2019年見ていたアニメ

今年見たアニメの感想。こういう年間まとめ記事を作り始めてもう五年目。とりあえず見た数だけなら120とか?あったなかからツイッターで書いてた感想をもとに60作くらいでざっとまとめた。なおネタバレを気にせず最終話の感想も突っ込んでいるので注意。話数単位で当時どう書いていたのかとかはツイログとかから勝手に見てくれ。
https://twilog.org/inthewall81

2019年アニメ10選

私の好みの基準として最初にこれを。放送時期順。

バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~
私に天使が舞い降りた!
八月のシンデレラナイン
フリージ
ひとりぼっちの○○生活
ぼくたちは勉強ができない
超可動ガール1/6
Re:ステージ! ドリームデイズ♪
まちカドまぞく
神田川JET GIRLS

今年のアニメというとこんな感じになる。去年は多いなかから選ぶのが難しかったけれども、今年はカラパレ、ハチナイ、リステ、の三傑のほかに何を選ぶのかが難しくて、ある基準を超えて良いと思った作品が少なかった印象。特に秋クールが弱かった。まあこれで。今年のベストはカラパレとリステ、どっちにするか難しかったけれど、ここはカラパレを推しておきたい。フリージは好きも嫌いも良いも悪いも別にして、今年で忘れられないインパクトを残した。

冬(1-3月)

バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~
カードファイトヴァンガードの、バミューダ△というマーメイドアイドルユニットが人気があるらしく、その五人を題材にアニメ化したもので、およそストーリーはオリジナルと思われる。ブシロード案件でOPにはバンドリからパステルパレットの曲が使われている。マーメイドやアザラシやエイなどが住む海中の村パーレルを舞台に、幼馴染みの少女四人と、都会から逃げてきた少女が出会い、村で生活しながら偶然見つけた放置されていた映画館を復活させて、というストーリー。事前にほとんど期待されてないようだったけれど、地味に何か面白くなりそうだと思っていたら予想を全然超えた傑作になっていった。マーメイドアイドルとして設定されているキャラがアイドルになるまでの物語、という触れ込みで始まっているんだけれど、本篇の殆どは彼女たちがアイドルを目指す話、ではない。五人がパーレルという「なにもない」村で過ごしながら、大人たちやいろんな人と交流していくなかでこの五人の絆を育て、村にいる人、村に来た人、村から出た人など、さまざまな人の村との関係を描きながら、村を愛する彼女たちがその村を出るまでを語っている。原案イラストよりもぐっと地味にしたキャラクターデザインが象徴的なように、絵的にそんなに派手ではないんだけど、鄙びた田園風景がそれを大切に思う人にはカラフルに感じられる、というカラフル・パストラーレ。脚本・話の良さは傑出していて、序盤の映画館の再生の話も良いし、特に印象的なのは六話や八話だった。六話は映写機が映しだした誰かも分からない人物の声という謎が、首長とその友人ら大人組の過去と現在の物語を示唆しつつ、過去の夢はその通りには叶わないかも知れないけど、それは決して悪いことではないという現在からの肯定が投げかけられる。村を出たいという孤独や不安が描かれていて、それは八話でもまた別の形で変奏される。特に八話は今年一番の傑作話数だと思っていて、マーメイドがおつかいとして地上に住んで塩ゼリーを作っている人物に会いに行く、という通過儀礼的な話で、ここで出会うグラディスという女性は、マーメイドが地上で生活する為のパウダーが体に合わないのか大人なのに少女の姿で地上で生活している。そこで五人が塩ゼリー作りを手伝うなかで、グラディスに人間の友人が居たこと、人間とマーメイドは寿命が違うので年齢差があることなどが分かってくるんだけど、視聴者にはグラディスはどうもその人間との思い出のためか再会を待っているためかでその島にとどまっているらしいことがわかってくる。パーレルの人がグラディスを気むずかしい人、といっていた理由がここでおぼろげにわかってきて、グラディスの過去は明確なことはまったく説明されもせず、彼女たちも気づいたかどうかもわからない、というかなり行間の多い脚本・演出で見せる回になっていた。人魚なので作中ではほぼ下半身は魚なわけなんだけれど、地上に上がった八話で初めて足が描かれるとこれがびっくりするほどエロティックで、非常に鮮烈な印象があった。こうして村を描きながら故郷を出ること、村を離れることのありようを複数のパターンで描きながら、九話、空から降り注ぐ光ではなく、地上から、つまり自分たちから放たれる光で極彩色の光景に包まれるという反転がイワシストームの絵の美しさともども見事だった回から、村の伝承をキーポイントに、輝きと結晶をモチーフにしながら、映画館を再生させたようにさまざまなものの再生復活の流れが、都会から歌えずに逃れてきたカノンに四人が寄り添いマーメイドアイドルへとともに向かっていく流れが展開され、それまでソロバージョンでしか歌われなかったエンディングテーマ「シャボン」が最後の最後で五人バージョンとして流れる最終回は見事なエンディングだった。西村純二監督作品。幾度も変奏されるEDテーマ「シャボン」が名曲だけど、OPアニメもセンスがあって良い。水中だから建物内の移動がちょっと変わってたりするし、水中でお茶やケーキを食べるし、なんなら水中で植物に水をやるシーンまである、なんともいえない緩さがたいへん良い。秋になるまでパッケージの発売すら発表されなかったし完全にカードのオマケ扱いなんだけど、だからこそこういう作品が作れたような気がしてる。

●私に天使が舞い降りた!
コミック百合姫連載のおねロリ百合漫画原作。おねロリとしては前期もウチのメイドがウザすぎるを作ってた動画工房製作で、こちらは百合姫連載と言うことで各キャラの関係もなかかなかに込み入ったものになっていた。小学生をお菓子で釣ってコスプレさせて写真を撮る主人公、その姉を溺愛する妹、その妹に思いを寄せる友人、二人の世界を作っているまたべつの二人の幼馴染み、そして主人公をストーキングするやばいやつ等々の危うい味付けが一見四コマ日常アニメの温和な雰囲気で進んでいく。出色だったのは五話、コミカルな展開から一切ギャグを挾まず小依と夏音の二人の世界からのED入りがかなり良かった。両手が使えなくても一切困った様子を見せない夏音の信頼の強さと無限の頼り甲斐を見せる小依、過去の塀の向こうに一人で落ちた小依、に応接する、二人で一緒に落ちるラストで、死んじゃうかと思って泣いたのとずっと笑っている今があって、紐がほどけても目に見えない二人の絆は繋がっているかのような場面だった。縛られても平気なのは既に縛られてるからなんですねえ。変で奇妙だけどそれはそのまま二人の関係の真剣なありようだっていう演出。小学生に土下座で泣いて謝って抱擁されて慰められる大学生のヤバ絵面が吹っ飛んでしまった。もともと非常に出来が良かったけど、居住まいを正してみないといかんと思ったのがこの話数で、さらに上を行くのが最終話。11話の文化祭準備のあと、最終回で小学生の劇がはじまると思ったら劇中劇の演出が全力。天使と人間の愛を描くんだけど、地上と天界の差に加えて時間の違いという根源的かつメタ的なすれ違いを、既に受け入れられていた愛が救う筋書き。「初めての愛が世界を包みゆく」って歌詞通り。花の登場のあと、みやこの瞳から天使の花が生まれ、みやこの初めての感情を描く作品だから、劇のアネモネにはどこかみやこ自身が重なっているし、でも菓子を差し出すデイジーと孫にもみやこがあるし、演劇はいろいろ解釈難しいけど愛は時間を超えるって話と捉えていいはず……いやはや凄かった。アニメオリジナル描写で原作の行間(この演劇原作にないよね?)を炸裂的に広げていくやつとしてはきんいろモザイクの一話を思い出した。劇中劇でデイジーアネモネなどの「花」と「菓子」による愛の交換・交歓によって、天上と地上の境界を越えてきたので、一糸まとわぬ天使となった三人が現実のみやこのもとに現われて終わるんだな、と思った。しかしなんだかんだいって、みやこは性欲で花は食欲で相手と繋がっているのでまあ年の差はあれど似たもの同士でお互い様だと思う。

●えんどろ~!
スタジオ五組制作、かおり監督、なもりキャラ原案、飯塚晴子キャラデザのオリジナルアニメで、ラスボス倒した後の日常、かと思ったら魔王のリプレイで裏主人公たる魔王ことマオCV久野美咲が大きな魅力だった。マオの魔王形態の時の声が玄田哲章で、玄田哲章CV諏訪彩花PSO2アニメに続いて玄田哲章CV久野美咲が始まってしまった。日常系ファンタジーという通り、元魔王が先生として教壇に立ち、勇者ことユーシャたちが生徒として学ぶ学校を中心にしたコメディという感じで、作画が良いのは魅力だけど、マオ先生が出てないともう一つ魅力に欠ける回がままあったりするところがある。勇者に恋する王女様が勇者が男でなくても全然気にしない人だけど、それは「勇者」という憧れを一方的に投影しているだけだったのが、「勇者」ではなくユーシャ個人を好きになる展開が真ん中の話数で展開されたように、六話でマオ先生の過去が描写されていくなかで、魔王だったときには得られなかった同じ食卓を囲む人たちというものが魔王をやめた今になってまわりにある、という回とも響き合う。本作は姫にとって勇者がユーシャになったように、「勇者」と「魔王」がユーシャとマオになるまでの話で、最終話は、勇者は「勇者」でなくなっても勇者で、実質的に、倒されるべき存在だった魔王とメイドゴーレムがマオ先生とメイゴさんになる救済の物語だった。エンドロールの先は、悪役がその役目roleを終えることでもあり、ユーシャは自分自身の白紙の未来を見いだすという綺麗な終幕。所々だれるところもあったと思うけど、終わりよければ良い感じ。11話の、メイドゴーレムの為に魔王としてのプライドを示すクライマックス一話前の回が良かった。

かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~
告白した方が負け、という意地の張り合いでお互いが相手の上手を取ろうとし続けるラブコメ漫画原作アニメ。かぐや役古賀葵の奮闘と藤原役小原好美が良いし、「壁ダァン」の古川慎の演技はツボに来た。会長とかぐや様、のこの一生やってろというしかないようなやりとりもお互いの階級差を前提としつつ対等な存在でいるための戦いでもあるか。良い作品だったと思うし出来も良かったと思うけど、あんまり書くことがないな。

ガーリー・エアフォース
改造した戦闘機と少女の姿を持つ操縦システムで人間には不可能な挙動を行なう兵器によって、突如攻めてきたザイという敵と戦う、ライトノベル原作アニメ。シンフォギアシリーズの小野勝巳が監督。アニマと呼ばれる美少女型兵器が何人か出てきて、ハーレムラブコメの空気を持ちつつ、リアリティを良い意味で無視する不可能機動戦闘機同士のハチャメチャな空戦が楽しい。ポンコツクールメインヒロイン、グリペンがマスコットとメインヒロインを兼ねたキャラ性を得つつあるのが笑う。グリペンのヒロイン力と、I'veサウンドといういつの時代だよ、という楽曲が、やや古めのラノベ感とあわせて伝統芸のごときつくりで楽しいアニメだった。一昔前のラノベアニメ感とそれ故に決め所をを外さない安定感と楽しさがあるけれども慧の明華に対する言動だけは常に外し続けていたのは凄かった。

●超次元革命アニメ Dimensionハイスクール
実写ドラマ形式とCGアニメをミックスさせた独特の作品で、男子高校生とその教師らが、スフィンクスから与えられるクイズを解いていく。先生が死ぬほど好きな緑が丘流星とか、友人への裏切りの罪悪感から存在が消える展開とか、BL風味を漂わせつつも割りにシリアスなドラマ、随所に挾まれるトンチキギャグ、クイズパートの見応えと、なんだかんだかなりちゃんと面白くてびっくりする。しかし、緑が丘流星、マジで面倒くさい男すぎて相当面白い。純平が自分の誘ったテニス部を選ばず園芸部に入りたいと言っただけで絶交だって言いだす愛憎こじらせマンで、クイズに負けて性格が変わったりするのも落差がとりわけ激しくて、中盤のコメディ部分は彼が担ってた気がする。

●マナリアフレンズ
三年越し?の企画で、ずいぶん前にアニメ化の報があったはずだけど、どうも企画をリセットした模様の作品。神撃のバハムートのスピンオフ作品とのことだけど、ある魔法学院を舞台にして、プリンセス同士の人竜百合アニメ。何か大きな物語があるわけではなく、十分尺のなかに、緩やかな時間と空気感でじっくりとさまざまな描写を重ねていく演出中心の語り口で、泳ぎの練習をやたら淫靡に描いたり、媚薬ネタやったりしている面白アニメ。演出重視の語り口でエロネタだったかと思えば、同じ行動同じ場所のリプライズで関係が描写され、それが冒頭の独奏と最後の合奏でも反復され、音楽が二人の時間の比喩になる四話のようなシリアスな表現もあったり、いろいろ贅沢。九話も、極小の小さな仲違いが極限のドラマ性で演出される雪解けと距離の話で、一話のカフェの席とか中盤でも重要な役割を果たしたピアノだとか、これまでの二人の記憶が相手の元へと走らせる。走る場面の遠景からアップへ。絵コンテ春藤佳奈は、放課後のプレアデスの2、7、10話やEDのコンテ演出の人だ。今作の監督岡本英樹はこのはな綺譚の監督でもある。

モブサイコ100
ボンズの作画を存分に見せつけるモブサイコの二期で、デフォルメの効いた絵柄でボンズ作画をぶちこむ楽しさは相変わらずだけど、作画が弾けすぎると話がうまく頭に入ってこないきらいがあった。とはいえ、モブ自身の善悪の天秤の傾きのあとに、師匠以外の仲間ができはじめたモブと、モブにすっかり頼り切りになっていた師匠が残酷に対比される中盤の展開は良かった。二人の誕生日の差。モブの成長の後に霊幻は一体何者か、と問われるのは自然な流れで、本来の胡散臭い側面での有能さとその中身の空虚さが抉られる。七話は正体を知ってなお頼れる師匠と弟子の存在によって何者かになっている師匠の話で、霊幻の成長したな、で距離を一挙に突き抜けて会場にたどり着く場面が、モブを映さずにモブを感じさせていて良かった。

ブギーポップは笑わない
九〇年代からいまも続く電撃文庫の有名作品がいまアニメ化。「笑わない」、「VSイマジネーター」、「夜明け」「歪曲王」の四篇をアニメ化。いずれも当時読んでいた作品で、これを今見るのはどうだろうと思ったけど、「笑わない」の部分がちょっと微妙で、「夜明け」は良かったかな、という印象。「笑わない」は、人類の試験というSF的ガジェットが曖昧なものとして処理される塩梅が良くて、知らぬ間に人類の危機が過ぎ去っていった、そそれすら知らないこと。隣人への素朴な善意と普通になってしまうことへの焦燥の、青春小説的情感がある。とはいえ、原作が持つ、竹田からブギーポップ、末真から霧間凪、アニメで出てきた覚えがない木村から紙木城直子への羨望と憧れのような並列パターンは、人称を排したアニメではやはり再現できず、各章の独白と対話のうち、独白が消えてしまえばやはりそれはもう別物としかいいようがない。ブギーポップは笑わない、笑うのは僕たちの仕事だ、という竹田のモノローグ他、作品の肝心な部分はやっぱり抜け落ちてしまう。まあメディア特性上しょうがないけれども。遠いところから徐々に徐々に中心に向かっていく螺旋的な構成の面白さとか、やはり小説の魅力だな。「夜明けのブギーポップ」、統和機構側のはずの黒田慎平の意思が、霧間誠一のリンクを継いで、霧間凪へと繋がる。ブギーポップ命名も担って、統和機構を裏切った黒田慎平の「最も美しい心を持てたその瞬間」が始まりに置かれる。正義の味方になり損ね続けること。美しい心と「君が何かをしようとした意思や真剣な気持ち、そういうものは必ず他の者たちのなかに残る」、という小さなものへの希望が、統和機構も一般人もイマジネーターも相互に絡んで展開する、エピソードゼロ。「歪曲王」、は「笑わない」の後始末でもあり、新刻敬と田中志郎の恋をめぐる思い残しという歪み。歪曲王で締めるの、なかなか見事じゃないかと思った。マイスタージンガーとともに幕が上がるのは良かった。

●フライングベイビーズ
映画もあって日本のハワイとかいわれたらしい福島県いわき市を舞台に、フラダンス部をテーマにした、福島ガイナによるショートアニメ。ゆるい漫画みたいな描線と特異な色彩による映像表現がかなり面白い。実験映像一歩手前の崩しと省略。画面を土地にちなんだフタバスズキリュウみたいなのが横切るし、部屋にヤシの木があるし、とにかく画面、表現が自由すぎる。今期一番画が尖ってるアニメ。原画がスタッフにいなかったから、キャラデザ、作監、美術、色彩設計、コンテを担当する大湊良蔵が概ね描いてるんだろうか。実写ヤカンに空飛ぶキャラ、足湯に逆立ちで浸かってるやつもいれば画面によく分からないおじさんも映っているし足湯で泳ぎだしたみんなは屋根ごと空を飛ぶ。何を言ってるか分からないだろうけど見たままだ。五分にどれだけカオスを詰め込めるのかの実験場みたいなところある。EDのウクレレ漫談も気が抜けて良い感じ。

●その他 ゴーハンズの奇抜な画面設計と作画のすごさがあったハンドシェイカーのまさかの続篇で、テーマもろもろ見事に続きと終わりを描いて見せたW'z《ウィズ》がなかなかだったけど、一期忘れていてちょっと私の理解度が低い。駅伝小説原作の風が強く吹いている、もかなりクオリティの高い作品だったし、荒野のコトブキ飛行隊は立て板に水のような会話劇が逆に話が入ってこない感じがあったけれど空戦の出来はすさまじかった。

いろいろあった作品
けものフレンズ2
さまざまなトラブルを抱えて放送された二期。やっぱり二話の遊具のくだりに問題点が象徴的に現われてると思う。ホモルーデンスとしての人間ていうテーマはいいけど、それが人間の既知の遊びを教える形になってて、二話ではバラバラの部品を集めて組み上げる、というその場の課題と解決の過程よりも遊具が優先されてしまう。部品をみんなで集めて絵の通りに組み上げる、というそれ自体として面白くなりそうな遊びを無視して、人間の遊具という「既にある形」が優先される。全体にこういう決まった形をなぞってる感が強くて、結局放送枠が決まっているという外的事情がそのまま作品内容にダイレクトに反映されてる感がある。そして九話、とにかく場面の展開がガタガタだけど、最も古くに家畜化された動物といわれるイエイヌを通して人間のための動物という動物園の邪悪さの側面を強調しているの、パークというものの欺瞞性を炙り出す視点で、これで完成度が高ければまた別の評価もあったかなあと思う。人間の言うことを聞くのが喜びで人間を守るために傷つき人間の言うことを聞いて孤独に帰る「忠犬」の美談のグロテスクさ。一期は人間が消えたパーク、という状況で自由さや解放感があって、それがあの世界観を生んでたけど、二期はより直截に人間のための動物が人間を失ったその後の惨さが描かれる。最終話、人間の生み出した創り出したものの後始末をいかにつけるか、というパークとスケッチの二重性というメタな問いがあり。人が捨てた場所を自分の居場所として生きていくという人の、責任の取り方についての話でもあった……。まんまこの作品のことじゃねえか。災厄もイエイヌも人がここを捨てたことから生まれているわけだし、パークあるいは一期をヒトがうち捨てたという批判とも読める気はする。いやしかし、出来はどうにも。え?という展開場面の多さは目も当てられないし、どうにも無神経で不用意なところがたくさんあって、二度見たいという気分にはならない。かといって猛烈に叩く側にも乗れないものがあった。

春(4-6月)

八月のシンデレラナイン
女子野球を題材にしたゲーム原作のアニメ。このクールで最も面白くそして最も作画が不安定なアニメだった。一話は女子硬式野球部を作ろうとするところから始まるんだけれど、未経験者が草野球で子供たちと試合をしながら、ボールを繋いで「野球」が立ち上がる感触がよかった。部の立ち上げだけに。唇や目などややハイコストなキャラデザは不安定だけどつくりは真面目で、制作環境は相当悪かったらしいんだけど、とても良い作品だったことにかわりはない。女子ゆえに、男子のような甲子園という道がなく、一端は野球を諦めた翼という主人公がまたもう一度野球を始める青春物語で、この点では過去女子野球はここで終わりと思っていた翼とクラブチームからプロへの道を目指す東雲の過去現在の明暗が描かれていた。終わったと思った翼と「終わりは私が決める」東雲の対比と、声かけをして、あのときの翼と同じやり方でムードを作っていく東雲という順接が交錯してとてもいい。六話では、勉強が苦手な翼と野球素人の智恵、普通はお互い教えたりしあう関係でいいはずだけど、親友ゆえの甘さから身を引き剥がして、戦友という厳しさだけの関係もそれはそれでありなはずだけど、より難しいいいとこ取りをしようっていう「これからの私たち」の覚悟と挑戦。あなたと私、の友達という共同性に甘んずることを潔しとせずそれを一端否定して、さらに戦友としてというのも否定して、最後にその否定をさらに否定して、ゼロに戻すのではなくその道筋や二人の感情を肯定しつつ既存のどの関係でもなくこれからの二人だけの「私たち」をやるんだというのが良かった。七話は、家庭の事情もあって居場所と笑顔を失っていく倉敷を見つめる九十九が奔走して彼女に居場所を取り戻させることで、表情筋が死んでることに悩んでいる九十九自身にも笑顔が訪れ、さらにはEDで翼にもよりいっそうの笑顔が広がっている筋道が鮮やかすぎた。九十九が倉敷はみんなといると楽しそうだという時に視線を横に外すけど、その方向は倉敷のように真っ赤な夕陽がある。前回は白く輝く太陽のもとで抱き合う二人と、今回は夕陽を挾んで向き合う二人と、対照的とも言える構図での二人のエピソードを連発してきて圧巻だった。「笑顔の迷子」というサブタイトルも見事だ。十話、最初の部員でもある茜の存在は絵的にも話的にも作品の重要なポイントで、メインが11人なのはスタメン落ちのメンバーから野球を描くためでもあって、立ち上げメンバーが実力的に劣っても、翼にとっての「翼」でもある。練習試合最初の勝利がスタメンでもないコーチャーを軸に描かれるという構成はなかなか今作らしい特色だろう。茜の裏主人公ぶりがきわだっている。12話、楽しくやろうと神宮寺に好きな気持ちを再確認させてチームがまとまるくだり、翼が捕って智恵が繋げたのを神宮寺が笑顔で見る場面、転んでまでフライ捕球する茜、一話からの流れが収束して、OPからずっと見る側だった初瀬が終に手をさしのべられるラストが素晴らしい。見る側からグラウンドへ、が螺旋的に反復される。初瀬の立ち位置は観客からプレイヤーへ、という視聴者も重ねたもので、野球をやろうという一貫した構成だろう。ひまわりが消えた九月は、八月の来年また新しいメンバーとともに咲く予感に満ちている。

●ひとりぼっちの○○生活
三ツ星カラーズのアニメの終わり際に予告されていたカツヲの別の連載漫画のアニメ化、配信でちょろっと読んだことがあって、四コマの原作的に30分向きではないんじゃないかなって思ったけど、小学生の三人組と街の人々を描いたカラーズに対して、ぼっち中学生が友達を作る話、かなり良かった。主役の森下千咲、声に花澤香菜っぽさと久野美咲っぽさが混在してる印象がある。主人公一里ぼっちは人付き合いに難がありすぎて、面接での失敗によって小学生の頃の親友と別の学校になってしまい、このままではぼっちはダメになる、とその親友からクラスメイト全員と友達になるまでは絶交だ、と言われたことから中学で友達を作り始めるという話。まだ子供だから友達との関係が世界の全てで、でもその半分を失ってたった一人で自分の世界を組み換えていかなければならない一里ぼっち、その世界の狭さゆえに七話の嗚咽が真に迫る。八話は、外国から忍者に憧れて日本に来て、一人で暮らしているソトカの帰宅に「外からおかえり」の多重ミーニングのラストカットが不意打ち過ぎてびっくりした。今期のサブタイ選手権有力候補だ。九話は、友達という、普通はなんとなくな感じでできていくものを、それが普通にできないからなぜそうなのかを根っこから明らかにし違いを理解した上で関係を構築していく不器用さ故のラディカルさがある。自然なコミュニケーションも当然ありうるんだけど、ぼっちたちはそれをきちんと言葉にする、伝える、ということをとても大事にしている話になってて、10話の手裏剣に仕込まれた文章とか、めちゃくちゃ「メッセージ」性が強い。共依存からの脱却をめざし自分で色んな人とのつながりを作ることによる自立を展開していく話も進級で区切りの良い最終回を迎えた。夢みたいっていった後にまるで夢で見たような景色という歌詞を重ねてくる最終話の演出。ゲロという出会いの切っ掛けからまた始まる二年生だ。良い作品だった。三ツ星カラーズとは別角度の友達を描いたカツヲアニメ、花田十輝の友達アニメ、はるかなレシーブのスタジオの元請け二作目。ED、演出も曲も雰囲気が良い。

●フリージ
アラブ首長国連邦のCGアニメ。今年最大のダークホースともいうべき作品。現地では2006年から放送されていたものを、2クール30分アニメに再編集、翻訳しての日本での展開。フリージというアニメを一言で形容すると、「暴力」。十数年まえの海外作品ということからくる異文化の感触は霊剣山等の中華アニメを彷彿とさせるものがあり、食人部族が出てくる回などいろいろな意味でパンチあふれるアナーキーな脚本が何はともあれ視聴者に圧倒的なインパクトを残す。現代的洗練が置き去りにしてきた物語における野蛮、という感じだ。「急激な発展を遂げる都市」ドバイで暮らす四人のおばあちゃんが近代化の波にさらされながら、古き良き伝統を重んじて生きる日々のドタバタを描くという触れ込みで、確かにおばあちゃんたちはイスラムのマスクをかぶって時に伝統を云々しながら生きてるんだけれど、作品に満ちあふれているのは圧倒的な暴力性で、ドバイがフリージのイメージで塗り込められてしまうのは良かったのかどうか。一話から親を老人ホームに突っ込んでニセ葬式を上げるのもひどいけど施設を逃げてきた老婆にコーヒーがまずいと言われて爆殺しようとするのはさらに酷いし、二話も違法花火を勝手に置いて競合する商店主を牢屋にぶち込んだり、鉄道路線にともなう立ち退き料を搾取するために家を取り替える詐欺の後半と凄い。巨大ショッピングモールが建ち、鉄道が敷設される展開、下町文化というか近代化途上で消えつつある庶民生活のノスタルジーだと思うけど、オマケの実写ドバイ紹介コーナーがドバイモールの紹介なのとこのアニメの海外展開はまさにその経済的発展が消し行く文化を包んでる感じでアイロニーがすごい。五話では砂漠の部族の生け贄カニバリズムネタというかなり倫理感がヤバイネタが突っ込まれてきて、しかもその親玉が実母で本気の殺意を向けられている。四人のうちの一人が認知症風なのもギリギリ、というか。ギリギリでも何でもないか。19話、ツケで売っている店を一方的に悪と見なした上で帳簿の奪取を試みたばかりか最終的に爆破してしまうのも凄すぎる。サブタイトルが「革命」。23話でも水タバコ工場を爆破してるからね。25話は成立してるのか謎な超展開と、軽くしようと気球から平然と友人を放り落とす二重の暴力がごったに襲ってくる。最終回、開発・資本主義と対比される伝統的庶民生活のおばあさんを描いてきた作品で、古代遺跡が見つかることで地上げ開発が頓挫するというのは納得感がある。失われていく古い生活がさらに古い古代遺跡によって守られるわけだ。そこにラブドバイで中東初の万博による発展の加速をというのは皮肉かと思うけど建築デザインなどには確かに伝統が見える。いやはや、ここに書いたのはごく一部で、ロジックが通った平和なアニメばかりを見ている身には毎回マジかよっていう展開が襲ってくるアニメだった。ある登場人物のモデルは作者の祖母で、アブード君という少年とのエピソードや、家族関係のしっとりした話もあったりするんだけど、やはり印象に残るのは暴力……。暴力性すなわち生への活力。四人の女性の日常を描くのできららアニメ好きにもオススメしていいはずだ。なお、ニコニコ動画やabemaTVでいまでも全話無料で試聴できる。

ぼくたちは勉強ができない
今年一期と二期で分割2クール放送されたジャンプ連載ラブコメ漫画原作アニメ。ここで二期分まとめて。勉強ができる秀才の主人公成幸が、学校でも天才として知られる二人の少女の教育係を任されるんだけれど、その二人はそれぞれの得意分野と真逆の分野への志望をしていた、という導入で、文系の文乃、理系の理珠、そして体育系のうるか、というヒロインたちと、勉強とラブをやっていくわけだけれど、設定としては五等分の花嫁と似ている。それはともかく、今作は不得意分野と志望にかかわる夢の話とともに、ご都合主義展開、偶然のトラブルといったアクシデントをガンガンおこしてバカみたいな展開を経ながら強引に話を作っていくトンチキ具合がかなり楽しくて、一期の八話とか、前半の展開全部に嘘でしょ?と言いながら見てて、笑うしかなかった。開始数分で全員風呂で勉強する、という頭悪そうな状況作るのもさることながら、キャラにお互いの妄想をさせる舞台設定になっているの豪腕が過ぎる。そんなんあるか?みたいな偶然とラブコメ王道展開をガンガン燃料にして突っ走る爽快さ。13話、文乃の星への思いを聞いたあとに、窓の星から視線を降ろすと成幸にはやりたいことのない自分の顔が窓に見えているっていう。主人公も、秀才だけど本気になれるものがないことが、不得意だけども夢を目指すヒロイン達への敬意になっていて、ここら辺の按配がいい。豪腕でご都合なシチュエーションを準備したうえで展開されるのたいがい意地を張る話なんだけど、意地というのは志の高さでもあって、各人のそれを見ることで主人公も相手への敬意を育てるっていう、爽やかな設計が上手いと思った。二期八話の、真冬先生、成幸、うるか、という教える教えられるのラインがあって、教えるということは相手に自立を促して別れることでもあるというのがうるかの決意で浮かび上がるところが印象的。一期と二期でともに最後は文乃の話になるんだけど、二期10話は、文乃の亡き母が残したPCのパスワードについて、父は自分自身が見えていなかったから、娘も父と向き合うことを避けていたから、父自身を指すパスワードが解けなかった話で、あまりにも大きい光を失って前が見えなくなると再び光を見つけ出すには十年という時間がかかる、そういう二人の話だった。理珠大好き関城さんが良いキャラ。二期最終話、Cパートはびっくりした。仰げば尊しかかる直前で終えれば綺麗じゃない? いやしかし、ひとり国外へ旅立つうるかに花火の夜の手というつながりがあることはキャラバランスを均衡させる一解決ではあるかもしれん。アニメの三期はないというラスト。みんなに勉強を教えた成幸もまた「ぼくたちは勉強ができない」過去でタイトルを回収して、面接試験に合格するのと、あいだすっ飛ばしたけど各人の報われる瞬間が描かれていたのは良かった。豪腕の展開に時折どうかという点もあったけれども、概ねバカでエロでそして真面目でもあるラブコメとして今年とりわけ楽しい一作だった。一期のOPが曲、作画ともに素晴らしい。

●超可動ガール1/6
双葉社の作品三つをアニメ化した枠のひとつ、OYSTERによる漫画原作でふたばにめのなかでも特に良かった一作。あるアニメマニアの主人公が買ってきた六分の一スケールのフィギュアが突然動き出して、という作品で、俺嫁オタク、同人誌、メタフィクション、こてこてのオタクセンスで全篇貫かれていて、一昔前の懐かしさがある。フレームアームズガールのCG制作してたところが作ってるけど、FAGで非オタクの女性を主人公にするというものから取り残された、フィクションへの態度というオタクの倫理性みたいなのがテーマになってるの、やはり懐かしのオタク漫画という感じだ。CGパート作ってたところが元請けとなって全体を作りつつ、フィギュアのフェティッシュとそれを愛好する人間のフィクションの境界を挾んだ話作ってくるのがなんとも面白い。フィクションへの愛が、フィクションのなかの犠牲者をも救わんとする創作へと行き着く愛の話。やらなくていいことをやろう、というセリフがあったけれど、原作者同じ新婚のいろはさんという漫画でも漫画家の主人公が「余計なものは大事なんだ」「必要ないものは、要るんだ」と言ってて、この作者はオタク趣味とは何かというものが底流にあって、超可動ガールと設定の部品を入れ替えたような愛と虚構の話になってるのも興味深い。全四巻の漫画をかなり詰め詰めでアニメ化していて、テンポも良く、新人の声優の演技がロボットの声としてハマっていたのも良かった。超可動ガール1/6完結、原作続篇超可動ガールズに続く。原作は全部読んで、ガールズはまだ読んでない。

●KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-
プリティーリズムレインボーライブの男性アイドルスピンオフとしてのキンプリ、キンプラ、そして今作、とRLシリーズが続いていることがなんとも嬉しくはある。キンプリキンプラは無料配信で一応見たんだけど、数年明けて一度ずつなので、あまり細かく理解しているとはとても言えない。映画はただ炸裂的なエンタメ力に圧倒される。そこにレインボーライブの続篇としてのキャラが出て来て、ぐっと来るポイントが差し込まれてる。これも一話から、風呂風呂風呂そして急展開と異常な絵面、暴力みたいなアニメだった。七話は、りんねみおんにドロシーレオナのプリパラ・RL勢が再登場してくる感のなかでなりたい自分になる回。プリパラのドロレオこそ男っぽいと女っぽいが逆転してる二人のような姉というフリからおとはのライブ。シリーズ全部の延長にあるような回だ。九話、あのとき黒川冷は浮いていたんだ、のカットはレインボーライブ名場面の一つできっちりその場面持ってくるの笑った。衝撃的だったよあれは。10話はいろいろ凄かった。プリズムの使者の設定をここで回収してくるとか、ペアチアとかプリズムツアーズの座席とか、これまでのシリーズの帳尻あわせてくる勢い。ちゃんとシリーズの続篇なんだな。12話の最終回は高田馬場ジョージ優勝で笑った。こいつ優勝でもいいかと思わせる布石は確かに打っていた。レインボーライブの初代OPボーイミーツガールで締めるの、RLからSSSで一つの大きな大団円を作った感じだけど普通に次回予告流して終わらせる気がまったくない。

●叛逆性ミリオンアーサー
ミリオンアーサー関連の一つで、1クール目は去年やってた分割2クール目。すぐ脱ぐ団長とかをはじめ、いい温度感のバカアニメをやっててくれるアニメで、なかなか良かったと思うけど、特に話題にもならなかった印象がある。精霊と合体して強くなる、という展開から合体だから釣りバカ日誌パロをやったと思ったららんまの呪泉郷ネタからの男性陣の性転換とかハチャメチャしたり、料理の鉄人パロディをやって、孤児院で育ったから贅沢すぎる料理はピンとこないかもというのをオチにうまくつなげた15話とか、頭身、南ブリとかキャプ翼パロやり始めたかと思ったらコンテマンが元ネタ分からないので必殺シュートは適当ですとかでてきた17話も笑った。しかしミリオンアーサー、実在性なり弱酸性なり叛逆性なり、メディアミックス企画がどれも頭おかしい感じなのすごい。ORESAMAのOPも、EDも良かった。

四月一日さん家の
Vtuberが演者としてCGドラマをやる、というフィクション性が奇妙な建付になってる三姉妹のCGホームコメディドラマ。これが案外面白い。しっかり作られてて、視聴感としてはバーチャルさんよりアドリブ抜きのダテコー作品に近い。「深夜テレビでやってて何だこれと思いながらつい見ちゃうドラマ」っぽさ。のっけから父親の一周忌いうネタをぶち込んでくる一話。両親亡くした三姉妹の長女のプレッシャーと遺書っていうわりと笑えない話を笑い声演出とかでギャグにしている温度感。アニメでこういう作品あるっけ? アニメとは違うところに入ってくる感じ。34で母親が、50で父親が死ぬのわりとリアルに厳しい。だから声優という「普通じゃない」職業で食っていくということとそれを肯定することに生々しい重みがある。Vtuberが芝居で声優アイドルミュージシャンを普通じゃないと言うダイレクトなメタさも重なってるところ。11話は、婚約者のケンたんの来訪がいつまでも遅れていく宙吊りの時間感覚が、母もなく父も亡くなり次女も結婚で家を出るという、家から家族が一人一人出て行くまでの猶予の時間という本作のつくりと重なって、もう終わるんだなという感慨が特に強い回だった。遅延する時間、だから亀が歩いてる。最終話、ケンたんからの電話は入るし、最後の晩餐は朝食も食べてしまって決まらないし、アルマゲドンも最後まで見てないし、家を出たと思ったらネタの予行演習で家に戻るし、つねにクライマックスがハシゴを外される遅延と脱臼のホームコメディらしい最終回。

●賢者の孫
アンジュヴィエルジュつうかあの田村正文監督の異世界ものなろう系小説のアニメ化。事故で死んだサラリーマンが異世界で赤子に転生し賢者に拾われ、世間知らずだけど規格外な強さだった、という話で、異世界スマホをトンチキ度上げたような感触があって、バカバカしく、想像を超えて展開が軽いので始終笑ってしまう。変な絵面をぽんぽこ放り込んで、ボケをかなり頻繁に繰り出してくる。コミカルなタッチでお話のご都合感をあえて押し出しながら突っ込みどころを用意しつつ、ところどころのキレのあるアクション作画がなかなか緩急作ってて、だらっとしたアニメにしないように頑張っていた。一話のアクションパートでおお、と思ったんだけど、省略と演出、一瞬の動きの鋭さで動画枚数以上の効果を出している感じ。枚数費やしてグリグリ動かすってのより、メリハリつけてるあたりテレビアニメって感じ。そういうセンスが結構良いのが印象的だった。

ストライクウィッチーズ 501部隊発進しますっ!
スピンオフ四コマ漫画を作画そのままアニメ化したみたいな感じで、なんとも懐かしいメンツ。ラフな絵柄から繰り出されるまさにラフなギャグはずいぶん面白かったし、フリージとタメを張る治安の悪さと暴力が吹き荒れている。コンテ演出が一人でデジタル作画なる役職が一人、コア部分はすごい少人数で作ってるのか、ラフな絵柄の崩しがわりと良い。

ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風
七月で最終回だったけどここで。まあこれはやっぱ面白い。死に到達できないボスに対するいかに困難だろうとも生き抜くジョルノたちの奇妙な運命の対比、というか。過程をショートカットするボスの能力と、今話のローリングストーンズの能力とか、まあすでにいろいろいわれてるだろう。ドッピオの電話のシーンも面白いし、スパイスガールについてトリッシュがひと味違うのね、と小粋なセリフ言うのと、ワナビー!のシャウトにすごい笑ってしまった。なんで殴りながらスパイスガールズのデビュー曲の名前を叫んでるわけ?

メルヘン・メドヘン 最終回
18年冬クールの延期された最終二話が一年ぶりにやっと完結。物語に準・殉じろというのに対し自分たちの物語を、というの、六話だったかのシンデレラは振り向かない、での同じ大テーマから、友達になってという告白の小さな二人の物語に落ち着く終結。物語中毒の子供が物語の枠の外の自分の物語を紡ぐ話だからアニメが未完だったことはまさに物語の中に閉じ込められた状態で、そこから最後、友達になって、という契約に、これからもずっと、というこのさきの未来を示して終えているのがメタ的にも見事に完結したという感がある。

●その他 鬼滅の刃はアクション作画もエフェクトもバリバリで決めてきた終盤が良かった。真夜中のオカルト公務員は、神、妖怪等のアナザーとのわかり合えるわけではない共存のさまざまを描いててなかなか面白かったし、多民族都市新宿が舞台なのも打ち出すところが明確で良く、エヴァン・コールの劇伴も印象的だった。あと川柳少女も良かったですね。八十亀ちゃんかんさつにっきも、元名古屋民として知ってるネタよりも知らないネタが多かったり、エンドロールがスタッフの出身地を記載しているために、名古屋アニメというより、クアラルンプール、ハノイ市、イリノイ州といった地名が出てきて、アニメ制作における国際性が際立つのが面白いところ。

なんともいいかねる
●Fairy gone フェアリーゴーン
PAワークスのオリジナルアニメで分割2クールやったんだけど、結局1クールめで脱落してしまった。画面はリッチで絵はいいんだけど、一話の段階から話が頭に入ってこなくて、ほんとうによくわからないアニメだった。良いも悪いもない。わからなかった。話というか作品として私のなかにいっさい像を結ばなくて、どういう話かまったく説明できない。

●世話やきキツネの仙狐さん
過労労働者をもふもふ狐娘が全力で甘やかすという漫画原作。独身男性の欲しいとされるものを詰め込んだ感をこう丁寧にアニメ化されるとそれはそれでアレだ。四時間睡眠を強いる非人間的職場をそのままに家でだけは安楽を与えてやるというスタンス、まるでフィクションのような存在。仙狐さんは一生お世話する為に労働を奇貨として中野を自分に依存させる闇の者なのかも知れない。動画工房力の発揮されたけもの娘萌えアニメだけど、うーん、なんとも言いかねる。嫌いってんじゃないんだけどいくらでも文句がつけられそうでもあるというか、仙狐さん自身が妻にして母と自己紹介するのおいおいと思わされるし、モフった体を使って癒してるの、これ身も蓋もない言い方すると妻、母、娼婦の三位一体で童女の姿ってのはさすがにどうも。過去エピソードで補強しているけど、仙狐さんが中野のところにくる理由が弱い気がするし(黒モヤを出す体質と過去の出会い、関係あるっけ)、仙狐さんタイムという主観視点がその代替可能性をいっそう強調してしまう。中野はなぜ強いてその会社にいるのかという理由もわからない。作中の描写を読み落としてるかも知れないけど。単純に突然あんなに奉仕などされたら気味が悪いと思うので、そこが私との相性の悪さだとは思う。だからジャス子とシロの、単なる友達みたいな関係のほうが見てて楽しいし連中は楽しそうに生きてるなって思える。メイドラゴンの男二人組みたいな良さがある。

夏(7-9月)

●Re:ステージ! ドリームデイズ♪
アイドルを目指す中学生の少女を描くメディアミックス作品。小説から始まり、声優による楽曲やライブ、ゲームを経てアニメと展開してきたコンテンツで、名前は聞き覚えがある程度だった私はアニメで本格的に触れたわけだけれど、アニメは素晴らしい出来で、アニメの後も楽曲を買ったりゲームに手を出したりしてしまった珍しい作品の一つになった。学校でアイドル部があり、それらが競うという話のコンセプトにはラブライブを思わせるところがあるんだけれど、リ・ステージと題されるとおり、メインチームのキャラクターにはそれぞれにアイドルになろうとして挫折した経験があり、この過去の挫折と現在の仲間たちとの再起と、夢という未来へ向かって、という諦めずに夢を見ることというコンセプトがさまざまに織り込まれた見事な一作だった。小説、ゲーム、アニメでストーリーを担当しているのが冨田頼子、加茂靖子、浦畑達彦というアニメでもしばしば名前を見る脚本家のチームで、アニメの出来を下支えしていたのは一貫してこのチームが物語部分を担ってきたからだろうと思われ、また肝心の楽曲部分では、主人公チームを担当している伊藤翼による楽曲が非常に良いというのがある。放課後のプレアデスのED曲の編曲者だったというのを知って、なるほどと思った。アニメ本篇は一話で音楽少女を思わせるところがあって、これはどうなるかと思っていたら、こちらはあれほど規格外な感じではなく着実かつ堅実に作られていて、各回で作画によるダンスパートを描いたり、適度に崩したデフォルメ感でコミカルに描いたり、作品としての安定感や全体の雰囲気が良く、その堅実性で非常に出来が良い。二話での、ただ数歩のステージへの階段を登るだけの場面が印象的だったり、作中で舞菜と紗由というメインの二人が出会うきっかけになった楽曲が、別の登場人物、香澄の声をボーカロイドとして利用したもので、街にあふれる自分のものではない自分の声に消えた夢を、あなたの声で、という言葉で取り戻す三話や、「もう遅い」と繰り返す実のそれを否定して、振り出しに戻るオチで何度でも始められることを強調したり、本当に何度でも始めるということを繰り返し強調するアニメで、九話では子供っぽい夢は大人になれば諦めていくという態度に対して、「ずっとはずっとだよ」と未来への確信を返すやりとりが印象的でもあった。11話は特に、強敵ステラマリスに対してこのままでは勝てない、という諦念を振り払って、再ステージには曲の再生リメイクを用意し、歌詞もまた物語の再開で彩って、どこまでもコンセプチュアルな演出をしてくるのが圧巻だった。完成したステラマリスに対して、何度でもやり直す未完成ゆえの規格外で勝負をかける。最初の楽曲、キラメキFutureはOvertuRe:として再ステージするわけだけど、最後にReがつくという点ではFutureもそうだし、憧れFuture Signもだし、そしてOvertuRe:の最後は出会いのきっかけのミライkeyノートの振り付けを持ってきてて、未来と再び、という言葉が強く結びついてる。過去に対してだけではなくて、未来もまた再び過去につながるルートがすでに敷かれてるわけだ。OvertuRe:の振り付けが最後ミライkeyノートに帰着するの、舞菜と紗由の出会いとともに香澄の過去の肯定でもあって、今話の重心はすべてここに掛かっている気さえする。未来も今、過去につながる。OvertuRe:とミライkeyノートを続けて聴くと壁と扉のモチーフもまた繋がっていて、壁を扉に変える鍵こそがミライkeyノートだということがわかり、一話の出会いへと繋がる。最終回でも、EDでメンバーが高尾山から見てたのは、さらなる高峰富士山という頂上だったことがわかり、最終回の最後のライブで舞菜が言う「私たちの夢の始まり」、で第一話冒頭につながる構成もよくて、この物語の始まりへの回帰とともに、この次への新たな段階でもあって、高尾山が舞台なのもそこから富士山を望むのも、夢への道のりは螺旋状に高峰を登ることそのものだからだ。ゲームは苦手なのであんまりやってないけれども、各ユニットのアルバムはちょろちょろ集めて聴いている。とりわけ、主人公チーム、KiRaReの1stアルバム「キラリズム」は今年一番聴いたアルバムで、アニメを見た後に聴くとその曲順にアニメと同様のリステージのコンセプトが埋め込まれていて素晴らしい。キャラクターソングではかえのガジェットはプリンセス、がとても良い。

●まちカドまぞく
覚醒した魔族と魔法少女という敵対的な関係の少女同士の不思議な関係を描くきらら系四コマ漫画原作。アニメの前に一巻は読んでいたけれど、独特の台詞回しと凝った作りの漫画を、桜井弘明監督による怒濤のように進むテンポ感で描いていて半端ない。情報量の多い原作を画面に小物やらを出すのが好きな桜井弘明演出で描くとなるほどこうなるかという感触で、小気味よい騒々しさがある。シャミ子役の小原好美劇場の感があるアニメで、桃の鬼頭明里(リステージの紗由でもある)もどっちも声が低めでなかなかいい。川とその橋や電車という対岸と此岸を繋ぐモチーフが反復されていて、魔族と魔法少女の関係がさまざまな因縁や力の均衡が相互にさまざまに変化していく。後半になるにしたがってオモシロとシリアスがぎゅんぎゅんに絡まりながら、日常とその土台の真相が明かされていって、魔族になったことの呪いと救済、バリバリ過去が開示されて宿敵が命の恩人の妹とか父の仇とかになる複雑な関係性がある。原作二巻までのアニメ化で、三巻で結構な山場があるらしく、まあそれは原作買ってあるからそのうち読む。OP、ED曲がとても良く、特にOPは二人のカップリング名みたいなユニット曲でバリバリの百合ソングでビビる。

●魔王様、リトライ!
小説家になろうで発表された、ふと気づくと自分の関わっているゲーム世界に転生していて、という異世界ものの一種なんだけれど、津田健次郎が安いオタクネタ喋ったり、作画の甘さとか展開の軽さとかオ・ウンゴールって人名だとかヤホーという街だとかすべてが冗談じみていて総体として楽しいところしかないアニメになっているのが素晴らしい。二話とか、専務からシェンムーの話になるのこれいつの作品だよと思ったら予告でその話しやがる。面白センスの才覚に関しては他の追随を許さないところがあって、マウント・フジのほか、ユートピア様、貴族ドナドナ、戦士マーシャル・アーツ等、やはり名前がすごい。酒場「ノマノマ」店主「イエイ」とか、デラックスな感じの人が社交界の重鎮「エビフライ・バタフライ」で、夜の蝶的なニュアンスとちょっと高い揚げ物という高級感と安っぽさがある。ネーミングの適当さとかに顕著だけど、中二的なものに対して全然思い入れがなさそう。うちの娘の為ならば、のデイルより子供への対応に適切な距離感を持っていて、大人としてちゃんとしているのとか、妙に感覚にまともなところがあったりして、不思議。不思議な魅力のあるアニメというより、不思議な魅力しかないアニメだった。見ている間の楽しさでいえばかなりのものがあった。

●グランベルム
Nexus制作、渡邊政治監督、花田十輝構成、アニメーター等わかばガールスタッフとリゼロのキャラデザで作られたオリジナルロボットアニメ。メカメカしいCGを動かしまくる最近のロボものに対してデフォルメ体型にして手描きでやる、というのがこの作らしいところ。新月と満月という対になってる名前を持つ二人が出会い、共闘関係を築き、グランベルムという戦いを勝ち抜いて願いを叶える、という、fateまどマギウィクロスメルヘンメドヘンなどを思い出させる百合アニメで、新月の幼馴染みでもあるアンナが劣等感をこじらせて憎悪をたぎらせ、新月に執拗に絡み続ける、ミス・ルサンチマンとか言われてしまうのはなかなか凄かった。アンナや姉妹や創造主と被造物などのさまざまな百合関係を配置して、さまざまな対の要素を対比、逆転させながら語っていくアニメに見え、一緒だったり一人だったり手作りだったりコンビニで買ったり、食事を重要なモチーフに使う手法も印象的で、作画も演出も非常に丁寧に作られていたんだけれど、それ故にどこか息苦しさもあるとは思った。魔王様リトライみたいな軽さがない。最後は、大事な物ボロボロこぼしながら、のEDの歌詞の通り自分自身も犠牲にして願った世界のなかに、作り物だとしてもそこには確かに意思が生まれる、映し鏡はそれ以上のものになる、という通り、微かな希望が差しこむラスト。魔力は消えて、魔法という奇跡の別名になった。

●ソウナンですか?
山賊ダイアリーが知られるけど私は読んだことない兼業猟師の人が原作を担当している女子高生無人島漂流サバイバル漫画原作。現代の若者が虫を食ったり靴下で絞った水を飲んだりするサバイバル生活にいかに適応していくかというコメディタッチの知識漫画でもあるんだけれど、女子四人で半裸で水に潜ったり、お色気描写がからっとしているところがある。あんまり原作者に百合への興味がなさそうなんだけど、それ故にたまにとんでもないものが出てくることがある。漫画でも衝撃だった肛門から水分補給がアニメ最終回でもやっていたけれど、これが本当にインパクト大だった。汚水を口で飲むよりは肛門に入れてそこから吸収する方が安全らしいんだけど、それを口に含んで肛門に汚水を入れる、という極限状況。どんなことをしてでも「生きる」、この言葉が強く沁みるEDだった。この回、原作でのサブタイトルが「おかえり」なんだけど、なぜ島へ帰還する「ただいま」ではなく「おかえり」なのか、やっぱり肛門から出たものが肛門に戻るからだと思うんですよね。それと漂流(出る)と帰還(戻す)が重ねられているわけですよね。「この世界は残酷だけど 生きる 生きるんだ 夢中で」のED曲安野希世乃「生きる」を改めて名曲じゃんとか思いながらフルバージョン聴いてたら、「おかえり」ってフレーズにもう最終回の水分補給のことしか出てこなくなってしまった。ちなみにこの曲の収録アルバムの題も「おかえり」だった。原作者と作画が別人なことによって、美少女風の絵柄とは違う感触の話が展開されるところが原作の面白み。

●変態でも可愛ければ好きになってくれますか?
下野紘主演、ラノベ原作ハーレムラブコメアニメという懐かしさすらある一作で、それぞれのヒロインがドSだったりドMだったりBL趣味だったり匂いフェチだったりというラブコメで、いまざきいつき監督による構図、アングルがかなり特徴的。手前に何かを置いて向こうを映すナメのカットやら、ロングとアップの多用というコンテ、なかなかに不思議で不穏な感じだけど、柱と合わせると近くて遠いっていう感触もあり、構図やレイアウトの面では一番に挑戦的なアニメだった。ラジオでゲストに来た監督によると、全話数コンテやレイアウトはおろか、カッティングやらセリフのテンポ感を示すためにセリフを仮読みしたものを監督自身がやっているらしく、めちゃくちゃ監督の色がでてるアニメになってるみたいだ。七話、「変態」を理由に迫られる慧輝と、ロリコンという「変態」を理由に告白を一端は断った翔真で、本篇のテーマを別の形で凝縮して後半への橋渡しとなるいい話だったけど、これ「変態」性は乗り越えるもの、となりかねない気もした。ストーキングと盗撮趣味もちゃんと開示して「本当の私」を見せた小春の話、慧輝が翔馬に言った「そんなバカな理由で」断るなんて許されるのか、ということが見事に自分に返ってくるわけで、いい構成だ。11話で、妹からの告白に対し、ロリコンだからと告白拒絶した翔馬を「そんなバカな理由で」と難じた慧輝にとって妹だからというのは「そんなバカな理由」なのかどうかが問われるクライマックスで、最終回では家族を失って新たに得た新しい家族だからこそ好きになったという瑞葉の理由付けに対して、ずっと兄という家族でいようという慧輝の決心が対応してしまっているがゆえに、瑞葉の恋愛感情は切り捨てられるしかない。これで全ヒロインが同列のスタートラインに立った第一部完、という感じだ。慧輝君の「変態」性を拒否する態度はアレだけど。

ダンベル何キロ持てる?
女子高生筋トレ漫画原作。OPもEDもネタ力が高く耳に残る。原作をちらっと見ると、体型やら服の上から見える局部描写などがけっこう露骨なのでそこらへんをうまく丸めてあるアニメの方が見やすい。トレーニングにかこつけてとにかく身体のエロさをずっと映してるアニメだ。それであまり下品にならないのはうまいことやったと思う。雨宮天もインタビューで「原作だと恥ずかしげに体を隠す絵だったりするところ、アニメだと自信満々に体を見せる!みたいな感じになってるんです」と言っていた。去年のウザメイドといい、動画工房はなにか筋肉に取り憑かれた人でもいるんだろうかと思いつつ、筋トレについての知識アニメで、毎回色んな筋トレが紹介されて、作中のジムでしかできないものに限らず家でも出来るようなトレーニングを教えてくれて視聴者にも実践を誘う作品。EDのセンスが私に天使が舞い降りた、のEDみたいだなって思ってたら、絵コンテ演出背景撮影が桒野貴文で両方同じ人だった。しかし新人ファイルーズあいがすべてをかっ攫っていった観がある。声も演技も本人のキャラクターも強い。

●荒ぶる季節の乙女どもよ。
岡田麿里が原作を務める漫画が原作。文芸部の女子を主要人物にして、高校生の性への関心を描くアニメで、荒ぶる季節とは思春期のことで乙女は処女、つまり思春期の処女っていうひどく身も蓋もない文言を婉曲表現しているタイトルになっている。一話で青春の暴走としてトレイントレインを流して、性行為の暗喩として電車がトンネルへ進入する描写の下ネタぶりが笑ってしまったけれど、泉の自慰行為を覗いてしまった後の対処にしても告白場面のぞき見にしても、和紗は性への興味に振り回されて一人の人間としてより先に性的な側面ばかりを見ているセクハラ的思考に染まっている描写がされていて、これは部長のギャルに対する態度や男子に対する態度もそうだった。幼馴染み男子泉君のほうが性的に潔癖なのが少年らしいと思った。終盤、妊娠したことで退学させられる同級生、生徒もまた一人の人間と言うことを認めない学校を占拠の抵抗運動が、お互いの認識の差を色という主観を通して言葉で共有させながら青から白へと時間経過を重ねて、純白を自分たちの色で染め上げるカラフルなラストが良かった。この学生運動的な題材と学校に落書きするの、やはりまなびストレートを思い起こさせる。

●女子高生の無駄づかい
原作は漫画。タイトルにちょっとうわっと思うけどまあそれはいいとして、聞き覚えのある声がバンバン聞こえてくるし赤﨑千夏と長縄まりあが面白かった。主役は戸松遥豊崎愛生、赤﨑千夏のトリオ。今年はなんか豊崎愛生が印象的だな。女子高生版男子高校生の日常って感じもあるけど、男子高校生の日常自体が女子高生の日常ものの向こうを張った作品だし、これだと何回捻ってるんだという表現になるな。原作はちょっと読んでも、こう、なんかあんまり好感持てなくて読む気は起こらない作品だったりするんだけども。なんだかんだ楽しい作品ではあった。アニメの作りが良かったような気もする。11話、数少ないファンを持つものとこれから送り手になることを目指す創作者同士の話を真摯にやりきったのはびっくりしたけれど、これが原作者自身をモチーフにしていることを知ると、バカを散々ネタにしたのに自分だけはギャグにしないのかよっていう違和感も募った。ラジオで戸松遥が子供の頃、なぜか女体を描きたくて女子数人の入浴シーンを描いてたら親に見られた、という話をしていて笑った。荒ぶる季節だったのかな。

Dr.STONE
ジャンプ漫画原作で、突如人間が石化して五千年を経て石化が解けた千空という科学の天才が主人公になって、文明が消えた世界で科学の力でサバイバルするアニメ。ソウナン、アストラ、これと同時期にサバイバル漫画がいくつもアニメになったのが面白い。子供心をくすぐる科学と実験、科学館をアニメにしたような面白さはさすがで、原始的社会で呪術思考がほとんどなかったり、歴史性や人文的要素が薄くて科学技術偏重に気になるところはあれども面白い。父親と息子、村の秘密が絡んだ17話あたりからの盛り上がりが最終話のレコードに帰着する時を超えた親子の繋がり。父子、男と男、少年漫画らしい組み立て。それゆえ、22話で「ホモネタ」に吐く描写においおいと思ってたら最後にマジの男から男への「好き」発言で締めるのは偏見を裏返すなかなかのギミックだとは思うものの、これはこれで自分たちだけを特権化してるだけのようにも思えて、難しいなとも思った。少年漫画を逆手にとった展開とも思うけど。

炎炎ノ消防隊
漫画原作。人体発火現象で突然人が燃え死ぬ世界を舞台に、特殊消防隊という消化・鎮魂を任務とする人々が、その現象の原因に人為があるということを探っていく。ボンズかと思ったらデイヴィッドプロダクションだったんだけど、背景から動きまで画面がやたらリッチで、炎や消防服のラインといった光学エフェクトが非常に映えるのがアニメにする利点として機能していて見てて楽しい。話はちょっと内輪もめが多かった気がしないでもないんだけど、終盤の戦いなど、アクション作画のキレと光と闇の構図など、絵になる場面がたくさんあって、作画が本当に凄いなと思いながら見ていた。

コップクラフト
フルメタルパニックなどの賀東招二によるラノベ原作。異世界人とのバディ刑事もので、刑事のCOPとwitchcraftで、コップクラフト。洋画の刑事物を参照したようなドラマっぽさが堅実な作りだけど、板垣伸監督ミルパンセ制作での独特の画面作りがてーきゅうを思わせて、スタッフブログで「絵は昭和!」といってるの笑ったけど、こういうダイナミックな作画は私も嫌いじゃない。主人公組がそうなように、このアニメも異種族共存の人種差別批判のモチーフがあって、九話などでもレイシストの警官を感情的かつ論理的に問いただす場面は良かった。終盤の政治家関連のエピソードでは、異世界から転移してきた島なのにここから帰れという排外主義政治家、人物的にはヒラリーVSトランプがモデルっぽいけど、他国を植民地化して国籍を勝手に与え日本人として暮らしたあと戦後勝手に国籍を剥奪した日本における朝鮮人を思い出させもする。最後、警官の差別発言の謝罪で終わるの、異世界、異種族共存が基軸にあることをちゃんと強調してくる。しかし、リベラル路線を唱えながら暗殺に手を染める政治家と、排外主義者がじつは話の通じる政治家かも、というのは話としてはわかるけど「現実主義」的な筋書きだな、と思って、また土着文明から来た非文明的な少女を教導する先進国の成人男性という構図も感じるな、と思っていたら、その気になった箇所がそのまま原作者当人のツイッター炎上事件になってて、なんというか。

●その他 戦姫絶唱シンフォギアXV、未来と未来、「だとしても」の切り返し、一期冒頭に還るラスト、まー五期駆け抜けた最終回だった。百合が世界を救う系アニメで五期までやるってのも相当なものだ。五話では舘ひろしと小津映画が好きな久野美咲また逢う日までが聴ける。うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるかも知れない。は、漫画がとても良いと思うんだけど、アニメ自体はラティナの魅力一点突破のつくり。じつはこれはロリコン作品と言うよりはファザコン作品かもとは思った。最高の父親にして最高の恋人という理想の男性に拾われるわけで。ラティナの大人になりたいという願いの内実はデイルの隣に立ちたい、対等の存在になりたいというものなので、既にデイルとラティナの相手への目線は違うという最終回だった。名古屋の八十亀ちゃんの次は九州博多ショートアニメが始まった、博多明太ぴりから子ちゃん。日本以外全部うどんに沈んだり、サバは足が速い、のダブルミーニングを、ゴマサバくんの目の前でゴマサバを食べるというシーンで展開したり、狂気とファンシーが支配する。スタミュ三期も堅実な佳品で良かったですね。

どうかと思ったもの
通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?
ラノベ原作。国の政策による母親との仲を良くしようゲームのなかで超強い能力を得た母親と一緒に冒険みたいなのでも大概上から与えられるものに従順すぎてアレなんだけど、そのうえで親子で他人の毒親折伏してその娘をヒロイン的に攻略するかたちなの、なんといえばいいのか。母親が息子の心を折り続ける去勢アニメーション、これが現代だ。マザコンによるマザコンのための作品という感じで、母親萌えお色気アニメの段階だと業の深い癖だなとは思ってもまあいいかとなるけど毒親ネタに母親万能説で対処するとなると母親萌えが母性賛美に繋がって、その流れで毒親問題をテーマにするものだからとりあわせは最悪ではないだろうか。しかもこの母親と仲良くならないと出られないゲームという設定と背景の内閣府云々が結合すると、国策による保守道徳の強制という激ヤバ案件としか思えなくなってしまう。母という上位者がゲームで優遇されて絶対権威者になってるなか、敵対者が反抗期の子供を叱る、という枠内に押し込められるの、母性と権力が一体化していて正直気持ち悪い。毒親の子が親に謝らせられる展開、かなりキツいよな。頑張れワイズさん。

●彼方のアストラ
未来、惑星キャンプに旅立つはずだった子供たちが、突然宇宙空間に放り出され、サバイバルをしていくことで見えてくる、みんなの秘密や夢を描いていくジュヴナイルSF漫画原作。故郷への帰還を目指し、途中で補給に立ち寄るさまざまな惑星の環境と遭遇し、お互いの絆を深めながら、同時に自分たちを死地に追いやろうとした裏切り者が紛れ込んでいるのではないかという疑心暗鬼にもさらされる、SFミステリの趣もある。ここから最終話の話をするけど、クローンというまがい物、アストラという地球の代わり、それぞれ偽物とされたものが真実を受け入れて新しく自分自身になる、そういう軸をワンクールで綺麗にまとめたSFジュヴナイルとしての完成度はあるとしてもやはり好きじゃない一作。序盤からちょっと違和感を感じていて、五話段階で明確に自分はこれが嫌いだ、と気付いたので、雑駁にでも言語化しておきたい。原作は未読。ひとつには、ギャグもドラマもとってつけたようでわざとらしい感じがしてしまうこと。より短くをモットーとしたらしい原作をさらに削ったりしている故だろうけれども、いろんなものが急で、「愛し方なんか教わってない」と印象的なセリフを言ったキトリーがその後いきなりフニを溺愛しているとか、感情の激発に至るプロセスが足りなくて突然愁嘆場になったような場面も散見される。さらに異星で異性に「私の夢はお嫁さん」というキトリー、最終回でもアリエスの夢が結婚だというのもちょっと微妙な上に、男たちだけで冒険に出かけていくラストの構図がどうにも古くさい。インターセックスの存在も、男と見せかけて違うというネタのための道具か、という印象が残る。惑星間航行可能な未来という感覚が全然なくて、現代人が未来人の張りぼてを着てる感じになってるうえに、いろいろな設定が役割的すぎるところがある。つまりこれって、作品が原作者言うところの最短で物語を語るための、必然性の奴隷になってるところからくる問題なんじゃないか。アストラの真実は、平和という全体主義のためのフィクションだったわけだけれど、皮肉にもフィクションのための全体主義が本作の特性になっていないか、と。あと、ギャグの入れ方にやっぱり違和感があって、わざとらしいという以上に、何か不純な感じがする。最終回の会見の時も、余裕を見せるための内輪ネタでおちゃらけてみせる、ような感じ。ふざけるぜ、ふざけてみせるぜ、というギャグ。ギャグってどっかボケる、バカになってみるという要素があると思うんだけど、今作のギャグってどこか、そういう下らないことも俺はできるんだぜ、というマウント感があってそれがすごく気に障る。感覚的なものだけども、正直作中のいろんな要素にそれを感じる。あと、宇宙船漂流サバイバルというハードな状況に対し、ちょうどいい感じに食糧を補充できる惑星が飛び飛びにあって、というあからさまにご都合主義的な話の進め方をしたり、事態の解決もわりとそれで?というようなリアリティのあり方と、アニメの絵づくりが噛み合ってない感じがある。作品内容に対して画面がキメすぎって思うことがしばしばで、原作は漫画なので絵柄やコマ割りでこのリアリティの伸縮に沿った語り方ができるだろうし、ここはメディアの違いでもあるだろう。ツイッターで原作者が炎上した件は、曲解されてちょっとかわいそうなところはあるけれど、アニメを見ているだけでも作品のジェンダー意識や感覚に違和感を覚える箇所は多々あって、そこらへんは作品から充分わかるでしょ、と思った。

秋(10-12月)

このクールはそもそも年内に終わってないものがいくつかあるので、後で加筆するかも。
神田川JET GIRLS
高木謙一郎プロデューサー、金子ひらく監督、雑破業シリーズ構成で、閃乱カグラヴァルキリードライヴのメンツで何をしたいかがわかりやすい。オリジナルというかそのうち発売されるゲームへの導線というか。アニメはつうかあ、競女&ヴァルキリードライヴマーメイド感。長崎の小島から出て来た主人公が二人乗りのジェットレースの相方を見つける、百合とエロスと青春と。何でもかんでもジェットレースで解決だ、のノリがキッズアニメ的で爽快感がある。つうかあのストイックさとは対照的なエロスを大盛りに盛ったスタイルで、ジェットレースそのものが性的な隠喩として機能しているし、欲望の塊みたいな絵面がでてきて笑うけれども、アニメの作りはなかなか凝っている印象。一話は足の芝居や、手前に人や物を置く奥行きある構図が、胸や尻を描くためだけではないレイアウトで、足踏みと踏み出しという要素や、ミサと凛の隔たりをラストのビームによって一直線に貫く場面に収斂するように組まれてると思える。手前と奥、はレースの基本構図でもある。三話でも心情を真面目なコンテで表現するなかに突如胸ゆらしカットが入ってくる、シリアスとギャグを混在させてくるのに技術を感じる。テクニックがエロのためにも真面目な箇所でも駆使されてて、バカみたいな絵なんだけどバカではできない感じ。机にいる凛と二段ベッドの下で暗いところで本読んでるミサとか明暗の象徴的な構図だし、その後の足の芝居とか梯子を使う顔隠しとか小気味よい。ガード下のシーンも発想がとんでもない。六話のラストも二段ベッドの上下でのメッセージのやりとりが心の近さを表わすの、絵作りが上手い。同じ暗さのなかで相手からの言葉が光る。橋での落涙と間を地面の滲みで表現するの、ジョジョ五部のポルナレフだった。橋の真ん中での和解と撮り直した写真とかも良くて、夕方というのはベッドの上下、陰と陽の交わる時間。まだ最終回まで放送されてないし見てなくて、わりと回ごとに波がある感じはあるんだけど、要所で締めてくるのでなかなか印象が良い。

放課後さいころ倶楽部
アナログ、ボードゲームを題材にした漫画が原作。京都を舞台に、関西弁も織り交ぜながら、少女三人ともう一人を中心に、ゲームをめぐって展開される青春模様。主人公美姫の好きなことが分からないことを迷子として、しかしその有様を肯定し偶然性に身を任せる楽しさを提示する、だからサイコロ、そういう寄り道。ごっこも偶然もゲームの鍵になる概念として出てくる一話から良かった。引っ込み思案で人に怯えがちで孤独にも弱い美姫が周囲の人々と交流を深めながら居場所を見つけていく物語。三話は床下に逃げ込んだ猫を誘いだした美姫が今度はみんなの力を借りて洞窟の奥から記憶の宝物を見つけ出す。人の力を借りつつも最後は自力で前に進まなければ何もつかめない、というお話。最後は子供の頃のような良い笑顔だった。いじめは他人への信頼と自己肯定感が毀損されるので、まわりのフォローもあったうえで自分の決断を通して自信を育てなければならない、というような組み立てか。途中では翠のゲーム作家への夢をフォーカスしていて、九話ではだるまさんが転んだ、をインセンティブ誘導でゲーム的にアップデートし、すべてのゲームは進化の途中だというエミーのセリフに、ゲームの進化とデザイナーとしての成長が重ね合わされていた。翠とエミーがゲーム作家という共通の目標を持つものとしての絆が深まることで美姫の自分には目標がないということが露わになったあとの最終回、美姫の本気の孤独こじらせぶりが闇落ち寸前みたいになっている。最初の迷子の結果、仲間と居場所を見つけて本当に良かった。どんなこともゲームで解決だのノリはキッズアニメぽいけど卓上ゲームはつまりコミュニケーションなので何も間違ってない。しかし、泣く美姫を抱きしめる綾、隣に座るエミーと、大野翠ここですべてにおいて後手後手に回っていてお前は本当に美姫にアプローチするつもりがあるのかと。ないかもしれないけども。ないの? 本当に? Aパートはじめの描写を後半回収してなくて、ここまでの翠の美姫をやたら意識している描写はなんだったのか、匂わせるだけ匂わせて、お前!と思わないでもない。最後はタイトル回収で私たちの放課後さいころ倶楽部はここからだ! 一年生篇、という感。しかしよく見るとEDに全話の要素が網羅されてて良い。原作よりぐっと美少女度を増したキャラデザ、京都風景・関西弁、卓上ゲームをからめた一話完結エピソード、安定感がありいい雰囲気の作品だった。

●慎重勇者~この勇者が俺TUEEEくせに慎重すぎる~
カクヨムで連載の異世界ものラノベ原作。迫井政行、戸田麻衣WHITE FOX装神少女まといスタッフで作られていて、絵柄はまとい感いっぱいで良い。救済難度Sの世界を任された女神リスタルテが召喚した竜宮院聖哉というチートレベルのステータスを持った男は、何でもかんでも慎重に行動するし弱小モンスターでも全力で灰にするといった異様な行動を取っていて、女神リスタはそれに振り回される、というギャグアニメで、聖哉は梅原裕一郎だしゴブスレミーツこのすば感があり、リスタの崩しまくった顔と豊崎愛生のギャグ演技が楽しい一作。四話あたり、豊崎愛生の負担が異常で豊崎劇場一辺倒だと笑わされてもちょっと面白くはないかなと思ってたらメタ階層を使った攻略から論破合戦みたいな戦闘で完封は面白かった。完璧な準備、という概念戦争。ギャグ調で展開するけど、最初の村で敵四天王と出会うという攻略難度Sは伊達ではなく、終盤は急なテンポでどんどん進んでいくのと同時にいつもレディーパーフェクトリーと言っていた聖哉の準備も完全でないまま状況が進行していくギリギリ感が迫り出してきた。聖哉がReady Perfectlyと言わなかったから、be perfect, plz!ってことで二度目の延期になった10話を経て、11話で、聖哉とリスタの過去を描いて猛烈に話畳んできてびっくりした。長いシリーズだし、序盤で終わるものかと思ったら完結するんじゃないかって勢いだ。慎重勇者だから話の構成も慎重だった。リスタと聖哉のそれぞれの性格の振幅とその根っこにあるもの。 魔王の苦しみから人々をいち早く解放したいという拙速と仲間を守りたいという慎重さの根本にはともに人を助けたいのがあり、前世でも女神でも聖哉愛が変わらないリスタ。現れ方は前半と後半で落差が凄いけど、この対比で話作ってる。ベタといえばベタだけど、きっちりやってて、きちんと話がまとめ上げられるとこの手のものでは否応なく評価が上がってしまうな。最終回、イクスフォリアの失敗からの竜宮院聖哉リトライ!の達成、そしてリスタルテ様リトライ!が始まる。最後に聖哉が登場しないのも良くて、最高のOP導入からの聖哉のいい顔とリスタの変顔プレイバック編集がらしくて良かった。しかし慎重勇者のラジオ聞いてたら構成作家が「ぎぶさん」らしく、ぎぶ?と思ってたら喋れば良いのにって言われても作家だからと固辞したらしいやりとりがあって、いやいや、まさか構成作家儀武ゆう子なんてないだろって思ったらマジでそうらしくてびっくりした。最近あんまり見てないなと思ったら、いたのか、そこに、すでに……。終わってみたら抜群に良い印象だったな、俺と「慎」の字が被ってるからかな?

●本好きの下克上
異世界転生なろう系小説原作。本好きの女性が死後転生した世界は本が希少な中世ヨーロッパのような異世界で、そこで本を作るために元世界の知識を生かして商品を開発したり神殿に入ったり成り上がりの手段を模索していく。絵柄や小物の描写など、一部と二部の漫画版がこの手のものでは特に出来が良いと思うのでアニメのキャラデザはちょっとな、と思うけれども、良かったと思う。ただ、この作品、本好きというのが本という物体へのフェティッシュになってて、だからこそ本の希少な時代に本を作るための手段を模索していく面白さがあるんだけど、本好きってそうだっけみたいな違和感が個人的にはある。まあこの世界より本への関心が先行する好奇心の歪さがマインだ。それも四話で本の形が先行していたところで中身が母から聞かされたこの世界の最初の物語っていうのは良かった。八話のマインの中身がマインではないことに気づいたルッツ、マインだと思っていたものがマインでなかったけれども実際にはマインではないものこそ「ルッツのマイン」だったエピソードも印象的。身食いの身で生き延びるには死を選ぶか貴族の妾になるか、となるなかで、ルッツもマインもより厳しい自由を選ぼうとしてる話の12話。ルッツは家族と離れても、マインは家族といるために。そういう流れをぶっ壊す、本が読めるなら神殿関係者になります! 本のためなら家族も捨てかねない勢いで、面白いけど視聴者のマインへの好感度はがた落ちしないかと思ったけど元からこういう奴だった。ED映像、トゥーリ役の中島愛が歌ってて花が舞っているし、これ波に見えるのじつは髪か。髪と同じ緑色だし。EDの曲名も「髪飾りの天使」だ。

●ライフル・イズ・ビューティフル
ビームライフル競技漫画が原作。極小の的を狙うビームライフル競技というマイナー競技のあるあるをネタにしつつ、日常もの四コマのテンポで進んでいくんだけれど、中盤から結構面白くなってて、終盤の全国大会篇あたりになると、なるほどこれは咲-Saki-をやりたいやつだなと分かる百合アニメでもある。一ミリ範囲を狙う競技でわずかな動きが得点を大きく左右するわけで、絵面が地味すぎて挿入歌でなんとか盛り上げる演出に苦労が忍ばれる。後になるにつれて面白くなっていくし、デフォルメも交えた語り口がだんだん馴染んでくるんだけど、特にインパクトあるのが顧問の先生で、高校生に手を出してはいけない、と考えて余所見をして生徒を乗せた車で事故ったり、七話は特に、ポリアモリー淫行(まだしてない)教師、発言のすべてがヤバい。四人一緒にいるのが良いんだなってなったあとに全員「俺の嫁」感出してくるの半端じゃない。シリーズ構成さんが中盤から凄いことになるっていったのはこの「趣味、女子高生とのイケナイ妄想」鶴巻裕子のことだったとしか思えない。大会で女子大好き貝島さんが左利きで射撃中45分間ずっと隣の顔が見れるのは設計が上手すぎる。そして隣の人は余所見屋さん。この一番性欲まみれの貝島がライフルイズビューティフルってタイトルをいうの笑ってしまった。

アサシンズプライド
富士見ファンタジア大賞受賞作のラノベ原作。光の差さない暗闇のなか、ランタンのようなガラスに囲まれた都市がわずかな灯をともしているという世界で、高貴な血筋ながらもマナという特殊な力を発現させることができずに無能才女と呼ばれ、能力を発現できないのは不倫によって生まれた子だからではという疑いを掛けられているメリダが、彼女を暗殺すべく送られたアサシン、クーファと出会い、彼女の気高さに考えを変えたクーファによって能力を与えられ、教育を受け、周囲に自分の存在を認めさせていく、というファンタジー。少女達の友情と「鬼畜教師」との関係という二つの軸があり、それをきわめてスレンダーなキャラデザで描いている。学園もの、年の差もろもろに女性向けっぽい要素が感じられて、キャラデザもそっちに向けてカスタマイズした感がある。原作のお色気要素を大きくカットしているらしいけれども、やたら胸の開いた制服に原作の名残りが窺える。六話のこれが原作要素か、というのが窺える幕間劇のコミカルさや巻数飛ばしてやりたかったと思われるロゼのエピソードなどが個々の話数では良かったと思う。後半の作画は怪しいし、バトルシーンもものたりず、かなり展開は駆け足で巻数を飛ばして段階が抜けた感がなくもないけど、嫌いじゃないな。最後の方、メリダをめぐって女子同士で三角関係になってたりしていて、落ちこぼれが不屈の闘志で強くなっていくのを嫌いな人はいないからみんな籠絡されていくメリダハーレムみたいで面白かった。OPが曲、絵ともに素晴らしく、EDも良かった。

ガンダムビルドダイバーズRe:RISE
ガンダムビルドシリーズの一つで、ダイバーズの続篇。分割2クール作品。以前までに比べてわりと低温で推移していて、へーとわりとぼんやり見てたら12話でかなりシビアな展開してきてマジかよって驚いた。ここにきて今期一番の重い展開をたたき込んでくる。GBN世界もリアルワールドも震えるっていうサブタイだったけど視聴者もかなり震えてるよコレ。でも、カザミのエピソードも含めて、失敗の経験の物語としてちゃんとしているという感じがある。ゲームだと思っていたものがやり直しの利かない、そして現実と繋がっているかも、という。13話、ゲームの世界のものだと思ってたメイが現実世界でロリータファッション着こなしながらちょこまかうごくの、超可動ガールだこれ、と思った。

●ぬるぺた
竹嶋えくキャラ原案、野良猫ハートのはと原案脚本のショートアニメ。後で出るゲームの販促アニメかな。学校では疎外されて姉は死んでしまってその姉に似せたロボットを作るもその姉ロボットにも学校へ行きましょうと言われる哀切きわまりない狂気の癒しアニメ。孤独と孤立と自立の物語。二話の登校をめぐる姉ロボと妹との闘争ギャグ、テンポと勢いでみせる。倉庫に入って姉が先回りしてるのをメカを操縦して出迎えた場面は見せ方が良かった。四話は「一人は得意だったけれど、さすがにこれは、なかなか一人だな」、のセリフが良い。咳をしても一人、ぺたがいても一人、だ。11話、不死の世界を彷徨いながら、掃除も洗濯もする、学校へ行ってみる、姉の作ったチャーハンを食べるという生活への意思が生きる意思につながる。孤独なモノローグが死がなければ生もない世界の静けさを伝える。姉がひきこもりと眠りという二重の殻から妹を救い出すまでの物語。上田麗奈がまた人間じゃないキャラをやっていた。OP曲の歌詞が不穏だったけど良い終わり方だった。

●XL上司
今期僧侶枠。原作は「上司のアソコはXLサイズ!?」とかいうタイトルなんだけど、アニメのタイトルは表に出しても大丈夫で安心した。私は僧侶枠アニメ一応全部見てるんだけど、とりわけ出来の良い作品の一つだと思いますね。「おれは変態になってしまったのか、こんなに自制が効かないとは」の哀しいトーンから窺える上司の倫理性がXLマークでオモシロ場面になる演出の妙味。巨根ネタで笑いを取りつつ、上司の人格もまともで、強引に襲ってくる系男性が多い僧侶枠でも特に安心して見れる。僧侶枠、枠の由来になった色欲僧侶、甘い懲罰、XL上司で三傑、という意見には同意できる。

●その他 旗揚!けものみち、このすば原作者とバカテスのコミカライズ描いてた人が組んだ漫画が原作。ケモナーレスラーが異世界に召喚されて巻き起こすドタバタ。源蔵もアレならシグレもクズで、クズたちの欲望のままに生きててうまくまわってしまうのこのすば原作者らしい。わりと楽しくはあったけどもう一つという印象もある。警視庁特務部特殊凶悪犯対策室第七課-トクナナ-、小澤亜李津田健次郎小澤亜李。ACTORS -Songs Connection-、元はボカロものの声優カバーシリーズらしいんだけど、音楽もののアニメと思ったら、作中世界がゲームのなかの世界で、作中の不思議現象がファンが猫やデフォルトアバターでダイブしてきてることによる現象になってるとか、ちょっと変わったSF設定が面白かった。

難しい
●星合の空
弱小男子ソフトテニス部の中学生達を描くオリジナルアニメ。赤根和樹監督はエスカフローネの監督。エスカフローネちゃんと見たことないけど。柔らかい絵柄で爽やかに始まったかと思ったら主人公眞己はソフトテニス部に勧誘されて入るのに金を要求するし、一話ラストではDV父に新居を突き止められて眞己が暴力を振るわれるという家庭問題が突きつけられアップダウンが激しい。ソフトテニスの動きをきっちりと描く作画がすごくて、その面ではかなり見応えがあるんだけれど、話が進むごとにどんどん部員たちそれぞれの家庭問題、毒親問題が矢継ぎ早に出てきて、それぞれに踏みこまずに進んでいくのでこれはどうなんだろうと思っていたら、最終回あと、2クールのつもりで作っていたら今年の春に1クールに短縮しろと言われたらしく、作画作業に入っているのもあってそのままの構成で制作することになったと監督に明かされてみんなびっくりしていた。私もびっくりした。これはつまり2クールものの前半。後半は予定がない。最終回、ワルブレ、グランベルムの衣鉢を継ぐOPED中断演出が何度となくその「先」を断ち切るのも思いっきり意味深だった。これどう終わるんだろうと言っていたら「終わりにするんだ」で終わりません!だったのはいろいろすごい。眞己たちの未来もアニメのその先もいまは闇のなか……ソフトテニスで強敵に立ち向かうことが子供たちの可能性を阻害する毒親との関係に重なっているとは思っていたけど、大人の事情によって2クール目という未来を閉ざされる点でこのアニメの存在そのものとも重なっているとは思わなかった。制作・視聴者ともに「大人」と戦おう、というわけか。それぞれに家庭に問題を抱えた登場人物達が、ソフトテニスという場で弱小チームというレッテルを振り払ってそれぞれの居場所を見つけていく筋書き自体は良いし、作画も良かった。ただ、三ヶ月で部を立て直し全国レベルの相手にも勝ちそうになる眞己のあまりにもなスーパーマンぶりが何かしらの人格的理由ではなく、説明や展開の都合という感じしかしないところや、毒親山盛り祭の悪趣味さというかドラマが有機的に繋がってないところがあって、毒親問題はまた後半の課題かもしれなかったとなると、評価が難しいところがある。だからまあ作品内容もいろいろあるけど、この事態になったのは監督よりもその上が悪いですね。それはともかく、部員でもない御杖夏南子のキャラがとても良かったのは確か。やや冷めた声や態度、雑な座り方、男子のアニメで特にヒロインでもない位置に置かれたことで出せる感じが印象的で、座り方の行儀の悪さがいいし、部の行くところに勝手についてくるのも面白かった。

通年アニメ

●スター☆トゥインクルプリキュア
初めて見たプリキュア。星への想像力と異なる者への想像力、メキシコ人の父を持つえれなの設定には直截に多民族性が示されていて、SF的な宇宙旅行とさまざまな異星人との出会い、敵役たちの来歴などには、いろんなエグザイル――移民、故郷喪失者の話が埋め込まれている。38話では、故郷を奪われ、居場所を奪われたもの同士の戦いが描かれ、憎悪と憎悪のぶつかりあいのなかで、相手を傷つけたことを知り、謝罪と赦しへと転換する。そして未来への意思が想像力だと世界が応える大事な回だった。39話は、えれなの持ち出す笑顔という一見空疎な言葉が、テンジョウ先生の、自身のうちにあるネガティヴな感情をさらけ出せという悪意のこもった助言によってえれな自身のつらい過去を踏まえた改稿がなされ、まさにその助言通りになおかつ英語という異言語で内実のある言葉に練り直される様子が描かれていて、のちの通訳という異言語との交流の流れも示される。ララとクラスメイトを描いた40話は、アバンの並んだかばんと鏡前の身支度、教室の朝の光の表現と翳る翌日の教室が描かれた後、ひかるが窓辺のわずかな陽射しごとララを抱きしめる絵作りが印象的だった。ララ回クライマックスの脚本に応えた明暗の演出と構図を決めてきて圧巻。アバンの鏡の前に立つシーンは当然、私らしく、にたどり着く。

キラッとプリ☆チャン
二年目のプリチャン、まりあとすずや特に虹ノ咲だいあ関連のエピソードが印象的な、四月からのセカンドシーズンは面白いし、12月かけてあんなとえものいちゃつきを描いてたのもかなりのものだった。虹ノ咲のエピソードの76話、なんかメルヘンメドヘンぽさがある。友達がよくわからなくて、絵本が好きで裁縫にはまっていた少女が中学校で同級生の女子に一目惚れして重度ファンになっていく話をぶち込んでくるキッズアニメすごい。愛の高まりをディスプレイ枚数で表現してるの笑う。一人でも寂しくなかったけれど憧れる相手ができて孤独を知った話がこれまでの全話の片隅で存在していた、という総集篇的再構成はかなり良い。89話では、虹ノ咲の本と孤独の話が展開され、友達が欲しいと努力し、しかしドレスで釣るのは嘘だというのからドレスがなくても友達だったのを見つける流れ、これは完全にだいあというフィクションの存在と重なっている。フラグですね。虹ノ咲役の佐々木李子の歌がちゃんとすごくて格の違いを示してくれるのがとてもいい。まりあとすずは二人合わせてマリアージュのもじりだと思う。78話で切り替わったOPが、突然資金が潤沢になったのかすごいアニメーターが参加したのかってくらいの映像で驚いた。冒頭のみらい、リングマリーの目配せ、メルスタのダンス、なかなか。

アイカツフレンズ!
今年で終了し、アイカツオンパレードというアイカツシリーズのクロスオーバー作品へとバトンタッチした。フレンズといえば大丈夫、のノリで展開される百合アニメだったとしか思えない。最後の二人を描く70話、五年思いをため込んだ歌詞、お、重いと思ったらやっぱ鐘が鳴ってマリッジ成立の流れ笑ってしまった。披露宴のなれそめビデオまで……。ダンスも大概相手しか見てない。そして最終回サブキャラの結婚が話のテーマになるの、これまでずうっと「結婚」の話をしてたのが最後に結婚の話をするっていうオチかな。本当のウェディングベルを鳴らしてくるの、これまでのコンビ結成ベルと重ねられて結ばれる二人のイメージを強化してきてすごかった。

映画・OVA

配信とかで見てたやつで全部今年のではない。

ノーゲーム・ノーライフ ゼロ
TVシリーズ以来で設定ちょっと覚えてないところあるけど、ディスボード世界の起源譚として、あるいは空白の前世として、今ある姿を願った二人の話、良かったと思います。二時間あったけどとても見せる作品だった。マッドハウス、いしづかあつこ、花田十輝藤澤慶昌、そしてED作曲ヒゲドライバー、確かに宇宙よりも遠い場所スタッフがかなり揃ってる。コンテに浅香守生もいたり。

あさがおと加瀬さん。
漫画原作。坂井久太キャラデザ佐藤卓哉監督の百合アニメといえばのSelectorとは対照的な青春恋愛もので、映り込む景色、ほこり、水、夕日がキラッキラしてて山田の悩みごと包み込む幸福感に充ち満ちている。絵柄の柔らかさ。加瀬さんのスポーツやっててちょっとちゃらい人気者感の佐倉さんがまさに佐倉さんって感じ。ゆったりとした雰囲気で初めての恋愛のとまどいが描かれていて、「女の子同士と言うことより」初めて付き合うことのほうに悩みがあるというバランス。GyaO配信で見てたので話数表記もそれに準じるけど、第一話は夜明けから夕暮れまで。二話、加瀬役佐倉さんのこのヘタレ王子様っぽさが面白い。こんな堂々と彼女の布団に首突っこむやつ見たことねえ。キスシーンは綺麗なんだけど手を握る場面の方がエロい。二話でも夕陽が輝いている場面でキメてくる。三話、水中演出から続いて、これまでキラキラしてた光が縦に流れることで雨の比喩として描かれてて、雨を降らせないで心情の曇りを表現していたのが面白い。青春の輝きがまさに光として描かれるのが全体を通してのギミックになってる。新幹線のライトまで光ったのは笑った。植物は光を受けて成長するということ。儚い恋と固い絆というあさがおの。良かったので主題歌を買って聴いてるけど、佐倉さんのこの声の歌が良すぎた。

のんのんびより ばけーしょん
家族も姉妹も友人もいるけど、ただ同い年の友達だけがいなかった夏海が旅行に行った沖縄で同い年の友達と出会い、別れ、ってこれは卑怯な筋書きだ。背景の長回しが別の意味を持って迫ってくる終盤、後頭部だけの夏海、ここらへんの情感といったらない。一期序盤でれんげは同じ経験をしてるからこその最後の一声だな。名前は二人で「青い夏の海」になるんだろうか。夏海が夏の海で星砂と星空と星の海の思い出を持ち帰るということを、れんげの絵という主観的な手段で、れんげに見えた夏海とあおいを持ち帰ることで締められる。あおいには大きな学校があって同年代の友達も普通にいるっていう非対称性が描かれてるのもポイントだ。マジ泣きする夏海と今までにもないではなかっただろうあおいがさらっと家に入る別れ際の思い入れの強さにも非対称性がある。下地紫野沖縄出身だからこその訛り演技という感じ。

きみの声をとどけたい
地域FMを始めた少女達の話で、ある喫茶店で生まれたつながりが場所を失っても電波の届く地域と人のつながりとして再生することで、声が届いて祈りが再生の奇跡を生む、play再生とPray祈りとrevive再生と。ストレート真っ正面な青春もの。素直に良い作品だった。コトダマを信じる少女がふと見つけた、古びた営業してない喫茶店にある地域FMのラジオ施設から声やレコードの音声を送り出すことで始まる話。26分くらいの電車を追い抜かんと走り出すシーンがぐっとくる。距離を超えようとする疾走。距離と時間と次元を超えるラジオ。音声のみだからこそ、ラジオに霊的な属性が備わるところがあって、この特性を活かしたのがあかねさす少女だし、ガールズラジオといえばもちろん今年ガルラジがあって、ラジオというモチーフがいまも重要なものとして生きている。マッドハウスの青春もの、宇宙よりも遠い場所とも近い位置の作品なのかな。母親をめぐる紫音の思いになぎさが発奮して、という話の骨子はかなり似てる。歌舞伎町ではなく夜の雨の湘南を一人で走る主人公だ。新人をオーディションで採用したという主人公組の声のそれっぽさがこの作品には合ってる。Wishes Come Trueという挿入歌のタイトルの直截さ。鼻を省略したデザインがちょっとカエルっぽく見えるなと思ったらスタッフロールの最後にカエル出てきて、何かが回収された感じになった。

映画 けいおん!
今年初めて見た。卒業を控えたちょっと変な先輩たちと一人の後輩。ロンドンのライブがさらっと流されて教室ライブとたった一人への演奏に収斂する流れがやっぱりこの作品ってかんじだ。時折カメラワークで遊ぶ以外は派手なアクションもなく、しかし言語的コミュニケーションも非言語的なそれもが途切れなく描写され続けて各人の関係性を厚みある形で表現しているので、画面がかなり見逃せない細部に満ちている。唯の一見能天気に見えてそうではない感じ、遠くデフォルメで映したかと思えばぐっと寄って周囲をぼかして悩めるリアル寄りの横顔を映すみたいな演出とかもだけど、豊崎愛生の微妙な振幅ある演技も効果的だった感じ。見てて一番印象的なキャストだった。ずっと一緒にいて初めて見た真面目な顔、が自分への贈り物を考えていたからだとは思ってない梓とこれまでで一番緊張する四人。飛行機雲、鳥、羽根、天使のモチーフ、そして冒頭の時計の音。卒業式の日の屋上のシーンで左に走る面々が最後に右に走っていって梓に追いつくラストが良い。羽根というモチーフ、飛行機、鳥の飛ぶことに未来への象徴性があるとすれば、卒業旅行に後輩を連れてくことで、五人の場所を学校・卒業というところからずらして、これからも五人で、ということがロンドン行きにすでに実現されている、という仕組みだろうか。梓無しでは飛べない、とも。しかし、けいおん本篇を見たのが当時以来で番外篇の計画だけ見てから映画見てるいろいろわかってないかな。本篇最終回とそのちょっと前を別の描き方をしている、でいいのかな。というかあの曲の製作秘話、か。

OPEDベスト10

バミューダトライアングル カラフル・パストラーレED
ぼくたちは勉強ができないOP
私に天使が舞い降りた!OP
ダンベル何キロ持てる?OP
叛逆性ミリオンアーサーED2
ひとりぼっちの○○生活ED
Re:ステージ! ドリームデイズ♪ED
まちカドまぞくOP
女子高生の無駄づかいOP
アサシンズプライドOP

アニメーションでいえばカラパレOP、ぼく勉OP、アサプラOP、プリチャンOP、あるいはわたてんED、ダンベルEDの桒野貴文なんかが印象に残る。楽曲面で言えばリステージはアルバムも聴いててこれが良い。KiRaReの1stはとても良い。

●年間アニメ話数10選
いつもの私は単に印象に残ってる話数を10挙げてるだけの適当さなんですけど、今年に関しては一本選ぶなら当然これ、というのがひとつあって、それは
バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~ 第8話 「それはね、靴っていうの」
です。

●ガールズ ラジオ デイズ
今年のコンテンツと言えば忘れてはならないガルラジ。中日本高速道路株式会社と株式会社ドワンゴの共同制作による、インターネットラジオコンテンツで、各地のサービスエリアを拠点としてそこでラジオを放送している少女たちの物語が、ラジオ番組という形式で語られる独特の作品。地方のサービスエリアという場所を設定しているがゆえに、そこにキャラクターを想像しながら集うリスナーがいたり、音声ゆえにアニメとは異なる需要を生んでいたように見えた。去年から始まってて、私は今年に入ってyoutubeアーカイブで聞き出したんだけれど、特に印象的だったのは、チーム徳光のみるみる星人というキャラを演じながら随所に素のため息や田舎への怨嗟が滲んでくる、設定とリアルの落差を演じる役の長縄まりあだった。他は三人くらいのチームでやってるなかで、一人だけが田舎への否定を唱えるアウトロー感。二期では新キャラを交えて、メチャクチャに楽しいラジオをやってた。途中の喧嘩も挾んで、特に徳光は他のチームがやらないことをやってて面白かった。第二シーズンは私も出来るだけリアルタイムで聴いていて、各チームの最終回はそれぞれに良くって、岡崎のまとめ方は良かった。ツイッターで知って聴き始めたコンテンツだけど、実況、応答としてのオタクのラジオ、田舎・故郷観、現地勢レポートその他ツイッターとの相乗効果がリアルでフィクションを挾み込んだ独特の感触になってた。音声だけのラジオという空白の多いメディアだからこそ、そこをそれらさまざまな点がつないで全体としてより大きなリアリティを作っていたというか。

●余談
宇崎ちゃん問題、まああのイラストは着衣でも裸と同じように胸の形を露出させる横紙破りのような表現に近くはあって、問題がないとは思わないんだけど、だからといって批判者側でも「男性によって男性の為に書かれた」「巨乳」だからダメだとか言ってる意見がRTされてきて、そうやって表現者の性別を詮索したり受け手の性別を決めつけるような真似をしているからトランスジェンダー排除の連中がすり寄ってくるんだろうがと思った。この議論、保守道徳との接近に無警戒だったり根本的に男はこう女はこうという本質主義的な前提を持ってる人や男の性欲を叩いてるつもりで女性の作者や読者ごと否定してるようなのが散見されるのは、ほんとどうかと思いますね。同様のことは百合漫画原作アニメに向かって元は男の願望だとか偽装された百合だとかいう連中についても思うけれども。

2019年に読んでいた本

今年読んだ本のなかから九冊。これはツイッターの140字に収まる字数で選んだので冊数に意味はないけどこれくらいがちょうど良いかと思った。

外地巡礼

外地巡礼

西成彦『外地巡礼』 後藤明生論を含む文学論集で、後藤明生のみならず鶴田知也島尾敏雄目取真俊のほか台湾文学やリービ英雄といった外地、移民などの境界にまつわる文学を博捜する一冊。
禁じられた郷愁―小林勝の戦後文学と朝鮮

禁じられた郷愁―小林勝の戦後文学と朝鮮

  • 作者:原 佑介
  • 出版社/メーカー: 新幹社
  • 発売日: 2019/04/01
  • メディア: 単行本
原佑介『禁じられた郷愁 小林勝の戦後文学と朝鮮』朝鮮で生まれた小林勝の日本の植民地主義との戦いのありさまを読み込む評論。今もなおアクチュアルな日本における朝鮮蔑視の有様をえぐりだす文学を通じた峻厳な闘争。
テロルの伝説:桐山襲烈伝

テロルの伝説:桐山襲烈伝

陣野俊史『テロルの伝説 桐山襲烈伝』 『パルチザン伝説』で知られる作家桐山襲についてその闘争の有り様をたどり読み込み、作家の戦いを自ら引き継ぐような気迫のある本で、天皇テロリズム、そして沖縄が重要なテーマになる点で、これもきわめてポストコロニアルな問題意識がある。植民地近代・日本のその根底。
リクルートスーツの社会史

リクルートスーツの社会史

田中里尚『リクルートスーツの社会史』リクルートスーツから見える戦後日本社会の一断面。凡庸なつまらないとされたものに踏みこんでみることで画一的と見えたものが持っている重要さを発見すること。
母の記憶に (ケン・リュウ短篇傑作集3)

母の記憶に (ケン・リュウ短篇傑作集3)

草を結びて環を銜えん (ケン・リュウ短篇傑作集4)

草を結びて環を銜えん (ケン・リュウ短篇傑作集4)

ケン・リュウ『母の記憶に』文庫版二分冊で読んだけれども、移民、植民地といった異質なものとの共存のテーマや、権力によって事実が葬られることへの抵抗などを描き出す中国ものの出来がやはり出色。
文字渦

文字渦

  • 作者:円城塔
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/07/31
  • メディア: 単行本
円城塔『文字渦』文字をめぐる連作短篇集。科学的、数学的ロジックを屈曲させたSF的アプローチで書かれた東洋、漢字幻想SF小説、だろうか。
飛ぶ孔雀

飛ぶ孔雀

山尾悠子『飛ぶ孔雀』初期のまだわかりやすい幻想小説からずっと深化した不可思議な小説で、私ではまだ作品に理解が追いつかない。
プラヴィエクとそのほかの時代 (東欧の想像力)

プラヴィエクとそのほかの時代 (東欧の想像力)

オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』2018年のノーベル文学賞を受賞したポーランドのトカルチュクが評価を確立した一作で、ポーランドの架空の小村の二〇世紀を描きながら、キリスト教とは異なるすべての変化するものに神を見いだす。ギョルゲ・ササルマン『方形の円』カルヴィーノ『見えない都市』を相互に知らないまま同時期に書かれたルーマニアの作家による架空都市連作集。建築の素養を持つ著者によるSFにも近い奇想小説集。

今年は他にも雑誌掲載作では笙野頼子藤枝静男を題材にした『会いに行って――藤流静娘紀行』連作や、アンソロジーをまとめて読んだのが印象に残っている。アンソロジーのアンソロジー
closetothewall.hatenablog.com

ついでに今年のライター仕事。
向井豊昭小説選 骨踊り』幻戯書房(解説鼎談に参加)

骨踊り

骨踊り

岡和田晃編『現代北海道文学論』藤田印刷エクセレントブックス(道新連載から笠井清論、山下澄人論の採録
Amazon未登録
の書籍二つと、
図書新聞での
6.15 陣野俊史さんとの後藤明生『笑いの方法』をめぐる対談
笑いの方法: あるいはニコライ・ゴーゴリ【増補新装版】

笑いの方法: あるいはニコライ・ゴーゴリ【増補新装版】

  • 作者:後藤 明生
  • 出版社/メーカー: つかだま書房
  • 発売日: 2019/02/05
  • メディア: 単行本
9.7 はちこ『中華オタク用語辞典』書評
中華オタク用語辞典

中華オタク用語辞典

  • 作者:はちこ
  • 出版社/メーカー: 文学通信
  • 発売日: 2019/06/28
  • メディア: 単行本
岡和田晃『掠れた曙光』幻視社(のちに書苑新社から一般流通)のDTP制作
掠れた曙光 (幻視社別冊)

掠れた曙光 (幻視社別冊)

  • 作者:岡和田 晃
  • 出版社/メーカー: 書苑新社
  • 発売日: 2019/11/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
でした。

『白い人・黄色い人』『82年生まれ、キム・ジヨン』『月と太陽の盤』『ヤゴの分際』『物語ポーランドの歴史』『方形の円』

白い人・黄色い人 (講談社文芸文庫)

白い人・黄色い人 (講談社文芸文庫)

遠藤周作『白い人・黄色い人』文芸文庫版。「白い人」、犬を折檻した女中に魅惑され、ナチ占領後のリヨンでゲシュタポに協力して神学生の友人を裏切り拷問を加える男。信仰とサディズムに三島の『仮面の告白』を思い出すけど、遠藤は澁澤以前にサドの評伝を書いてたという話に納得する。しかし神学生の従妹の扱いが、男同士の関係に女性を利用する、ホモソーシャルミソジニーの典型みたいだ。「黄色い人」で日常的に「犯される」糸子とかも。戦後文学ってミソジニーこそが文学だと信じられていた形跡を感じることがあるんだよな。会社のために家族を犠牲にするのが社会人、みたいな。「アデンまで」は黄色人種と白人、そして黒人の人種問題が描かれていて、黒は醜く、黄色はもっと憐れだ、と語り手は述懐し、なぜ白人の肌が美の標準になったのか、という劣等感が語られていて、白人女性との恋愛でもこの自己疎外の経験が共通している。
82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』 不可思議な人格の混乱を呈した女性を診断する医師によって書かれた体裁で、33歳の韓国人女性の人生を簡潔にたどりながら、女性が女性だというだけで受けるさまざまな体験を描く小説。表紙は、これはあなただ、という鏡だろうか。IMF危機を有利に生き延びた両親を持つジヨンの境遇はかなり良い部類に入ると思われるけれども、それでもこのような状況があるという点で、読者の多くにあるある、と思わせるような典型的な人物像が共感を呼んだと思われる。表紙はそして女性が男性を見返すという意味での鏡でもあるか。姉妹より弟を優先させる祖母、小学校での男子の好意が歪んだからかい・いじめ、男子には許されるスニーカーが女子には許されない学校、笑顔で応対しただけでストーキングしてくる予備校の男、指示棒で胸を突いてくる男性教師、子供時代だけでも並べ上げれば切りがない。大人になっても就職での差別があり、取引先からのセクハラ、女社員にキツい仕事をやらせて男に楽な仕事を振った上で男の収入を多くしていたり、女は会社の荷物と言われないように頑張ることが後進の女性に負担を与えてないかという女上司の苦悩、そして子を産むことがキャリアを閉ざす。男の子を産むことが重要視され、女の子と言うだけで中絶すらされてしまう社会、姉妹は衣食はおろか進学の選択肢すら末弟優先のあおりを食らうことになる家父長制社会の有り様を描いているけれど、同時に母や姉、見も知らぬ女性たちが、ギリギリのところでジヨンの助けにもなる。家族のうちでの母や姉妹という存在がいかに社会や敵としての男性に対するアジールとなるか、ということでもある。ジヨンのこうした境遇をまとめた医師ですら、最後に差別をいっさい何も理解していない叙述がおかれ、断絶を露わに描くラストに心底の絶望が刻まれている。もちろん戸籍制度の廃止やさまざまな状況は、祖母の時代よりは良くなってはいるだろうけれども、かわりに現代では母親は良い身分だな、という女性への被害者意識からの差別が生まれてもいて、本作はその交差を描いているという解説はなるほどと思った。これは韓国の小説だけれども、日本も変わるところはないだろう。いくらか現れ方に差異はあるだろうけれども入試差別の露呈などよりいっそうひどいものもあり、妊婦への対応は日本の方がひどいというのは両国を知る人の共通の認識のようだ。出産子育てをめぐって最も親密な夫との間にこそ巨大な断絶が生まれる絶望感は大きい。絶望だけではなく、小学生時代の女子への不当な扱いへの抗議が実り、絶対権力者を変えさせた達成感をもたらした挿話が印象的でもある。作者は「文藝」の「韓国・フェミニズム・日本」の特集で掲載されていた、家長の家出を描いた「家出」という印象的な短篇があり、家父長制社会への関心が高い。しかし、「家出」と異なりキム・ジヨンは家父長制社会から離脱する手段はない。しかし母親の反中国的態度は文脈がよくわからなかった。
月と太陽の盤: 碁盤師・吉井利仙の事件簿 (光文社文庫)

月と太陽の盤: 碁盤師・吉井利仙の事件簿 (光文社文庫)

  • 作者:宮内 悠介
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/07/11
  • メディア: 文庫
宮内悠介『月と太陽の盤』、碁盤をテーマにしたミステリ連作集。同年のSF短篇集は読んだのにこっちは読んでなくて文庫になったのを機に買ったけど、これもさすがの宮内作品という感じでジャンルは違うけどいつも通り楽しく読んだ。第六篇の繋ぎ方とか、らしい感じ。主要人物に姉弟子がいて、りゅうおうのおしごと、を思い出してたんだけど、こっちでもやっぱり姉弟子だった……。
ヤゴの分際 (1963年)

ヤゴの分際 (1963年)

藤枝静男『ヤゴの分際』、デビュー作「路」等の再録を含む三冊目の作品集。「家族歴」にもあるように家族を結核で次々と亡くしていった過酷さと、自身の性欲への否定的感情、そして医学という病気との戦い。表題作で自分は妻より戦うべき結核菌をこそ見ていたのでは、という自己批判に至る苦闘。

結核くらい人間をきたえるものはないという気がする。それは死に対する、慢性の、長い対坐である。生活の楽しみは何時でも監視されている。人はよく、恋愛は人をきたえると云うが、これは逃げだすこともできるし、また不真面目なら放っておくこともできる。また年とれば自然消滅する。ところが結核という奴は自分自身の身体の中に並んでいて、一生の間仮借なく喰いついて放れないのだ。私は病院への途々よくそんなことを考えながら歩いた。」(「路」158-159P)

「彼は妻や喬を愛していると思いこみ、しかし妻も喬もまつわりつく彼の眼を避けている。彼は病者の妻を見ないで、妻の肉体の内部の、彼の肉親を次々と無残に斃した結核菌だけを見つめている。喬の肉体の中に人間の必然の過程を認める前に、且て憎悪し続けた彼の敵の姿を発見し反撥している。
(いったい俺は何時ごろからこんな利己的な嫌らしい人間になり下ったんだろう)」(「ヤゴの分際」201-202P)

渡辺克義『物語ポーランドの歴史』中公新書、これはちょっと悪い意味での教科書的記述でよろしくないと思った。文章が平板というか、過程と結果がぽんと書かれていてなんでそうなるんだ?というのがわからないところが散見されて、印象がぼんやりして頭に入ってこない。ワルシャワ蜂起を英雄の戦いと呼ぶ論についてそれはポーランドに媚びすぎていないか、とその論争史を紹介する部分など、コラム部分はわりと面白く読めるけど。あと、引用文の出典書籍も明記して欲しい。訳者とタイトルで参考文献のこれかな、みたいなことをしなければならない。ルーマニアのギョルゲ・ササルマン『方形の円』、36の架空の都市を描く幻想・SF小説集で、奇想のショーケースのような魅力的な一冊。マルコ・ポーロもハーンも出るしてっきりカルヴィーノ『見えない都市』のオマージュかと思っていたらほぼ同年に書かれていてお互いに無関係だというのに驚く。酉島伝法の解説のとおりバラードの初期短篇のあの魅力的な都市ものぽくもあり、等質市は石川宗生「吉田同名」を思わせ、貨幣石市の怪奇性や、禁断の都の中国風な頓知、宇宙市のSF、モーター市のマコーマックみたいな一篇など、シュール、ユーモア、アイロニー、さまざまな魅力がある。多くの場合は登場人物主体ではなく都市の歴史を俯瞰的に眺めるクールな距離で創造と破壊を描いていて、表紙のデザインともども非常に印象的。英訳したル・グインの序文なども面白い。出てくる名前がだいたいそうだけど、建築のアイデアを拡大していく手法が、SFに近い幻想小説の感がある。ギョルゲ、というと変わった名前だと思うんだけど、Gheorgheというスペルを見ると明らかにジョージのルーマニア語形なのがわかる。ハンガリー系のイシュトヴァーンて名前もやたら格好いいけど、英語で言うとStephenだ。

共著『現代北海道文学論』が刊行されました

現代北海道文学論 来るべき「惑星思考」に向けての通販/岡和田 晃/岡和田 晃 - 小説:honto本の通販ストア
JRC一手扱い― 藤田印刷エクセレントブックス
これを書いてるのは2020年の五月も末ですけど、告知記事を作ってなかったので。

岡和田晃編著、『現代北海道文学論』が藤田印刷エクセレントブックスから刊行されました。これは『北の想像力』を受けてその執筆メンバーをメインにした書き手らによって、北海道新聞に2015年から2017年まで連載されていたものをその後の付記と完結記念イベントの採録、その他の関連原稿をまとめて一冊にしたものです。

私は笠井清論と山下澄人論の二章で参加しております。当時の告知は以下。
北海道新聞に笠井清論を書きました。 - Close To The Wall
北海道新聞「現代北海道文学論」に山下澄人論が掲載されました - Close To The Wall

各人各様のアプローチでさまざまな作品を論じており、新聞原稿がもとなので分量も含めて読みやすい物になっていると思います。目次を見てもわかるように多彩な作家作品のガイドになっています。2020年に直木賞を受賞した川越宗一『熱源』を2019年時点で論じた原稿もあったり。

執筆陣は私や編者岡和田晃のほか、渡邊利道、石和義之、宮野由梨香、倉数茂、田中里尚、松本寛大、横道仁志、藤元登四郎、三浦祐嗣、藤元直樹、巽孝之、高槻真樹、齋藤一、丹菊逸治、川村湊、河﨑秋子の各氏となります。詳細な目次も転記しておきます。以下の記事では正誤表もあります。
『現代北海道文学論 ~来るべき「惑星思考(プラネタリティ)」に向けて~』(藤田印刷エクセレントブックス)が発売 - Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト(新)

●はじめに
●第一部 「北海道文学」を中央・世界・映像へつなぐ
・「惑星思考(プラネタリティ)」で風土性問い直す時/岡和田晃
円城塔――事実から虚構へダイナミックな反転/渡邊利道
・山田航――平成歌人の感性の古層に潜む「昭和」/石和義之
池澤夏樹――始原を見つめる問題意識/宮野由梨香
桜木紫乃――「ごくふつう」の生 肯定する優しさ/渡邊利道
村上春樹――カタストロフの予感寓意的に描く/倉数茂
佐藤泰志――「光の粒」が見せる人の心の揺らぎ/忍澤勉
外岡秀俊――啄木短歌の言葉の質 考え抜き/田中里尚
朝倉かすみ――故郷舞台に折り重なる過去と現在/渡邊利道
山中恒――小樽で見た戦争 自由の尊さ知る。松本寛大
桐野夏生――喪失の果て 剝き出しで生きていく/倉数茂
桜庭一樹――孤立と漂流流氷の海をめぐる想像力のせめぎ合い/横道仁志
●第二部 「世界文学」としての北海道SF・ミステリ・演劇
・河﨑秋子――北海道文学の伝統とモダニズム交錯/岡和田晃
山下澄人――富良野倉本聰 原点への返歌/東條慎生
今日泊亜蘭――アナキズム精神で語る反逆の風土/岡和田晃藤元登四郎
荒巻義雄――夢を見つめ未知の世界へ脱出/藤元登四郎
「コア」――全国で存在感 SFファンジンの源流/三浦祐嗣
露伴札幌農学校――人工現実の実験場/藤元直樹
佐々木譲――榎本武揚の夢 「共和国」の思想/忍澤勉
平石貴樹――漂泊者が見た「日本の夢」と限界/巽孝之
高城高――バブル崩壊直視 現代に問いかける/松本寛大
柄刀一――無意味な死に本格ミステリで抵抗/田中里尚
●第三部 叙述を突き詰め、風土を相対化――「先住民族の空間」へ
渡辺一史――「北」の多面体的な肖像を再構成/高槻真樹
小笠原賢二――戦後の記憶呼び起こし時代に抵抗/石和義之
清水博子――生々しく風土を裏返す緻密な描写/田中里尚
・「ろーとるれん」――「惑星思考」の先駆たる文学運動/岡和田晃
・笠井清――プロレタリア詩人 「冬」への反抗/東條慎生
・松尾真由美――恋愛詩越え紡がれる対話の言葉/石和義之
・林美脉子――身体と風土拡張する宇宙論的サーガ/岡和田晃
柳瀬尚紀――地名で世界と結び合う翻訳の可能性/齋藤一
アイヌ口承文学研究――「伝統的世界観」にもとづいて/丹菊逸治
樺太アイヌ、ウイルタ、ニヴフ――継承する「先住民族の空間」/丹菊逸治
・「内なる植民地主義」超越し次の一歩を/岡和田晃
●連載「現代北海道文学論」を終えて/岡和田晃×川村湊
●補遺「現代北海道文学論」補遺――二〇一八〜一九年の「北海道文学」
・伊藤瑞彦『赤いオーロラの街で』(ハヤカワ文庫、二〇一七年)――大規模停電の起きた世界、知床を舞台に生き方を問い直す/松本寛大
馳星周『帰らずの海』(徳間書店、二〇一四年)――時代に翻弄されながら生きる函館の人々/松本寛大 
高城高『〈ミリオンカ〉の女』(寿郎社、二〇一八年)――一九世紀末のウラジオストク、裏町に生きる日本人元娼婦/松本寛大
・八木圭一『北海道オーロラ町の事件簿』(宝島社文庫、二〇一八年)――高齢化、過疎化の進む十勝で町おこしに取り組む若者たち/松本寛大
・『デュラスのいた風景 笠井美希遺稿集』(七月堂、二〇一八年)――植民地的な環境から女性性を引き離す/岡和田晃
・須田茂『近現代アイヌ文学史論』(寿郎社、二〇一八年)――黙殺された抵抗の文学を今に伝える/岡和田晃
・麻生直子『端境の海』(思潮社、二〇一八年)――植民地の「空隙」を埋める/岡和田晃
・『骨踊り 向井豊昭小説選』(幻戯書房、二〇一九年)――人種、時代、地域の隔絶を超える/河﨑秋子
・天草季紅『ユーカラ邂逅』(新評論、二〇一八年)――〈死〉を内包した北方性から/岡和田晃
・「惑星思考」という民衆史――『凍てつく太陽』(幻冬舎)、『ゴールデンカムイ』(集英社)、『熱源』(文藝春秋)、『ミライミライ』(新潮社)/岡和田晃
●あとがき

詳しくは岡和田さんの以下のツリーをクリックしてもらう方が早いかも知れません。


ついでに『物語・北海道文学盛衰史』1967年、まだ河出書房が新社じゃなかったときの本と、『現代北海道文学論』2019年、藤田印刷エクセレントブックス。カバーデザインもこの52年前のものを踏まえてたりするのかな。

オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』

プラヴィエクとそのほかの時代 (東欧の想像力)

プラヴィエクとそのほかの時代 (東欧の想像力)

松籟社の〈東欧の想像力〉叢書第十六弾は先頃2018年のノーベル文学賞を受賞したオルガ・トカルチュク。本書は本国で1996年に刊行された三作目の長篇小説で、国内に留まらず海外でも評価され、トカルチュクの作家的地位を決定づけた一冊だという。

第一次世界大戦のころから80年代までにいたる20世紀を背景に、84の断章を通じて、ポーランド南西部の架空の街プラヴィエクとそこに生きる二つの家系を中心に人々の生と死、そしてモノや植物や動物や神や死人の「時」を描く長篇小説だ。

プラヴィエクは宇宙の中心にある。

本書はこの書き出しからとてもよく、私も幻視社の東欧文学特集に東欧は周縁ゆえにさまざまなものが交差するという意味で「世界史の中心」だというフレーズを引用したけれども、ここでの中心というのは、解説にも触れられているように、神学的な絶対性を相対化する汎神論的な意味がある。単一の、絶対の、男たちの、歴史の、そういった絶対的あるいは垂直的ともいえる概念を徹底して横にずらしていくような部分が随所にあり、この架空の小さな街という舞台もそもそものことながら、冒頭、ミハウが戦争に行ったり、第二次大戦時にドイツ軍がやってきて人を強制連行したりユダヤ人を虐殺する場面やスターリンの死、「連帯」運動?などの大きな歴史の爪痕は随所に刻まれているけれども、街の人々はほとんど主体的に関わらない。

それに絡んで象徴的なのは、登場人物の一人が趣味として世界のさまざまなパンフレットを取り寄せていたら、国際郵便が紛失した場合の損害賠償で金を稼げることを見つけたとき、頻繁な国際郵便を調査しに来た秘密警察のセリフをヒントに、「ラジオ・フリー・ヨーロッパ」に郵便を送れば検閲で確実に不達になるので賠償金が得られるという逸話だ。本書でも特に好きなエピソードだけれど、ラジオ・フリー・ヨーロッパ、という政治的存在が単なる小金稼ぎの手段としてしか意識されず、しかも確実に届かないうえに封筒には白紙を入れて送っている、という関節外しが面白い。もちろん怪しすぎて秘密警察には何の暗号を送っているのかと拷問を受けるんだけれど、秘密警察も反共組織も彼にはなんら重要ではない。

多くの出産のエピソードが描かれる本書ではおよそ女性を中心に語られており、第一章「プラヴィエクの時」の次の二章目は、本書の中心人物ともいえるミシャのその母「ゲノヴェファの時」から始まるし、最後の章はミシャの子、ゲノヴェファの孫娘「アデルカの時」で終わる。解説でも指摘される孫娘に男子が生まれず女系が続いていくのもこの横ずれの一つだろう。

そして汎神論的というように、本書の断章のなかには、コーヒーミルやキノコの菌糸体やハンノキや犬のみならず死者の章まである。特に菌糸体の章では、「菌糸体は死の命、腐敗の命、死んでしまったものの命」225Pだとされ、「菌糸体は、時の進みを遅くするのだ。(中略)こんなふうにして菌糸体は、時間を支配するのである」227P、とも語られ、重要な意味を与えられている。植物でも動物でもない菌糸体は、樹の垂直性を拒否し、あらゆる場所に伸びる。菌糸体はトカルチュクの他の作品でもみられる作家通有のモチーフでもあるらしい。

「神」もまた本書では重要なモチーフで、領主が熱中する不思議なインストラクションゲームの冊子にあるテキストでは、神は八つの世界を創造しながら、人間に見放された苦しみを語ったり、老いた神が自分の外の秩序に組み込まれていたり、神の絶対性が剥奪されている。

「神の時」という章に重要なポイントがある。

ふしぎなことだ。神は時間を超えているのに、時間と、その変化のなかに顕現するなんて。もしもあなたが、神が「どこに」いるのかわからないと言うならば(ときどきこういうことを尋ねるひとがいる)、変化し、動く、あらゆるものを見るべきだ。形をとらないもの、波うつもの、消えてしまうものすべてを。
中略
 人びとは、かれら自身がプロセスのなかにあるけれど、恒常的でないもの、いつも変化しているものを恐れる。だからこそ、不変などという、そもそも存在しないものを考えついた。そして、永続的で変わらないものこそが、すばらしいと思っている。だからひとは、不変を神に帰してきたし、神を理解する能力を、こんなふうにして失った。
154P

「神」と「時」はまさに本書の基底をなす重要なテーマにもなっていて、二つのテーマの交差する章がこの長篇のちょうど中間地点にあるわけだ。


モノとしては作中で新しく建てられ、ラストでその無残な様子を見せる家もそうだけれど、特に、序盤にある「ミシャのコーヒーミルの時」が重要だろう。

人はじぶんが動物よりも植物よりも、とりわけ、物よりも濃密な生を生きていると思っている。動物は、植物や物よりも濃密な生を生きていると感じている。植物は、物よりも濃密な生を生きていることを夢に見る。ところが、物は、ありつづける。そしてこの、ありつづけるということが、ほかのどんなことよりも、生きているということなのだ。59P

そしてコーヒーミルは移ろいやすさに関係し、いっさいがこれを中心に回転する、世界にとって人間より重要なものではないか、と語られ、「ミシャのコーヒーミルとは、プラヴィエクと名づけられたものの、柱ということなのかもしれない」(61P)とも呼ばれている。挽くというイデアの小さな一部、と呼ばれるコーヒーミルが、豆を挽く、回転する、という変化と時間の象徴となり本作の重要な柱に据えられる。世界のなかのプラヴィエク、そしてそのなかのコーヒーミル。このコーヒーミルは最後、ゲノヴェファの孫娘が回し、街の外に持ち出されることで本書は終わる。宇宙の中心を回すコーヒーミルはまた別の場所で中心を作っていくわけで、プラヴィエクからの移動が最後に置かれている。

移り変わりということでは、ミシャのこの部分がやはり重要に思える。

果樹園で彼女はこう考えた。この木々が花を咲かすのを止めることはできないけれど、花びらはぜったいいつか散るし、葉もまたやがて色を変え、風に吹かれて落ちる。翌年もまたおなじことが起きるだろうという考えは、ちっとも彼女を慰めなかった。だって、そうではないと知っていたから。あくる年、木はまたべつの木になっている。大きくなって、枝だってもっと繁るだろう。べつの草が生え、べつの実がなる。花咲く枝も、くりかえされない。「わたしは二度と、こういうふうに洗濯物を干さない」ミシャは思った。「わたしはぜったい、くりかえさない」252-253P

この部分で思いだされるのは、同じく〈東欧の想像力〉の第一弾、セルビアユーゴスラヴィア)の作家ダニロ・キシュで、彼の『死者の百科事典』の表題柵の以下の部分だった。

人間の歴史にはなにひとつ繰り返されるものはない、一見同じに見えるものも、せいぜい似ているかどうか、人は誰でも自分自身の星であり、すべてはいつでも起きることで二度と起きないことなのです、すべては繰り返される、限りなく、類いなく。(だから、この壮大な相違の記念碑、『死者の百科事典』の編者たちは個なるものにこだわるのです、だから、編者たちにとっては一人ひとりの人間が神聖なのです。)

世界文学のフロンティア 3 夢のかけら - Close To The Wall

時間は流れ変化する、その一回きりのかけがえのなさ。84の「時」と題されたすべての章に神は宿るわけだ。

さまざまな形でプラヴィエクに住んでいる人たちの人生の一時が切り出され、すべて読み終えた後にまた次第になんとも言いがたい沁みるような良さが感じられる一作だった。アニミズムや季節の移り変わりという点を捉えてややもすると日本的と言われたりしそうな気配もないではないけれども、絶対的な神を否定する批評性がきわだっている作品でもある。
note.com
訳者解説がこちらで公開されている。ここで指摘されている「歴史の終焉」は、東欧の社会主義の終わりとも重ねられたものだろう。
shoraisha.stores.jp
本書は松籟社の木村さまにご恵贈頂きました。ありがとうございます。

田中里尚 - リクルートスーツの社会史

リクルートスーツの社会史

リクルートスーツの社会史

ご一緒した『北の想像力』では清水博子安部公房を論じていた田中さんの専門が女性史や服飾文化だということは知っていたけれどそちらの仕事は読んだことがなかった。そんなおり刊行された本書は、就職活動で着られるスーツという限られた存在に的を絞りながらも500ページを超える大部の服飾社会史となっており、とても面白い。戦後社会を就職活動におけるファッション、の面から切り出したかのような感触もあり、ただ参照文献に漫画小説ドラマが出てくるというだけではなく、表現としての服飾とそれをめぐる言説への繊細なテクストクリティークに一種の文芸評論の趣を感じる瞬間もあった。

はじめにリクルートスーツの前史として、戦前の背広=スーツがどのように受け入れられてきたかの来歴をたどり、背広が大人の象徴としてみなされシンプルな紺のスーツがスーツの序列の始まり、最下部に位置することが確認される。この「スーツの階梯」概念は本書の重要な軸となっている。戦後もしばらく就職活動は学生服で行なわれていて、そうしたツテをたどった就職が自由化される七〇年代初頭、学生服のかわりに着用されたのがスーツで、就職協定の確立が現在のような新卒一括採用の流れを生み、1977年ごろ、就職活動向けのスーツの売り出しがリクルートスーツの始まりとなる。

ここからリクルートファッションが多様な言説のなかでどのように捉えられ、何がなされるべきとされているのか、といったことを書籍だけではなくファッション誌、就職情報誌、新聞その他さまざまなメディアから分析し、その流れを叙述していく博捜ぶりは圧倒される。

リクルートスーツは、社会人にふさわしい服装規範が凝縮された服装のことである。したがって、リクルートスーツを歴史的に追跡していく経験は、社会人にふさわしい服装規範とは何か、という問題に対する解答の歴史を見ていくことと同じであった。506P

この大著の議論の要諦をまとめるのは難しいので印象に残ったところをざっと書いておくと、やはり好景気だと服装の自由度が高かったりだとか、過去女性の服装の自由度が高かったのは「職場の花」という周縁化された存在なことと表裏一体だったことなど興味深い。雇用機会均等法前後での女性のリクルートファッションの変遷もたどられているけれど、それ以前の時代では女性のパンツスーツがかなりの禁忌で、着てくると取引先に失礼だ、と怒られたのは今では理解できない話だろう。女性のパンツスーツ、当時としては男性が化粧するような意味合いがあったのだろうか。パンプス、ハイヒールの強制やその批判運動についても言及されているけれど、職場の女性が化粧を求められるのは最大の差別ではないかとは思う。九〇年代の就活では素顔でも良かったらしいのは興味深い。

リクルートファッションやリクルートルックという言葉は以前から存在したけれど、「リクルートスーツ」という言葉の成立は二〇〇〇年代だという。これは就職活動の長期化によってスーツが複数必要になり、しかし経済的な問題でコストパフォーマンスが優先され、リクルートスーツの日用品化が起こる。バブル期の数十万を掛けたリクルートファッションはリターンが見込める「投資」だったのが、一万ちょっとで就活でしか着ない日用品と化したリクルートスーツへ、という経済の困窮を背景にした歴史も、いかに日本が貧困化したかを思い知らされる箇所だ。

すなわち、就職活動の長期化でスーツが日用品化し、そのスーツを陳腐と見なす見方が提出され、スーツ間の区別が信憑される。そうしたファーストスーツとしての認識が失われつつあった時期に、就職活動の辛さなどを象徴する特殊な否定性を帯びて用いられるようになったのが「リクルートスーツ」という言葉だと言えるのである。483P

地位表示の指標でもあったスーツの階梯からリクルートスーツが切り離され、独自のカテゴリと化す。ここに、スーツを象徴とする企業社会での出世が断念されている状況が反映されているのではないか、と著者は言う。出世のイメージとも重なるスーツの階梯からその始まりにあたるはずのリクルートスーツが切り離されることは、就職と企業で働くこととの切断ではないか、と。


スーツの標準的な色だったチャコールグレイがドブネズミ色とされて忌避された経緯や、ビジネスでは禁忌だった黒がなぜ近年急に標準となったのかなど、さまざまにたどられるリクルートファッションについての記述の厚みは盛りだくさんだけれど、本書においてはこの500ページを超える厚さこそが必要だった。

紺からグレー、グレーから黒と、標準となる色彩のモードが変化するときも、当初は差異化しようする動機が見える場合がある。しかし、その動機を大多数が同時に持つがゆえに画一化という結果に帰結してしまう。すなわち、現象の結果を見れば、リクルートスーツを着る若者の心性は画一的と見なせるが、動機を見ると個性の追求とも言えなくはない。だから、学生の心性が没個性的であるとは、リクルートスーツという現象だけではにわかに判定できないのである。
 しかし、若者は没個性で画一的であるという心性をリクルートスーツという現象で例証したい、という言論は多数生じている。むしろ、その理由付けの方が画一的な常套句となってしまっているようにも見える。この現象は、現在を画一的と見なすことで、過去を画一的ではなかった時代として位置づけようとする欲望によって突き動かされているようだ。488P

もし、没個性や同調圧力の強さを論じるのであれば、学生のそれではなく、日本におけるスーツ着用の根拠に関する議論の少なさを指摘すべきであろう。就職活動生の心性が「画一的」だからリクルートスーツが変わらないのではなく、面接におけるスーツ着用の根拠の議論がなされず、お互いに言論を確かめ合って規範をつくりあげてしまっているから変わらないのである。若者に変化しない責任を押し付けるのは、あまりに酷であるし、四〇年前の若者も、同じように画一的とみられていたことを忘れてはいけない。508P

凡庸な画一性の象徴にみえるリクルートスーツにも内部にはゆらぎがあることや、その歴史にはさまざまな流行と変化があることを丁寧にたどり返し、リクルートスーツの画一性とはそもそもビジネススーツの自明性を疑わない社会の側に由来するのではないかと切り返してみせる。就職活動がなぜスーツで、社会人の標準的な服装がなぜスーツなのか。ここを疑わないメディアや大人たちの側からリクルートスーツがいかに画一的なのか、という画一的な言説が出てもそれは鏡に文句を言うようなものだろう。だからこそ本書はスーツの歴史性から説き起こされるわけだ。


あとがきで著者はもともと、「画一的なリクルートスーツを批判する目的で本書の執筆を始めた」と書いている。そして調査を進めていくうちに、流行の反映や細部の個性などを見いだし、ついに、リクルートスーツはつまらないスーツではなく、スーツの意味体系の要にあると言うことを発見したという。著者は自分が就職活動の面接でつまらない、と言われたことを回想しつつ、こう言う、

リクルートスーツもまた、平凡で、地味で「つまらない」服だと思われている。私は書きながら、勝手に仲間意識を抱き、リクルートスーツに同情的になっていた。そのうち、リクルートスーツが「つまらない」スーツではない、ということを発見した。リクルートスーツは、スーツの意味体系の要に位置するスーツなのである。リクルートスーツの「つまらなさ」は、浮薄に変化を志向する社会の中で「平凡さ」が被る言われなき悪名だと思う。

「つまらない」ものとは基本的なものである。基本的なものがなければ、多様もない。平凡なものは、基本的なものである。基本的なことは、重要なことである。「つまらない」ものに見えても、それは、重要なものであることが往々にしてある、ということをリクルートスーツの社会史は照らし出しているのである。リクルートスーツが「つまらなく」見えるのは、差異が、標準を否定項として表現するからである。517P

終盤ファッション誌の記事からリクルートスーツをスーツの階梯に位置づけ直そうとする姿勢を読み込むのは、この基本の重要性を確認するためでもある。著者がリクルートスーツを擁護するのはしかし、花森安治にならって、「服装的自覚を持って選ばれた基本的なスーツであるという条件が不可欠である」とも述べる。

リクルートスーツ」という凡庸なつまらないとされたものに踏みこんでみることで画一的と見えたものが持っている重要さを発見すること、本書はこの500ページを超える分量を以てそのことを証し立てている。

『パラドックス・メン』「幼な子の聖戦」「犬のかたちをしているもの」「会いに行って――静流藤娘紀行」「かか」「改良」「正四面体の華」『黄泉幻記』『夢の始末書』

パラドックス・メン (竹書房文庫)

パラドックス・メン (竹書房文庫)

チャールズ・L・ハーネス『パラドックス・メン』。記憶をなくした主人公アラールが、奴隷制が復活したアメリカ帝国で盗賊という秘密結社に身を投じ、東西冷戦を意識させるアメリカ帝国と東方連邦があるなか、アラールの自分とは何かという探究が、さまざまな謎めいた人物たちによって織りなされる過去と未来の物語。およそ70年前に書かれワイドスクリーンバロックの名を与えられ、幻の傑作と呼ばれたSF長篇の本邦初訳。

突拍子もなく荒唐無稽さを想起させる惹句に対し、今読むと、面白いけど端正な感触すらある速度感のSF活劇で思ったより普通な印象もあった。思ったより普通かというといや結構おかしかったしやっぱムチャだな。傑作!とまでは言わないけど、充分面白い。XがAか非Aでしかないアリストテレス的世界をひっくり返すとか、屈性計画理論とか、あれが!というところは驚かされた。銃弾をはじく盗賊アーマーの存在がレイピアでの決闘を可能にし(ガンダムぽい)、ジョジョっぽさを指摘する人がいるのもわかる、理屈をまくし立てながらのバトルや、人間が目を光らせて映像を投影するなど、奇抜でいってみればコミカルな発想が多々見られるのがおかしくていい。一番驚いたのは3○○ページの○○章と章題のページ数合わせかも知れない。この本作でも大きな意味のある数字を揃えたこれは偶然なのかどうか。冷戦と人間の愚かさと未来と、という直截なメッセージ性がある。

荒唐無稽だったり強烈なエネルギーとかだったりは、ベイリーやベスターとかのほうがというところはあるにしろ、系譜をたどる意味でもこの重要作品がしかも文庫で出たのは快挙だろうし、竹書房中村融ありがとうというほかないな。詳細な出版史をたどる解説も貴重。作品内容に踏みこんだ解説も読みたいところ。序盤から気になってたところがラスト解かれるところもおお、と思ったんだけど言及するだけでネタバレか。とにかくも、このカバーコラージュも格好良い一冊だ。

すばる 2019年 11 月号 [雑誌]

すばる 2019年 11 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2019/10/04
  • メディア: 雑誌
木村友祐「幼な子の聖戦」(「すばる」11月号)。青森県の過疎化する村での降って湧いた選挙戦を通じて、東京から引き上げて暮らす蜂谷が幼馴染みの擁立に協力すると誓った直後、保守派陣営から脅迫されて年嵩の候補側に立ち、幼馴染みの選挙妨害に勤しむことになる。醜悪な現実の縮図とともに、蜂谷の心中にわだかまる虚無が行動へどうつながるかを描くテロリストものでもあって、その点で大江とあわせて読むべきかも知れないけれども、課題を与えられることで生に意味を充填される現代的な「ネット右翼」の話にも感じられる。肝は自分でどんな理屈で行動を正当化しようとも、それが愚かしい現状維持の「システム」に貢献しているだけではないか、食い物にされているだけではないか、という反省的視点がなければ、というところ。現実を批判する「信仰」のモーメントがここにかかわる。オリンピックに食い物にされた復興、家父長制を前提にした保守的な選挙と、老人という「資源」、さまざまなものを「食い物」「資源」と見なす策動のなかから打ち立てられる東北弁の語りという蜂の一刺し。

すばる 2019年 11 月号 [雑誌]

すばる 2019年 11 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2019/10/04
  • メディア: 雑誌
すばる文学賞受賞作、高瀬隼子「犬のかたちをしているもの」(「すばる」11月号)、卵巣腫瘍摘出手術を受けた女性の語りで、同棲相手の男性が別の女性を妊娠させてしまったものの、その相手女性から子供を受け取って欲しいといわれた、奇妙な三角関係から語り手の思索が始まる。手術の後でも薬を飲み続けていて、男性を愛していても性的接触がすぐに嫌になってしまうという語り手の感覚から発する叙述はかなり読ませるけれど、家族を持ち子供が生まれれば世界はシンプルで優しくなる、という現状への批判的観察を述べていながら最後は子供を作ろうとするラストの評価が難しい。性と愛が区別できるか、とか、語り手にとってもっとも大きな愛はきょうだいのように育った犬だったことともかかわって、産んだのでない子供をうけとる話から始まる、この社会への違和感を言語化してゆくのは面白いんだけれど、そこで選考委員がいうように「やっぱりそうなるよね」という展開がやはり物足りない。角田光代の言うように、もらって欲しかった、とは私も思った。相手女性が子供が生まれて子供嫌いだったのが手放せなくなった、というように子供を産まなければ愛情を持てないのではないかと語り手が考えているんだろうか。『レズビアン短編小説集』の解説で、セアラ・オーン・ジュエットは「犬のように相手を愛す」という表現が肯定的に使われていると指摘されていることを思い出した。犬を愛することが愛の基底になっていること。

群像 2019年 12 月号 [雑誌]

群像 2019年 12 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/11/07
  • メディア: 雑誌
笙野頼子「会いに行って――静流藤娘紀行」第五回最終回(「群像」12月号)。台風15号から始まっていて、前回に続いて今回は19号の暴風による体感を「実況」しつつ、台風、日本の政権、そして藤枝静男の戦争体験を災難・危機として重ね合わせつつ、藤枝静男の文学、自我をたどる。 「師匠、私達日本人にはもう国がありません」「雨も風も使わずとも国民は殺せます」、という直近の自然災害と政治的過程による危機の感覚のなかで、「イペリット眼」や「犬の血」といった「医者的自我」によって「戦争の恐怖をとことん抉りだした」藤枝を読んでいく。医学的な発見の喜びと患者の苦しみという悲しさの同居という医者の矛盾や、患者から解放されることが仕事を失うことと繋がることや、他国人を犠牲にし、少年を犠牲にして自己をも犠牲にする人間を医者独自の視点からこそ「戦争の異常空間が現れ渡るのだ」と。医者自身の矛盾を剔抉するにとどまらない藤枝の自己への厳しさについて、あるいはこうも書かれる。「彼は優しすぎる。つまり優しさ故についた傷は深く、その深さが彼の激烈さを生む」(283P)と。女性についての態度の箇所だけれども、戦争への毅然とした態度もまた生き延びた感覚によるだろうか。

「師匠は国民が戦争につっこんでいった状況を、騙されるのとは別に、まず本人達が望んで、というか異様な真理に乗せられ理性なく加担したのだと考えている。天皇についても、天皇を支持して、天皇制と天皇をわける事が出来なくなるのが、一般大衆の性だと理解している」276P

藤枝静男の自我と小説的に作られた私とのあいだを読み込みながら、笙野は最後に自分の小説が読まずに送り返されそうになったときでも、あの藤枝静男が褒めた人なら、ということで編集者に読んでもらえたことを記している。「彼に褒められた事は本が出なくても十年残っていた」。本作はこの十年を大事にしつつ、デビューから四十年が経とうという現在、読むことと読まれることの渾身の応答として書かれている。また藤枝は生き延びた戦後を書き、笙野は来つつある危機を実況しつつあり、時間的に対照的な動きがある。危機のまさにただなかで書かれた今作は危機の後にも読まれるはずだ。

群像 2019年 12 月号 [雑誌]

群像 2019年 12 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/11/07
  • メディア: 雑誌
高原英理「正四面体の華」(群像12月号)、人から聞いた三つの自己消滅的発言を三角に置いた場合そこから伸びる想像上の頂点を含む正四面体のイメージ、に駆られたライターが、自分の心が不要だと語った幻の作家を探し求めるなかで幾重もの虚構に突き当たる、メタ虚構幻想小説、と言えるか。小説と虚構、評論と虚構について。超常的な何かが起こるわけではないけど、幾何学的イメージや結晶の比喩、書くことへの問いが虚構性を滲ませるなどやはり幻想小説的に感じる。倉数茂『名もなき王国』とも通底する、なぜ書くのかという問いをメタフィクション的な趣向で展開する短篇で、そう長くないのに密度が濃い。というか入り組んだ関係をまだちゃんと整理できてないからか。擬音や副詞に独特の表現がちょくちょくあるのが印象的。しかしこの伝聞に伝聞を重ねた書き出しが胡散臭すぎて面白い。

 よく晴れた夏の日、遠く海を望む古い洋館のヴェランダ で、柔らかい南風に吹かれながら、
「おじさんは綺麗なものを全部見てしまった。だから死ぬんだよ」
 と語った人は著名な作家で、そのしばらく後に自殺した。
 こんな話をある雑誌の記事で読んだと告げる人がいた。
 誰が書いた記事だったか聞いていない。

文藝 2019年冬季号

文藝 2019年冬季号

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2019/10/07
  • メディア: 雑誌
文藝賞受賞作を読む。宇佐美りん「かか」。独特の家庭内方言ともいうべき娘の語りで母親との愛憎関係を描きつつ、父親のセクハラやDVに怒り、家庭事情やSNSでの女性同士のやりとりで嘘をついて流れを変えようとする承認欲求の様相なども描きつつ、母親を妊娠したかった、という独特の表現に至る。祖母に愛されず夫とも離婚し、自傷行為のように暴力を振るう母は毒親のようだけれども最愛の母でもあるその人の子宮摘出手術を前に、熊野に詣でる娘の道行き。語り手は父について語りつつ、以下のように叫ぶ。

「……うーちゃんはにくいのです。ととみたいな男も、そいを受け入れてしまう女も、あかぼうもにくいんです。そいして自分がにくいんでした。自分が女であり、孕まされて産むことを決めつけられるこの得体の知れん性別であることが、いっとう、がまんならんかった。男のことで一喜一憂したり泣き叫んだりするような女にはなりたくない、誰かのお嫁にも、かかにもなりたない。女に生まれついたこのくやしさが、かなしみが、おまいにはわからんのよ」28P

女性へ向けられる視線への怒りと母殺しのモチーフが絡み合った語りで、ドメスティックなテーマが母を妊娠する、という幻視的テーマに帰着する。作者は笙野頼子『母の発達』を読んでいるのか気になる。興味深いのは仏像に対して性欲を抱き、自分に男性器が生えてきてほしい、そうしてあの仏の腹に子種を植え付けたい、と語るところ。もう一作の「改良」が女装を扱っていることとあわせて面白い。

文藝 2019年冬季号

文藝 2019年冬季号

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2019/10/07
  • メディア: 雑誌
文藝賞受賞作その二、遠野遥「改良」。「かか」と対照的に自己に対し距離感ある語り口で、女装を磨きつつある男性が被る性暴力を描いている。端的に言えば暴力をめぐる話といえ、レッテル張りという決めつけと性暴力の二つの暴力が交錯する瞬間の話のように思う。文体について磯﨑憲一郎が現実を揺るがし続けている、というのはこの決めつけの暴力をずらすことと関わりがある。幼少期に男は何故水着で上半身を出すのか、と疑問を口にしていたら、トランスジェンダーだと勝手に思われ、理解があるんだと言われ、結局性器をいじらされる、という経験と、女装した姿を見てほしいと思って馴染みのデリヘル嬢を呼んだら、言葉責めのつもりで男は化粧なんかしちゃいけないよね、変態さんだね、男性器なんていらないよね、と言われ激昂するくだりはまさにこうした「圧力や凡庸さ」という決めつけの暴力の瞬間だろう。男女の差異の常識に疑問を呈したり、女装はしても女性になりたいわけではないということが理解されない。そこで重要なのが、コールセンターの同僚の女性が、小学校の頃「ブス」と言われたことで、以後の人生でドラムを始めたり明るく喋ったり声だけでできるバイトをしたり、ということが「ブス」でもできることを探してのものだったんじゃないか、という「怖い話」を語る場面だ。見た目によってすべてを決めつけられてしまう暴力が人生を決定してしまうおそろしさ。この女性の経験を聞いて、男は性欲が消える。他の箇所では決めつけが性暴力への動因となるけれど、ここでは理解あるいは共感が性欲を消している、という仕組みになっているように読める。しかしこの主人公、その女性に好意を持っているけれどもそれを一切語ってない、という理解でいいのかな。部屋に泊まり込んだとき、なんとかセックスに持ち込もうと苦戦するくだり、おいこいついきなり襲おうとしてるのかと思ったけど、そう理解したほうが良い気がした。不器用さの演出か。出版社の作品紹介について、作者はジェンダーセクシュアリティや孤独の話ではない、というけれど、女性性をまとった瞬間に振るわれる暴力、が描かれていて、性と暴力に密接な関係はある。美しくあるための戦いが、ボロボロになった主人公がその姿でその同僚の女性に会いに行くところで終わるのはなかなか印象的。

黄泉幻記

黄泉幻記

  • 作者:林 美脉子
  • 出版社/メーカー: 書肆山田
  • 発売日: 2013/06
  • メディア: 単行本
林美脉子『黄泉幻記』。本作では病床の母とその死が中心に置かれており、落差のある母親の口語表現がユーモアを醸しつつ、林美脉子流の宇宙的・硬質な表現によって病室、空知野、銀河、黄泉を接続する「幻記」の方法が展開される。「凍沱の河口」もだけれど、「夕焼ける三〇一号室」はこんな風で、母の言葉にちょっと笑ってしまう。

 全知の星くずを夕映えの空にびっしり詰めて 夢の深さを測量する母が 残余の非の穴を覗いてつぶやいている
 隣の人は狐つきで
 夕方になると窓を開けて
 黒い鳥と話をするんだ
 いつまでも窓を開けているから


 寒いんだよね~

「凍沱の河口」の三途の川を渡ってきたとおぼしき者に向かって、「帰れ」と終わるのが彼我の距離をいやおうなく意識させ、それは「飛ぶ氷礫の国道十二号線」で繰り返される「うつし世とかくり世の」の狭間を通って、「非の渚」の「死がゆるしなら/非在が愛」へと至る、ような。いろいろな引用やギリシア語も引かれてるけど、韓国語や韓国の死にまつわる言葉がときに挾まれることがあり、北海道と宇宙のあいだにまた横の広がりも書き留められている。

夢の始末書 (ちくま文庫)

夢の始末書 (ちくま文庫)

村松友視『夢の始末書』。中央公論社の文芸誌「海」の編集者だった著者が、入社から小説家になって退社するまでの十八年にわたる編集者生活のなかで出会った小説家たちとの時間を描く回想小説。六〇年代末から八〇年代にかけての時代の一断面もうかがえ、さらっと読める。幸田文武田泰淳武田百合子野坂昭如唐十郎舟橋聖一永井龍男尾崎一雄後藤明生草森紳一水上勉色川武大田中小実昌川上宗薫、小檜山博、赤瀬川源平椎名誠吉行淳之介、が主人公が実際に付き合った人たちで、これだけの人たちの裏話なわけでそりゃあ面白い。これから書くから朝四時にインターフォンを押してくれ、と言われてその時間に訪れたらインターフォンが壁から剥ぎ取られていた野坂昭如や、盲目のはずが見えているとしか思えない情景を語る舟橋聖一とかインパクトのあるエピソードも多い。著者は、草森紳一に勧められてライターを始めている。そして小説を書きはじめたのを知って雑誌「文体」に載せてみないかと声をかけたのが後藤明生だった。持ち込んだ作品を添削して小説家と編集者があべこべになったり、会話文に後藤明生ぽい「え?」を繰り返したり、ちょっと文体模写してる気がする。このとき使ったペンネーム吉野英生は、吉行淳之介野坂昭如唐十郎(大靏義英)、後藤明生の四人から持ってきた名前で、この四人に書くのを止めろと言われたら止めようと思っての命名だという。また、他ジャンルで活動していた作家に小説を書かせる試みをしばしば行なっていて、唐十郎赤瀬川源平椎名誠などがそうらしい。いろんな書き手を小説家デビューさせた挙句、自分がデビューするわけだ。中盤あたりから「作家とのライブという非日常」というこの生活を括る言葉が出て来て、それはいいんだけど終盤飽きるほど繰り返すあたりとか〆の感じとか、洒落た感じを出そうとした雰囲気がなんか八〇年代という時代を感じさせる。