朝鮮人に関する問題は全然我々の無智と偏見とから生じたことで、人道の上から言ったら、震災なぞよりもこの方が遥かに大事件であり、大問題であると言わなければならないと思う。」
「それは勿論そうさ、」と友達は重苦しい憂鬱な調子で答えた。「だが、一体どこからそ
うした流言が出たのかね。それが根本の問題だと思うね。」
「それについて誰が答える事ができるかしら?」
「でも、それは無くてはならない。」
「勿論そうさ。でも、それは永久に知る事はできないかも知れない。唯間違いのないの は、すべては日本人全部の責任だという事だ。」286P

本作では、代々木初台に住む作家が「変災」に遭遇し、朝鮮人暴動のデマが二日目の午後から流れ始め、初日に瓦礫のなかから赤子を救出した朝鮮人学生らがその後暴行にあったり留置されたり帰らぬ人になるという、震災が人災へと変貌していく戦慄すべき様子が描かれている。

地震の瞬間の語り手の素早い避難と妻が色々なものを気にして避難が遅いことのやきもきするような緊迫感や、浅草区長の長兄とともに見た災害後の光景や避難する人々の状況など、先日読んだ原民喜『夏の花』の遭難後の光景が思い出される。そうした大地震に際した描写もあるけれども、しかしやはり本作の主題は関東大震災朝鮮人虐殺事件についてだ。

在郷軍人らが朝鮮人の危険を吹聴して回り、デマにより奮起した自警団が誰彼に暴力を振るいたくてうずうずしており、武勇伝を語る過程でありもしない武装朝鮮人らの蜂起をでっちあげ、観音堂を火から守るために朝鮮人の暴動の流言を流して人々を動かしたりする様子が書き留められている。

震災の一日目が過ぎて二日目の午後、朝鮮人の暴動の噂が聞こえてくる。三時頃、語り手の知り合いの中将が「今そこでフト耳に挟んできたんだが、何でもこの混雑に乗じて朝鮮人があちこちへ放火して歩いていると言うぜ。」(96P)という話を聞いてくるのが最初だ。その後富ヶ谷一揆を起こして暴れているという噂があり、「たった今富ヶ谷在郷軍人から報告があったのです」(116P)と在郷軍人が注意を呼びかけてまわっていて、在郷軍人朝鮮人デマの周知に当たってどうも大きな役割を果たしているように見える。中将もそのツテで聞いたのかも知れない。

作家は、朝鮮人の知り合いを持ち、人並み以上に彼らの境遇を知っているからこそ、朝鮮人が日本人への暴行をしているというデマを自身の内で否定することができないという逆説もある。

語り手は三日目に、検問をしている男性が朝鮮人を普通に通したことに驚いて訊ねてみると男はこう答える。

「行先さえはっきりしていればどんどん通してやります。朝鮮人だって同じ人間ですからね」と素っ気なく答えて、彼は前後を振返りつつ通行人を注意しつづけた。
 朝鮮人だって同じ人間である、この単純にして明快な真実を、三日目の夕方になって 自分は初めてこの若い男の口から聞いたのであった。かくも単純な真理さえ、正気を失 った人々の頭にはあれほどの犠牲を払った後でなければ容易に悟り得ないのか。しかも これを聞いた時、自分は何がなしに胸のすっとした事を覚えている、湧き返る擾乱の上にどこからか美しい細い一条の光線がさしこんで来たかのように。183P

しかしこの通された朝鮮人労働者を日本人の労働者が付け狙っていることに語り手は気づく。この人は大丈夫ですよと注意すると男から次のように反応される。

「そういう貴様も朝鮮人だろう。」
自分は微笑して答えた。「兎に角あなた方と同じ人間ですよ。」
「同じ人間だって?」と労働者はひどく侮辱されたように一層眼をぎらぎらさせて、「うむ、我々日本人が朝鮮人と同じ人間にされて堪るもんか。」184P

この差別意識。こうした人間を人間と見ない目線はこのすぐ前にもある。

「実際どうかしていますよ。然し見ようにもよる事ですが、つまりこの恐ろしい天変地異に対して持って行きどころない市民の憤懣と怨恨が、期せずして朝鮮人の上にはけ口を見出した訳なんでしょうね。もしこの騒ぎがなかったら、ゆうべあたり掠奪や殺人や強姦なぞどれ程あったかも分りませんよ。それを思って、まあ寛大に考えてやるんですね。」176P

寛大!! ある民族を盾にする、この好都合な道具として見る非人間的態度は、観音堂の話でも見られるもので、語り手はそんな犠牲を出してまで観音像を残させやしないしその流言を流した男を捕まえたいと考える。朝鮮人暴動デマを流して守られたという恥辱の象徴。この観音堂の件や在郷軍人が武勇伝として語ったことなど、朝鮮人が暴行を働いたというデマを捏造した場面が複数書き留められている。


語り手は中将との会話のなかで日露戦争の意義を問われて、白人種の黄色人種への横暴に対するアジアからの反撃として重要な意義があるけれども、アジアのチャンピオンとなって白人種の人種的偏見を打破するチャンスを日本は自らフイにして専横的な白人種の帝国たる英国と同盟する道を進んでしまった、と批判している。右派にはアジア太平洋戦争をこうしたロジックで擁護する場合があるけれども、この時の朝鮮人虐殺について、これでは白人種の横暴を批判する資格がないと語り、そうしたスタンスの矛盾を批判している。朝鮮人への警戒心の一端はこの頃の朝鮮での独立運動とそれに対する弾圧の歴史があるはずで、解説でそこら辺のことももうちょっと補足しても良いのではないかとは思った。


また、語り手も作家で左派的な立場だったからか出で立ちが特徴的だったようで、そのことも横暴な自警団に目を付けられるきっかけになっていることが描かれている。虐殺は朝鮮人だけではなく、中国人や社会主義者、あるいは地方出身者などが含まれていることは知られているけれども、本作でもそうした事件に繋がる細部を見てとることができる。

武装を禁じる布令が出されているのに、猛った人々が朝鮮人は殺していいことになっていると無茶なことを言っている場面がある。デマによる煽動と恐怖による怯えと、無際限に暴力を振るえると思い込む人々。語り手は警察に確認してそれがデマだと判明している。

また暴徒が警察署に押しかけ、朝鮮人を出せという騒動にもなっており、むしろ警察が朝鮮人を留置所に入れて保護する形になっていて、語り手の知り合いがそうして数日後に帰って来る様子が描かれている。デマによる煽動が過熱し、権力にまでその刃がむけられるわけだ。日本人による朝鮮人差別がほかの異物への排除にも広がり、地方出身者や目に付いたものなどの日本人自身への攻撃にもつながる、差別の自家中毒とその暴走。その暴力が自分側に向いて初めてその問題を認識できる場合というのがあるけれど、そもそもの差別という暴力的な線引き自体にその淵源があるわけで。

震災時のあんなやつだから家が潰れるんだという素朴な信仰と出くわす労働者たちが朝鮮人に対する蔑視を露わにしていること、語り手の兄の一人が経営する工場で朝鮮人労働者の働きが悪いということから民族全体を蔑視している有様など、さまざまな素朴な差別感情が観察されている。


前書きで小説と書かれていて、どこまでが事実そのものかわからないところはあるんだけど、小説として今作では死体を直接見ないという間接性が肝になっている。朝鮮人への虐待、遠くでの火事、爆発するような音、暴動と思われる喚声、デマの風聞と色々なことを間接的に見聞きしている。朝鮮人を取り囲んでいるさなかに遭遇するところでも、途中で引き返してしまう。神宮の森の彼方に見える炎の禍々しさは初日の象徴的な風景で、語り手のところにまで炎が来るわけではないけれども、代わりに燎原の火の如くデマが迫ってくる。

語り手は作家なら事件の現場や死体の惨状などを見て回るべきではないかという話に対して、自分はそうした気の毒な人をわざわざ見ませんよ、死体を見なくて幸福だったと返していて、さらにこう答える。

でも、こんな時は、自分の中にある小説家よりも、人間としての気持の方がどうしても勝ちを占めますからね。そしてそこから却って僕の作が生れてくるんです。233P

これはそのまま本作のスタイルとなっている。直接の目撃をすることができず、決定的な場面には居合わせないとしても、人間的な態度を保っていられるか、という問い。フェイクニュース、デマがネットを介して広まる現在、いまでもまったく同じ問いが横たわっている。

語り手は自分たちの住むところで血を見ないで済んだのは知識階級の人が多いからだ、と素朴なことをいう場面があるけれどもどうだろうか。

正直な所、自分は社会主義者と同じように、この震災にあたって所謂民衆なるものに失望した。民衆とは愚衆であるとの感を強くした。そしてまだしも知識階級を頼もしく思った。少なくとも彼等は残虐から顔を背ける事ができた。192P

知的に思われる人々が差別を煽動している事例は今いくらでも見られる。

ちょっと面白いのはこの九月一日が新潮社の自社ビルの開館式当日だったらしいこと。また、隣に朝鮮総督だったT伯爵の邸宅があることで、朝鮮人がここに襲いに来るのではないかと語り手が思うところがあるけれど、これは寺内正毅のことだろうか。あと、原稿が焼尽したロシアの作家Sとは誰のことだろう。

本書の特徴的なところは、朝鮮人にすべて×のマークが付いていて、発刊当時これらがすべて伏字にされていたというのがわかるようになっているところだ。被害の表現すらもまた不可視化されたということが繰り返し伝わってくる。

石井正己編『関東大震災 文豪たちの証言』

被災した大正文士の詩や日記、随筆を集めたほかにも、無名の人も含んだ女性たちによる回想や虐殺された大杉栄らへの追悼、上野動物園飼育係、帝国ホテル支配人、政治家や実業家など、また別の職業からの回顧も含まれているところも面白いアンソロジー

冒頭に荷風の日記ではなく「震災」の詩が採られているのがなかなか意外で、後藤明生も『壁の中』で題材にしたこの江戸明治文化の焼失という歴史的転換を印象づける。萩原朔太郎の短詩「近日所感」を引いておく。

朝鮮人あまた殺され
その血百里の間に連れなり
われ怒りて視る、何の惨虐ぞ

室生犀星の日録、志賀直哉の西から東京へと向かうなかで朝鮮人の暴動を自分は信じないと断言する日記など色々あるけれども序盤の読みどころは泉鏡花の「露宿」だろう。震災に出くわしての体験があの鏡花のスタイル、文章で時に幻想的な戦慄とともに描かれるところがなんとも言えない。

実は、炎に飽いて、炎に背いて、此の火たとい家を焚くとも、せめて清しき月出でよ、と祈れるかいに、天の水晶宮の棟は桜の葉の中に顕われて、朱を塗ったような二階の障子が、いま其の影にやや薄れて、凄くも優しい、威あって、美しい、薄桃色に成ると同時に、中天に聳えた番町小学校の鉄柱の、火柱の如く見えたのさえ、ふと紫にかわったので、消すに水のない火は、月の雫が冷すのであろう。火勢は衰えたように思って、微に慰められて居た処であったのに―― 34P

意味が取れない箇所もあるけども「消すに水のない火は、月の雫が冷すのであろう」なんて文章の鮮烈さ。

もう一箇所

浅草寺の観世音は八方の火の中に、幾十万の生命を助けて、秋の樹立もみどりにして、仁王門、五重の塔とともに、柳もしだれて、露のしたたるばかり厳に気高く焼残った。44P。

これは上掲『羊の怒る時』の、流言で朝鮮人に被害を出しながら守ったということで語り手が怒っていたものか。

久米正雄津波前の波が引いた海を見て戦慄するところも印象的だし、志賀直哉の文章で「魔法壜」が出てきて、魔法壜ってもうこの時代からあったのかとも思った。中西伊之助征韓論以来日本人の頭から古代以来日本の先を行っていた朝鮮の歴史が消えてしまい劣等民族と見なすようになった不幸を嘆く。

吉野作造はこう書いている。

罪なくして無意義に殺さるる程不幸な事はない。今度の震火災で多くの財と多くの親しき者とを失った気の毒な人は数限りもないが、併し気の毒な程度に於ては、民衆激情の犠牲になった無辜鮮人の亡霊に及ぶものはあるまい。今度の災厄に於ける罹災民の筆頭に来る者は之等の鮮人でなければならない。176P

この文章にはもう一箇所重要な部分がある。

朝鮮から来て居る僕の友人は鮮人同士の今回の災厄によって被れる窮迫を救わんとして、本国の父兄に発して義捐金を募った。やがて集った若干額を東京に送ろうという時になって、銀行は送金を拒んだ。官憲の干渉があった為めだと云う。官憲は何の為めに救恤資金の転送を阻止したか。揣摩するもの曰く、この金の或は不逞の暴挙に利用せらるるなからんかを恐れたからだと。何所まで事実かは知らないが、食うや食わずの罹災者の救助資金にまで文句を云わねばならぬ程煩わしき警戒を必要とするなら、何所に我々は朝鮮統治の成績を語る面目があるか。爆弾を懐いて噴火口上を渡るようなのが、属領統治の本分では断じてない。181P

佐多稲子の文章にも興味深い箇所が多い。一つ目は朝鮮人暴動のデマの出所に関するもので、もう一つは市井の人間が非常に鮮やかにそのデマへの反駁をしている箇所だ。

とび口のさきは鋭く、銀色に光って、それは重いものだった。弟はこれを私の護身用に、それも朝鮮人に対する護身用に握らせたのであった。つまり、こういう形で、いわばいち早く人心動揺のほこ先転化が計画されたので、弟の持ってきたとび口はしかるべき官筋から出たのにちがいなかった。240P

「話し手の彼女は、一晩中朝鮮人に追いかけられて逃げて歩いた、というのだ。それを聞いたとき、興行師のおかみさんは、利口にその話を訂正した。彼女はこう言ったのである。朝鮮人が暴動を起したなんていったって、ここは日本の土地なんだから、朝鮮人よりも日本人の数の方が多いにきまっている。朝鮮人に追いかけられたとおもっていたのは、追われる朝鮮人のその前方にあんたがいたのだ。逃げて走る朝鮮人の前を、あんたは自分が追われるとおもって走っていたに過ぎない、と。」241P

この一言を「興行師のおかみさん」が言ったというのはなかなかに示唆的だ。社会のはぐれ者としての経験がこの観察にあるようにも思える。そしてこの「逃げて走る朝鮮人の前を、あんたは自分が追われるとおもって走っていたに過ぎない」という一節は、そのまま日本人の朝鮮人への仕打ちを示唆するものでもあり、己の加害を不可視化することで朝鮮人の脅威を言い立てる言動への批判にもなっている。それを日常的な言葉で表現している。この箇所は本書でも特に印象的な一節だ。

編者は他にも同様の書籍を編集しているようだけど、それらと本書との違いは何かが書かれていると親切だったかなと思う。コンセプトは似ていて収録文章が微妙に異なる編著が他に二つあって、解説なんかも違うんだろうか。

中央公論新社編『対談 日本の文学』全三巻

『対談 日本の文学 素顔の文豪たち』

1960年代後半に刊行された中央公論社の80巻にわたる文学全集の月報に載っていた対談・座談を全三巻に再編集したもの。この巻では作家の親族が参加したものをメインに収録している。一篇が手頃な短さで家族から見た作家のエピソードがたくさん読めてなかなか面白い。

目次が重要なのに中央公論の公式サイトには何にも載ってないのでhontoをリンクする。公式が一番情報ないのなんなの。
対談日本の文学 素顔の文豪たちの通販/中央公論新社 中公文庫 - 紙の本:honto本の通販ストア

森鴎外のことを森茉莉三島由紀夫が聞くとか、親族ではない対談者の方も既に文学史上の人物ばかりが並んでいてなかなかの壮観。鴎外は茉莉を生涯いっぺんも叱らなかったとか、荷風の歿後の机上には鴎外の『渋江抽斎』が伏せられていたとか、漱石は年の暮れに手紙を全部焼いてしまう、とか。田山花袋の外国文学の知識は驚くべきもので中村光夫が自分など及びもつかないと言っていたとか。

津田青楓が興味深いことを言っている。

漱石という人は写生ということがきらいなんだ。物を前において写生していても、先生はすぐに自分で勝手なことを描きだして、それで写生はやめになってしまった。102P

「写生文」の漱石が「写生」が嫌いというのは面白い。

内田百閒が漱石作品の校正をするにあたって、新聞初出は「ルビ付き活字」という読み仮名と漢字が一体になった活字を使っていて、それは漱石の送り仮名の付け方ではないので単行本の典拠にはならない、という当時の事情を語っているのも興味深い。

伊藤整が大正期の文士は雑誌に幾つか書けば責任は済んだとあとは遊んでいたのが昭和の初め頃から実直な月給取り文士になっていくと語り、大岡昇平が芥川の死に触れながら円本全集が出た昭和の初め頃「友好団体としての文壇のグループ」は分解する時期だと言ってて、文学史的には関連した事象だろうか。

芥川はすらっとして見えるけど実は低身長で、一人で写真に写ることでそれを見えづらくする演出なんだとか、暑い日でも裏に毛皮のついてる足袋を履いてるのが子供心に気味悪かったとか息子が語ってたり、室生犀星の女性の足フェチぶりを娘が語ってたり。

堀辰雄が晩年切支丹ものを書こうとして宗教関連の文献や聖書を非常によく読んでいたという話があり、遠藤周作が信仰に入ろうとした可能性を話に出したところ、妻がカトリックの信仰に入りたい気持ちがあったのかも知れないと認めているところがある。しかし、仏教の本も読んでいたしそれは結局仕事のためで信仰とは関係ない、と答えている。ここで妻は夫の私生活での苦しみや信心の側面に言葉を向けながら、最後には彼は作家だったというところに話を戻しているのがなんとも印象的だった。

山本有三が国会議員として文化財保護法や「国民の祝日」を決めた、とあるところはそうだったのかと驚いた。大岡昇平中村真一郎の『死の影の下に』を、「死の影はおれのほうが本場だぞ」と思って題が気に入らなかったと言ってるのは笑える。田宮虎彦が、小説を読むというのは書くことと同じじゃないか、書く時も自分で世界を作るけれども読む時も本を題材に自分の世界を作るわけで、良い作品を読むことは良い作品を書くことと同じになりうる、「読者の文学」はあり得る、と言っていたりする。

小田切秀雄新感覚派についての評言、一息に整理しててへえと思った。

新感覚派は、ずっと今日まで続いている二十世紀文学のモダニズムのいとぐちを開いたもので、近代の人間の分裂した内面性とか、反射する神経とか、のちに一層はげしく露呈してくるようになる人間の内面性と状況との様々な屈折した矛盾というものを、意識的にとらえるところから出発したのですが、昭和文学のいわば源流の一つとして現代に通じるような深い側面と、まったく表面的な、それこそ興味本位というにすぎないところと、この両方がまじりあっていたと思うんです。326P

『対談 日本の文学 わが文学の道程』

第二弾。この巻は主に作家本人が参加しているものを収録していて、作家になるまでの来歴を語ったりざっくばらんな雑談をしたりしている。谷崎や高見順など数年内に亡くなる作家や三島由紀夫が四回登場してたりする。大江健三郎の没年が記載されており、本書参加者でまだ物故者でないのは曽野綾子のみとなる。

参加者と話題は以下を参照。
対談日本の文学 わが文学の道程の通販/中央公論新社 中公文庫 - 紙の本:honto本の通販ストア

谷崎が本全集ではじめて新かな遣いにしたことについて、もう旧かなで口述筆記してくれる人がいなくなったことが原因だけれど、若い人に読んで貰えないのは淋しいので、とも言っている。新かなにするということでそのかな遣いに相応しいように源氏物語を訳し直したりとか、書き手の拙さを表現するため『猫と庄造と二人のおんな』で旧かなを間違えているところを新かなにする時、新しく間違いの箇所を作ってもらったのが面白い。

川端康成が同人時代の文学青年の共通の教養を聞かれて、白樺派の影響などもありやはりロシア文学トルストイドストエフスキーチェーホフツルゲーネフだと答えているところはなるほどな、と。

大岡昇平小林秀雄の対談を読み始めたら、大岡が小林を「あんた」呼ばわりしはじめてびっくりしたし、お互い「俺」とも言っててここだけ雰囲気が違う。作家の研究について小林秀雄が人生を知らない人が人生を知った人のことを研究する、これは無理だと言ってて、そうかもねって思った。

宇野千代萩原朔太郎は会うとずっと星のことを喋ってて、良い人なんだけど浮世のことに無関心で、と語っている。丸谷才一が女性は神経が行き届いてて観察眼があるというけど宇野は反対で、細部ばかり取り上げて芯を掴むのが下手だと言ってて、だけどそれは同じことを言ってないかと思った。

佐多稲子プロレタリア文学があってはじめて学のない自分が書いても良いと思えたということを語ってたり、同時にハウスキーパー問題についても触れてて、夫婦を装わなければ家を借りられない時代とはいえ、肉体関係を求められるのは女性を一段下に見ているんだと批判したりもする。

井伏鱒二が「多甚古村」を書いたのはお巡りが材料をくれたからで、お巡りの好みと逆になるように書いた、そうすれば間違いないと思って、というのが面白い。大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』には感心したけど広島の人は悪く言う、どうしてかと思ったら理屈が多い、原爆に理屈はいらないからだ、と。

石川達三が従軍経験を元に書いた『生きている兵隊』について、検察や司法が発禁・処分をしたけれど、軍は必ずしも腹を立てておらず、現地軍では発禁漏れの雑誌を手に入れて「近ごろの日本の新聞は嘘ばかり書いてるけれども、これははじめてほんとうのことを書いた」(189P)と部下に読ませてたらしい。

伊藤整は川端に誘われて小林秀雄に会いに行く機会があったけれども固辞したという。行けば頭を下げて彼らの側につかなければならなくなるからだ、と。「鎌倉幕府」とも呼ばれる小林らの「文學界」系統が主流とすると、伊藤整が「新潮」から出た傍流に属すという文壇地図を述べているところは興味深い。

本多秋五が「椎名的観念が出なくていい小説だと思う」と椎名麟三に言ってるのは笑う。椎名曰く、

経験というのはつまらないものですよ。ほんとうになんの役にも立たない。けっきょく経験を小説にするときには、意味を発見しなければならない。自己の正当化になるでしょうが。307P

戦後のドイツで一幕物の劇が成功したのは三島の『近代能楽集』とイヨネスコが初めてだそうですね、という発言がある。三島由紀夫は、いくら体験をしてもそれだけでは書けない、しかし体験を得て技術を知った上で見ると良いとして、「根本的には見るということが大事」と言う。安部公房は別の対談で、南極探検に行った人が体験を書く分には良いだろう、だけど南極探検論を書くと言う時には体験は危険なんだと言ってるところがあり、微妙な共鳴をしているのが面白い。安部はまた戦後文学を語る時に「近代文学」が軸になるのははっきりいって不快だとも言っている。

安岡章太郎曽野綾子吉行淳之介との鼎談で何か書いて稼ぐことはおかしなことだとしてこう言ってる。

ただ、曽野さんの場合は女でしょう。だから無用の閑文字を弄することは、ある程度許されているのだ。俺たちの場合は男だろう、だから、これは許されないんだよ。商売にならない限りね。387P

石原、大江、開高という面白い組み合わせのものもある。大江がここで、石原や江藤に会うと使命感を持ってやっていると言われてうんざりする、自分は生きていく上でできるだけ不快でないようにそういう仕事をしているのであって、「例えば立候補したりはしません」と石原に当てこすってて笑える。

石川淳安部公房のわりに緊張感のあるやりとりとか、中山義秀横光利一評とか、武田泰淳の生まれ変わり好きとか、大岡昇平が「ぼくは描写したことはないですよ」333Pと言ってるのはそうだったっけ?と驚いた。

『対談 日本の文学 作家の肖像』

三巻目。編集委員伊藤整大岡昇平ドナルド・キーン三島由紀夫が複数参加しており、作家本人や親族ではない対談者がメインなので逸話、雑談的ではなく、評論的空気が一番強い巻ではないだろうか。全集で荷風や藤村は複数巻なので対談も別の組み合わせで二つあったり、逆に三人セットで一巻というのも多く、啄木、子規、虚子で一巻、白秋、光太郎、朔太郎で一巻などの組み合わせを対談者がそれぞれの個性を対比的に語っていたりするのも面白い。三島澁澤コンビで鏡花と足穂をやってたりする。

参加者とタイトルは以下。
対談日本の文学 作家の肖像の通販/中央公論新社 中公文庫 - 紙の本:honto本の通販ストア

最初の対談で三島が「いわゆる鏡花ファン」にいやらしさを感じるからいやらしくない鏡花を理解してくれる澁澤を引っ張ってきた、と言い出すところから始まる。内輪なり粋がりなり「通人」ぶっている支持者は好きではないと挑発的だ。三島はこう言う。

ニヒリストの文学は、地獄へ連れていくものか、天国へ連れていくものかわからんが、鏡花はどこかへ連れていきます。日本の近代文学で、われわれを他界へ連れていってくれる文学というのはほかにない。文学ってそれにしか意味はないんじゃないですか。15P

シモンズですか、文学で一番やさしいことは、猥褻感を起させることと涙を流させることだと言うんですよ。センチメンタリズムとエロですね。一方、佐藤春夫は、文学の真骨頂は怪談で、人を本当に恐がらせられたら、技術的にも文学として最高だと言うんだ。それはいろんな意味があると思いますがね。僕の説で言えば、むしろエロティシズムと怪談というのが文学の真骨頂で、涙を流させるのは、これは誰でもできますよ。16P

シモンズを引きながらそれに異を唱えてエロティシズムもまた文学の真骨頂だと言っているのは面白い。澁澤は鏡花の変身モチーフについて「ジャン・ジュネなんかもそうだな。変身する文学と変身しない文学というのがあるかも知れないな。三島さんはしないですよ」といい、三島は「僕は絶対に形じゃないと嫌なんだ。筋肉だって形だろう」(18P)と応えている。「田舎者が官僚になれば明治官僚になり、文学者になると自然主義文学者になり、その続きが今度はフランス文学なんかやっているんですよ。あなたじゃありませんよ(笑)」と三島が言い澁澤が「僕じゃない。もっと偉い人ですよ(笑)」(23P)と返すところもある。

藤村については亀井勝一郞がこう言っている。

「日本の〝家〟を典型的に描いた作品が、ぼく流に考えて三つあると思うんだ。一つは藤村の「家」。もう一つは谷崎潤一郎の「細雪」、これは関西の家。それから岡本かの子の「生々流転」、これは関東の家。そうしてみると藤村のは、いかにも信州の家だ。北海道には家の観念があまりないんだ。42P

瀬沼茂樹が「地方へ講演に行ってみてわかるんだけれど、藤村の文学がいちばん人気があるんですよ。というのは普通の日本人のありきたりの生活感情がよく書けているわけですね」と続けている。

花袋が死ぬ時藤村が死ぬ気持ちはどうかと聞いたのが有名な話らしいけれど、それについてはこう言ってる。

藤村が「死んでいく気持はどうか」と言ったときに、花袋は喜んでしゃべったわけですよ。「真実を追及するものとしてお互いにやってきた。死にぎわの気持なんていうものはだれも書いていないから、ひとつ聞いておきたい」「それじゃ言っておこう」といったわけで、デマでも何でもないし、ひどいことでも何でもないんだ。46P

藤村『夜明け前』をめぐって野間宏臼井吉見の対談で臼井は漢学の合理性と国際性を強調している。

明治を一貫しているものは、僕は漢学と侍だと思う。国学をやった連中はだめですよ。ものを論理的に考えるという訓練は、漢学が養ったものですね。だから明治の文化の先駆者になったものは、キリスト教にしても社会主義にしても、下地はみんな漢学ですよ。漢学で訓練された頭脳が、はじめてキリスト教社会主義もちゃんと受け入れ、つかんでいる。57P

ルソーとの関係や藤村は自然主義、近代をはみ出るという指摘も面白い。

江藤淳広津和郎の対談で、昭和十年代、文学統制のために私設文芸院を作ろうとした時に徳田秋声が「日本の文学は庶民から生まれ、庶民の手で育った。いままで為政者に保護されたことはないし、いまさら保護されるなんていわれたって、そんなもの信用できないし、気持が悪い」75Pとはねのけた話がある。その後文芸懇話会という名前になって金があるから雑誌を作ろうとした時、藤村が警保局長にはお金だけ出してもらって、編集は自分たちがやる、と御用雑誌にされないために釘を刺した話が面白い。

正宗白鳥の特徴について中島河太郎がこう言っている。

ほかの作家のように、ある一つの代表作があったり、一つの感動させるものがあって、これはうまい作品だとか、立派なエッセイだといえるものはない。白鳥全体を通して読んでみると、この一篇の小説とか、一篇のエッセイの位置がわかってくる。92P

キーンはわずか十年の隔たりしかないけれど啄木は明らかに現代人だけれども子規は違う、と述べている。「啄木が読んでいたヨーロッパ文学は、だいたい同じころのヨーロッパ人が読んでいた文学だったでしょう。子規の場合は、百年ほど前の文学を読んでいたんです」(103P)、山本健吉は「子規と同時代でも、たとえば夏目漱石なんか子規に比べると、ずいぶん新しいものといっても十九世紀のものですね、十九世紀のものを読んでいましたけれども。」と返している。この対談では子規の随筆や伝記なくして短歌が評価されることはなかっただろうという話をしていて、山本がキーンならそういう伝記的知識を使った批評を批判するんじゃないかと思ったと言ったら、「申しわけないんですけれども、私は人間です……(笑)。」106Pと答えたのが笑った。

鈴木三重吉が人の文章をよく直していたという話で、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」も直したという話をしてるのも面白かったけれど、やはり傑作なのは福田清人がする以下の話だった。

最近テレビでも活躍の森村桂さんのお父さんの豊田三郎君は、大学を出て「赤い鳥」にいたんですよ。そこで三重吉がいろいろ偉い人の原稿を手直しするのを見て、人の原稿は直すものだと思い込み、三重吉の文章を直しちゃった。怒っちゃって、さっそくクビになったそうですよ(笑)。118P

高村光太郎萩原朔太郎の貧乏について伊藤信吉が、高村光太郎の貧乏は今日は鰯しか食べられないけど翌日は銀座で一流の料理を食べている、というものだと言ってこう続ける。

高村さんは、自分のところに出入りする若い詩人たちが金のないことを訴えると、手もとに金がなければ本を渡し古本屋に売れと言って小づかいをやる。そういった思いやりが高村さんにはありましたね。一方、萩原さんは親子四人で東京に出てきたとき、毎月家から六十円送ってもらっていました。そして、この世の中で自分がいちばん貧乏だという詩を作るのです(笑)。134P

「よく思想史の本が出ますけれど、萩原さんは当然論じられていい人だと思います。観念論者として、あれだけ強烈な思想を持った人は、日本の文化人の中にも少ないのじゃないかと思いますね。」136Pと思想家としての朔太郎を評価している。

大岡昇平の伯父が住んでいた家によく遊びに行っていて、その隣の家が永井荷風の偏奇館だったというのは驚く。荷風は「人間の悪いところばかりを見て、人間を信用されておらない。女というものも信用しない。女のなかでいちばん自然な生き方をしているものが売笑婦と見えたようです」(149P)と言う。荷風については中公の社長島中鵬二と武田泰淳の対談で、谷崎潤一郎の「女性の好みは ネコ系統が好きで、一貫してイヌ系統はお嫌いのようですね。荷風先生はどちらかと言うと、イヌ系統なんじゃないですか。」160Pという比較論を言ってるところがある。

三島とキーンの谷崎についての対談では三島は「僕、おもしろかったのは、谷崎文学の中の女性が男性に示す無関心な態度を、キーンさんが猫と同じだとおっしゃったところ(笑)。」

男が美男子である必要は全くなくて、女は男に対して無関心で、それでいていつも男を誘惑する。あの猫というのは、いかに谷崎さんにとって大事な象徴かということが分りますね。180P。

荷風と谷崎の比較論で、三島はこう言う。

荷風さんは、人間を描くよりは雰囲気を非常に大切にしていますが、谷崎さんは、直接抽象的なものにバーッとはいっていくのですよ。僕の考えでは、抽象主義というのは非常に男性的なものだと思うのです。谷崎さんの小説は、一般に世間から指摘されているように、男というものが描かれていないのだけれども、あの抽象性に男があると思うのですね。183P

文章的には荷風が男性的で谷崎が女性的という人もいて、確かにと思っていたのでこういう観点からそれと逆の意見なのが面白い。

三島は百閒足穂の巻で対談者に存命の足穂自身を呼ぶべき所、いくつかの理由を付けて本人には会わずに澁澤龍彦を呼んでいる。理想像に会わずにいたいというところと、もう一つひどく不穏なことを言っている。次の発言は1970年5月の対談。

もう一つは、非常に個人的な理由ですけれども、僕はこれからの人生でなにか愚行を演ずるかもしれない。そして日本じゅうの人がばかにして、もの笑いの種にするかもしれない。(中略)日本じゅうが笑った場合に、たった一人わかってくれる人が稲垣さんだという確信が、僕はあるんだ。251P

河上徹太郎横光利一についての発言。

「寝園」のようなああいうインテリ・ブルジョア階級の社会性というものはそれまで小説にならなかったんだよ。漱石なんかもインテリ・ブルジョアジーを書いているけれども、個人を書いているだけで、その社会というものがないだろう。社会性を着せて書いたという意味で「寝園」は画期的なものだと思うよ。白鳥さんもそれを非常に認めているね。 紫式部がサロンを小説にしたけれども、昭和のサロンは横光さんが書いた、というほめ方をしていますね。日本にサロンというものが存在するかどうかは別として。282P

林芙美子についての対談で、平林たい子林芙美子を「文芸戦線」の同人と見合いをさせようとしたことがあってその相手は里村欣三だという。壷井栄と平林のこの対談では、壷井家の向いに平林、隣に林が住んでいたというご近所トークがなかなか面白い。

尾崎士郎の逸話として高橋義孝が言うには「ある出版社が十万円近いものを原稿料のかわりに持って行ったんですって。そうしたら、おれは売文業者だから、これが何十万しようとも五円でいいから現金持ってこいって」「原稿料をもらっておいて、ついでに何万円のものももらったんですって(笑)」(355P)。尾崎士郎が苦労人で色んなものを人にあげる人で、高橋が酔っ払って人に腕時計をあげた話をしたら、その場で自分のを外してこれをもってらっしゃいとくれたというんだけど、高橋がその夜酔っ払ってそれをまた人にあげてしまったというバカみたいな話も面白い。

解説では関川夏央中央公論社社長嶋中鵬二は松本清張をどうしても入れたかったけれども三島が頑として受け入れず、清張を入れるくらいなら自分は編集委員を降りるし作品も取り下げる、という強硬な反対を崩せなかった顛末が書かれている。これは社会派ではない、という信念らしいけど、わりと謎だ。全集は単巻20万部出ていたらしい。中央公論社は文学歴史哲学の教養書シリーズを矢継ぎ早に刊行して成功を収めたけれども同時に過重な負担と「反体制的気分」によって社内の空気が悪化し、教養主義と出版の幸福な時代は終わりを迎えたとある。

1960年代中頃刊行開始のシリーズで、個人名が冠された最後の巻に石原、開高、大江でワンセットで、安部公房も単独巻はなく、第三の新人が辛うじて複数人まとめた巻になっていて小島信夫表題巻はないという塩梅。内向の世代以前の近現代日本文学をカバーしているかたちか。

三巻に渡るこのシリーズ、対談による文学案内という感じで色々面白かった。積んでるものも色々崩したくなってきたけど、いつになることやら。