『薔薇の名前』『祇園「よし屋」の女医者』『推し、燃ゆ』『レイシズムとは何か』

一月に読んでた本。

ウンベルト・エーコ薔薇の名前

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

今年年始に読んだ大作はこれ。途中これ選んだのは失敗だったか、と思った瞬間もあったけど、さすがに面白かった。中世、山上の修道院をバスカヴィルのウィリアムと見習修道士のアドソが訪れ、皇帝と教皇の対立にからむキリストの清貧論争という異端問題を背景に、次々起こる殺人事件に翻弄されながら書物の迷宮のなかで言語、書物、記号、徴の読解を問う、メタミステリ長篇。

記号論学者の最初の小説で世界的なベストセラーになったけど、よくこれがそんなに売れたなと思えるほど宗教的議論が豊富に盛られた重厚な作品で、「バスカヴィル」のウィリアムとアドソというのは明らかにホームズとワトスンのもじりのように、ミステリ的な謎解きの面白さは確かにあるけれどそれはあくまで一部で、その枠組みを使った記号の解読や真理の探求が、書名と逸した本文のように、名と実の関係をめぐって問われてる印象がある。これは最終的に神とその実在の問題にも繋がるわけだけれど、枠の語りも本篇の内容も、書名や断片のみ残る失われた書物を求める学者のロマンもうかがえる。記号から真実を導き出す推理を問い直すアンチミステリ的趣向もある。虚構や別の物を通じて真理を捉えようとする笑い、あるいはフィクションのテーマとも関連があって、笑いは宗教的原理主義を相対化するものとして置かれているようにも見える。解説にあるイタリアの極左テロ、モーロ事件が執筆の背景にあるというのは、小説の内容とも関連して興味深い。

おそらく、人びとを愛する者の務めは、真理を笑わせることによって、真理が笑うようにさせることであろう。なぜなら、真理に対する不健全な情熱からわたしたちを自由にさせる方法を学ぶこと、それこそが唯一の真理であるから (下巻370P、強調は原文傍点)

ここで、アリストテレースは笑いを誘う傾向を、認識の価値さえ高める一つの善良な力と見なそうとしているのだ。なぜなら、辛辣な謎や、予期せぬ隠喩を介して、あたかも嘘をつくかのように、現実にあるものとは異なった事象を物語ることによって、実際には、それらの事象を現実よりも正確にわたしたちに見つめさせ、そうか、本当はそうだったのか、それは知らなかった、とわたしたちに言わしめるからだ。この世界や人間たちを、現実の姿や、わたしたちがそうだと思いこんでいる姿よりも、悪しざまに描き出すことによって、要するに、英雄叙事詩や悲劇や聖者伝などがわたしたちに示してきた方法とは異なり、悪しざまに描きすことによって、明るみに出された真実。

記号と内実とが一対一で対応するべきだという思考を原理主義的なものとして批判するような印象。名前のみ残ったものとの対比で名のないものが最後に浮かび上がってくるのは解説読んでその意味を知って、なるほどなあ!となった。清貧論争での所有か使用権かという対立も名と実のモチーフの変奏かも知れない。読解の努力と読解の失敗が両輪のようにあって、そういえば「初めに言葉があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった」と書き出されるプロローグに本書のテーマがすでに書かれていた。「真理は、面と向かって現われてくるまえに、切れ切れにこの世の過誤のうちに現われてきてしまう」「片々たる忠実な表象を、たとえそれらが胡散臭い外見を取ってひたすら悪をめざす意思にまみれているように見えても、丹念に読み抜かねばならない」ともプロローグにはある。

言語、記号、表象、真理そして学問。ウィリアムは繰り返し閉鎖的な学問を批判しており、書物は読まれ、学問は開かれていなければならない、という姿勢がこの山上の閉鎖的で迷宮的な修道院と対決する。読まれ開かれ書物同士のネットワークを繋いでいくものとしての学問。

「書物にとっての喜びは、読まれることにある。書物は他の記号について語る多数の記号から成り立つのだが、語られた記号のほうもまたそれぞれに事物について語るのだ。読んでくれる目がなければ、書物の抱えている記号は概念を生み出せずに、ただ沈黙してしまう。(下巻226P)

訳者は翻訳にかんしてなかなかこだわりがあってエーコからのメモを読まずに訳したことが語られているけれど、それより元々は共訳の予定だったけれど遅延して結局二つの訳ができてしまったという経緯のほうが気になる。この全訳したのに不採用になった林和宏という人はギャラとかもらったんだろうか……。

「100分de名著」のテキストに和田忠彦が書いたものがあって、それも読んだ。話の筋をなぞりつつかみ砕いた解説がなされており、ホルヘという人物のモデルになっているボルヘスとの関係や、モーロ事件の話や、テロともかかわる差別、陰謀論に触れている。特に、ユダヤ人差別について触れた箇所では、作中の、力を持つ者が貧しい者たちの暴力が自分たちに向かわないように、誰が敵なのかを指し示しているという描写を引いており、陰謀と差別の機能について指摘する箇所は重要な部分だろう。

『『バラの名前』覚書』も読んだけど、訳者谷口勇の註釈によると、上で私が「名と実」と呼んでいたのは、「普遍〔概念〕」VS「個体〔=個物〕」という普遍論争のキーワードで、翻訳では後者が全部「個人」と訳されてしまっているという批判がなされている。

「バラの名前」覚書

「バラの名前」覚書

一場の夢は一巻の書物なのだ。そして書物の多くは夢にほかならない (下巻289P)

藤元登四郎祇園「よし屋」の女医者』

ディック論や荒巻義雄論で知られる評論家・精神科医の小説デビュー作で、近世京都祇園を舞台に座敷牢に閉ざされた「狐憑き」の女性の病の原因を探りながら、迷信を排した精神医療の過程を、京都の風物を巧みに散りばめながら描いた歴史医療小説。著者とは共著『北の想像力』などでご一緒したこともあり、評論家としての仕事は知ってはいたけれど、このような小説を書いていたとは知らず、意外に思って読んで見たらこれが堂々としたエンターテインメントになっていて驚いた。同時に、精神医療とはいかなるものかを描くテーマ性も込められている。

一年を通した京都の土地や文化の書き込みも丁寧で、狂女の治療過程や主人公となる茶屋の娘月江の描写においても狂言や舞その他の文物がきっちり重要な役目を果たしているし、登場人物のセリフも京言葉で書かれていて、私には正確さはわからないけれど、とても雰囲気が出ている。藤元さんは九州在住だと思っていたらこのために京都に移住したというから凄い。それだけでなく、本書の軸は迷信と医術が渾然とした時代を舞台に、「狐憑き」とされた女性を医学の対象として把握し、それを治療していく過程を描写していくのが主眼となる。

月江の師源斎は杉田玄白前野良沢の孫弟子にあたると設定されていて、そうした「新しい医学」を学ぼうと江戸に行った経歴がある。患者小雪の治療においても源斎はまず薬物治療から始めるところはなるほど近代医学っぽく、「医学は迷信ではない」「医学はちゃんとした根拠を求める」と述べる。しかし、源斎の薬物治療と同時に「狐憑きというのは、人間同士の関係がもつれてどうしようもなくなった時、いい口実になるのは確かだ」(212P-)、と迷信の理知的な解釈とともに、月江の献身や家族問題の解決も不可欠な、理と情双方からのアプローチが必須になる。患者に対して抑制的な源斎の原理原則的なやり方だけでは解決できないと、茶屋の娘ならではの人情の機微を読みとる月江の資質も活かしながら、精神の不調を治療するとはどういうことなのか、というのを近世を舞台に基礎的なところから描き起こしているような小説になっている。

溺れる者を助けようとして溺れてはならないという戒め、「治して上げる」という思い上がりへの反省など、医療の原則なども折々に描かれ、迷信から医学へ、という過程とともに、学問を学び女性が医者となるのも、近世から近代へという意味が込められているかと思われる。九州から京都へ移住しての京都文化の摂取のみならず、専門外だろう中国日本の古典的文献の引用も散りばめられていて、このデビュー作の前に六本の長篇の習作を経ている、という本気度には圧倒されてしまう。

解説で触れられている雑誌「メタポゾン」第11号の藤元論文を読むと、精神医療の専門家としての本書の輪郭がより明確になるところがあって、月江のようなアプローチは、患者の言動を症状としてのみ捉えようとする精神科医の態度を越えた、本来そうあるべきものとして捉えている印象だ。

季刊メタポゾン第11号 特集大西巨人 (2017年冬号)

季刊メタポゾン第11号 特集大西巨人 (2017年冬号)

宇佐見りん『推し、燃ゆ』

文藝 2020年秋季号

文藝 2020年秋季号

  • 発売日: 2020/07/07
  • メディア: 雑誌
直近の芥川賞受賞作。あるアイドルの男性にのめり込んだ女子高生が、ある日その「推し」がファンを殴ったと炎上しているのを目にする。部屋も汚れバイトもミスばかりで普通でいることができず、推しを追い解釈し続けることでようやく人のかたちを保てている主人公の、信仰とその終わりを描く。

宇佐見はデビュー作も読んでいるけれど、これもパワーのある小説で、学生などにたいへん受けているらしいのも読んでみてよくわかる。薄々この主人公は発達障碍とかかなと思っていたら作中でも診断が出たことが言及されており、「普通」でいることのできない少女のただひとつの拠り所が「推し」だった。読んで思い出していたのはつづ井さんの、社会人として働きながら「推し」への愛やその活動を軽妙に描くエッセイ漫画で、そういう普通の人間として生きて行けるクレバーさがない人間の、生そのものがかかったファン活動の切実さは、つづ井さんを読んでも思ったように信仰に似る。

「推しは人になった」という一文は、その信仰が終わった印だった。解釈の形で「推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ」といい、対象の存在を感じることが自らの存在を感じることに通じるわけで、それが終わることは矮小な骨のような綿棒の散乱として描かれる。崩壊のカタルシスとともに、この主人公はこれからどう生きていくのか。そして、このように生きるしかない人もまた多数いるんじゃないかということも思ってしまうし、文章が書けても日常生活や仕事が全然できない人、というのも結構いるような気がする。そういうリアリティがある。

興味深いのは「携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う」というところで、距離があるからこそ関係が壊れることもないし、感じる安らぎもある、と書かれているところだ。アイドル論としての意味のほかにも、この距離感と「解釈」し続けることが重要なところは、読むことそして書くこと、として文学の営為そのものだと思っていたら、作者が主人公にとっては「推す」ことが背骨だけど、自分にとっては小説が背骨だ、と言っていて、まさにそういうことだろう。

当のアイドルグループが男女混成なのも珍しいんだけど、「推し」の誕生日が八月十五日なのと、メンバーに「明仁」がいるのはとても示唆的。「推し」が人になったという記述と、敗戦日や天皇の名前は明らかに現人神の人間宣言を参照してて、どういうことかなと思ったけど、アイドルを「推す」というパッションが政治権力を持つ存在へ向かうことへの警戒、切り分けの意図なんだろうか。日本の偶像崇拝といえばやはり天皇を無視できない。

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

梁英聖『レイシズムとは何か』

レイシズムとは何か (ちくま新書)

レイシズムとは何か (ちくま新書)

  • 作者:英聖, 梁
  • 発売日: 2020/11/07
  • メディア: 新書
レイシズムを人種化して殺す権力と定義し、近代の植民地と資本主義によるレイシズムの成り立ちをたどりつつ、米欧と比した日本社会の特徴を反差別ブレーキの欠落、つまり「差別はいけない」とみんなが「差別者」に言わず、被害者に寄り添うことに偏る問題を指摘する。レイシズムとは何か、どのような歴史をたどったか、偏見がジェノサイドにいたるメカニズムとは何か、どのような反レイシズムが必要なのか、戦後日本の朝鮮人差別体制の歴史、日本でレイシズムの暴力がいかに行なわれたか、そしてナショナリズムレイシズム・資本主義との関わりを論じる一冊。

本書が扱うこれらの問題はいずれも重要かつ興味深いもので、政治のみならず社会やインターネットで頻発する差別事件を見るにおいても、政権与党と結託し差別煽動者を支持し反差別者を凍結することを続けている差別煽動SNSと化したツイッタージャパンを利用する上でも大事な議論が含まれている。

科学的に人種は存在しないけれども人種差別は存在する、つまり、人種とは差別によって作られるカテゴリだという議論を経ながら、人種差別の始まりを近代資本主義の拡大に見る。米国における黒人差別が奴隷制とかかわることや日本における朝鮮人差別が植民地支配の名残りなのがその例だ。ウォーラーステインの「労働者の階層化ときわめて不公正な分配とを正当化するためのイデオロギー装置」という人種差別の定義を引きながら、レイシズムの内実と成り立ちを追う前半部分も面白いけれども、やはり重要なのは日本型反差別を論じたところだろう。

著者は「加害者の差別する自由を守る限りでしか、差別される被害者の人権を守ろうとしない日本の反差別こそ、日本で反レイシズム規範形成を妨げ、日本人=日系日本人という国民=人種の癒着を切り離せない元凶である」(13P)とし、これを「日本型反差別」と名づける。差別行為の禁止がないまま被害者に寄り添おうとする態度が日本の反差別だというのにははなるほどと思わせるものがある。必要なのは被害者の語りに拠らない、各人が当事者としての社会的不正義へ批判をしていくこととともに、日本が統計を取らない差別事件の記録、可視化もまた重要だと指摘する。アメリカではトランプ大統領によって差別事件が激増したことが数字として現われるけれども、公的統計がない日本では、国家やメディアによる差別煽動があっても数字が出ない。日本は米欧ほど差別がひどくない、と言われるけれども、不可視化されている現状はそれ以前の問題だろう。

人種差別撤廃条約に批准しながら「差別禁止法がない唯一の先進国」というのも重い話で、なにより、日本は戦後、在日朝鮮人の国籍を一斉に剥奪するという暴挙に出て、植民地支配の責任を文字通り投げ出したことが今に続く人種差別の基盤にもなっている。その上、70年代には憲兵特高、旧軍関係者などが関わった国士舘大学の学生による、組織的な朝鮮人への暴行殺人事件が発生しており、この朝鮮高校生への襲撃事件は数百件の規模で起こっているといわれる。戦後でも偏見を基盤にした極右による組織的なヘイトクライムを既に経験しているわけだ。

国士舘が男子を狙ったものとすれば、90年代、一般人はチマチョゴリを着た女子学生を狙った。セクシズムと癒着した卑劣なヘイトクライムで、幾度も繰り返された制服切り裂き事件の末、「第二制服」の導入によって民族服は不可視化される結末をたどった。社会党土井たか子人気のなかでも、自民党小沢一郎幹事長のもとで社会党朝鮮人からパチンコ献金を受けているとネガティブキャンペーンを張ったけれど、パチンコ業界から献金を受けていたのは平沢勝栄はじめ自民党議員の方が多かったという。しかし差別煽動は効果を上げた(212P)。この件、中国をめぐって今もまるで同じことが起きているのがよくわかる。朝鮮進駐軍というデマがあるけれど、あれはまさに朝高生襲撃事件のような組織的なヘイトクライムを行なった加害者が、その行為を被害者のほうに押しつけているわけで、これが差別主義者の習い性なのがよくわかる。

また、「反日」というロジックはレイシズムのロジックをマジョリティに適用して差別煽動を行なうことでもあり、著者はナショナリズムレイシズムによって補強されていると論じ、反レイシズムナショナリズムを実践的に抑制しうると指摘するのも重要な部分だ。冷戦以後の日本型差別煽動では、長年政治による差別煽動の結果、国士舘のような組織的なものではなく、出版、メディアを介したかたちで自然発生的な在特会型の組織が生まれ、これが選挙など政治に乗り込むことでより大きなレイシズムが発揮されていることを指摘する。弁護士などの懲戒請求事件のように、一般人を巻きこんだ社会運動としての差別煽動が恒常化しているのは、反差別ブレーキの欠落によって、極右が右翼と切り離されず一般化しており、軽い気分で差別煽動に参加することができる点にあると言う。ビジネス、ネットを介したこれは喫緊の問題でもある。

レイシズムナショナリズムの複合とともに、序盤に概説されたように資本主義との関わりもつねに問題となっており、ブラックライヴズマター運動の画期を、旧世代の運動が手を付けていなかった、罰金、手数料、監獄経営など国家暴力が資本主義によって強化されていることを批判した点にあるとしている。

二一世紀のヘイトスピーチ頻発状況下では「見えない」被害者の差別被害を語るまでなく、誰の目にも「見える」加害者と加害行為が日本全国にあふれている。差別被害を語る必要が一切ないほど差別加害があふれているのに、それでもなおマイノリティに被害を語らせ、マイノリティの歴史を学ぼうとしか主張しないのはなぜだろうか? それは差別を止めるという市民(シティズン)としての義務を果たす代わりに、被害者と歴史という「反差別の真理」を確認しているだけではないか? 安易に被害者と歴史という真理の規準に依存せず、その手前にある、差別加害を止める正当性と戦術的効果という別の規準を打ち立ててみて、はじめてマイノリティとその歴史を尊重することができるのではないか?
 もうこれ以上、マイノリティの被害と歴史を消費してほしくない。
 差別被害の深刻さや、マイノリティの疎外や、植民地支配や戦後の日本社会での在日コリアンの歴史について、本書は語らなかった。それは被害やマイノリティを軽視しているからだろうか? 差別の入門書なのに被害者の存在を無視・軽視しているのだろうか?
 逆である。マイノリティの疎外や歴史を尊重するからこそ、被害・被害者・マイノリティ・歴史を語る手前の段階で、それらに依存せずとも、マジョリティを含む誰もが取り組める課題がある。差別行為の発展メカニズムを分析するというこの課題に本書は集中した。(304P)

一ページ丸ごと引いたけれど、ここはきわめて重要な一節だろう。差別の問題は被害者に固有の問題なのではなく、まさに市民全体の正義に対する態度が問われているということ。とはいえ、面と向かって差別を辞めろ、という事態は家族が相手だったりしてそれはそれで厄介で……。

人種、民族にかぎらず、差別的現象全般を考えるのにも有用な議論になっていて、とても重要な一冊で、最近読んだなかではもっとも人に読まれて欲しい本だ。

2020年見ていたアニメ

今年見ていたアニメのなかで各クール10数作程度をピックアップして、ツイッターにその都度書いていたことを元にしたりしなかったりしながら記憶などに基づいてまとめたもの。ネタバレを気にせず最終話の感想も書いてるのもあれば、ある程度未見に配慮しているものもあって、気分次第に書いている。項目を立てて書いた本数は50本ちょっと。(2021.01.18 A3!、おちこぼれフルーツタルト、禍つヴァールハイト、池袋ウエストゲートパークの項を加筆)

2020年アニメ10選

昨年同様最初にベストテンを挙げておく。放送時期順。

SHOW BY ROCK!! ましゅまいれっしゅ!!
恋する小惑星
乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…
プリンセスコネクト!Re:Dive
ミュークルドリーミー
Lapis Re:LiGHTs
放課後ていぼう日誌
アサルトリリィ BOUQUET
ご注文はうさぎですか? BLOOM
ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

美少女アニメ揃いで、選者の趣味が良く出ていますね。今年の一作選ぶならここはすんなりましゅまいれっしゅになるかなと思ったら夏に毎日のように見返していたラピスリライツがあったことを感想書きながら思った。

冬(1-3月)

SHOW BY ROCK!! ましゅまいれっしゅ!!
音楽アプリゲーム発のアニメシリーズ第三作(ショートアニメを入れないなら)、前までのプラズマジカからメンバーを一新して始められた新作。前までの池添隆博監督、待田堂子構成、ボンズ制作のスタッフが、孫承希監督、田沢大典構成、キネマシトラス制作へと変わった。前作キャラクターも登場するけれども、演奏シーンになると二頭身のミューモンと呼ばれる体型になるってことだけ覚えていればこれから見ても大丈夫だと思う。一言でいえば、アンダーノースザワなる下北沢的な音楽の街を舞台に、故郷から上京した少女たちが出会い、それぞれの個性を認め合いながらバンドを組んでステージで演奏する、青春バンドアニメというところか。百合。冬アニメで一番良かったと思うし、2020年のアニソンで一番よく聴いていたのがこのアニメの楽曲だった。主人公らのバンド以外にも複数バンドが出てきて、落ちこぼれ男子たちで組まれたDOKONJOFINGERの曲、チャリで来たこと「移動手段はバイクです」はとりわけカッコイイ。アイドルもの、音楽もののアニメはいくつかあったけれど、楽曲面で一番良かったのはこれ。EDクレジットなどで書かれてるように、劇中でどのキャラが作曲、作詞したのかが明示されていて、その意味合いもなかなかインパクトがある。
 物語は、オーディションを受けるためにきつね族のほわんという少女が雪国の田舎から電車に乗って上京するところから始まるんだけど、家族に見送られて発車したところでまっしろスタートラインという曲がかかる、その時点でとても良かった。このほわんと過去の経験からバンド活動に鬱屈を抱えている素直になれない縞々猫族のマシマヒメコ、狼娘族のルフユ、デビルミント鬼龍族のデルミンとが出会い、バンドを組むことになる。基本耳やら尻尾やらツノやらついてるケモノキャラで、耳や尻尾がピコピコ動くのもポイントで、EDのしっぽの動きを見よ。ヒメコとほわんの関係を中心にしつつ、他二人もまたいろいろな事情がありつつ、特に印象的なのは六話。他人が怖い寂しがりがそれ故に嫌われようと相手を遠ざける面倒くささを絵に描いたようなヒメコの壁を崩すにはそれ以上の圧で相手を肯定しつづけていくほわんの度量があり、過去の事情をいっさい回想しないのも必要なのは今って感じで良かった。この回、下北沢に海はねえ!って思ったけど、平然と下北徒歩圏内に海を置く、これがフィクションだといわんばかりの豪腕には圧倒される。かのけいおんも京都から京都へ修学旅行に行ったという故事を思い出させる。10話のメンバーで実家帰省回も、一話でほわんが見た同じ窓から同じオーロラを見て、そしてあのプラットホームからあの時のように家族村人に見送られて、もう一度、今度はみんなで再出発する、良すぎるね。村に帰ってくると木琴アレンジのまっしろスタートラインがかかってるのがとても良い。出発のための帰還だから。人は反復に弱い。ヒメコのトラウマは人格を無視した才能のみへの期待と失望だとすると、ほわんはヒメコ自身にも見えてないヒメコの変わらないものを見ることができ、それは村人たちの何をするのかは知らなくてもほわんを応援する絶対の信頼にも培われていて、その暖かさに応えてヒメコも奮起できる。最終回は、これから演奏って言う時に、バンドの決め台詞言って拳ぶつけあってるとき誰か笑っちゃってるのがめちゃくちゃ良かった。恥ずかしくなっちゃったのか楽しくなっちゃったのか、演出なのかアドリブなのかもわからないけど、今・私たち・少しの照れ、ここの感触が素晴らしかった。「あの光に向かってください」も名台詞だ。しかし、ほわんが人気バンドの付き人やる回で、その人気バンドのごちそうタイムってバンドがファンを食っちゃうやつが公然とイベント化してるのマジでロックしててビビった。ほわんの声はカラフルパストラーレでもメインを演じた遠野ひかる、癖になる気の抜け方してて、デルミン役和多田美咲も特徴ある声しててすぐわかるし、ルフユ役山根綺はテンションの振り幅が広くてツッコミ役という感じで、ヒメコ以外みんな声に濁点ついてる感じなのコメディに強くていい。マシマヒメコ役の夏吉ゆうこは、この後も面倒くさい系キャラをたくさん演じてて今年の新人として目立った活躍をしている一人だろう。キャラ、声、話、絵、曲、どれも良かった。ほわんのスマホの着信音がムックリの音っぽくて、十年ぶりくらいに持ってるムックリを引っ張り出してビヨンビヨンやってたらヒモがちぎれた。
 余談、「移動手段はバイクです」、曲名がチャリで来た、の言い換えだとすれば他の歌詞もそういうギミックがあるんだろうか。「具に香る本能を刺激するpackage」、これ唐揚げ弁当のことですよね? 「移動手段はバイクで、行こうぜ未練の回収へ、地雷や黒いまま埋められなかった不燃性ごみ」、これ自転車で黒歴史の入った燃えないゴミを回収しに行ってます? 謎はつきない。

●恋する小惑星
きらら系天文・地学漫画原作で、子供の時にみらという小惑星はあるのに、あおという小惑星はないね、という話から小惑星を見つけてあおという名前を付けようと約束した二人が高校生になって再会し、その夢を実現しようと学びながら、周囲の天文、地球科学好きの部員たちと日々を過ごしていく、監督構成制作ともに私に天使が舞い降りたスタッフによるアニメ。劇中で天文部と地質研が合併してひとつの部になっているという設定がことのほか意味を持っていて、宇宙を夢みることと、地面に目を下ろして地質、地球を見つめることが星という点で繋がるというのもそうだけれど、夢がある人、ない人、気づいた人、過去にあった人、とさまざまな現在を描くことにも繋がってくる。OPも絵が天地に分かれた演出の後で上にも下にも未来があると歌われるの、地球科学アニメのOPとして良すぎた。そしてかぐや様の千花EDを担当した中山直哉コンテEDもまた非常にエモーショナルな出来で、下から伸びる手が上の手との握手から星空へパンしていく、あおという地上の名前を二人で空に送り出す話らしい。星空へのロマンとともに、子供の時は相手を男の子だと思っていたみらとあおの強い繋がりをめぐる百合アニメでもある。空と地というものを結びつけるテーマは二話のサブタイ「河原の天の川」というところにも現われている。今作も中盤くらいまでは夢のハードルの高さと日常的な軽さの相性がちょっと悪いなという感触もあったんだけど、みらあおの同居あたりからぐっと本気になった感じがある。引っ越し、試験失敗などの別離展開を無理矢理超えてくるのを幾度も仕込んでて、意地でも食らいつくのが面白いし、この遠いところだと思えたものや困難への挑戦が、分割と結合の演出として機能している。地質標本館、JAXA、地学オリンピック、沖縄での小惑星発見イベントなどなど、いろいろな施設イベントを活用していく学習漫画的な側面もあって、成果がなくても報告は大事で情報の積み上げこそが前に進む土台となることなども描いている科学、学問を感じられるアニメでもあった。

●痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。
友人に誘われてあるVRゲームを素人がプレイしてみたら、防御に極振りしたことや色んな偶然からチートじみたスキルなどもゲットしてトントン拍子に最強クラスになってしまう女性主人公なろう系原作アニメ。大沼心、湊未來監督のシルバーリンク制作。防御力が異様に強くなって毒攻撃スキルもゲットして、無邪気に邪悪で人の心がないような戦術も笑顔で展開していくヤバイ主人公メイプルと、メイプルの言うことならなんでも聞く忠犬のようなサリーと、彼女たちの元に集ったメンバーでギルドを組んで、他のギルドと大規模な戦闘イベントをこなしていくことになるストーリー。そんなことで強くなるのかよ、とゲームとしてはすごい穴のある設計にしかみえないしどうなんだろうと思うところはあるけれど、特に序盤のメイプルとサリーの元から親しい友人同士がゲーム世界で二人っきりのデートをしてるみたいな感触は不思議と良くて、結構な百合アニメでもあると思った。CMではメイプルが「サリーじゃなくて犬だったかー」という凄まじい一言をぶっ放すのが世人に衝撃を与えたとか与えなかったとか……。主人公本条楓の声優が本渡楓だという面白ポイント。
 二話がご都合のんびり天然最強さんと仲良し手練れ友人とのVRゲーエンジョイ日記かと思ったら、三話ではサリーがいつでもメイプルを守れるスキルを習得するという話から、お化け屋敷の後は夕陽の浜辺で戯れて、夜空の綺麗な場所でディナーを、っていやこれ全部デートでしょ、一緒にいるのが当たり前の二人が延々平然といちゃついてるという百合アニメでびっくりした。仲の良さや信頼、距離の近さがフラットに描かれてる。メイプルがいない間に購入資金を貯めて家選びもギルドメンバー選びも全部メイプルに任せて自然にリーダーへ押し上げているサリーのメイプル愛の強さ。また、毎回佐々木李子の良い感じの挿入歌Good Nightが流れて作業パートをさくさく見せつつ、終盤にはキレのあるアクション作画でボスと戦うというパターンを組んでいるのもなかなか面白い。防振りのアクション、同じシルバーリンクの賢者の孫の動かし型のセンスをもっと枚数増やした感じかなと思ってたら、そもそも賢者のメインアニメーターと防振りのアクションアニメーターが同じ人たちだった。伊藤浩二、米田紘、この人たちはシルバーリンクでちょこちょこ名前を見る。そして二期が決定した。

●マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝
まどマギのアプリゲームを原作としたアニメで、主人公環いろはが魔法少女になったきっかけのはずの病気の妹が消えているという謎とともに、神浜市の魔法少女たちがさまざまな謎を追っていく。まどマギで異空間を演出した劇団イヌカレー(泥犬)が総監督とシリーズ構成を担当し、シャフトが引き続き制作となっている。まどマギに関わっていた動画工房谷口淳一郎がキャラデザ。魔法少女になるための願いとそれが歪曲して実現される不穏な世界で、少女たちの思春期的な感情のこじれに加え、怪異怪談要素が大きく増している。百合だね。挿入歌がJ・A・シーザーで演劇実験室万有引力が出てくるのには驚いた。
 頑ななやちよと献身的ないろはの、中学生に救われる大学生というなかなかな関係を軸にしつつ、みかづき荘に仲間たちが次第に集まってくるのはRPGらしいところ。特に良かったのは序盤レナとかえでの話と、サナの回。関係のこじれから絶交階段にかえでの名前を書いてしまったレナの話では、三話の天邪鬼で自縄自縛で自分が大嫌いなレナをそのままで肯定する「友達」が強い。自己否定のモノローグから告白と肯定のダイアローグへの解放感。嫌われ者の振るまいが自己否定の弱さから来ていることを告白する、「友達にしてごめんね」の顔と声が良すぎた。色んな姿を取りつつもそれが全部自己否定だという鬱屈して自縄自縛のレナの合わせ鏡の世界(変身バンクのモチーフも)を打ち砕くかえでの声。映っているノートをよく読むと、レナは別人に変わる力が欲しいと願って変身能力を得たらしい。でも嫌いなレナ自身は何にも変わらない、というのが鏡像の自己否定の場面で、かえでと話した後の最後の一撃では鏡に全部レナ自身が映っているという形で自己肯定への転換を描いている。九話では、自殺したいと願った少女とそれを受けとめる捨てられたAIの二人だけの世界が描かれ、幻想的な死出の旅から帰還し、幸福な現実への一歩を踏み出す話になっていた。AIにアイという名をつけたこの話を受けて、10話では、さなを呼ぶアイから始まり、さながアイちゃんと呼び、いろはがさなちゃんと呼ぶ、アバンはほぼこれだけというのが印象的だった。まどマギだと魔女になったりしそうなところできっちり受けとめる誰かが現われて仲間になるプロセスを繰り返すところがいい。そうしてみかづき荘という場に仲間が増えていく。ひだまり荘ではない。
 ドラッグを思わせるような幸運水というアイテムとか、魔法少女もので百合と怪談をヤクザ的なショバ争いの枠組みで語られるのはなかなか面白いけど不思議で、ヤクザものといえばホモソーシャルの極みで同性間の強い感情のぶつかりあいだからかなとか、妹を探している=兄貴の仇とかそういうものかとも思ったけど、そういえばまどマギでほむらが武器かっぱらってきたのヤクザからだったから正統進化だった。2nd Season Coming Soonと予告されて既に一年近くが経っているけれども、それはいつなんでしょうか。

●ネコぱら
エロゲー?原作の猫擬人化美少女アニメで、人型のネコが人に飼われ一緒に生活している世界を舞台に、ケーキ屋店主嘉祥とその飼いネコたちとの日常を描くコメディ。山本靖貴監督、雑破業構成、FelixFilm制作。元がエロゲということで男性主人公がいて、ネコという人間的知性を持ちつつ人に飼われ、外出にも許可がいるという原作の性質にも由来する設定はかなかなかにえぐいところはあるけれど、基本的にはネコ同士の関係を描く形になってて嘉祥のかかわりもかなりまともな感じなのが面白い。作画の地味な細部の良さもあるし、特に七話なんかのねじの外れ方は良くて、童話昔話パロや小ネタを小気味よくぶっ放しまくって、ひたすらどうでもいい話をしててかなり楽しかった。テンポとキャラ性とネタがどうでもよい楽しさのためだけに駆使されていて感じが良い。なかなか表現が難しいけれども、これが萌えアニメだという力強いパワーにあふれているのと、ちょいちょい演出にセンスがあって良い。11話、アバンからショコラバニラの親バカぶりが描かれながらカカオの外泊で子供同士の仲を深めたかと思ったら、外の家で改めて知った二人への感謝をちよの絵と、二人がまさにカカオに手渡した口下手でも気持ちを伝えられる手紙、この二つに学んで返してきたのが完璧だった。最終話は海には来たけど普段通りの日々が普段通りに終わって最終回というのもなかなか味がある。最終回らしいところのない最終回で、ゆえに永遠に続いて欲しいと思わせる。ネコがいる生活ほど素晴らしいものはありませんからね。それはそう。飼ったことないけど。土田霞という未知の脚本家がいて、これは誰だ、誰かの変名ではという噂もあったけど、普通に新人さんなんでしょうか。土田霞はこの後夏に猛威を振るうことになる。

●ID: INVADED イド:インヴェイデッド
舞城王太郎脚本であおきえい監督、NAZ制作のオリジナルアニメ。舞城アニメといえば龍の歯医者にはまったく関心を惹かれなかった記憶があるけれど、これはずいぶん面白かった。殺人者をある装置に乗せ、殺人者の残留思念から作った仮装イドという仮想世界にダイブさせ、そこから情報を探って推理をしていく、というなかなか込み入った構造を持っている。酒井戸、穴井戸、聖井戸と名探偵のキャラクターも面白いし、彼らの関係も良かった。元警官の殺人犯で「名探偵」酒井戸役を津田健次郎がやっていて、これが非常に良いというのがある。大河元気とのラジオで演技について話していて、アフレコ時には映像できてるんだけど尺に合わないなと思ったら監督から全部無視していいですと言われて、出来てる映像全無視しましたと楽しそうに喋っていた。六話の行き場のない円環のモチーフのやるせない感触や、九話の杉田智和との対決もなかなか印象的。最終話、独特な設定について酒井戸が、死者が「名前と仕事を教えてくれる」そして「この世界の全てに意味があると。俺の生にも意味があり、彼女の死にも意味がある」と述べるモノローグが印象的。世界に意味を与える死者とその意味を読解する名探偵という精読者、この説自体は結構有名な話ではあるか。なお、ブレーキブロークンという漫画版がアニメの直接の続篇でなかなか面白かったけど、アニメ見てる人もあんまり読んでる感じがないのが惜しい。

とある科学の超電磁砲T
去年は一方通行の外伝がやってたけど、今年はとあるシリーズ外伝の七年ぶりの第三期。コロナの関係で二クールの放送が九月末にまでずれ込んだ。なんかやはり微妙に古さを感じるところはあるんだけど、やっぱりきちんと面白いなと思わされる。クローンドリーまわりの話や、佐天とフレンダ、ドッペルゲンガーと悲しい別れの百合エピソードが多くて、そういやこれは男性主人公ハーレムものラノベの外伝がやたら百合になるやつの代表格的な一作でもあったことを思い出した。後期ED曲の青嵐のあとで、という曲がまさにそういう別れを歌った曲で、PVも百合だった。

●群れなせ!シートン学園
博史池畠監督による擬人化動物ギャグ漫画原作アニメ。動物嫌いの主人公が、異なる種族間の争いが絶えない、「弱肉強食の精神を育むための神聖なる檻」シートン学園に入って、というギャグアニメ。動物擬人化といっても、メスは人型なのにオスは直立する動物のままなので、種差以上に性別で取り扱いが違いすぎるところはまあ美少女作品なんだなという前提はあるにしろ、テンポも画面の細かい動きも楽しいし動物豆知識を細かく盛り込みながら展開していく手際がなかなか良い。狼娘ランカの声優の木野日菜あそびあそばせでも活躍していた個性的な声でインパクトがあるし、ED曲の破壊力もなかなかのものがある。同期の異種族レビュアーズとハイエナ両性具有ネタ被るとか、そのハイエナ役津田美波が、モブレギュラーの津田健次郎と津田共演だと思ったら親子役だったのは笑ってしまった。

●宝石商リチャード氏の謎鑑定
ライト文芸ジャンルの宝石にまつわるミステリ小説原作アニメ。櫻井孝宏の金髪碧眼イギリス人宝石商という強すぎるキャラと、中田正義という正義を名に持つ青年とのBL風味もありつつ、多様性と正義にまつわる物語を展開する。宝石という美しいけれども同時に詐欺や盗難の歴史を持つ存在について、鑑定を通してその真実をたどり、さまざまな人に対する偏見や、性急な正義感の陥穽を描きながら、自己肯定感の低さゆえの正義感は同時に他人の軽視にもなりうるとして、自己もまた相手も肯定する理路を探っていく。生まれ変わったらあなたのようになりたい、という恋愛とはまた別の最上級の好意の表現、やっぱBLですね。

●虚構推理
後藤圭二監督でブレインズベース制作、戦国コレクションを思い出す。妖怪に知恵の神になることを求められ、片目片足を失った岩永琴子と、妖怪の肉を食べて不死になった桜川九郎のコンビが、多重推理ならぬ納得感のためにでっち上げられる「虚構推理」を駆使して事件を解決する。鬼頭明里のヒロイン琴子がなかなか良いキャラしてて悪くないんだけど、アニメで大部分を占めていた鋼人七瀬篇が長すぎた。元カノ今カノが織りなすラブコメ要素と琴子の顔のほうが推理より面白いのは良いのか悪いのか。しかし、事実かどうかというよりもそれが確からしいとより多くの人々に信じられているかどうかという話をしてるけど、つまり信憑性の話で、この作品が怪異を扱っているのは「憑」の字に拠り所と霊がつくの二通りの意味があることを意識しているからだとしたら上手いな。

●22/7
秋元康プロデュースのアイドルプロジェクトが数年前から走っていて、これはそのアニメ作品。盾の勇者の監督阿保孝雄、堀口悠紀子キャラデザ、 A-1 Pictures制作で、正直作品全体の出来についてはかなり否定的だ。しかし七話ゆえに無視することはできない。全体について言えば、このアニメの主軸になるのが壁の指令というものに従ってメンバーもプロジェクトも動かしていく、という絶対権力者秋元康を思わせてしまうような設定になっていて、そのうえで大人なんてとか、言わせてるのが「大人が仕組む掌の上の反抗」ポーズに過ぎる。佐藤麗華回の六話なんかは、父子家庭で家計の足しにと事務所に入った少女がアイドルの期待に応えるという同調圧力と経済的プレッシャーで望まぬ水着撮影をさせられる話になっちゃってる。壁の絶対的指示が最初にあるものだから、それぞれの自主的決断がすべて壁に都合の良い行動をさせられているだけ、という根本的欺瞞に行き着く構造があり、最終話も壁を壊すのは当然として壁の先が壁の用意したステージだったの、お前ふざけてんのって思った。仲間とファンがいれば、というけどアイドルには資本の下支えがいるということを示唆して終わる。破壊活動にためらいがない滝川みうは面白いしほぼ脱獄の絵は笑ったけど、アイドルで人々を動かせるか、という動員の実験だったというの現実に総合プロデューサーが政権に近いところにいると何もかもが邪悪だとしか言いようがなくなる。彼女たちの物語としては悪くないけど、システムに結局乗ってしまう無批判さで描かれると、なるほどそういう政治性かあとは思ってしまう。結局反逆をポーズとして飼い慣らすということなんだな。牙を抜かれた安全な反逆イメージの消費。秋元康コンテンツってのはそういうことなのかね。掌の上でまさに踊っている踊らされている、っていう。アイドルもアイドルで踊らされてばかりではなくてそれを踏み台にしてたりするけど。OPの語りや終盤で、ずっと大人がどうとか語らせてるけど子供がそんなに大人のことばかり考えてるなんていう自意識過剰をやめたほうがいいんじゃない?って思う。
 とはいえ、七話戸田ジュン回は今年トップレベルの一話だった。難病の友人との離別というベタな物語ではあるんだけれど、それを大胆に演出する絵作りは鮮烈だった。始まってすぐにわかる明暗、色、大きい余白等々の画面づくりは非常にインパクトがあり、二人で一緒に歌ったアイドルソングからアイドルになっていく流れが自然だったのと、快活な戸田ジュンのいまと過去の暗さとの対比も、話を重くしすぎずバランスが良い。半身を失って、幻の半身とともに生きる話なんですよ。「交換」というように今の戸田ジュンの半分は松永悠でできている。ジュンの相手をコピーする特技が、ここにいない相手を想像する思考法によるものだとすると、悠の影響とともにいまもなお生きているわけで。EDのワルツのモチーフも相手と入れかわる要素だ。また、挿入歌の「未来はそんな悪くないよ」と「ツキを呼ぶには笑顔を見せる」と「あなたとどこかで愛し合える予感」という話の根幹にかかわる詞を歌いながらイヤホン分け合って手を固く握りしめる百合の絵がメチャクチャ強かったというのもある。このコンテンツとしては22/7計算中という、演者がCGのガワを使って映るバラエティ番組があって、これはなかなか面白いし、滝川みうのキャラクターがアニメとは全然違う陰属性でとても面白い。

その他――
ダーウィンズゲームNexus制作、徳本善信監督のこみっくがーるずスタッフによる、デスゲーム系能力バトル漫画原作アニメ。B級的チープさを整った作画に乗せた感じだけど、わりと楽しめる作品だった。上田麗奈ヒロインとか花守ゆみり少女少年二役とかも良い。
ランウェイで笑って、身長足りなくてパリコレモデルになれない少女と経済的問題でデザイナーへの道を諦めていた少年の出会いから始まるマガジンの漫画原作アニメ。少女漫画的な題材を少年漫画で料理している感じがなかなか面白い。花守ゆみり主役だと思ったら花江夏樹のメイン二人の花コンビだ。
異種族レビュアーズ、異種族風俗嬢を男たちがレビューし点数付けする漫画原作アニメ。多様性という言葉で本作を評価する向きがあるけれど、性癖カタログのバラエティではあっても、宝石商リチャード氏にあったような意味での多様性はあまりないと思う。そもそも男たちで風俗嬢をジャッジするホモソーシャル感がなかなかアレだけど、実際にこの作品で見る者にジャッジされているのはレビュアーの彼らのほうで、それはクロスレビューという形式上の必然でもある。
りばあすブシロードのカードゲーム原作ショートアニメ、原作・キャラ原案・構成の西あすかって格ゲー百合漫画描いてた人だったと思う。なかなか面白くてずっと見てるけど、五話のLINEのやりとりをいっさい読み上げずにちょっとした息づかいとか吹き出すところだけ声入れてトークしてるのは良い描写だった。
ドラマ ゆるキャン△、実写版ながらアニメ版をなぞったような印象なんだけど、ドローンを使った撮影はなかなか面白く、その点が原作の魚眼レンズなどを駆使したレイアウトの再現をバッサリカットしたアニメに比べてアドバンテージになっているなと思った。もちろん、実地にキャンプ地を映せるという点も。大垣役の人の顔で持ってるところがある。

春(4-6月)

乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…
タイトル通りのなろう系異世界転生もので、乙女ゲーム世界に死後転生してしまった主人公が、ゲームでの破滅フラグを回避しようと奮闘するコメディアニメ。シルバーリンク制作女性主人公なろう系アニメとしては防振りに続く二期決定作品でもある。枠組みはリプレイものにも近いんだけど、その世界の常識を共有しないことで偏見がなく、自分の破滅を防ぐという利己的な動機で動いてるはずなのに持ち前の善性と能天気な前向きさで、周囲の人を救ってしまう掛け違えの喜劇という、とても楽しい話になっている。内田真礼の声がやたらとはまってる。乙女ゲームなので男性キャラもたくさん出てくるけど幼少期の主人公カタリナに救われて丸くなっているし、恋敵になるはずの女性キャラもカタリナとの絆を育てて、男女ハーレムものになっているのが珍しく、そしてとても良いところ。最初の数話の幼少期篇なんかは、メイン登場人物に女性声優しかいないし既に実質百合ハーレムだった。カタリナは恋愛よりも食べることだ第一だし、食べ過ぎで二度トイレ退席するうえに拾い食いする令嬢なのも笑ってしまう。破滅して追放されても大丈夫なように農作業を学んで行くわけだし、八話を見ると、カタリナの食欲がゲーム=魔法書の枠を破って自由を得て皆を助ける、というメタ構造が見てとれる。恋愛幻想=フィクションを食欲で調伏する。花より団子精神が周囲を救い、逆の意味でハーレムを形成して修羅場を招いているというコメディ。
 カタリナの前世を描いた七話では、そりゃ死ぬよなというドジぶりが描かれ、前世と今世のつながりを担う別のキャラの視点から、かけがえのない友人に死別された悲しさと、再会する願いが叶ったことを転生後の本人は覚えていないという切ない百合回だった。九話、転生百合の次は主従百合で、カタリナの放埒な自由さに直面することで道具になりきれない自分自身が露呈するというのは感動的だった。おはようからおやすみまで、生活のすべてを見守る愛が重い。破滅フラグを回避しようとすることや当人の自由さが、ゲームのフレームを壊したり周囲の「キャラ」的な役割性から「人間」を露呈させるという全体構造は今話のような脇筋でむしろ見やすい。11話は、前世との関係が再度描かれ、皆が願い帰りを待つ場所に帰るためのあっちゃんとの別れは、攻略対象としての「キャラ」を「人間」にしてきたカタリナが、この世界を「ゲーム」から「現実」へとかえるために必要な過程だろう。前世は前世として心残りを果たすことはできた二人の奇跡は泣ける。本当の別れは本当のカタリナへの生まれ変わりとなる。そして指先ひとつの小さな繋がりはソフィアを通じていまもカタリナとともにある。

●プリンセスコネクト!Re:Dive
スマホゲー原作アニメ、この素晴らしい世界に祝福を!の金﨑貴臣監督・構成で、サイゲームスのアニメ制作部門、CygamesPictures制作。記憶喪失になったばかりか精神年齢も幼子のようになってしまって目覚めたユウキという少年と、彼を保護する少女コッコロが、能天気な強キャラペコリーヌ、秘密を抱えたらしいキャルらと出会い、美食殿というギルドを組んで冒険する、という話で、このすば監督というところから期待していたものが出てきた感じで、序盤いろいろ違うけどだいぶこのすばだった気がした。労働とクエスト、馬小屋と野宿。福島潤稲田徹高橋李依金田朋子。このすばでは。ギャグ、コメディのキレがやはり突出していて、とにかく楽しいアニメだったしキャルにとにかくいろんな表情と格好をさせたいという熱意に満ちている。また、主人公たちは美食殿だし、サブタイが食べ物縛りで一話から食事が重要な場面になってて、食べることは生きること、一緒に食べると言うことは一緒に生きることという話なんですね。EDも、落ちこぼれが集まってとか、足を引っ張りあいながら君と歩いて行くっていう歌詞で、曲提供が同じ人だしやっぱりきれいなこのすば感がある。生活、食事、悩みを抱えたキャルをも仲間として認め、そして多数のおじさんキャラたちがランドソルという街の人間として関わり合い、最終話への伏線を固めていく。13話は、話は終わってないのにアニメはものすごく綺麗に終わった。城から忘れられた姫が街の人々に忘れられないペコリーヌになるのとともにコッコロ、キャルに抱き返されるまでのそれぞれの孤独が美食殿という新しい絆に救われるまで、そしてそれを支えるユウキ。作画も良すぎる。日常描写メインの構成をペコリーヌの失われた生活からきちんと意味づけてくる。ペコリーヌを愛するおっさんたちがアニメに必要だったわけだ。抱き留めることとコネクトというのを重ねてきたようなテーマソングによる特殊ED、コネクトという人との繋がり。食堂に帰ってくるし食事場面で終わるアニメだった。プリコネ、食は人を繋ぐという話なんですよね、私は毎食一人で食べますけど。

●ミュークルドリーミー
サンリオ原作のキッズ向け通年アニメだけど、桜井弘明監督、JCスタッフ制作とアニメまちカドまぞくとも似たスタッフで、まぞく同様狂騒的なテンポで押すかなり楽しいアニメになっている。中学一年生の日向ゆめという少女が入学式の前に空から落ちてきた喋る人形を拾って、夢のなかに入れる能力を得るのとともに、人の暗い感情を暴走させるブラックアビスを使うゆにたちの起こした騒動を夢のなかに入れる能力で解決していく物語で、テンポ感やセリフの密度にまちカドまぞくが浮かぶのはそうだけど画面内存在をとにかく動かすのはクロマティ高校を思い出す。ゆめが憧れる先輩との恋愛と、隣に住む幼馴染みの朝陽少年がいて、幼馴染みとの関係というのが先輩にもあって、二組の幼馴染みが人間側の主軸だろうか。お笑い好きのまいら、機械いじりが好きな天才ことこという三人に、ときわという快活な少女も加わって、というのが序盤のメインの人形持ちメンバー。
 六話がことこの家の教育資本の高さを描写しながら、ありえないことがありえるということを「学んだ」という勉強、学習のテーマに落とし込む回なのは上手かったし、テンポが良いという点では「トントン拍子?」「知らんか?トントン拍子」「まあいいや」このいっさい無駄なやりとりがあえて挾まれるのも面白い。ことこがラブレター見ながらつま先トントンさせてるのは何故かと思ったら、手紙を開くまでは上履き履いてたのに、ワンカット挾んだら既に靴を履いていて、外靴を下駄箱から出して履く、という動作を省略しつつ外靴履いてることに注意を促して外に出ることに違和感を与えない演出かなと思ったけど、その後の話数を見ると、ラブレターをもらうという恋愛に巻きこまれることへの苛立ちもあったと見るのがいいかな。そのほかでも、TMRHOT LIMITの衣装を着て現われる朝陽君とかの親世代へのネタも笑った。好き嫌いするなというのを善意の押しつけを超えた支配欲として描くかのようなプチトマトマンをやりすごして大人になれば食べられるかもねと優しく決着させる17話、てーきゅうみたいなテンポというか切り替えの速さでポンポン異常なものがでてきて台詞回しの絶妙なセンスもあいまってわかるけどわからない異様な視聴感に襲われる18話を経て、幼馴染みの朝陽少年がメインのメンバーに加わるのがなかなか面白い。魔法少女アニメの文脈ぽくもあるけど、そうではないので少年もメインに加入する。他にもいろいろあるけど、本作ではやはり28話、まいらの亡き母をめぐる家族の話が良かった。誕生日が母の命日という運命を背負ったまいらとその父の、命日の様子を描きながら悲しい場面をほとんど映さず、しかし夢のなかで家族一緒の姿を見せるという夢のテーマを活かした話になっていた。夢と時間が交錯するなかから母をまいらに出会わせるのと、誕生日には(私の)思い出のバウムクーヘンより、自分自身の誕生日を祝って欲しいというケーキが出てくる。まだ二年前の出来事で、悲しみから癒えたはずもないんだけれど、父も壁の向こうでだけ涙を流しててまいらも自分の部屋で眠りながら涙を落とす、という強さのなかの弱さもさらっと起きつつ、「夢ってええな、会いたい人にまた会えるもんな」で締められる。母と同じギャグを持ちネタにしながら、お笑いを目指すまいらの姿。最初にまいらが誕生日と命日のことを言ってなかったっけ、ととぼけるシーンがあるけど、まあ当然言ってないことを覚えてないわけがないよな。その後の牧場での話も、このエピソードを意識しつつ、まいらは何でも持っている、とうらやむ少女の悩みを描きながら、その人にはその人の積み上げてきたものがあるということを描く回で、母の死を意識させつつ劇中では言及されない語り口だった。

ガンダムビルドダイバーズRe:RISE
去年末に1stシーズンを今年四月から2ndシーズンをスタートさせたガンダムビルドシリーズ最新作。1stシーズンの衝撃的なクライマックスから続いて、堅実な物語を着実に進めていくという感じで、絵的にそんな突出したところは感じないんだけど、地味ながらもとても良い作品だったと思うし、ビルドシリーズとしてもウェブアニメだったからか、なぜか異様に見られていない様子なのが不思議な作品だった。全体に、バーチャルやごっこ・神話という偽物・フィクションがさまざまな過程と再起を経て本物になっていく物語で、ゲーム、遊びだと思っていたのがそうではなかったことに直面し、挫折、痛みを抱えた人たちが再起する、VRと現実の二層構造がある。ヒロトとヒナタが最後まで直接かかわらないんだけど、ゲームだと思っていたら繋がっていたように、まがい物だったビルドダイバーズが認められ、ヒロトとヒナタの別の場所での戦いをネット配信が隣り合わせにするっていうのを描いて、さまざまな別の場所からのコメントを動画に映し出す25話は綺麗な流れだ。そして全員合体。定番と言えば定番だけど、仲間との信頼にくわえ、隔てられたもの同士の関係、境界をずっと描いてきたからこその強度がある。最終回は「時を超えて私たちの命を見守ってくれる存在」への感謝を捧げる空渡しが、アルスの再会とイヴの再生としてのメイを繋げる。この再生がありつつ、宇宙に浮かぶイヴの願いを思わせるアーマーを映して終わるの、イヴの喪失から始まった物語を感じさせる。空にあるそれと一つ目の敵対の終わりで綺麗に閉じられた感じ。とにかくも、派手だけど大味単調で途中から興味が持てなくなっていく前作までに対し、地味ながら非常に丁寧なアニメだった。

かぐや様は告らせたい?〜天才たちの恋愛頭脳戦〜
ブコメ漫画原作アニメの二期、安定の出来で今期はリア充ヘイトの石上の物語を終盤のメインに据えてなかなかだった。話数としては三話、月と竹取物語の話しながら、言葉の裏を読んで何百年経ってもかぐや姫を諦めない、と強烈な作品性ごと絡めたメッセージをぶつけてくる回で、白銀の天文学者になりたい、というのも月にたどり着きたい、という含意だ。最終回にやるような話を三話で重ねて、新しい始まりを告げる、強い。七話、馬鹿みたいな話を圧倒的テンポで繰り出すギャグ回の冴えもありつつ11話、不器用な正義とみんなへの絶望からの回復、圧巻な回だった。あの石上が真のリア充は性格も良い、と知るまでにいたる物語、応援団が本当に人の背中を押す応援団だったのは良いな。石上の顔を隠す長い髪をかき分ける白銀と、前を向いた先に見える応援団の面々の顔、の顔の話。トレンディドラマ劇伴を万能楽曲として使い回すのここぞというタイミングで笑わせてくれる。最終回はかぐやのケータイ壊れた話から、失った自分だけの写真とスマホで共有されたそのみんなとのより多い写真、いい話だった。前半いい話すぎたので後半、もしやと思ったら予想以上にひどいものが来て、バカバカしい話からバカバカしい演出で出番なかったキャラ総出演させてジエンド、良いんじゃないですか。

白猫プロジェクト ZERO CHRONICLE
スマホゲームを原作としたアニメで、 神保昌登監督による全話脚本、project No.9制作。タイトルで本篇の前日譚なのはわかるけれど、完全オリジナルではなく原作ゲームに存在するイベントが元になっているらしい。白と黒の均衡を保とうという白と、この世界を変えてみせる黒の王子、秩序の白と混沌の黒。この二つの地上と天上の勢力があり、双方の主役格の人物同士が交錯し、そして、という物語だけど、地味ながらも何か独特のセンスがあり、セリフ回りの個性やとりわけ七話は絶大なインパクトがあった。二つの勢力がとりあえずの共闘で敵を倒した後、交流会が開かれて、衣装を交換したり味付けの違う両国の料理を混ぜるとよりうまくなるというかたちで両国の交流が描かれる六話の次回予告が、山菜しか映らない映像とともに「山菜採り」というサブタイトルが出てくる次回予告が嘘でしょってくらい面白い。しばらく前まで魔物と戦争やってたノリのままのBGMで「山菜採り」って出してくる。この世界タラの芽とか蕗の薹があるのか、と三話で突っこんだ時はこんな本気の山菜回がぶち込まれてくるとは思わなかった。そして七話、素晴らしい山菜だった。前回に対し今回は採取調理喫食の全過程を通じて文化や生活をともに体験するという異文化理解の掘り下げとなってて、通商の話も出たり戦後の平和的交流の意味を描く。ここが一番平和な回だった。シーマとアデルの、民の違いではなく個人の違いだと他者の理解レベルがあがる場面の直前にシーマの名を呼んでるのがテーマと繋がってて、また「このくらいの違いなら問題ない」と言うのも個性の違いの話で、似た言葉をアイリスが繰り返す。三度やるのはギャグだけど二回言うのは重要だからだ。しかし不平等の固定という「均衡」への闇の怒りが噴出して、白と黒がまた分かたれ、上と下の貧富の格差が強調され、最終的には白と黒の隔絶が崩壊し、空の上の島と暗闇の地上が混じって陽が差す大地が現われる神話的結末を迎える。

八男って、それはないでしょう!
なろう系異世界転生小説原作アニメで、サラリーマンがある朝目覚めたら異世界の五歳児になっており、それが僻地の貧乏貴族の八男だったということから始まる話で、この貧乏貴族の成り上がり物語、とにかく何かしらおかしい要素があって、ある種のトンチキさという点では傑出したアニメだったと思う。三浦辰夫監督、シンエイ動画制作。成り上がりつつある主人公のまわりが側室希望者とか友達を部下にしたりといった封建的関係ばかりなのはややアレだな、と思うところはあって、この話を真面目に語るとそうとう厳しいものになるんじゃないか、という原作の難点や稚拙さをとにかく面白くしようとしているアニメなんじゃないかと思った。原作は知らないけど。いろいろ面白いけど特に九話は毎分なにかしら面白い絵面や演技がでてくる楽しさが最後まで続いてなにか確変起こしたみたいな回だった。息つく暇がない。とにかくものを食べるヴィルマという新しい婚約者が自分を養うに足る甲斐性を持っているかを観察していたという話から、カマトロカマトロカマトロカマトロの場面、あるいは小さいヴィルマが巨大なマグロを一匹持ち上げて部屋に入ってくる絵はめちゃくちゃ面白かった。八男九話、で画像検索すると出てくる。10話の鉄の塊がとつぜん出てくるのもかなりいい。最終話も、懸案の兄との確執が演出も演技も過剰さと茶番感で笑うしかない場面になっているのも面白かったけど、キメの場面でOPがかかる定番演出が、このアニメだとゆっくりとフェードインしてくるのはちょっと類を見なくて笑った。異世界で所帯じみた和食へのこだわりが独特のおかしみを出しているんだけど、知らない土地に味噌醤油工場を建て、転生前に食べようと思った豚バラ味噌炒めをみなで食べることができるというのが、この世界に馴染むための方法だったというオチになる。デーモン小暮のOPもだけど、EDが新居昭乃AKINOAKINO from bless4とのコラボってダジャレ企画というのもかなり遊んでる。

●ギャルと恐竜
ギャルと平然と一緒に住んでる恐竜、という漫画原作アニメで、ポプテピピックとも一部共通するスタッフによって制作されており、前半のおそらく原作に準じたアニメパートと、ポプテピ同様さまざまな技法で制作されたショートアニメ、そして実写パートで構成されている。賛否分かれるのは後半の実写パートで、ギャルと見栄晴を置き換えた、見栄晴と恐竜の共同生活が描かれる部分と、蒼井翔太が出てきてポプテピピックネタと繋げたところだろう。ギャルの元彼が翔太だから蒼井翔太なんだろうとは思うしポプテピピックネタはさすがに私もちょっと、と思ったけれど、見栄晴パートは良いと思った。なぜかおじさんと恐竜のほんわか同居生活ドラマがぶち込まれて、なんか楽しそうでこれはアニメではレアなポイントを突いてきたなと。ギャルで描かれるようなポジティブな生活を年のいったおじさんがやっててもいいじゃん、みたいな。男の趣味を女子高生がやるネタは数多あるけど、ギャル生活をおじさんがやるというのはあまり見なかったのでその点で面白みがある。とはいえ、見栄晴が出なくなるとよくわからん芸人の厳しいネタとかになったりしたのはちょっとどうかと思った。新型コロナの影響で今クールで七話まで放送され、秋クールにリスタートし最後まで放送されたのは、この後半の実写ドラマの撮影に苦慮したからかと思われ、終盤では猫で十分持たせるとか、当初の予定ではなかったのではと思うところもある。ネコと恐竜がじゃれあうだけで10分持つだろの精神、間違ってない。最終話は、見栄晴は恐竜と無駄な時間を過ごす幸福さをもう得られないけど、その幻の思い出が暖かいマフラーに象徴される締めだった。

●A3!
冬クールに放送開始したものの、工程上の問題と新型コロナウィルスの影響で四月から仕切り直して放送された。P.A.WORKSStudio 3Hzの共同制作で、今年のPAアニメとして話題になったのは別のアニメだけど、安定感があり面白いのはこれだったんじゃないかと思う。役者育成ゲーム原作アニメで、演劇の街、天鵞絨町で取り壊し間近の劇団MANKAIカンパニーを復興させるために主人公が主宰兼総監督にとつぜん任命され、メンバー集めから始めることになる話。春夏秋冬と四つの組に分かれ、四月からのクールで春組と夏組、秋からの二クール目で秋組と冬組の話となっていて、各組六話ずつ四部構成の作品となっている。演劇をめぐる四つの物語で、始まりの春組でベースを作って、夏組ではドラマと演劇の違いを演劇がリテイクできない一回限りのもので最高の自分を見せられないというトラウマを克服する話で、一回限りだけど何回だって舞台には立てる、というのも面白い。秋組は沢城千春と武内俊輔、カリギュラのコンビで、そこそこできても熱意がない、熱意があっても技術が足りない、デコボココンビが良かった。冬組はまた個性が強い上に、SF設定でループが始まって驚いたけど、演劇は幾度も再演するものだし、OPがCircle of Seasonsと四季の円環を示唆するモチーフ、なるほどループものときわめて親和性が高い。韻を踏む、もそうだ。冬は心を覗くメガネとかファンタジー要素が強く、ややキャラの掘り下げにアンバランスなところがあったけれど、よくある話でも引き込まれる劇中劇の強さと大団円で終わった。組ごとで言えば、マイポートレイトでの告白劇を展開にうまく使った秋組が印象深い。

四月一日さん家と
Vtuberがドラマをやる独特の企画の二期。生子という血のつながりがある妹かも知れないキャラの新登場と、二葉がカラオケバーの雇われママをやることで、人にも場所にも新しいものが増えた。家族の色んなヤバイ話がぼろぼろ出てくるのもなかなか面白かったけど、三話はあの樽美酒研二で一話やり通す。「私今樽美酒さんに会えるレベルの女じゃない!」という三樹の面倒くさいファンぶりが出まくってて笑ったけど、一花がざっくりと電話切るタイミングでめちゃくちゃ笑ってしまった。狂気を感じる瞬間だった。四話の恒例となった漫才回では練りに練った三樹のテクニカルな漫才対生子の一発ギャグの構図が、一花と生子の思いつきに高度な解釈者がツッコミを入れるという形に落ち着くのが面白い。「バンダイナムコガンダム」ってネタはかなり面白かったけど、演者の人が採用されたのに驚いてるってことはアドリブだったんだろうか? 作中でアドリブ芸をやるところでマジのアドリブ入れるの、gdgd系の発想を上手く消化した感がある。そういえば、一期のモチーフが先送り・遅延だったとすれば、二期のモチーフは別れた・失ったものが帰ってくる、というものだったのではないか。父、ドミノ、生子とか。

●継つぐもも
お色気バトルアクション漫画原作アニメの二期。だいたいいつも通りという感じだけど、三話は百合回としてなかなか印象深い。憧れの相手が入れかわる二段構えの話運びが相思相愛の百合に帰結する。男を介して友達に勝ちたいという同性しか目に入ってない話かと思ったらお互いがお互いに憧れてて、どちらも相手を目指すことでいまの自分ができている。他人で自分を計ろうとするなというのを結論と思わせて、自分の価値をお互いに預けた同士の二人という関係性を出し、最後にまたしろうの価値判断の一貫性を見せる対比になっている。で、たぶんしろうは自分の価値に対してブレがないからこそ恋人ができない。それはそれとしてしろうはクズ。終盤の展開は母親をめぐる重いエピソードで、死んだはずの母親があまそぎとして復活することで、これまでやってきたすそがえしの仕組みがかずやの最大のハードルとして立ちはだかる、いいクライマックスだ。ちょっとエヴァを思い出すなと思ってたら「でも、母さんなんでしょ?」のかずやの演技が一瞬シンジくんに聞こえた。とはいえ、一名の犠牲者を出し再起不能のパートナーを抱えて、これから厳しい修業に向かうエンドは締めくくりとしては暗い。作中で三年の時限を切ってるけど、実際にこの三年後に三期をやったらすごいとは思う。

●グレイプニル
ゲーマーズ、Just BecauseのPINE JAM制作、魔法少女なん てもういいですからや鬼灯の冷徹の米田和弘監督による、バイオレンスアクション漫画原作アニメ。今年で言えばダーウィンズゲームとも近い感触だけど、着ぐるみに変身する主人公のなかにヒロインが入って、合体して興奮しながら相手と戦う性と死が直結する趣向がある。二話のアクションのコンテが結構特徴的でよう動くと思ったらコンテに江畑諒真。話の筋が頭に入らなくなるような絶対笑っちゃう場面と性的嗜好のオンパレードが展開される回があったり、ダーウィンズゲームにある程度あった知能要素をエロに全取っ替えしたみたいな感触だ。夏、廃墟、薄着、血と体液と汗と臭いのフェティッシュが張り巡らされたアニメで、ワンクールで全然終わってないけど、なかなか楽しい。

●球詠
きららフォワードの野球百合漫画原作アニメ、事前の絵柄がなかなか、と思ったらこのすばの菊田幸一キャラデザでなるほどとなった。すごいガタイのいいキャラデザで、原作の絵柄の筋肉質なところをより強調した感じだ。百合漫画要素とともに野球の戦略をかなり真面目にやってて面白いけど、時折場面が手早く進みすぎて何がどうなったか飲み込めないところもある。野球そんなに詳しくないので。七話はのんびり野球同好会をやるifルートでも楽しかったかもというの、きらら系列の今作自体のこととも読めるし、どちらの可能性も否定せずに今ここにいることの肯定がいい。しかし、自分たちだけで楽しくやりたいという影森の理論、百合漫画だから出てくるアイデアって気がする。だから投球を真似るのが嫌がらせになる。相手カップルを揺さぶる戦術。一応原作漫画も配信で追ってるんだけれど、ざっと読んでると誰が誰だかわからなくなってしまうので、アニメで整理されるのはわかりやすいな。

本好きの下剋上
二期というか2クール目は階級社会で生き抜く平民をやっていく神殿篇。安定して面白いけれど、「働かざる者食うべからず」というフレーズが二度ほど出てくるのは結構気になった。18話で、人権思想のない時代に救貧事業をいかに行なうか、というところでこれまでさんざん描かれたマイン自身のエゴイズムを理由にするのは説得力があるんだけど、何度か死にかけてるマインが孤児の話で働かざる者食うべからず、と唱和するのはグロテスクな響きがある。労働と生存を結びつけるとたやすく反転してしまうからだ。ここで気づいたんだけど、この作品、本質的に起業家の話だと。思えば今作はずっと発明とビジネスの話なわけで福祉事業もその一環だということかな。そうすると孤児の解決と働かざる者、の理念が結構重要な背骨のような気がする。身体が弱いことと知的労働では高い能力を持つことと怠惰を排するマインドがあわさると案外にきわどいかも知れないところはある。終盤で貴族パートが始まって、ファンタジー色が一気に強くなった。トロンベの正体とかこの世界設定の裏側がいろいろざっと出てきて、世界が広がっていく。そしてやはり転生ものは前世との別れの再確認でクライマックス。階級社会の上昇が無傷でできるわけもなくマインは二度家族と別れることになる。

その他――
シャドウバース、カードゲーム原作アニメで来年もまだ続く。アリスとミモリという二人をめぐる四話や八話の百合風味回が良いんだけど、全体的なストーリーは三クール目でなんだか大味になって今ひとつ興味が持てなくなった。
アニメぷそ煮コミおかわり田辺留依主演ショートアニメ、今期もなかなか楽しいし、デフォルメの感じが良い。
波よ聞いてくれ、沙村弘明の漫画原作、サンライズ制作アニメ。主人公が喋り倒してすごいけど、こう言うノリが好きか嫌いかでいえば嫌い成分多め。まあそれなりに見られると思ったら、終盤、北海道の地震が扱われる。異常に本番に強い主人公が生放送のその場にいることを踏まえて災害時インフラとしてのラジオの意味を描いてくるのは感動的だった。ライフラインが寸断されても繋がる波としてのラジオ。面白いけどややしゃらくさいなと思ってたら最終話で急に真面目になるのはズルい。
神之塔 -Tower of God-、韓国漫画原作アニメで、一話はピンとこなくて見ないかなと思ったんだけど二話からは個性的な仲間たちが増えてコミカルな能力バトル・試験ものとしてわりと楽しくなってくる。ザハードの姫二人の関係も結構百合めいているけど、トカゲさんやワニさんがなかなか萌えキャラしてて良かった。
俺の指で乱れろ、今期僧侶枠は美容室が舞台で、僧侶枠でメガネヒロインは初だろうか。カナメ君という当て馬キャラが言い寄ってくるかと思ったらただ楽しくゲームの話して主人公に自信を持たせる役回りになってんのびっくりした。僧侶枠で当て馬のほうが倫理的だった例、初めて? たんにすごくまともな人間だったゆえに当て馬役がこれだけ応援される僧侶枠も珍しい一作だった。幼い頃の関係から今にいたる物語も、強引に襲うところがなければ綺麗なんだけど、これ僧侶枠なのよね。CMで今作を見ているというカナメ君、ドMか何か?
啄木鳥探偵処石川啄木が探偵をやるという推理小説原作アニメで、石川啄木がいかにクズかということをこれでもかと描写するところが面白く、そんな彼に付き添い、時に喧嘩したりもしながら啄木を愛してやまない金田一京助を描いたBLアニメのおもむき。文豪とアルケミストも四話五話の本という恋人に心奪われていることに嫉妬する内山昴輝が出てくるBLパートがなかなか面白かった。借金文豪クズ逸話、こっちは太宰と檀一雄

気になった
かくしごと
久米田康治原作。 村野佑太監督で亜細亜堂制作は異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術の組み合わせ。畑健二郎は新婚漫画を描き、久米田は親子漫画を描く。父子家庭で父は下ネタギャグ漫画を描いてることを娘に隠していて、という書く仕事も隠し事も両方フィクションにかかわってる組み立てでまあまあ面白いんだけど、気になるところも多い。金持ちの貧乏ごっこと無自覚ハーレムを掛け合わせるところとか、隠し事含め父は娘のためを言いながら娘の気持ちを無視していて、娘こそ父をケアしてる構図になっているところとか。これ見よがしのヘイトを集める編集キャラで話を回すのも結構どうかと思った。今作への違和感は、作家の繊細ぶった自虐という自己中心的振る舞いを娘の聡明さが支えている上に、一方的に振り回した挙句に娘に自身を肯定させる美談というのは、さすがに作家に甘すぎないか、というところ。編集の描き方にしろ、なんかそういうだらしなさを感じてしまう。七年経っているとはいえ目の前の娘が誰かわからないところとか、姫が一番大事だといいながら漫画を通じてしか思い出せなかったところとかの、絶妙に可久士を言ってることとやってることが違う人間として描いてるようなところ、意図的なんだろうかよくわからない。

夏(7-9月)

●Lapis Re:LiGHTs
「ラピスリライツ 〜この世界のアイドルは魔法が使える〜」というメディアミックスアイドルプロジェクトでゲーム、コミックス、ライブその他で展開されるうちのアニメ作品。ゲームはまだ出てないけれどジャンルがRPGで、アイドルと魔法を掛け合わせたコンセプトがあって、魔女と呼ばれるファンタジー世界でのアイドルは魔獣とも戦う存在でもある。監督はゆるゆりOVAや三期、最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。の畑博之、シリーズ構成はラノベ作家のあさのハジメと、アニメネコぱらの各話脚本の土田霞、キャラデザは池上たろう、制作は30分アニメのテレビシリーズの元請けとしては初?となる、横浜アニメーションラボ。夏アニメで一番良いと思った作品で、本数がやや少なめだった時期なのもあって、毎話四五回は見返していたので今年一番周回したアニメだった。何が良いかというと、前半はとにかくたくさんキャラが出てくる美少女アニメでひたすら魔法を使ったドタバタコメディをやる楽しさがあることだった。ファンタジー世界の背景とあわせてキャラデザや作画含めた全体的な絵づくりの良さとともに、メインキャラクターでも六ユニット二〇人を数えるという多キャラを巧みに捌いていくのも鮮やかで、一話の魔法学園風景の面白さや二話で街のなかをアヒルを追って走り回る舞台紹介のあと、魔法ドッジボールで各キャラを魔法や特技の紹介とともに性格もあわせて描写する三話がとりわけ面白くて、美少女アニメとして求められるものすべてが詰め込まれてる!と感激していた。とにかく絵がよくてテンポもいいので何度も見てしまう。
 物語としては、魔女に憧れ城を飛び出して街にやってきたティアラという少女が、王女という身分を隠してフローラ女学院に入学するところから始まり、落ちこぼれのラピスランクの魔女候補生の班に入って、退学の危機を脱するために頑張るという話。前半はそうして奮闘しつつ、既にユニットを組んでオルケストラと呼ばれる歌とダンスのライブ活動を行なっている学生たちとふれあう様子が描かれていて、その段階では自分たちもまだオルケストラをやる、という意識はなかったんだけど、各ユニットの回を経てオルケストラを多く目の当たりにしたことで、ティアラたちもまたオルケストラをやろうという意識が生まれて、これまでかかわってきた別ユニットの人たちとともに一歩歩き出そうとする。ここまでで七話をかける前半戦となる。
 LiGHTsというのがティアラたちのユニット名で、ティアラが憧れる伝説のユニットがRayという名で、本作では光がメインモチーフになっているとおり、昼や夜、そしてそのあいだの無数の段階の光加減の光景が綺麗に描かれてもいる。七話はユエの背中を押すエリザの場面で提灯に灯がともり、直後の夕陽が映される場面では二人が夕陽を中心に場所を入れ替え、立場を変えるのは、輝きをめぐって歌に込められた思いを語る象徴的な絵だ。このシーンはその前のエリザとユエのシーンから立ち位置が繋がっていて、右にいる送り手と左にいる受け手の立場が入れかわる、つまりエリザに対してユエが受け手から送り手に成り代わったようにティアラもまたそうなる、というシーケンスになっている。光を受取り、光を放つ側になるということ。次話の八話で自分たちのユニット名を決める時に、展望台で悩んでいる間に少しずつ陽が沈んでいく様子のあと、街の灯がついたのを見てLiGHTsという名前が決まるのはRayからLiGHTsへという流れを現わしていて、この街の光になる、という意思が込められている。オルケストラというものが街に活力を賦活し、それのみならず外部の魔獣から街を防衛する力にもなるという設定はここから意味を持ちはじめる。そして終盤はオルケストラの成功にもかかわらず、得点範囲外のため本当に退学させられてしまう展開になる。ティアラが王女だという真実、街の子としてのLiGHTsが街の外へ一端追い出される、という展開を経て、自分たちのやるべきことを見つめ直す過程になっていく。そういうシリアスな話なのに、そもそも退学の危機にいたるところに理事長室から地図を盗んだ減点も大きかったし、王城への不法侵入はやるし、ティアラと合流したと思ったら王宮のごちそう食べてのんびりくつろいでるすっとぼけた様子が描かれたりするのが本当に面白い。このアニメ、アイドルものに魔法を組合わせたことよりも主人公チームがアウトローの限りをつくすほうが新しい要素なんじゃないだろうかと思う。長くなったのでここら辺にするけど、ラピスリライツの魔獣はある種の自然現象というか、個人的には心理現象の寓意みたいに捉えて見ていた。魔獣に象徴される陰鬱さに、輝き、明るさで対抗するという構図、つねに不安と恐れとに苛まれがちな精神を賦活する輝きとしてのアイドル。ライブでの盛り上がりが魔獣という陰鬱なものを吹っ飛ばす、これほどわかりやすい設定もない。厳しくも優しい世界で、前半の日常も後半の苦境でもつねに楽しさを忘れないつくりはとても良かった。生きていくために必要なことの話というか。そう思っていたらノベル版を読むとまさにそういう設定で、アニメでも終盤の展開はそれを踏まえたものとなる。自分自身のことを理解して、目標を正しく見定め、できることをできる範囲でやって、そのために他人と協同していく、というとなんかひたすらベタな話だったかも知れない。個人の自立や自己の確立は他人との協同なしにはできない、という。世界設定自体がライブによって生きる、生かされるというテーマがあるのに情勢からライブが難しくなってしまったのはよりテーマ性が際立つことになったようにも思う。なんにしろ、とても楽しく、良いアニメだったという印象がある。夏は延々ラピスリライツのことについて書いていたので、以下ツイログも参照。ツイログで三ページあるのも他のアニメの数倍なんだけど、各ツイートに連結で長々書いてたりするのでさらに数倍いろいろ書いてる。
東條慎生になりつつある(@inthewall81)/「ラピスリライツ」の検索結果 - Twilog
主題歌もすごい良いし、劇中歌収録のアルバムも良い。LiGHTsの曲が700,000,000,000,000,000,000,000の空、という巨大スケールなのも面白いし、セブンハンドレッドセクスティリオンから6000日、五億秒、という莫大な数がつねに一歩、一番とという「一」と対比されてて、最後に一日、新しい一日目というところに収斂していくのが印象的だった。いやしかし、キャバレー部とか、電気あんまとかはなかなかすごかったな。電気あんま、完全にプレイじゃん。

●放課後ていぼう日誌
女子釣り漫画原作アニメで、大隈孝晴監督、志茂文彦構成、 熊谷勝弘キャラデザ、動画工房制作。熊本県芦北町がモデルになっているらしく、熊本県出身の篠原侑神田川JET GIRLSに続いて熊本弁キャラとして今度は低い声のキャラで活躍しているのも見所。主人公陽渚が父の故郷の熊本に越してきたところから始まり、堤防で釣りをしていた黒岩部長と遭遇したことで、強引にていぼう部と呼ばれる釣り部に入ることになり、この初心者陽渚を含めた部員少女四人が釣りをする。ややレトロさを感じる絵柄はチャンピオン系列の雑誌連載らしいとも思われ、そして釣りそのものやり方や海釣りの注意点、安全講習などもしっかりと時間を取って描かれている。
 七話が部にも慣れてきた陽渚と幼い頃に遊んでいた夏海という二人の関係を掘り下げる回で、陽渚の表情が多彩なのに加え、日焼けした快活な夏海が眼鏡を掛けてて成績も良いというギャップを出してくるのがなかなかの良さ。夏海をなめてかかってた陽渚の良い性格ともども面白い。ここで魚のぬいぐるみ、毛糸のルアー、手芸趣味と釣り趣味が二人を通じて重なって、部と日常も釣りで繋がる。九話は水難事故と環境問題が扱われ、海釣りの危険性と救命講習会でのライフジャケット着用の大事さが描かれ、後半では釣り糸が絡まったアオサギを見かけ、環境問題に心悩ませる陽渚が自分には大きすぎる問題を自分のスケールで向き合う、釣りの危険と害の話になっていたのも趣味漫画として非常に真面目な姿勢だ。11話では自分なりの方法を自分で見つけることと、部長の教育者ぶりが描かれていて、虫餌でも虫嫌いでも釣り方に貴賤はなく、方法は違うだけでそれぞれのやり方がある、というバランス感覚は最終話で陽渚の元々の趣味の手芸に戻ってくる、という形でも発揮されていて、陽渚が釣りにはまった物語だけどその土台には手芸趣味があってというのを大事にし、陽渚は楽しいことが一つ増えたと帰結するのは上手いオチだった。「ぎゃんしてぎゃんしてこぎゃんすれば」の熊本方言のリズム感あるフレーズが非常に面白かった。

●魔王学院の不適合者 〜史上最強の魔王の始祖、転生して子孫たちの学校へ通う〜
小説家になろうで発表され電撃文庫から刊行されたラノベ原作で、アンジュヴィエルジュつうかあの田村正文監督、田中仁構成、シルバーリンク制作で総監督が大沼心というスタッフ。平和を夢みて2000年後に転生した暴虐の魔王が自分の知っている歴史とは異なる歴史が支配しており、魔王の血を継ぐ者こそが高貴という差別的社会にもかかわらず魔王本人が不適合者とされてしまう謎を追って話が展開していく。強大な力を持つ魔王アノスがその物怖じしない行動で騒ぎを起こしつつ、くだくだしい説明よりも面白絵面を爆速で見せていくテンポのよさで進んでいくのが面白くて、二話の城を片手でコマのように回していく場面や三話の壁をただ普通に歩いていってぶち壊して進んでいく場面は今作のおかしな魅力を象徴する箇所だろう。序盤は最初の友達で寡黙なミーシャと、その双子の姉サーシャをめぐる問題を解決していくんだけれど、ミーシャとサーシャをめぐるこじれた姉妹百合でもあって、マシマヒメコ役夏吉ゆうこがここでも金髪で屈折した性格のサーシャをやっていて、役柄が明確になってきた感がある。相手が助かるためにずっと嫌われようとしていたほど好きだったそんな少女の仲を取り持つ魔王には過激派百合オタクも文句は言わない、かも知れない。七話ではアノスのファンユニオンという存在の感動的な姿が描かれていて印象深い。頭おかしい応援歌がシリアスな状況でまさに自分たちを鼓舞する歌として現われるのは随一の良い場面だった。前世の因縁から勇者と魔王の転生BLの様相を呈してくる終盤戦から最終話で、魔王と勇者が手に手を取って憎悪の循環を断ち切る良い話になった。「人間が魔族を憎んだのではない、お前がおれを憎んだのだ」、差別と憎悪とその煽動を切り離す主語の確定。ファンユニオンの応援歌とともに愛が世界を救う、をマジでやる強さがある。徳の高い話ですよ。「殺したぐらいで、俺が死ぬとでも思ったか?」のようなセリフを恒例にする鈴木達央魔王がなかなか面白く、一度OPの歌唱を乗っ取ったのは笑ったし、それはラジオでゲストに来たCIVILIANの人が言うには自分から言い出したことだったという。

●異常生物見聞録
中国のウェブ小説を原作にするアニメで、音楽少女の西本由紀夫監督など一部のスタッフ以外は中国で制作されていると思われる。久々の中国アニメで、これがなかなか楽しい。天地無用をちょっと思わせるような、異種族との同居とSFスケールの設定が絡んだ話だけれど、異種族を「異常生物」と名づける倫理感のない用語法は中国語ならそこまで変に感じないのかどうかがちょっとわからない。お人好しの主人公好人が両親の残した一軒家の部屋を人に貸すことで生計を立てようとしていたところに転がり込んできた人狼のリリと、人の血を吸わない吸血鬼ヴィヴィアンたちとの生活というところから始まるんだけど、どう見ても日本ではなさそうな一話の情景が「八王子」となっていたり、中国アニメらしい絶妙にトンチキなセンスが楽しく、リリとヴィヴィアンの喧嘩百合めいたやりとりも良い感じで、ポンコツかトンチキしかないゆるっゆるな空間で、昨日靴下替えてない人がいる!とか無限に下らないやりとりが湧いてくる良さがある。中盤ちょっとだらっとしたところもあるんだけど、一瞬シリアスな曲もかかっても最後まで気の抜けた曲が鳴り続けてて緊張感がまるでないところもこのアニメの特徴の一つで、宇宙に行くにも惑星に墜落するにも劇伴がほのぼの日常楽曲で通されてるのが凄すぎる。劇伴が全てをギャグにする! これはなかなかないですよ。11話の好人たちの戦いと全然無用な工員たちとの麻雀を小刻みに映していくセンスはすごくて、ここで麻雀が映る意味が全然わからないんですよ。でも麻雀なんですね、卓を囲むという。同族だから、とリリを攫いに来た連中の一点張りに対する、異族でも家族だから一緒に居る、と応えるあたりに芯がある話でもあった。お人好しの大家さんのために頑張って家に灯りと食べ物を用意してくれるみんなの暖かさが良い話すぎる最終回で、メンツも揃ってこっから本番だろ。続きをやれと思った。ハーレムものっぽい構図なのに、好人にいっさいラブコメが始まらないのも独特で、気が抜けていて緩くて暖かい作品だった。そしてリリ洲崎綾とヴィヴィアン夏吉ゆうこの異種族百合です。しかし、これは良い意味で言うんだけどこんな気の抜けたゆるい話が中国で大人気なのかと思ったらPVは2100万で、霊剣山の20億と比べたらさすがに桁が違っていた。悪偶とか銀の墓守りとかが億単位なのでそれに比べれば小粒ではあるか。中国語ミニアニメパートもなかなか印象的で、「私が貧乏なのは宇宙の意思ですわ」は名言のひとつ。

●GIBIATE
2030年、ジビエと呼ばれる怪物になってしまう感染症が広まった終末世界に、江戸時代からサムライ、ニンジャ、僧兵がタイムスリップしてきて、現代世界の人間たちと生き残りを賭けた戦いが始まるオリジナルアニメ。 天野喜孝古代祐三SUGIZOといった有名クリエイターを集め「和」をアピールするビッグプロジェクトの感がありながらもアニメは非常にB級感あふれる風合いで、それも合わせて色んな意味で面白いアニメだった。普通の意味で人に勧めるアニメではないんだけど、期せずして時事的になってしまったテーマ性とオモシロアニメーションぶりはやはり一見の価値がある。2020年をある意味で代表する一作で、ジビエートの残したインパクトはそう簡単には忘れられないだろう。一話は配信版を見たせいでOPとEDをほとんどフル尺流す暴挙にすべてが押し流された。OPのダイジェスト映像がいつまで経っても終わらないのに笑いが止まらなくなり、大黒摩季のEDで最後に天野喜孝古代祐三SUGIZO吉田兄弟大黒摩季を実写紹介する映像が流れてとどめを刺された。この一話では作品を踏み台にして有名クリエイターの宣伝やってんじゃねえよと怒りを感じるところもあったんだけど、二話の前回フルで流れたOPが20秒程度で終わった衝撃、「また焼酎あげるよ」「芋しか受け付けねえぜ」「蕎麦も良いぞ」のやりとり、時代劇BGM、大空に笑顔、何もかもが面白く、豪華スタッフ陣から送り出されるB級アニメの味わいに気づいてからは終始楽しく見られるようになった。四話のOPから本篇が始まる演出は驚きで、OPを半分以下にカットした回があったと思ったらOPに本篇の内容を突っこんでくるの、やることが自由すぎないか? 爆弾魔が料理を習ったら何からでもカツカレーができる、というわけのわからないくだりも面白い。火薬とカレー粉が似てるから両方作れるっていうのは、ほんと、どういう?粉を混ぜるからか?作画にしろロジックにしろ、とにかく独特のものがある。池田秀一の声も面白くてちょっと浮いてると思ったら実際に異質な存在だったという展開も笑うんだけど、「こういう結末もアリってことだ!」のあたりの締めの展開はちょっとどうかと思うところがありつつも、「こんな世の中だからこそ、希望を持つんだろ」「また会おう」。終わり良ければすべて良し、というラストだった。一話でも無駄とも思える戦いについて、ヒロインが「意味がないとは思わないわ。だってね、私たちはまだ生きてる。明日もまたきっと、生きるために戦っているんだから」、そういうアニメ。吉田兄弟のOPはかっこいい。

モンスター娘のお医者さん
ラノベを原作とする、異種族を治療する医者を題材にしたお色気アニメだけれど、エロ要素だけでない内容もあり、なかなか悪くない。岩崎良明監督、白根秀樹構成、アルボアニメーション制作。主人公の声、ちょっと石田彰に聞こえる時がある、土岐隼一って人。モンスター娘という通り女性を診察という医療行為の体でエロを入れつつ(ここが倫理的にはアレだけど)、患者やその種族の特性などを描いていく話。アラクネのアラーニャが親友の思い人を寝取ることで親友との繋がりを一生消えないものにしようとするの、男を介した百合というやつだろうか。アラーニャのバイセクシャル性や、自分を隠して相手を試すような行動を繰り返すところ、マイノリティの性格描写にも見える。

炎炎ノ消防隊 弐ノ章
昨年に続き二クールで放送された二期。世界の謎に迫りつつ独特のセンスがあって、シリアスな時に入るギャグにちょっと中国アニメ感がある。騎士の妄想で本当に強くなるアーサーが「バカで良かったー!」とか、個性の尊重の仕方に個性があるんだけど、特に今期で印象的だったのは17話。弱いものをいたぶるのが好きなイカレ野郎が、強くなれ完璧になれと親からのプレッシャーに押し潰されかけていた子供に、お前はまだまだ子供だ弱くあれ、といって救ってしまうというのがうっかり感動してしまうエピソードだった。弱いものいじめの悪役が子守をして月が壊れるの、ピッコロと孫悟飯を思いだす。17話の「少年よ、弱くあれ」は名サブタイトルだと思う。こういうひねくれたトリッキーな倫理性は今作の特徴のように思う。最終話の「アーグ大隊長の死は、ドMということもあり自殺として処理されることになった」という真面目なモノローグっぽく言うところもメチャクチャで笑ってしまう。

その他――
ゴッドオブハイスクール、朴性厚監督、MAPPA制作による韓国漫画原作アニメで、格闘バトルものをMAPPAらしく凄まじい作画と独特のギャグセンスで描く。中盤あたりまでは仲間同士の関係や、38歳の高校生などの話も面白かったけど、終盤はどんどんスケールがでかくなっていってよく分からない感じになる難点がある。
恋とプロデューサー〜EVOL×LOVE〜、中国ゲーム原作アニメで、境宗久監督、MAPPA制作、アバンで主人公の少女が車に轢かれそうになるところがゾンビランドサガ感。格好良くて社会的地位もある男たちがどんどん主人公ちゃんを助けていく乙女ゲーム感がある。服装や髪型も変わる主人公の良さや、異能力を持った男子たちとの因縁のエピソードの面白さもあるけど、プリンをファーウェイ(ではない)CEOがすり替えてまで食べたのにまずい、の一言ですげえ笑った。
デカダンス、一話はおおと思わせて二話でんん?と冷めてからはまあ面白いんじゃないですか?みたいな距離感のままだった。まあ良くできている面白いアニメだとは思うんだけど、あんまり思うところがない。デカいデカダンスでダンスすればもっと好きになれたかも知れない。
Re:ゼロから始める異世界生活、二期前半部分は白鯨戦直後からの一期の直接の続き。二期四話、29話の親子の話はとても良かったと思う。この和解劇自体がやろうともできない不可能なことだというのが悲しく、プレッシャーに潰されて無理をしてキャラを作ってあの感じが出てるスバルのリアリティは結構なものがある。父親のセンスを意識してできてない感というか。とはいえ違和感も結構強く、キャラに圧を掛ければいいってわけじゃないなと思うし、展開で追いつめまくったスバルの極限の感情表現が感情がこもっているがゆえに、見ていて「うるせえな」って思っちゃう。
巨人族の花嫁、今期僧侶枠。九話構成で展開されるBL僧侶枠。異世界から高校生晃一が巨人族カイウスに召喚されて花嫁になって子供を生んでくれと言われるすげえ導入。異世界、異種族、異性じゃない、三つのハードルを一挙に越えてくる豪胆さがある。設定も結構凝ってるファンタジーBLで、僧侶枠と言えば男が強引、時に無理矢理迫る展開がお得意なのにBLものだと展開に丁寧さが出てくる。わりとしっかりした設定の異世界らしさとエロ展開の便宜という相反する二面性があって、独特の視聴感をもたらしてくる。ロマンチックな伝承と重ね合わされた、世界を超えて結ばれる二人を描きつつ、傷ついた晃一の願いに対し死の時まで守ると約束するカイウス、やたら良い話だった。間男ポジが普通についてくるの笑う。
オオカミさんは食べられたい、九話のあとに三話構成の短篇を挾む形の今期僧侶枠二つ目。赤頭巾モチーフで、オオカミヒロインが赤頭巾主人公に私を食べてと強引に迫ってくる僧侶枠初の肉食ヒロインもの。スカート奪取おじさんという絶大なインパクトの存在から始まってスカート奪取おじさんで終わるの笑った。僧侶枠にしては暴行がないけどかわりに教師生徒の倫理面での問題が発生する。
宇崎ちゃんは遊びたい!大空直美が良い。

気になった
●彼女、お借りします
マガジンのラブコメ漫画原作だけども、風俗嬢に入れ込んでしまった話ベースで展開するのが驚かされる。和也は女性に振られた鬱屈から自分で頼んだレンタル彼女を非難して、その要因に祖母に彼女を見せたいというのがあるけど、その祖母は彼女を見てすぐ体の相性の話してるの発想が妊娠出産と直結しててアレだ。主人公が性欲駆動の人なだけじゃなくて祖母も含めて作品を駆動する価値観にモテ至上主義的、性欲先行のニュアンスがあるし、ミソジニーが何かを解説する話でも作ってるんだろうかと思わされるところがある。男の幼さをロマンチストだとして肯定するセリフを女性に言わせるし、瑠夏を虚言癖だと言ったのに男同士で嘘はつけないというのとか、悪い意味ですごいと思ってしまう。これはこれでありうる等身大の大学生なのかも知れない。それが面白いかは別として。とはいえキャラ作画やデフォルメ含めて絵的な面はとてもよい。

●天晴爛漫!
橋本昌和監督・構成のP.A.WORKSのオリジナルアニメで、明治後期のアメリカに漂着した発明好きの日本人と武士が、大陸横断レースに参加して日本に帰るための資金を得ようとする物語。序盤はなかなか面白いと思ったし、三話のブーストロケットは爽快で笑ったんだけど、話が進むに従って面白くなくなっていくアニメだった。キャラやら演出やら作画やらはさすがになかなか良かったりするんだけど、中盤あたりでなんかイベントのためのイベントが起こってる感じのする展開で、レースと相性の悪い話してるなあと思ったら、いつまでもレースに専念せず、動いたかと思ったら止まることの繰り返しばかりで、どうしようもなくフラストレーションがたまる。全員が立ち止まったなかでぺらい悪役が大得意で喋りまくるとか、レースを舞台にしているのに重要なところで棒立ち演説が入って動きを全て止めてしまうのは、作品の根本的な設計が失敗している気がしてならない。長距離レースのはずなのに、最終話Bパートみたいな短距離レースのメソッドしかないから途中に余計な話を入れたように見える。物語が題材を邪魔するようにしか組み立てられていなくて見てて苛立ってしまうので、出来以上に印象が悪い。

秋(10-12月)

コロナ関連で延期なりなったアニメがここに集中したのか非常に見る数が多いうえに一つ一つパワーがあるアニメが大変多かった。今年唯一、週に見ているアニメが30後半の数になった。まだ最終話見てないものもいくつか。上から体操ザムライあたりまではどれも年間ベストに入れても良いような作品が揃ったクールだった。見終わってない作品が幾つかあり、後に加筆するかも。

●アサルトリリィ BOUQUET
10年以上前から存在しているアクションドールシリーズがあり、近年舞台やアニメなどでメディアミックス展開がなされているもののアニメ版。放課後のプレアデス佐伯昭志が監督および全話脚本、あいうら灰と幻想のグリムガルの細居美恵子キャラデザ、シャフト制作。佐伯監督と聞いて普段アマゾンプライム独占配信アニメは見ないんだけれど、これは加入せざるを得なかった。ヒュージと呼ばれる巨大生命体が襲来する近未来、それを倒せるチャームと呼ばれる兵器と感応性が高い10代の少女がリリィと呼ばれ活躍している。ドールがそうだったこともあり、ふとももがとても強調された独特のキャラデザは印象的で、誰も彼もがスレンダーだった去年のアサシンズプライドと好対照になるかのようなデザイン。甲州撤退戦と呼ばれる戦いで自分を助けてくれた白井夢結への憧れから、主人公一柳梨璃が鎌倉にある百合ヶ丘学園(藤沢から小田急百合ヶ丘とは別の方向に向かって百合ヶ丘に着くのがちょい面白い)に向かうところから始まる。リリィで百合ヶ丘学園で、ユユとリリで百合百合だし、シュッツエンゲルという上級生との姉妹制度があり、百合押しがめちゃくちゃ強い。設定はストライクウィッチーズあたりの話と似ていて、この手のセンスはちょっと一昔前だなと思ったらじっさいにそうだった。序盤はなかなか良いとは思ってももう一歩欲しい感じもしたけれど、婚姻届を出したけど死別した前妻への未練もあって情緒不安定なのを受けとめてくれる後妻とのケーキ入刀かのようなシュッツエンゲル結成の巻の三話で一区切りがついて以後の四話五話あたりで非常に良いと思えるようになり、監督が言うように、話数ごとに夢結と梨璃の関係が少しずつ変わっていく話の密度や着実な積み重ねと、楓・J・ヌーベルの魅力など、さすがの出来で、特に八話の結梨のバトル作画は圧倒的でもあった。シュッツエンゲルという古典的な設定を用いて、夢結が既に一度シュッツエンゲルを結んだ姉を失っているというトラウマをいかに受けとめるか、という話にもなっていて、四話では自分に何もないと思ってる梨璃が自信がない雨嘉を見て奮起して神琳と雨嘉のすれ違いをかみ合わせる歯車になる回で、お互いを真に信じるからできる、物騒な対話劇が通じて、改めて背中を預けられる関係が描かれるように、二者関係がさまざまなパーツを用いつつ、真に相手を肯定し、受けとめるということに賭けられている。これはまたヒュージとリリィの関係もそうだろう。特に印象的な五話は、夢結が梨璃の故郷を訪れ、誕生日に彼女の好きなラムネを買ってくるという話が、梨璃の旅路を自らも往還することで相手のことを考えることと自分のことを考えることが描かれる。夢結の表情と心情描写に丁寧に尺を割いてて良い話数だ。中盤はヒュージから生まれた結梨という二人の娘?をめぐる物語になっていて、二人がケーキ入刀してヒュージを倒したから子供が生まれるのも当然?という文脈がある。このダブルアウトサイダーの子供は、自分が何なのかと言うことを問い、人間とヒュージの境界は何かを問う。そして結梨をめぐって百合ヶ丘学園のリリィたちが守るために動く、という個人と集団の協同が描かれるのも、ノインヴェルト戦術という協同作戦のモチーフと絡んでいる。結梨が海に消える九話は、生活の一断面としての朝の散髪から始まって赤い夕陽で終わるショッキングな回で、梨璃と結梨を照らす逆光が冒頭からEDでまで丁寧にリフレインされて、その光のなかに消えていく。ヒュージから生まれた人造リリィというダブルアウトサイダーが人として生きたことを証する過程。自分が自分でいることの矜持はこの話数での楓・J・ヌーベルもまたそうだった。11話での「自分自身を認められない人間はどうなると思う。憎むんだ。自分と自分以外のものすべて」が美鈴の自己否定の呪いとしてあり、夢結もまた囚われている。カリスマというレアスキルが支配と支援の表裏一体になっているのが人間の関係のそれとも重なっていて、その肯定に向けてお互いの関係が問い直される。ヒュージとリリィ、カリスマの性質、表裏一体の二面性ということでは美鈴の性格もそうだし夢結もそうで、二人のそうあろうとすることとそうあってほしいという関係はシュッツエンゲルの師弟的な関係のもつ性質でもあって、相手の身だしなみを整える描写の反復がそこを強調する。自分一人では自分を認めることはできないので他人との関係において自分の姿もまた変わってくる。最終話は上級生と下級生の混浴で梨璃と夢結がはじめて一緒に入る、というところから制服ポッドでの服を脱いだ素肌での髪と指を絡めた対話へ至る。ここで梨璃の夢結の元姉への解釈が語られるところが二人の関係の帰結だろうか。しかし、最終回も風呂を貫き通すアサルトリリィを見て、二者関係が重要な点でもかなりアンジュヴィエルジュを思い出させるものがあった。今年の新人としては百合アニメなどでめざましい活躍をした夏吉ゆうこと、この人が頑張っていると加点してしまう赤尾ひかるの二人なのは強いな。二人デュエットの五話のEDは良かった。

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会
ラブライブの新作はゲームを原作とした外伝的な一作。河村智之監督で横田拓己キャラデザ、EDのめばちは三ツ星カラーズの組み合わせで、そこに八月のシンデレラナインの田中仁が構成として入る布陣。キャラデザも大幅に変わり、そもそも今作ではラブライブの大会に参加しないという方針がとられ、グループアイドルではなく、個々人一人一人がアイドルとして活動するという、さまざまな意味でラブライブの「外伝」的性格の話となっている。九人のスクールアイドルをそれぞれ個別回を使って描くという破格の構成もゲーム原作らしさがある。
 一話からなかなか強くて、優木せつ菜というスクールアイドルを見た主人公高咲侑をフックに、かわいいものが好きな歩夢が自らもアイドルをやることを決意する一話だけど、幼馴染み同士が無限にいちゃついたと思ったら同じ夢を見ようと告白していつだって隣にいると返して綺麗に結ばれた話だった。ここで歩夢が「私の夢を一緒に見てくれる?」と聞いてるのが後半の伏線にもなる。二話の中須かすみ回で、侑が歩夢との間に最少のアイドルとファンの構図を設定し、みんなを誑し込んでいくのかという感じで二人に生じた少しのズレをとりもつ役目も果たし、かすみが同好会をいろいろな価値観を受け入れる場所にしたいとたどり着く。同時にかすみは自分が一番だと叫ぶことも忘れないのが良い。かすみは全話通して良いキャラで、相良茉優の独特の声もあって作画も恵まれている。三話のせつ菜回、生徒会長とアイドルの二面性を水と炎の属性を使ったライブや、暗所に光が差す表現がずっと続いていたのが雲間から差す光になって、私だけの光と歌うライブイメージで海中にまでも差し込む強い光になるのがとてもいい。みな、ライブやるとき決意とともに必ず上に昇る、階段を上る行動が挾まるのがとても「ステージ」っぽい。そしてここで、それぞれが自らの色で輝くという虹のモチーフが、ラブライブの競争に勝ち抜くためにはメンバーが一つの色にまとまることを拒否する理路になる。次の四話では、同好会という個々人の楽しいことの集まりのなかで、ソロはハードルが高いという愛が、みんなと一緒、ステージは一人じゃないからと言って、階段を昇るのではなく降りて、同じ平面でステージをやる、という自分のやり方を見つけ出して、ここまでとは別のやり方を見せてくる。そして果林と一対一で見つめ合うエマを経て、六話の璃奈回は個別回では特に印象的で、日常生活においてもアイドルにおいても障碍となる表情が変わらないというハンデを負った彼女が、表情を変化させるスクリーン付きマスクを被ってアイドルをやるという、ハードルを技術でクリアする話になっていてかなり興味深い。ネットを意識した繋がるという言葉通り、まさに通信こそ遠隔距離を越えて繋がる技術の歴史なわけだし、ハードルを技術で越えるという意味では正しい帰結だ。七話の彼方は姉妹関係が描かれるのとともに、中山直哉演出のダンスパートが印象的で、楽曲もとりわけ良いと思った。十話からは歩夢と侑の話に戻り、いろんなアイドルを支援してきた侑が、歩夢の側を離れていってしまう恐れから自分だけを見て、という感情が爆発する11話の圧のある演出は圧巻でもあった。ちょっと重すぎる気はするけど。そして歩夢の夢は侑から、侑の夢は歩夢から始まってる二人の話。みんなで歩夢のために作るステージでファンの姿を見ることで、侑との関係を依存とは違った明確な形にして捉えることができた感じ。二人が横の位置に立つカットが多用され、歩夢の夢を見る侑から、二人が別の夢を見ながら隣り合って前に進むという最終話の構図へと流れ込む。最終回のライブはこれまで支えてくれたあなた=侑の為に、個々の一人だった全員がはじめて一緒に歌う、というここに賭けられた一作という感がある。スタッフとして駆け回っていた侑はじめ多くのファンと会場スタッフ、そしてこれはゲームのプレイヤーのためのアニメだったのかも知れない。最終話は雨が降っても超常的に晴れをもたらす一期の神話性とは別のかたちを意図したようで、雨は急には止まない人間の物語としてあり、アイドルでない侑の夢をも並列に置く地上の物語だった。

ご注文はうさぎですか? BLOOM
OVAなどを挾んで既に三期となったごちうさの新作。主要スタッフは変わらぬながら、制作会社はホワイトフォックスキネマシトラスを経てエンカレッジフィルムズとなり、今まで以上にパワーアップした感がある。今まではきらら系の萌えアニメの極北という印象があったけれど、今作を見て、このアニメこんなに面白かったのかと大きく認識を改めた。元々、かわいさを突き詰めた作風でもあったけれど、三期に至る蓄積を経て、年も学校もバラバラな各人たちがそれぞれの進路を考えるという岐路に直面し、そのなかで親世代との関係や友人との関係が改めて描かれる。各回、最初くだらないようなことではしゃいでいた面々の描写が、後半になってガッとエモーショナルな情感に回収されていくような構成力は半端ないものがあり、毎回のように驚かされる。とりわけ五話、街中を走り回る二つのエピソードの騒がしいだけのようにも見えた話が、誰かが誰かを追いかける憧れや、子供が大人を、大人が子供を追いかけたり、大人が子供に戻ることなどの時間の循環を、回転木馬という円のモチーフに収束させるのはとても見事でびっくりした。この円のモチーフはOPの「くるんとひとまわり」という歌詞やEDの「○」というところにも通じているようで、中心的なテーマなのかも知れない。そしてこのアニメはいろんな服や制服を着換えていくのが着せ替えの楽しさ以外にも、未来、過去、あり得た可能性を纏い、いつもと違う顔を見せる、その他その他さまざまな意味を担って縦横に駆使されているのがすごい。服が時間を越え、親世代の話にも繋がっていく。私服のバリエーション自体も豊富だけど、プライベート、学校、バイトの多彩な面をそれぞれ着替えることで展開していく。ここまで服が作劇に用いられているアニメ、あんまり覚えがないな、自分が注意してないだけかもだけど。二人で踏み出せる、外の世界への新たな一歩、で終わるの、憎いね。

ストライクウィッチーズ ROAD to BERLIN
これもまた数年ぶりの三期、制作会社はdavid productionに変わっての新作となった。足にストライカーユニットという飛行装置を付けて空を飛ぶウィッチと呼ばれる少女らが、今期はベルリンに居座る敵性体ネウロイから祖国を奪取するという話で、話的には停滞していた印象の二期に比べて、明確な目標があるのがいい。特に二話は三期という蓄積があるからこそできるまるで最終回のような盛り上がりで圧巻だった。通常兵器のおじさん軍人達が決死の覚悟で意地を見せるAパートの息もつかせぬ緊迫感からB冒頭のいよいよの宮藤の発進、ピンチでの501結集と王道の展開を見せきる。四話は、一話掛けて描いてきた大切なバイクを一瞬で足場にしてルッキーニを助けるシャーリーの厳然たる優先順位が描かれる。スピードを操るには決断が早くなければならないわけだ。バイクもユニットも乗り換えるのは誰かを守るためだから、に落着する良い回、脚本は築地俊彦。六話はあれ、それってつまり減量?と思ったら鍛え上げた肉体で減量することで高速機動ネウロイに立ち向かう、という当人たちはクソ真面目だけど外から見るとギャグにしか見えない展開でかなり面白かった。最初の接敵BGMも格好いいし、基地でも静かな曲のままシャーリー出撃して抑えた雰囲気出してたら、最後のシックスパックムキムキバルクホルンでキャラソンがかかってそんなんありかっていう空中素手バトルに雪崩れ込むのも雰囲気作りがうまい。まあ絶対入らないようなパンツのなかから銃も出てくるだろうこの雰囲気ならと思わせる。真面目さ、ギャグっぽさ、頓知で乗り切る脚本、とってもアニメって感じがする回の脚本は浦畑達彦、この人のはなんかスト魔女だなって感じがする。終盤のベルリン戦では、巨大戦車ラーテに乗るパットン将軍CV玄田哲章がなかなか似合ってて、将軍まわりの描写が良かった。無謀な軍人に見えて大きな組織の一員でしかない側面と、前線に立つものとしての意地が魔法力のない宮藤のラーテ乗車とも通じている。全体に宮藤の力の抑制に困ったような印象があるけど、まあとにかく往年のアニメの意地を見せたような出来だったと思う。それにすごく出来の良いエヴァフォロワーアニメって感じがある。正体不明の敵があれやこれやで攻めてくるとか、ミリタリーとか、巨大物の映し方の特撮感とか。そして、露骨にパンツを見せてくる衣装とアングル、久々に見るとマジで気が狂ってるんだけど、美少女ミリタリーもののありようを何一つ誤魔化すことなく見せている点で正気の証左なのかもしれない。キワモノとしての自意識。萌えミリタリーというジャンルが性欲と戦争を結びつける、異様で下世話で下らないものだ、という出自の強調にも見える。だからOKとは言いがたいし古臭いとも思うけど、後発ものに比べるとそういう自覚はまだあるように見える。

●NOBLESSE -ノブレス-
貴族と呼ばれる超常的な存在がいる現代世界で、その貴族たちの守護者「ノブレス」のライジェルという絶対的な力を持つ存在が数百年の眠りから覚め、彼に仕えるフランケンシュタインの計らいによって高校に通うことになる……。何年か前に作られた単発OVAの直接の続篇になっていて、各サイトで無料配信されていると思うので、まずはそこから見るべき。スタミュ監督多田俊介が総監督、ネコぱら監督山本靖貴が監督で、ハラダサヤカ構成、キャラデザ石井明治プロダクションIG制作。今年多くアニメ化されている韓国のウェブ漫画が原作で、人間を襲うユニオンという組織、人間を守ろうとするライジェルたち、そして貴族らとライジェルとの緊迫した関係が軸になるダークファンタジーだけれども、シリアスな要素とともに絶大な力を持つライジェルがラーメンの麺がのびるのを量が増えると思って食べる時必ずのばして食べる描写を代表に、美形揃いのキャラたちが現代人間社会と絶妙にズレているギャグセンスが卓越している。人間と貴族と改造人間とといった異種間の関係をベースに、気高さ、高潔さをめぐって話が展開していくんだけれど、高貴な超俗の存在にも俗な要素が同居しているということ、また危険な戦いに身を投じたとしても常に戻ってくるべき平穏な場としてのトンチキなギャグ描写が作品必須の要素となってて、非常に良いアニメになっている。
 ざっくり前半が学校・人間篇で後半が貴族篇と言えると思う。目覚めたライジェルが学校に通い、田代たち人間の学友と仲良くなりつつ、そこにやってきた敵対勢力との戦いを通じて、誰かのために戦う者を尊重し、誰かを踏みつけにする者が否定される、確固とした倫理が人間、改造人間、貴族へと通じ、ライジェルがその高貴さに応じて姿を現わす。七話が、戦いを終えた日常のなかで人間と貴族の叶わぬ恋愛が描かれつつ、危機を招かないために人間たちの記憶を消す、という話になる。ライジェルたちが二人を守って、これからも危険から守るために記憶を消す、優しさゆえの別れ。田代が誰かを守るために立ち上がって、田代たちを守るためにM21やレジスたちが戦い、そして皆のためにまたライジェルもやってくる、だからこそ、田代はライジェルの言うことを否定できない。田代もまた自ら望むことをしたまでだから。「ありのままでいる」ことが行動に繋がって、田代とライジェルたちはここで、同じ高貴さを持つ者として並んでもいる。そしてOVAで既に一度記憶改変が行なわれているからこそ、ライジェルたちへの「気持ち」が失われていない、だから今ここにいる、という爽やかな記憶消去が描かれた印象的な話数。八話以降はフランケンがなぜライジェルに仕えているかの回想を踏まえて、ライジェルをめぐる貴族たちの内紛を描き、ここでも高貴、高潔さについての物語が展開される。12話は、「魂が卑怯であってはならぬ」とラエルを叱責する兄、ラスクレアが先代の心を思うことをせず「臆病な自尊心」に駆られていると指摘するゲシュテルら貴族たちの気高さと未熟さのせめぎあいのなかで彼らと渡り合えるフランケンが仕えるライジェルが現われる貫禄の構成のうえにいつもの面白Cパートがやはり笑わされてしまう。終わってみると「絶大」とされた力を持つライジェルとその力の責任を描いた話だったように思う。慕う臣下が居りその者たちのために力を正しく使うことでライジェルに傷をつけることができる、という上に立つ者としてのあり方を実地にロードに教え諭すことで、ノブレスの貴族を守り裁くという役割を確かに果たすライジェルは、ロードとノブレスの権力分立のシステムの体現だった。永遠の存在は自らの地位を去り、若者へと場を譲っていく未来と変化への願いを込めた委譲はやはり権力とその腐敗を防ぐ話。そしてライジェルはラーメンが食べられる日常に戻っていくわけで、田代たちとの学校という平和な場所をこそ守るための力としてあった。

●いわかける!- Sport Climbing Girls -
人工的に設置された壁を登るスポーツクライミングに挑む高校生女子を描く漫画原作アニメ。パズルゲーマーとして名を馳せたものの引きこもりだった主人公が、ホールドをどう掴んで登っていくか、というクライミングの「岩のパズル」に面白さを見出してハマっていく。最初は露出の多い女子を描くお色気アニメなのかなと思っていたら、競技面での資質、体格や才能や弱点をめぐって各自色んな課題に取り組みつつ克服していくドラマをきっちりやってきてて、非常に見応えのある作品だった。今時「~でやんす」と喋る女子高生その他、アクの強い他校のキャラクターがガンガン出てくるところは、ああこれはクライミング咲-Saki-なんだなと思えるところもありつつ、キャラ性のセンスがそれよりぐっと古い感じなのは笑ってしまうし、そういう突飛さ、絶妙に変なセンスをまじえつつ、スポーツのドラマにもまた硬い芯があり、今期有数のアニメだったと思う。変なセンスは枚挙にいとまがないけど、「君がそうならそこをそうさせていただく」というちょっと頭悪いキャラの放ったこのセリフはめちゃくちゃ面白かった。そいつのメンバーたちが公園にある動物遊具に乗ってる絵でホーンの音がしてレディース感を出してるシーンはかなりとんでもなかった。
 体が小さい上級生がその生まれた時からのハンデ故に涙を流す五話や、真面目にやろうとするあまり楽しさという要素を不真面目さとして排除してしまった苦い過去の七話、サブキャラの視点を通してそんなことで潰れるんならずっと下から見ていた自分はなんだったんだ、っていう敗者のプライドをぶつける九話、パズルゲーマーだった主人公だからゲームの話で自分の殻を破るフィクション的な頓知が効いているくだりや、怪我を押して出場しようとする仲間をぐちゃぐちゃの声で止める富田美憂の演技が心を抉ってくる11話、言ってみれば壁を登るだけ、自分と壁だけの世界という個人競技だけど、そこにはつねに仲間がいて切磋琢磨と応援がある、というのがアンネ個人には勝てなくてもリードで、団体で全国一位を勝ち取る執念として結実する最終話。普通に何度か泣かされそうになる。アミノテツロ監督といえばDTエイトロンの監督として名前を覚えている人だったけど、あれから数十年経っても健在だというのが感慨深い。待田堂子構成、BLADE制作。

●体操ザムライ
MAPPA制作、村越繁構成、深川可純キャラデザ、とゾンビランドサガとも似たスタッフで作られたオリジナル体操アニメ。2002年頃が舞台で、サムライとあだ名された体操選手の荒垣城太郎は怪我による成績不振で引退を勧告されたものの、映画村で出会ったニンジャを名乗る外国人レオナルドや娘玲の為にも「引退しませ、ぬ」と会見の土壇場で引退を撤回し、体操を続けていくことを決意する。このレオや言葉を喋るでかい鳥ビッグバードなど、ちょこちょこ突飛な要素も出てくるんだけれど、そういう素材も作中に頻出する映画ネタとからめて綺麗にコントロールした感じで、女優だった妻を亡くした主人公城太郎の体操、父を応援する娘の玲、ニンジャを名乗る謎の外国人レオの三者、大人、若者、子供のそれぞれの夢への物語を見事に描いている。城太郎のマイペースな不思議な感じのように、最初はどういう作品なのかとらえがたくて、静かに始まった印象があるんだけれど、マイペースながらも真面目な芯があり、そして城太郎が方針転換して試みるようになった細部にも意識を向けた丁寧な演技そのもののように、着実に積み上げていってきっちり着地してみせる。妻を亡くした夫の話とともに、母を亡くした娘の話でもあって、父子家庭で父を応援する玲の小学生というにはできすぎた我慢強い玲のエピソードが四話で描かれ、これはこれで良いんだけどちょっと物足りないなと思ったら、六話で完璧な姿を見せていた母親がじつは他のところではそうではなかったと知り、母を見習って完璧であろうと装っていた玲が、大人の真似=演技を一端辞めてみることではじめて一つ、できることが増えるという積み重ねがくる。こうして玲まわりの話を少しずつ固めていって、その後キティ・チャンていう面白すぎる名前の中国人が現われて、彼女がここで父の応援以外の玲自身の夢を導くのがとても良い。父の応援という家庭から飛び出して、「ワールドクラス」への夢を見る。最終話では三者それぞれの「演技」を描き、城太郎も、玲も、レオも、一級の役者ぶりを見せる。玲は母の演技、映画のなかの演技を改めて模倣するという再演の多重性もいいんだけど、城太郎は誰も見たことのない演技をやるという競技の違いの対比も良い。

魔王城でおやすみ
少年サンデー連載漫画原作の、人間界からさらわれてきた姫が、魔王城でなんとか安眠を勝ち取ろうとする奮闘を描くファンタジーコメディアニメ。山﨑みつえ監督、中村能子構成、菊池愛キャラデザの動画工房制作。人質が安眠を求めるばかりか、普通に牢を脱け出てあまつさえ素材として城内のモンスターを普通に殺してしまう(けど生き返る)のがナチュラルなホラーでもあり、姫もまた安眠を求めるあまり溶岩に落ちて普通に死ぬ(けど生き返る)、というコミカルな見た目からは意外なほど殺伐としてもいる。OPもEDもなかなか良くて、ファンシーでファンタジーで、姫の何ごとも意に介さないスタイルで生きていく力強い話だ。でびあくまが良いね。魔王城の面々でもうほとんど親や親戚のように姫に優しいのもだけど、魔王城は勇者をちゃんと魔王城に来るように誘導したりセッティングしたりしている点で、人間側より優位かつ優しい感じがある。そういやなんで姫を攫ったんだろ。とはいえ、最終話は無神経な実家の親戚概念に苦しめられつつも親に成長した姿を見せ、王族たる責任を果たし混乱した状況を果然と復元し、子供の学芸会を温かく見守る図の魔族たちのいる城へと戻っていく、騒々しくも楽しい綺麗な最終回だった。いやー、良いアニメでしたね。小澤亜李が出てくると良いアニメな気がしてくるし。

●おちこぼれフルーツタルト
きらら系四コマ漫画原作のアイドルアニメで、川口敬一郎監督、監督と髙橋龍也の協同構成で、プレアデス五話の二人原画のひとり木野下澄江キャラデザ、feel制作。弱小アイドル事務所に所属した少女たちが、生活している寮の存続を賭けて地道に頑張っていく、というアイドルものなんだけど、画面の適度なポップさとかデフォルメのパターンがいくつもある楽しさとともに、お色気要素多めというか、主人公はじめ出てくる女性キャラたちがみな何かしらのフェチや嗜癖の持ち主の性欲駆動アニメーションになっているのが最大の特徴。ろこどるのfeelだし、東小金井を舞台にした地元アニメでもあるんだけど、これはもう東小金井に謝った方が、という感じで笑ってしまう。楽しいは楽しいんだけど、マネージャーがアイドルの実家からの高値の仕送りをかすめ取ってたり、権力関係をたてにハラスメントかますアレさがあって、そこは気になる。新田ひよりの主演アニメは久々で、最近はガルラジがメインでは聞いたくらいだった。このキャラの変態ぶりの一環は、衣乃のきららファンタジア衣装を見るとわかる。それ変態仮面ですよね? 衣乃の緊張すると催してしまう定番ネタでトイレが頻出するばかりか、いろんな変態がたくさんでてくるので、ある回で「へんたいあらわる」というサブタイだったときには一体誰がその変態だったのかが誰にもわからず騒然となった。このアニメ、噓でしょ?って思う場面が多々あって、最終回でも屋外なのに平気で水着でやってきた大人集団の絵面自体もだけど、水着の理由が特に説明されなかったままだったのには驚いてしまった。アイドルがエロい目で見られることよりも変態だらけのアイドルが仲間をエロい目で見てるほうが多い気がする……。と思ったら最後はオチを付けてきた。良い感じの挿入歌に「邪な感情をぶつける」って歌詞があって、まったくこのアニメのことだ。金に目が眩んだ大人と欲に駆られたアイドルが織りなす汚れたタペストリー、黒く輝いていたよ。

●D4DJ First Mix
ブシロードのDJテーマのメディアミックス企画で、水島精二監督、雑破業構成、サンジゲン制作のCGアニメ。10月から始まったので年内に終わるアニメではないのでここに入れて良いかと迷いはするけど、とりあえず八話時点までの。最初、WOW WAR TONIGHTがEDだし最初のきっかけだし、これに重心置いてるのマジで?ってびっくりしてしまった。こういう楽曲でマス層にアピールする戦略はブシロードらしくてアレだなあと思ったけど、アニメ自体は二話なんかが技術的な細部とコンテストでの扱いで真秀のレベルを描写し、りんくのダンス訓練で歌えるという部分にも説得力を与えつつ、ミニライブの成功でひとまずのコンビが二人の手とともにきちんと繋がる堅実さでこれは結構ちゃんとしていて面白いと思った。一話のBPMを感じとるセンスというりんくの才能めいたものはまだ素人なので生かす余地がまだなく、とりあえず壇上で踊ってろというあたりに落ち着く、できることとできないことの配置が堅実さの内実というか。主人公りんくもテンション高いけど記憶力と心情の機微に聡い性格してたり、DJをテーマにしつつ、ホビーアニメかアイドルアニメかみたいな文脈の良いアニメではある。いやちゃんと面白いのはいいんだけど、ステージ上がって面白げな歌とダンスを披露してるの、盛り上がれば盛り上がるほどDJとは???と思って面白くなってしまうんだけど、なんだろうやっぱりキッズアニメのトンチキさがある。崩し、デフォルメ絵はアニメの良いところの代表的なものだけど、手抜きや気が抜けた感触が伝わる手描きでのその種の表現に対して、CGで七話くらいやるのはむしろ頑張ってるねって感じがあって、表現としては逆の感触がある。それも含めて、CGモデルで微妙な表情の付け方がかなりできるようになってて、特に八話でステージでボタンを押した時のりんくをみる真秀の表情、この話数での思い詰めた感情がこもった感じが表現されてて印象的だった。サンジゲンのCGアニメもかなりレベルが上がっている感じ。

●禍つヴァールハイト -ZUERST-
ラピスリライツと同じKLabGamesが作っているゲーム原作アニメで、だからかラピスリライツと同様横浜アニメーションラボが制作、はたらく魔王さま未来日記細田直人が監督構成をやっている。配送屋のイヌマエルと帝国軍人のレオカディオという二人を主人公にして、数奇な運命から指名手配され抵抗組織ヘッドキーパーとともに行動するようになるイヌと、レオとが双方からこの国で行なわれている陰謀に迫っていくファンタジーアニメ。ドイツ語のサブタイトル通り原作ゲームの前日譚らしいからそこに繋がるんだろうけれど、ラピスリライツ同様、ファンタジー世界の絵作りがとても綺麗で、かつRPG的な巻きこまれストーリーから真実が見えてくるストーリー自体はありがちではあるんだけど、レオとイヌの因果から始まって合流して共闘してというのが地味なおっさん多めで展開される全体の雰囲気がなかなか良い。反体制組織に巻きこまれ次第に国を揺るがす事件に発展し、皇帝に会うために奔走する、まさにRPGだ。原作がRPGだし正しいね。OPがヴォカリーズだけのインストかと思ってる人いるかも知れないけど、公式のMV見るとOPの部分が終わったら急に別の曲になる瞬間は一回体験してみることを勧める。最終回で対決はあったもののレオとイヌの関係はゲームに持ち越されるくさいのはちょっと物足りないんだけど、その場面の作画の見せ所やどんなになっても存在感を失わなかったヘルマン隊長は面白かった。一話で違法な武器を背負い込んでしまったように今度は皇帝の子を受け取るし、怪物化の因子やペンダントなど、さまざまなものを受け継ぎ受け渡す、これがRPGの主人公だっていう感じがらしい。しかしヒロインの座をイルマに明け渡したシャアケ、後半存在感が薄い。「おっさんも付き合うよ!」、このアニメらしいセリフが良かった。崩壊の描写は諸星大二郎の生物都市を思い出した。EDでドカーンとイントロが鳴って「引き返せない」と歌われる瞬間がこのアニメのサビという感がある。

●キングスレイド 意志を継ぐものたち
ゲーム原作アニメで、うたプリダメプリの星野真監督、破滅フラグの清水恵構成、OLM×SUNRISE BEYOND制作。こちらはファンタジーアニメでも王道感があり、主人公カーセルたち一行が聖剣の封印を解いていく旅とともに、オルベルリアでは被差別種族ダークエルフの一団が政治的策謀から貴族と共にクーデターを計画しているという両サイドの物語が進んでいく。地味ながら丁寧に進められていく物語と、派手すぎないけれども細かなこだわりが感じられるキレのあるアクション作画が魅力だ。両親を殺され人間に復讐を誓うダークエルフ側にも人間と仲良くなる者もいたり、着実に悲劇の予兆を組み立てている。話数で言えば八話の親を亡くして一人ふさぎ込む少女をめぐる話数や、妻がアンデッドと化してしまった男の悲劇を露悪趣味にも行かず真摯に描いててとりわけ見応えのある九話が良い。絶望的な状況をわかっていてもわかりたくなかった心情を描きながら、死者と生者に分かたれた戦災のあとを生きるというテーマも感じられる。クレオ小澤亜李の魔法使いが地味な作品性に華を添えていて良い。

●神達に拾われた男
過酷な生活のなかで急死した男が、神様に拾われて、異世界で穏やかな第二の人生を送る、という異世界転生スローライフものなろう系原作アニメ。異世界スマホの柳瀬雄之監督で、漫画はガンガンオンラインで読んでるし、うちの娘アニメのスタジオMAHO FILMで、と想定外の要素もなく、なかなかちょうどいい感じの出来だと思った。おじさんから少年に転生して、スライムを従魔にして研究していたリョウマが、親切な公爵と知り合い一人暮らしの洞窟を出て街に住んで、自分の特技を活かしてクリーニング屋を始めるという、まあそれだけの話ではあるんだけど、田所あずさの少年主人公が楽しめるし、寝る前にふらっと見るには良い感じなんだ。一話は監督直々の一人原画回で、柳瀬監督は同スタジオの別アニメでも一人原画回をやっていて、このスタジオ、柳瀬雄之がコアなところを握って、低予算でも成立するようにクオリティコントロールしてる感じなのかな。いろいろ面白いところだ。

●魔女の旅々
個人的にはメガCDのLUNAR ETERNAL BLUEキャラデザとして覚えている窪岡俊之監督、はるかなレシーブやひとりぼっちの○○生活のスタジオC2C制作による、小説原作アニメ。イレイナという魔女がいろんな土地を旅する話で、キノの旅の影響が色濃いといえばだいたいどんな作品か分かるかと思う。ただキノほど話の出来が良くない印象で、しかしそれゆえキノの私が嫌いなその国々を見下したような感触、が薄いのは怪我の功名かも知れない。本渡楓黒沢ともよ花澤香菜日笠陽子といったメインキャストや作画背景その他絵作りの良さ、コメディ展開の楽しさはあって悪くないとはいえるんだけれど、シリアスな話の物足りなさ、もっといえば魔女とそれ以外の人間とに明らかに格差があるような無神経な切断線の存在が気になる。その点、イレイナが十数人に分裂したアニメ最終話の、イレイナは本当に旅が好きなのかという疑念に対して、自己愛百合や「鏡を見たことないんですか?私のくせに」など自分大好きイレイナという解答をぶつけてくるのは笑うしかない。自己愛百合のナルシスティックさもあり、悲しい体験をしなかった自分を願ってここにきたとか、旅で出会った相手とかより、自分のことしか考えてない自分探しの旅だという点をスタッフこそよくわかってこの回になったと思った。

その他――
冬は質も量も多くて、ここまででずいぶん長くなってしまったのであとは短く。
戦翼のシグルドリーヴァ、プロペラ機でスト魔女をやるみたいなミリタリ美少女もので、キャラや一話などの日常芝居の作画の良さは良いんだけど、男連中の使い方というか、裸男軍団出してきてギャグですってやるノリさすがにキツすぎた。軍人のノリがそうなんだけど、やってるほうは盛り上がってる軍人ごっこを見せられてる感じがあって、軍人描写がパロディのパロディみたいに感じられてしまう。スト魔女もそれなりにフィクショナルだけど上滑りしている感じはないのにこれ同じ人が関わってるんだよな。最終話はなんだかラピュタっぽかった。ただ、帰還したところでオペレーターに「みんな無事で」と言わせたのはほんと、どうかと思った。まあアズズは良いキャラだし作画もやたら力が入っているのはいいけど、最終回はやりすぎ。
くまクマ熊ベアー、ゲーム世界に召喚されるタイプの異世界ものなろう系小説原作で、熊の着ぐるみを与えられ、その最強の装備を着て、出会ったフィナという少女などとともにこの世界で生きていく、百合アニメ。漫画版を前からわりと楽しく読んでいて内容は知ってたから一話の内容をミスリードさせるような改変が意味不明だった。女性主人公がいろんな小さい女の子と仲良くなっていく百合ハーレムアニメでもある。防振り、破滅フラグ、これと今年は女性主人公なろう系アニメが続々と二期が決まる年だった。
100万の命の上に俺は立っている、神達と同じスタジオでスタッフもいくらか似ている、現実と異世界を行き来するタイプのアニメで、冷たく合理的な発想をするという主人公が、個々人は何度も生き返れるけどパーティが全滅すると死ぬ異世界ゲームマスターからクエストを命じられる。まあ、なんだかんだ面白いところもあるアニメなので、二期も見れたら。一話のいらすとや版はなかなかの賛否を巻き起こしたけど、本篇を先に見ているとなんでこんなにちゃんと作っているんだ、と思う。あ、これ原作の漫画でいらすとや版が無料公開していたネタでもあるのとともに、異世界をバーチャルだと思ってる主人公の認識に準じたものだったのかもしれないといま思った。
レヱル・ロマネスク、機関車擬人化ショートアニメ。まいてつというエロゲが元でそのコミカライズを読んだことがあるけど機関車を地域復興に使う話だった覚えがある。これも観光客への土産開発の話で、そこにキャラ同士の百合が同時進行していく。四話の近くにあっても気づかないこと、という視点からお土産と昆虫を絡める話や、観光客への商品開発をテーマにしてきた最後に、みんなからすずしろへの贈り物とともに「いつでも一緒」と言葉を添える綺麗な最終回などが良い。
大人にゃ恋の仕方がわからねぇ!、今期僧侶枠。大人同士で恋愛から距離ができていた二人の話で、売り言葉に買い言葉で一緒にホテルに行く流れがバトルものラノベアニメの一話みたいで笑った。題材的に結構年齢層高め向けかな。不倫でも強引でもない大人のラブコメって感じで、なかなか良い雰囲気で終わる、珍しいタイプの僧侶枠だと思う。
エタニティ ~深夜の濡恋ちゃんねる♡〜、僧侶枠でも知られるスタッフが15分枠で、毎話エタニティブックスのいろんな作品をアニメ化していくというオムニバス企画。僧侶枠に対して版元の違いなのかこちらは社会的地位が高い社長なり御曹司なりが相手役として頻出する傾向がある。そんななかでも同僚を相手にしたプリンの田中さんの回は、すれ違いのコメディセンスと「俺余裕ない……」「お財布にですか?」の思わず吹き出したやりとりが良かった。部屋に誘う意味を指摘して辞去しようとした田中さん、性的同意の概念があってまともな人間だ。強引に襲わないの珍しい。
無能なナナ、能力者が集められた孤島で、人間に害を為すと判断された能力者を、指示に従って無能力者のナナが知略で殺していく、というミステリチックな能力もの漫画原作。あんまり趣味じゃないけどまあまあ面白いかなと思っていたら、人を癒す能力を持つミチルというキャラと能力者殺しのナナとのあいだに、初めての友情ができたあとの13話、ナナがどう見ても恋してる感じで初めての友達のことを「今何してるのかな」って考えてるのは百合だったし、ワンクールをミチルとナナの物語としてまとめた感があって、親の死の責任があると思わされていたナナの呪いを解いて、人への信頼をミチルを通じて得るような回で、まあ良いところで締めるね。

気になった
池袋ウエストゲートパーク
窪塚洋介主演のドラマが人気だった石田衣良の小説を原作に動画工房がアニメ化した作品。カラーギャングというネタはさすがに古すぎるし、イエスタデイをうたってともども、動画工房が昔の作品のアニメをやるセンス、どうだろうと感じる。最初はなんか薄味で、悪くはないけどそんなに面白くもないな、と思ってたんだけど、幾つかの点で非常にダメだと思った。とりわけ五話、原作が書かれた時には技能実習生を早くに取りあげた物かも知れないけれど、2020年にこの題材で中国の貧困メインで話進めて、中国より豊かな日本に暮らせて良かったね、「この問題だらけの国に住んでいても、俺たち日本人は恵まれてるんじゃないか」って語りで締めるの正気かって思う。いま技能実習生は中国からは減っていて急増するベトナムからのが割合的には多くなっているらしいけどそれは措いても、安価な労働力を欲する企業が借金して逃げられない状態でやってきた実習生をタコ部屋で奴隷のように働かせている、という事例があることはもう既に知られてるわけですよ。話がつまんないだけならまだしも、日本における外国人の問題を扱っておいて「まるで他人事みたいに」なってんの、ちょっとどうかしてる。義理の妹ができる話だから飛ばせなかったのかもしれないけど、いまこの題材をこう描写していいと思ってるセンス、ダメでしょ。ひどいのが中国人が題材なのに中国人が日本国籍とるのは無根拠に良いと考えてないと書けない話になってるところだ。家族がいて父の病気のために金が要るというクーが、なんでそんなにあっさり養子になるのか。母国の家族のため、父の医療費のためとはいえ、日本人の養子になるって選択はものすごく悩む話でしょう。中国人に母が騙されているというほうがまだ成立する。中国人の民族意識や主体性ってものが全然存在していない。で、「俺たち日本人は恵まれてる」ことに気づくラスト。バカなんじゃないか。何度も挾まれる日本は豊かで良い国という中国人の発言を受けての、貧しくかわいそうな中国人を養子に迎える善行を行なう恵まれた日本人、に収斂するお話……。人情話、美談を作るためにいろんなものが犠牲にされてて、原作からこうなのか、端折って無惨なことになったのか。八話もシングルマザーを支援に繋げる話はいいんだけど、虐待を始めてしまった母にこのままだとあんたは子供を殺してしまうかもしれない、子供を捨てろ、と言うセリフ自体はありだと思うけど、それを子供と一緒にいる時に言うのは人の心がなさすぎてびっくりした。このアニメ、尺の関係なのか話が薄味だし、ところどころ破滅的に無神経で、根本的にやる気がないように感じる。10話の修復的司法のエピソードはわりに良かったと思うけど。五話の原作にあたる本は手元にあるので、読んだらここに加筆するかも知れない。<01.18追記>というわけでアニメ五話の原作中篇を読んだけど、やはりアニメがそうとうまずいと思う。原作の序盤、安価なカップ麺などにどれだけの血と汗や涙が注がれてるのか、というくだりや、「無関係」という言葉が反復される意味が完全に抜け落ちてしまっている。技能実習生制度は中国の都市と農村の戸籍の分断による格差で生まれた貧困を利用して、日本人もやらないような低賃金労働をさせている貧困ビジネスなわけで、当然日本も受益者だし250人に連帯責任を負わせているのも日本だと明示されているのに、この日本の当事者性がアニメではかなり薄められた。そして「無関係(メイクワンシー)」という中国語のフレーズが幾度か反復されるのは、もちろん実習生制度に関与している日本、そしてクーが働く池袋の店が売春の仲介所ということとか、リンも実習生の仲介で中抜きしている搾取の当事者そのものだということもろもろ含んで反語的に用いられていて、池袋で起こることに無関係なことなどない、とマコトが思うことに帰結する。リンがマコトの母に自分の半生を話したのは、養子展開の導線として意図したものだったくだりもある。リンの描写がアニメではだいぶ表層的になってる印象だ。そういう、一見恵まれているように見える日本も、技能実習生らの血と汗と涙を犠牲にした上にある、この表と裏というのがリンも含めた今作の仕掛けではないか。なのに原作にない「この問題だらけの国に住んでいても、俺たち日本人は恵まれてるんじゃないか」と締めるのは作意を逆転させてしまってる。原作のロジックとしてはカップ麺のくだりのように、貧困ビジネスは日本にいるマコトたちも他人事ではないからこそクーを養子にするということになるけれど、これがアニメでは極端にぼんやりしてしまっていて、あるいは反語のつもりかもしれない語りが文字通りにしか受け取れなくなってる。中篇を一話にするという尺の問題もあるけれど、尺の問題以前ではないか。原作ではカップ麺がタコ部屋奴隷労働の象徴として用いられたのに、アニメではリンが日本のラーメンを褒めていて、中国人に日本の豊かさを評価させるというのも、無理解ぶりが甚だしい印象を強めている。

今年見た過去作品

ソ・ラ・ノ・ヲ・ト
アニメが少ない時期ににGyaOの無料配信で見た。神戸守監督、吉野弘幸構成、A-1 Pictures制作の2010年作品。これは良かった。停戦下の軍人の少女たちを題材にラッパ吹きが終末ではなく停戦の音を奏でる。筋は概ねラスト二話に集約され、多くが日常描写のなかの戦争の傷跡をたどる作りが良い。音が繋ぐ縁への希望。一話を見た時、横溢する水の主題だ、と思ったけど、ノエルとアイーシャの場面は分割線を越えて触れあう二人の背後に暖炉の火が燃え皆は涙を流していて、停戦の場では炎の乙女が雪原に舞い降りることで「雪解け」を迎え、人の命を支える水が生まれる、というエレメントが配置されてる。一話と最終話で季節が冬へとなったのとあわせて、伝承とともに「炎」の意味が逆転してもいる。カナタが川に落ちるシーンで陽が沈むのは最終話の建物の上のカナタに陽が当たるシーンとの照応か。細かい芝居をよく動かす作画、各回の脚本、音楽、砦の街の雰囲気が良かったですね。一話冒頭三分ほどで感じた名作のオーラは間違いではない作品だった。一話のほかにも溺れた話とか梅雨とか精霊流しとか台風とか何かと水が鍵になる印象があって、唐突な感じのあるトイレ我慢する話もきっとそれに違いない。ポストアポカリプス的な遺物に日本が感じられたり、七話の夏と戦争のモチーフなんかとても日本的な戦争テーマにも思える。七話は戦争の記憶はそう他人に話せるものではないというちょっとした溝があって、カナタにあなたはいつでも伝えようとする、思いを言葉にすることを恐れない、というフィリシアが印象的だった。十話旅立ち前のラッパの合奏、ここがひとつのクライマックスにもなってて特にいい場面だった。最終話のあの曲が聴きたくてサントラを買った。

●邪神ちゃんドロップキック
今年二期をやっていたけど、abemaで無料配信していた一期を見た。半裸の蛇の邪神が召喚されて繰り広げるドタバタ百合?アニメで、感想もほとんどメモってなくて特に言うことはないんだけどこれは面白かった。帰宅部活動記録の佐藤光監督ノーマッド制作の漫画原作アニメ。ノーマッドふたりはミルキィホームズVENUS PROJECT -CLIMAX-のスタジオでもあったか。11話、唐突な歌が上手いの面白すぎるでしょ。これが今年いろいろなアニメで歌唱力を披露する鈴木愛奈か。最後風船で宇宙まで飛んでくのなんだこれはと思ったけどOPで宇宙からドロップキックで落ちてくるところに続く最終回。すごいオチだ。このどつきあいギャグの暴力性がリョナ趣味と隣り合ってる百合作品という線で見ると近いものにキルミーベイベーがある。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序、:破、:Q
完結篇放映間近とのことでそれまでの劇場版が全作無料配信されていた。序と破は去年見ていたけれど、記事にまとめてないのに気がついたので、今年見たのはQだけとなる。序と破は、エヴァ特有のトラウマ心理劇的要素は影を潜め、TV版の良いとこ取りで盛り上がり所をガンガンに詰め込みましたという圧倒的エンタメ感は見やすくて良い。リデザインされたメカ、使徒、アクション。使徒はCG時代を反映するようにより幾何学的に不気味になり、同時に血を流す生々しさを付加されて、また別の感触がある。TV版の展開、作画をなぞりながら、特に食事会まわりはえぐい展開にするなと思ったら、シンジとレイの物語としてポジティブな解決をみせてきたのは感慨深い。ここまでの新劇場版エヴァ、TV版序盤の健康的なロボットアニメ活劇を前面に押し出す感じ。
 と思えばQ。これはあのエヴァが帰ってきた。序破がシンジとレイの物語としてまとまってた感からするとここでこの落としぶりはなかなかのもので、Qで酷評が凄かったというのもわからないではないけど、だってエヴァじゃんこれ、って。旧作をスケール大きくして概ねなぞってる感じがある。破の最後は確かにサードインパクトだったから、そりゃこうなるか。見たことがあるような場面が別の仕方で再演されてる感もなかなか面白く、アスカがレイに置き換わってるような場面もあった。13号機のカプセル、AKIRAオマージュなのかな。原画陣もだけど動画参加した会社が日本の制作会社総力戦みたいなクレジットで圧倒的。最近放送作家として活躍している儀武ゆう子がいるのは笑った。

年間アニメ話数10選

これは今年のアニメ10選に入れなかった作品から選んだ。理由はだいたい本文に書いた。

マギアレコード三話
22/7 七話
つぐもも二期三話
白猫プロジェクト七話
超電磁砲三期15話
ジビエート二話
炎炎ノ消防隊二期17話
ストライクウィッチーズ三期六話
ノブレス七話
いわかける九話

2020年アニソン10選

一作一曲で選ぶとこう。

TrySail ごまかし(マギアレコード)
Mashumairesh!! まっしろスタートライン(ましゅまいれっしゅ)
佐々木李子 Good Night(防振り)
sajou no hana 青嵐のあとで(超電磁砲
海野高校ていぼう部 釣りの世界へ(ていぼう日誌)
angela 乙女のルートはひとつじゃない!(破滅フラグ)
ラピスリライツ・スターズ 私たちのSTARTRAIL(ラピスリライツ)
ChouCho 灰色のサーガ(魔女の旅々)
一柳梨璃&白井夢結 Heart+Heart(アサルトリリィ)
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 NEO SKY, NEO MAP!(虹ヶ咲)

今年のアニメ関連楽曲としては、リステージの関連ミニアルバムや、八月のシンデレラナインの「真夏のサイレン」、上田麗奈の「Empathy」などを聴いていた。

●おわりに
通年アニメはミュークルドリーミー以外も引き続きプリチャンを見ていて、おしゃまトリックスがライブデビューしたのが感慨深い。プリキュアは最初ワンクールほど見たあたりでピンときてなくてそこまでしか見ていない。トータルで見たアニメはショートを入れずに全部で120本くらいだろうか。

年末に一気に書いてるものだから、年始のものほど記憶が薄い状態で書いてるのがややバランスを欠くところがあるけど、年末という時限がないと書きはじめられないのも正直なところ。結局一日オーバーしてしまったし。見たのに存在を忘れてる作品もあるかも知れない。

今年もアイドルアニメがやはり強いなと思った。私たちには夢も未来も金もないけど、フィクションの世界では力強く夢を見てくれると嬉しい。

2020年に読んだ本

今年読んだ本を10冊プラス10冊挙げてみる。

上田早夕里『深紅の碑文』早川書房

『華竜の宮』の姉妹篇。人類に迫る、プルームの冬と呼ばれる地球凍結の危機を目前にしたなかで、救援団体、反抗する海上民、ロケット打ち上げ事業を軸に、血で血を洗う抗争、飽くなき交渉、空への夢、人間とは何か、さまざまなテーマを簡潔で淀みなくスリリングに、極限状況での言葉と交渉の意思とともに描く傑作。
上田早夕里『深紅の碑文』『夢みる葦笛』 - Close To The Wall

オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』白水社

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

『プラヴィエクとそのほかの時代』の次に書かれたトカルチュク四作目の長篇小説。ポーランドの国境近くに住み始めた「わたし」や人々の生活、聖人伝、独立性のある短篇など100近い断章(解説などでは111とある)によって構成された、昼と夜、夢と現実、男と女、ポーランドチェコ等、さまざまな「境界」そしてその流動を描いている。
オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』とその目次 - Close To The Wall

木村友祐『イサの氾濫』未來社

イサの氾濫

イサの氾濫

表題作は、東京で転職を繰り返してた男が震災を機に地元東北で荒くれ者として知られていた叔父イサについて調べながら、東京からもこぼれ落ちる「まづろわぬ人」として己を自覚し北からの怒りを叫ぶ叛逆の狼煙だ。切り捨てられる地方からぶつけられる濁音の響き。
木村友祐『イサの氾濫』『幸福な水夫』『聖地Cs』 - Close To The Wall

笙野頼子『会いに行って 静流藤娘紀行』講談社

会いに行って 静流藤娘紀行

会いに行って 静流藤娘紀行

作者が新人賞を取った時は知らなかった藤枝静男。彼が推挙してくれたことで世に出た作者が、私小説を突き詰めて私小説から大きく逸脱する私小説、という彼の影響を受けた方法によって藤枝を語る、「私小説」ならぬ「師匠説」と称するその文学的恩への返答。作者についてはこの記事の一番下の件も参照のこと。
笙野頼子『会いに行って 静流藤娘紀行』 - Close To The Wall

藤野可織ピエタとトランジ〈完全版〉』講談社

ピエタとトランジ <完全版>

ピエタとトランジ <完全版>

名探偵にして殺人誘発体質を持つトランジと、彼女と出会ってからが人生の頂点だというピエタの二人が、女は子を産め結婚しろという抑圧を拒否し、感染する殺人誘発体質で人類を破滅させながらそれでも二人一緒に生き続けることを選ぶ、強烈な百合黙示録。
百合ラノベ、百合SF、百合ミステリその他、百合小説約30冊を読んだ - Close To The Wall

テッド・チャン『息吹』早川書房

息吹

息吹

日本では17年ぶりの著者二つ目の作品集で、あえていうまでもなく面白い。特に異世界で科学が世界の不穏な真実を解き明かす大ネタのものや、SF的アイデアがきわめて日常的になった世界での人間性を描き出すものが印象的で、いずれも人間、知性とは何かを問う。
『傭兵剣士』『あがない』『息吹』『年刊日本SF傑作選』その他最近読んだ諸々 - Close To The Wall

林京子祭りの場・ギヤマン ビードロ講談社文芸文庫

長崎で被曝した作家の初期作品集二冊の合本。75年に発表され群像新人賞芥川賞を受賞した「祭りの場」は三〇年前の被爆の壮絶な様子を淡々とした調子で描き出す。原爆文学で芥川賞を受賞したのはこれが初めてだという。『ギヤマン ビードロ』は12篇の連作で、なかでも三〇年後の同級生らとのかかわりから記憶の断片が繋がる瞬間が印象的。
原爆、引揚げ小説四冊 - Close To The Wall

パウル・ゴマ『ジュスタ』松籟社

ジュスタ (東欧の想像力)

ジュスタ (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉叢書の第18弾は現モルドバ共和国ベッサラビア生まれのルーマニアの作家パウル・ゴマの、1985年に書かれた自伝的長篇。著者は今年、亡命していたパリでCOVID-19によって亡くなった。主な舞台は1956年ハンガリー事件の頃、秘密警察「セクリターテ」や協力者による告発が頻発している全体主義社会のルーマニアで、主人公と、彼が正義=ジュスタとあだ名を与えた女性の関係を描きながら、彼女の受けた仕打ちに、おそらくはルーマニアの「正義」の頽落を重ねている。
パウル・ゴマ『ジュスタ』 - Close To The Wall

石川博品『ボクは再生数、ボクは死』エンターブレイン

ボクは再生数、ボクは死

ボクは再生数、ボクは死

石川博品二年ぶりの新作。近未来VR世界で特注の女性アバターをまとい風俗通いに勤しむ主人公が、高級娼婦にハマって資金を捻出するためにならずものアカウント殺害動画配信をして稼ごうという話で、帯文通りエロスとバイオレンス濃いめでもあるんだけれど、VR設定によって切実さとともに軽薄なコミカルさも失わないバランスが素晴らしい。
石川博品『ボクは再生数、ボクは死』 - Close To The Wall

イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』幻戯書房

ユーゴスラヴィアノーベル賞作家の初期散文詩、代表作『ドリナの橋』の核となる短篇や表題の幻想小説等の短篇小説、ニェゴシュについての講演等のエッセイ、年譜や長文の解説含め、多民族の入り交じるボスニアに生まれた作家の彼岸への理想を託した橋の詩学を集成した一冊。
イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』 - Close To The Wall

もう10冊

10選ぶと上のようになるけど、もうちょっと挙げておきたいのがあったので延長線。
セアラ・オーン・ジュエット『とんがりモミの木の郷 他五篇』岩波文庫

ウルフとともに『レズビアン短編小説集』に収録されていた作家で印象的だったジュエットが岩波文庫で初の単独訳書が出たのを見てつい買ってしまっていたもの。1849年生まれの作家による作品集で、老若問わず男性に依存しない女性同士の親密な関係が、地方の自然描写とともに描かれる。メイドの令嬢への愛を描いて感動的な「マーサの大事な人」は120年前の主従百合の古典的傑作。
中里十『君が僕を』ガガガ文庫
君が僕を~どうして空は青いの?~ (ガガガ文庫)

君が僕を~どうして空は青いの?~ (ガガガ文庫)

  • 作者:中里 十
  • 発売日: 2009/07/17
  • メディア: 文庫
どろぼうの名人』二部作の中里十の商業作品としてはいまのところ最後のシリーズだろうか。「恵まれさん」という現金に触れずに他人にものを恵んでもらうことで暮らしている少女とその執事を任じる同級生がニュータウンの学校に転校してきたことで語り手と出会うことから始まる百合ラノベ。資本主義、宗教、同性愛そして言葉のやりとりをめぐる思弁的小説。
上掲二冊は以下の記事に本文あり。
百合ラノベ、百合SF、百合ミステリその他、百合小説約30冊を読んだ - Close To The Wall
青来有一『爆心』文春文庫
爆心 (文春文庫)

爆心 (文春文庫)

長崎に住む人々を描く六篇の連作集。必ずしも原爆の被爆者ではない語り手を置くことで、土地に根付く歴史と記憶の断面がかいま見える、長崎に生きるということについて書かれている。浦上天主堂が表紙にあるように、原爆とカトリックキリシタンが基調の連作だけれど、他にも共通するのは家族の崩れが描かれていることで、原爆という切断、空白、途絶の影響はカトリックの信仰にも家族にも亀裂を入れる。
原爆、引揚げ小説四冊 - Close To The Wall

藤枝静男『凶徒津田三蔵』講談社文庫

明治二十四年、警察官がロシア皇太子を切りつけた大津事件の首謀者を描いた1961年の表題作と、その事件をめぐる畠山勇子、明治天皇、児島惟謙の行動をまとめた72年作の姉妹篇「愛国者たち」が併録された講談社文庫オリジナル編集の一冊。
藤枝静男『凶徒津田三蔵』、『或る年の冬 或る年の夏』 - Close To The Wall

倉数茂『あがない』河出書房新社

あがない

あがない

  • 作者:茂, 倉数
  • 発売日: 2020/06/26
  • メディア: 単行本
表題作は解体業者で働く中年の男性を主人公としながら、薬物依存に陥った過去を持つ人の語りを随所に差し挾み、過去を贖うように真面目に働き独居老人の世話をしたりもする主人公の現在をさまざまな水のイメージとともに描き出しつつ、ある決断を描く中篇小説。
『傭兵剣士』『あがない』『息吹』『年刊日本SF傑作選』その他最近読んだ諸々 - Close To The Wall

ファトス・コンゴリ『敗残者』松籟社

敗残者 (東欧の想像力)

敗残者 (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉第17弾はアルバニア文学としてイスマイル・カダレ以来二人目となるファトス・コンゴリが1992年に発表した第一作。91年、国外脱出の船を出航前に降りた主人公が、幼少期の暴力やその復讐、国外逃亡者の叔父を持つための迫害、恋人や友人を失い、そしてすべてを失うまでの敗残の人生を回想する長篇小説。
ファトス・コンゴリ『敗残者』 - Close To The Wall

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』水声社

ボルヘスの盟友として知られるアルゼンチンの作家の1940年作。政治犯受刑者の語り手が逃げ込んだ孤島に、突然複数の男女が現われ、その一人の女性に惚れ込むけれど、なぜかいっさい反応が得られず、そんな時島には二つの太陽、二つの月が現われ、というSF幻想小説
薄い本を読むパート2 - Close To The Wall
石川宗生『ホテル・アルカディア集英社
コテージに閉じ籠もった女性プルデンシアを外に出すために、ホテルに泊っていた七人の芸術家が数多の物語を語っていく枠を持つ連作掌篇集で、『千夜一夜物語』と天岩戸を思わせる設定通り、奇想小説のなかにさまざまな世界文学を思わせる言及が織り込まれてもいる。
石川義正『政治的動物』河出書房新社
政治的動物

政治的動物

  • 作者:石川義正
  • 発売日: 2020/01/23
  • メディア: 単行本
1979年から2017年までに日本語で発表された小説のなかの「たがいに他者同士である形象」としての動物たちを、「社会の周縁に排除されてきた女性やマイノリティ、障碍者、そしてさまざまな被差別をめぐる形象」に近づいたものとして捉える批評で、特に第一部はほぼ女性作家論集にもなっているのはテーマからも必然的な構成だろう。
エリック・マコーマック『雲』東京創元社
雲 (海外文学セレクション)

雲 (海外文学セレクション)

メキシコで見つけた『黒曜石雲』という奇怪な天候現象を記した本の舞台がスコットランドにある主人公の若き日の失恋の思い出の土地だったという偶然をきっかけに、孤児から生まれた孤児がこれまでの人生をたどり返す、不穏な感触を湛えた長篇小説。
上掲三冊は以下の記事に本文あり。
秋から年末にかけて読んだ本 - Close To The Wall

ライター仕事

今年は以下の二冊の書評を図書新聞に書いた。
オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』
図書新聞にトカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』の書評が掲載 - Close To The Wall

荻原魚雷『中年の本棚』紀伊國屋書店
図書新聞に荻原魚雷『中年の本棚』の書評が掲載 - Close To The Wall



最後に。

この記事で笙野頼子の一作を挙げるにあたって付言しておかねばならないのが以下の一件について。


ネットでは以前からあったものの、お茶の水女子大でのトランスジェンダー学生の受け入れ決定を機に反トランスジェンダーの勢力が活発化したり、「現代思想」掲載論文が反トランスだと批判された件などはある程度知られているかと思う(ものとして以下進める)。そんななか上掲の発言があり、ここ数年笙野さんから著書をお送り頂いていて、折に触れ作品を読み、感想をブログにも上げて積極的に支持していた読者ゆえにこそこれは看過するべきではないと思い、上記のように反対の旨を表明した。そうすると笙野さんからメールを頂いていくらかやりとりしたのだけれど、その文面は私には差別主義としか評価できないものだった。それなりに理解できる議論も含まれつつも、全体的にはいかに男性特権を持ってうまれた「強者」のトランス女性が女性という「マイノリティ」の脅威となっているか、という視点からのみ世界の情報をパッチワークしてできあがった、おぞましいヘイト言説としか思えない。私信の内容を明かすことはしないけれども、こうも典型的に差別のロジック、それもレイシズムに酷似したロジックを使ってしまえるという差別への警戒感のなさには唖然とした。「女性」性を身体に還元し、その「女性」のわずかな不利益になるかも知れない可能性を全力で排除し、それがいかに自ら望んだものではなくとも男性性を持つ者を排除すべきだという、セクシズムを根底に持つ、フェミニズムを仮装した差別主義というほかない。男性を叩くための、女性の側からのセクシズムではないか。巷間TERF(トランス排除的ラディカルフェミニスト)と呼ばれるスタンスが性被害や現存する女性差別への抵抗としてあるとはいえるけれども、差別主義にもとづいた言論は人権というフェミニズムの正当性が依拠する基盤そのものの破壊でしかない。「トランスコリアン」などといいだした反トランスの人がいるけれども、差別的発想がベースにあるからそりゃそうなるだろうし、トランス排除の言説はアイヌ民族を「自称アイヌ」などといってアイヌ差別を繰り返すレイシストの言説そっくりだった。氏が撤回などしない限り、以後、私にとって笙野頼子はこのトランス差別の問題を別にして評価することは難しくなった。私に送られてきたネット右翼レイシズム言説のごときメールは、二十年近く読んできた私の氏に対する印象を破壊するに充分以上の力があった。
 付言すれば、ツイッターフェミニズム的な言動する人やリベラルな論者のなかには結構な割合でセクシズムとしか思えない発言をするものがおり、TERFと非常に親和的でじっさいに一部は同居している、というのが私の感想だ。「萌え絵」についての議論において、二言目には女性の作り手に「名誉男性」といいたそうな連中……。以前、氏の小説について、「萌え文化が非常に一方的に男性による女性への暴力として戯画化されているのは気になる」と書いたことがあるけれども、その延長にこの事態はあると思っていますよ私は。だから以前から懸念自体はあったといえるけれども、しかし。
笙野頼子 - 人喰いの国 - Close To The Wall
百合ラノベ、百合SF、百合ミステリその他、百合小説約30冊を読んだ - Close To The Wall

秋から年末にかけて読んだ本

ツイッターで書きっぱなしにしていて記事にまとめていなかった本をまとめて。

大森望日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 プロジェクト:シャーロック』

2017年のSF傑作集。ちょっと物足りなくて傑作というよりはバラエティの面白さ。上田早夕里のOC短篇や山尾悠子が読めたのは良いし彩瀬まる、我孫子武丸加藤元浩の漫画もいいけど、新人賞があまり惹かれなかった。酉島伴名は既読なので飛ばして、彩瀬「山の同窓会」は子を生むごとに死へ近づく奇妙な生活環に変貌した人間社会とともに、出産への善意の同調圧力の気持ち悪さも出てて面白い。表題作と円城作はネット社会に生まれる何ものかを描いてるところが通じている。で、宮内作はやっぱこれは物足りない。松崎作は最初コミカルな調子は悪くないと思ったけど、途中から荒唐無稽にすぎたのと、昏睡から目覚めた人間に着替えを見られてビンタしたりするラブコメ漫画みたいな手続きが入るところとか「つっこみどころ満載」って言葉が出てくるのとかがダメだった。小田「髪禍」は読み応えはあるけど、怪奇小説の範疇でここに入るのは違うんじゃと思った。彩瀬はアリだけどこれは、という区切り感が自分にはある。横田順彌眉村卓はそんなに悪くないと思ったけど、筒井のは面白さが分からない。凝ってはいるんだけど。新人賞の八島「天駆せよ法勝寺」は「佛理」とかの仏教を取り入れた語りによる宇宙SFで、スタイルは良いと思うんだけど、何故か話にまるで興味が持てなくてだらだら読んでしまった。選評では古橋秀之に言及するのに、『ブライトライツ・ホーリーランド』が出ないのは何故なんだろ。『ブライトライツ・ホーリーランド』の冒頭こそ、今まで読んだなかでいちばんカッコイイ仏教SF(?)描写だったと思うけど、手元にない。部屋には『ブラックロッド』と『ソリッドファイター』しかない。実家にあるかなあ。

大森望日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形』

シリーズ最終12巻、2018年の傑作選。最終巻ということなのかおよそ700ページと厚めになっている。傑作選というには軽い作品も多いけどそれも含めてその年のカタログという役目は果たしていたので、終わるのはやはり寂しい。編者が述べていたように、純粋な傑作選とするにはさまざまな制約があり、そのかわりにマイナーな掲載誌から拾ってくるものがなかなか貴重で、今作でいえば水見稜の「アルモニカ」がそうだろう。タイトルにもなった楽器をめぐる読み応えのある歴史音楽小説で、ワセダミステリクラブの機関誌からの再録。新人賞のアマサワトキオ「サンギータ」は2037年のネパールを舞台に生き神クマリとバイオ技術を絡めた一作で、クマリのキャラ性含めてかなり読ませるけど、「ますん」とかのどっかでみたようなネタがちょっと微妙。いろいろパロディがあるっぽい。しかしこれ100ページあるけど応募規定超えてないか。読み始めてみて100Pあるのに気がついたんだけど、新人賞の応募規定は原稿用紙100枚くらいのはず。「サンギータ」は倍くらいある。選評にもこの長さについて誰も触れてなくて、改稿の結果長くなったのかとか、どうしてこんなに長いのかわからなくて困惑した。今年で一気に四巻分読んだ。編者が被っていて傑作選にほとんど入れなかったというNOVAシリーズ、一巻しか読んでないからこっちも読まないとなあとは思っている。

逆井卓馬『豚のレバーは加熱しろ』

豚のレバーは加熱しろ (電撃文庫)

豚のレバーは加熱しろ (電撃文庫)

電撃小説大賞金賞。非加熱レバーを食べて死んだ理系オタクが異世界で豚に転生して心が読める被差別種族の少女とともにこの世界の謎に迫るファンタジー。真相に釈然としないものがあるけどアイデアは良いし締めも良い。それゆえ288P以後の評価に困る。心が読める種族イェスマは、金持ちの小間使いとして仕え、16の誕生日を迎えると王都に旅しなければならず、しかし骨や首輪に価値があるため、その間に多くが狩りにあって殺されてしまうという不可解なしきたりがある。豚はこの旅の供をしながら少女を全力で守ろうとする。まさに萌え「豚」と化した主人公が心優しい美少女ジェスに世話されながら、自分の戯言やエロ妄想なんかも筒抜けで「地の文」にジェスが反応を返してしまうことがあるメタ感はコミカルだし、その理想を具現化したような相手には豚として関係するしかない距離があるのも悪くない。エロ豚としての自分を天使のように受けとめてくれる美少女、という気持ち悪い妄想が、実際に豚として転生することで種族差という距離と世界の違いを置きながら叶う、というところは結構面白くはある。豚は理系大学生ゆえの知識で名探偵のような推理を働かせながら知略の面でジェスを助け、この世界の謎にも迫るんだけど、表の社会構造にもその真相にもあまり納得感がなくて、豚と読心種族のコンビを成立させるために逆算で作られた印象を受ける。登場人物もそれだけのために出したのかというのも。単巻ならこれらの気になるところを大目に見られても、この世界の話を続けるとしたらなかなか難しそうだとは思った。いや、明らかに問題があるままになっている世界だからこそ、またそれをなんとかしないといけない、という責任にもなるか。ネタバレになるけど、誰かを救った冒険物語が眠っていた時の夢だったんじゃないかという部分は非常に良くて、確かに旅した実感があるのにそれは夢や本のなかだけのものなのかも知れない、という切ない感覚って物語やファンタジーの根っこだとも思うんだけど、それだけに引きに疑問なしとしない。自分の全てを受け入れる都合の良い少女やナイトになりたいとか知識や頭の良さで切り抜けるその他の夢物語に対しては、設定その他である程度距離をとっていて、形としては物語という旅を通じて立ち上がる強さを得る、というタイプだから、あの世界との距離感はあまり近くなるとよろしくない様に思う。あの状況で残したままにできるかというのはあるにしても、それこそあの世界で自ら立たねばならないのではとも。続巻前提で加筆したのかも知れない。続くとしたら性格は変わっているはず。どうなるんだろう。豚視点なのでやたら足フェチ描写が出てくる。二巻は未読だけど、288Pまでの単巻としての話と、それ以後の続き物としての話は別物として考えたほうが良いのかも知れない。二巻もそのうち読んでおきたい。

ぴえろ『転生王女と天才令嬢の魔法革命』

魔法の使えない転生王女が、パーティで次期国王の王子に婚約破棄された魔法の天才の令嬢を攫い、一緒に魔法の使えない人間でも利用できる魔道具の開発を志す百合ファンタジーラノベ。漫画版を見て原作を読んでみた。悪くない。展開にちょこちょこ強引な、と思うところはあるけど、結婚とかしたくなくて継承権を放棄して好き放題やってる王女と、次期王妃としての生き方しか知らなかった令嬢が出会って、信頼を深めていく様子は良い。憧れと自由と、お互いがお互いの足りないところを補い合う関係。転生王女の一人称なんだけど、地の文でも元気いっぱいで楽しげ。姫様に嫁いだようなものです、という専属メイドも出てくるよ!

石川宗生『ホテル・アルカディア

ホテル・アルカディア

ホテル・アルカディア

コテージに閉じ籠もった女性プルデンシアを外に出すために、ホテルに泊っていた七人の芸術家が数多の物語を語っていく枠を持つ連作掌篇集で、『千夜一夜物語』と天岩戸を思わせる設定通り、奇想小説のなかにさまざまな世界文学を思わせる言及が織り込まれてもいる。最後以外概ね10ページの短篇小説が連ねられており、それぞれがラテンアメリカ文学なり、カルヴィーノ『見えない都市』を思わせたり、または岸本佐知子編のアンソロジーに入ってそうだったりする奇想・幻想小説になっていて、個々の短篇はこれらのジャンルが好きならまず面白く読めるはず。「本の挿絵」なんかはパス「波と暮らして」オマージュかと思った。そうした個々の幻想小説ボルヘス的な抽象性でまとめあげたような印象がある。「バベルの図書館」というか、世界をコレクションに加える一篇のような世界を包含する書物、あるいは「世界劇場」のモチーフ。
七つの部に分けられ、一部七篇から順に少なくなっていく章分けは、連載時タイトルの「28」という数字が完全数だということから設定されたものらしく、浩瀚さではなく、掌篇を数学的に配置することで世界をそのうちに取り込むという構えはカルヴィーノというかウリポ的な試みなんだろうか。そうした構えの各篇には『千夜一夜物語』、『古事記』のほか、ギリシャ悲劇、喜劇、シェイクスピア、あるいは『狂乱のオルランド』(ウルフ『オーランドー』も)なんかの古典、ラテンアメリカ文学、日本文学、イタリア文学、その他さまざまな直接間接の言及があり、私の分からないものもたくさんあるはず。作者がラテンアメリカ文学好きなのは『半分世界』を読んでもわかるけど、スペイン語圏文学やイタリア文学、あとロシア文学の言及が多い気がする。「代理戦争」あたりは現代アメリカ文学の短篇にありそうとは思った。他にもプルデンシアがビートルズのDear Prudence由来なのでレノンとポールがいるとか、パセリ、セージ、ローズマリー、タイムとスカボロー・フェアの一節があったり、ミック・ジャガーは直接出てくるけど他にも音楽ネタもたくさんありそう。というか、「ホテル・アルカディア」って、ホセ・アルカディオ・ブエンディーアのもじり? ホテル・カリフォルニアもあるのかな。「ベネンヘーリ」といえば『ドンキ・ホーテ』の原作者とされる人物だし、ヒルベルトのホテルってラッカーの『ホワイト・ライト』かなと思うし、ベケットピランデッロ、ストッパードが「出来事が来る!」とか言う戯曲とか、数多の文学を下敷きにした世界巡行を一冊に閉じ込めたような小説。前著にも似た趣向があったけど、「A♯」と「機械仕掛けのエウリピデス」の全員が創作に携わる系奇想は世界劇場的なテーマなのかな。世界劇場ならぬ、世界文学? 枠と各篇の関連性なんかは再読が要る感じだけど、なんにしろ、面白短篇が連ねられた楽しい一冊なのは間違いない。

友田とん『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』

『パリのガイドブックで東京を闊歩する』という、比喩として使ったこの文を実践してみるとどうなるか、から始まる奇妙なエッセイで、土地と書物のなかで偶然と迷子を方法的に生み出すような、読むことの「フィクション」と呼びたい一作。ガイドブックを模した判型でフルカラーで写真が掲載された、薄いながらも凝った作りの本で、自費出版の前著『『百年の孤独』を代わりに読む』をいろいろな本屋に置いてもらう行脚とともに、この文言を実践するとはどういうことなのか、ルールを設定するところから始まる。本書は著者からお送り頂いたものだけれど、それは私が後藤明生研究をやっているというのを知ってのことで、偶然の出会い、土地と書物の関係はまさに後藤的なテーマだし、フレンチトーストの挿話は『しんとく問答』の「マーラーの夜」の「海老フライ」の一件を思い出すし、二巻の20ページ前後の文章は非常に後藤明生に肉薄した箇所だと思った。iPhoneの通信の不具合が迷子を生んだように、もはや迷うことのできない現在において、東京でいかにして迷うか、その端緒としてパリのガイドブックという参照先を選ぶという暴挙があって、この東京とパリの懸隔のなかに自由あるいは読むことと書くことの過程を見出す試みだろうと思う。デイリーポータルZ的な街歩き記事とも通じるものがあるけれども、本作は書くこと、読むことをその重要な枠組みとしているところが大きな違いで、あり得ないような比喩をじっさいに生きてみる、という方法的フィクション(これは書いてあることが虚構だという意味ではない)という感触がある。パリという降って湧いたものがノートルダム大聖堂や黄色ベスト運動が視界に入り込み、パリというものへの導線となったり、穴や欠落、不在、そして読めない、ということがむしろ、前に進むことでもあるような、逆説の核心を提示する二巻終盤は、緩いように見えて確固としたものを感じさせる箇所だった。単純に変なエッセイとして面白いし、後藤明生的な筆法をいかに現代に実現するか、という試みとしても読めるし、なによりこの、どこにたどり着くのかどこにもたどり着けないのか、このタイトルから果たしてどうなるのか、不安定なようで確信があるような不思議な不安定感が印象的。読んだことはないけど、星野博美に『迷子の自由』という本があるのを思い出した。

石川義正『政治的動物』

政治的動物

政治的動物

  • 作者:石川義正
  • 発売日: 2020/01/23
  • メディア: 単行本
1979年から2017年までに日本語で発表された小説のなかの「たがいに他者同士である形象」としての動物たちを、「社会の周縁に排除されてきた女性やマイノリティ、障碍者、そしてさまざまな被差別をめぐる形象」に近づいたものとして捉える批評で、特に第一部はほぼ女性作家論集にもなっているのはテーマからも必然的な構成だろう。最初に置かれた「二〇一七年の放浪者(トランプス)」では、2017年に刊行された柄谷行人村上春樹松浦寿輝後藤明生多和田葉子金井美恵子の諸作を崇高という観点から論じ、半分以上を占める第一部「動物」は全篇書き下ろしで、津島佑子笙野頼子川上弘美多和田葉子大江健三郎松浦理英子の動物の形象を、「賃借、市場、隠喩、国家、天皇制、民主主義、主権、所有、模倣、マゾヒズム」といった点から論じる。加筆修正された既発の論文を元に構成された第二部は谷崎潤一郎金井美恵子中上健次赤瀬川源平蓮實重彦が対象。

最近言われる動物の権利という論点ではなく、小説に現われた動物の形象をデリダの動物論などを引きつつ政治性の面から論じるという本で、哲学、思想、経済、国際政治等を横断するまさに「批評」的文章は要約しづらいし理解したとも言えないけど、小説が置かれた経済的状況を指摘するところは印象的。住宅・部屋にまつわる言及も多く、津島の部屋や松浦の家と負債の論点や、日本近代文学が民営借家の低廉な家賃という「補助金」によって成り立っていたという議論から、笙野『居場所もなかった』が木造共同建てからマンション建築へという住宅事情の歴史の渦中だった点の指摘などもある。

経済要素ということでは、中上健次『地の果て 至上の時』の作中時間を厳密に1980年5月でなければならない、と推定する箇所は面白かった。経済白書や「木材需給報告書」を援用して、材木価格は1980年4月をピークにその後急激に下落する歴史が、材木屋をやってる龍造に無関係なはずがないと。語呂合わせはあんまりやるとこじつけめいてくるけれど、至上と市場の音に少しだけ注意を促す箇所はさらっとしていた。また、赤瀬川原平の千円札裁判の件は通貨の偽造ではなく、模造自体を犯罪とする、通貨及証券模造取締法違反が問われており、この法律は山間僻地や朝鮮半島での模造紙幣の取り締まりという「大日本帝国植民地主義と関連する」「人民の自治が認められていない従属地域における治安維持を目的とした法律」(354P)だというのも非常に面白かった。ここから国家と芸術の自律と反逆の話にもなっていく。「現実に生存する動物たちではなく、幾人かの小説家によって創造された動物あるいは人間ならざるものたちの形象」という本来の論旨について全然書いてないけど、そこは実際に読んでもらえれば。

他にも、宮澤賢治フランドン農学校の豚」という短篇が、人間の言語が通じる豚が、それゆえに「家畜撲殺同意調印法」に調印させられ、その同意に従って殺され解体される話だという。非対称的な関係による契約の強要というかなり生々しい話で興味を惹かれた。また、ある章の結句、「いずれすべての者どもが犬に変わるだろう」という一文から、エピローグで「犬のような批評家」を自称するのに繋がるのはなかなか挑発的。放浪者(トランプ)で始まり切り札(トランプ)で終わる構成はニヤッとしてしまいましたね。トランプの時代の終わりに出た本でもある。まあとにかく「批評」を読んだなあという感慨があって、また書くのに元手がかかってそうな密度の濃い文章なのもあって、800ページの本を読んだくらい読むのに時間が掛かった。時間は掛かっても通り一遍の感想も書けないのはアレだけど。文献一覧も参考になる。
『政治的動物』で引用・参照したおもな文献|石川義正|note

ジャスパー・フォード『最後の竜殺し』

最後の竜殺し (竹書房文庫)

最後の竜殺し (竹書房文庫)

魔法が斜陽産業となりつつあるパラレル英国を舞台に、孤児院出身で魔法会社の社長代理を務める15歳の少女が、ある日突然最後のドラゴンスレイヤーだと判明する。正義感が強く毅然とした主人公が社会のさまざまな困難に立ち向かう軽妙な現代ファンタジー。主人公のジェニファーが孤児院出身で、年季奉公のためこの魔法管理会社に勤めに出されているという設定は児童文学を思わせるところがある。テキパキとした展開にユーモアや皮肉を交えつつ、心根の優しい主人公が現代社会の荒波にもまれる筋書きは実際そういうアプローチだろう。世界的な魔法力の減退で魔法管理会社も数を減らしつつあり、主人公のいる会社にも何もしてない社員や偏屈な魔法使いがいて、そんな魔法使いも家の配線修理に駆り出されているなか、最後の一頭のドラゴンが近く死ぬらしい、という情報が連合王国ならぬ不連合王国、UKを揺るがせる。侵入者が即死するバリアによって守られたドラゴンランドは広大な自然が手つかずで残っており、ドラゴンが死んだ時に杭を打って土地を確保すればその人の土地になるという規則のゆえにドラゴンが死ぬというのは多数の個人や不動産会社のみならず国が乗り出す一大事件になる。竜の土地を資本主義が強奪するという現代的モチーフとともに、本作の舞台となるヘレフォード王国は不連合王国を構成する一国で、ドラゴンランドをはさんだ隣の小国との軍事的緊張を抱えており、国王はドラゴンランドを通り越して小国を攻撃したいという戦争の危機までが浮上する。資本と権力がジェニファーと竜をめぐって一大事件を巻き起こし、彼女は周囲の人物たちの誰を信用し、信頼すれば良いのかという困難に巻きこまれ、それでも毅然と己の意思と正しいと思うことに従って突き進む。資本と自然、正しい心が取り戻す失われたもの、のファンタジー。帯とかで資本主義が大きく出てくるし、それがユーモラスで皮肉な調子をもたらしているんだけれど、国家権力そして戦争の危機も大きくて、必ずしも資本主義ばかりが中心ではない。むしろ軸足は、「友達」という言葉が重要なように、ジュヴナイル小説的なところにあると見る。つまるところ、現代社会においていかに正義感と純粋な心を失わずにいられるか、という戦いの話でもあって、魔法というものが社会に組み込まれるように、ドラゴンスレイヤー現代社会でそれを活用しつつ肝心なところは曲げずに生きる、という伝統と現代の話でもある。資本主義と魔法をテーマにしたファンタジーの傑作、というとちょっと違う感があって、たとえば15歳という主人公の年齢と近い子供に向けて書かれた小説、ではないか。英語で言うところのヤングアダルトジャンル? 全体に感じが良くてキャラも良いし続刊が出たら読みたいけど、出るのかな?

エリック・マコーマック『雲』

雲 (海外文学セレクション)

雲 (海外文学セレクション)

メキシコで見つけた『黒曜石雲』という奇怪な天候現象を記した本の舞台がスコットランドにある主人公の若き日の失恋の思い出の土地だったという偶然をきっかけに、孤児から生まれた孤児がこれまでの人生をたどり返す、不穏な感触を湛えた長篇小説。マコーマック九年ぶりの翻訳で、著者最長の小説というのでどんなものかと思えば、稀覯書の謎をフックにしつつも、ある男の生涯を丹念にたどった小説となっており、これまでの作品に比べると一番普通の小説に近い感じだ。空を鏡のように覆い、目玉が飛び出て死んだ者もいる黒曜石雲という怪奇現象を導入にしているけれど、この現象自体の謎が解かれるわけではないし、そもそも事実ではない可能性も示唆されている。作中のいくつものグロテスクな挿話のように、謎は謎のまま人生について回る、解決不能なものとの同居こそがここで描かれている。これまでの小説でも語られていた炭鉱の事故で片足になってしまった男たち、という著者偏愛の挿話や過去の小説を思わせる話も出て来たりする意味で確かに集大成を思わせる。

主人公はスコットランドで生まれ別の土地で人生最大の愛に破れ、アフリカ、南米、そしてカナダで揚水機会社の社長となる。ある親子と出会ったことが孤児出身の主人公が社長の椅子に座ることのきっかけだけれども、ダンケアンという土地での失恋もまた、主人公がイギリスを離れ、漂流の人生のきっかけになっている。メインはこの流浪とそこここで出会う人々や事件にある。古書をめぐる謎、冒険小説的な未開の土地への訪問、怪奇小説的な挿話、ウェルズを下敷きにしたSF的なネタ、いろいろなジャンルの要素を散りばめながら、おそらくは本書の核にあるのは、人間とある書物との決定的な出会い、ということだと思われる。『黒曜石雲』という本と語り手ハリー・スティーンとの人生との決定的な交錯。「『黒曜石雲』を発見した体験、それだけは永久に私一人のものだ」、「謎を明るみに出す役を演じる者として、己一人のささやかな謎をダンケアンに持っている人間たる私をこの本は選んでくれたのだ、と」(442P)。この、自分一人のための書物という本へのロマンが根底にある。そして『黒曜石雲』という本と男とを繋ぐものが、ボルヘスの「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウスに引かれている、「鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい」という言葉ではないか。黒曜石雲は「空の鏡」と呼ばれており、本もまたコピー(~部)と数えられ、著作はしばしば書き手の子供だと喩えられる。男が別の女性と子供を作る、ということが本作において非常に重要な意味を持つけれど、これは『黒曜石雲』の著者も同様。ただし子供を作ること自体が忌まわしいという話でもない。

本書でまず良いなと思ったのは冒頭のハリー幼少期の両親との関係を描いたところだ。孤児の両親から生まれ、スラムで貧しいながらも多弁な父と寡黙な母と息子の関係、ここでまずこの小説が良いなと思えたところだった。しかしこの幸福な時間は不幸な事故で突然終わる。主人公が学校で聞いた話として「知的意図理論」(インテリジェントデザイン)のことを父に話す場面がある。自然界の精緻な仕組みには知的な造物主の意図が働いているという宗教的創造論なんだけど、父は自分の町を指して、「大いなるヘマ理論」のほうがぴったりだと言う。このセリフが再度出てくる場面が悲喜劇的な感触でとても良いんだけど、この理論は同時に子供を作った親についてもいえるようなところがある。親は必ずしも精緻に子供を作るわけでもなく、大いなるヘマをしでかして、子供や家族との関係にしくじったりもするし、いろいろあって良好な関係になりもする。そういう人生の数奇さがハリーのたどった流浪の人生と、めぐりめぐってメキシコで古書店に売られていた『黒曜石雲』との出会いから語られるわけだ。人と本のそうした相似の関係が軸だからこそ、多彩なジャンルやさまざまな挿話が取り込まれる形になっているのかな、と。まあ男がいろんなところに子を作る話だし「未開の土地」に植民地主義を感じないではないところはある。

玩具堂『探偵君と鋭い山田さん』

親が探偵の戸村が女子に無理くり彼氏の浮気調査を頼まれ困っていると、両隣の席にいる双子姉妹が口を挾んできて、次第に三者一体の探偵ユニットのようになっていく学園ミステリーラブコメラノベ。この著者の本は『子ひつじは迷わない』以来だけど、なかなか良い。日常の謎もののライトミステリといった感じだけど、本体がなくて表紙カバーの内容紹介と人物一覧しかない推理小説の犯人を当ててみる、という二話はなかなか面白くて、じっさい人物紹介の部分に重大なネタが隠されてる作品とかありそうだし、犯人当てるだけならできるかもと思わせる。双子絡んだ三角関係ラブコメを基軸にしているけど、主人公の「悪意への悪意」という性質はまあ肝だろうし、双子は社交的で処世に長けたほうが依存心やらで屈折した感情を抱いてるあたりの関係は三話の事件の核心とも重なってたし、ここら辺主軸になるのかな。

イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』

ユーゴスラヴィアノーベル賞作家の初期散文詩、代表作『ドリナの橋』の核となる短篇や表題の幻想小説等の短篇小説、ニェゴシュについての講演等のエッセイ、年譜や長文の解説含め、多民族の入り交じるボスニアに生まれた作家の彼岸への理想を託した橋の詩学を集成した一冊。通例イヴォ・アンドリッチと表記されることが多いけど本書ではイボ表記。
宰相の象の物語 (“東欧の想像力”)サラエボの鐘

一昨年、二〇年ぶりの作品集『宰相の象の物語』が刊行され、隔年でアンドリッチの新刊が出るというのも驚きだけど、今度は恒文社九七年刊『サラエボの鐘』の大幅増補版といえる一冊。収録短篇では「三人の少年」「アスカと狼」「イェレナ、いない女」が増補され、これらは雑誌や選集に既訳があるけれど、元々山崎訳だった「三人の少年」以外の二つは別題のものを山崎佳代子が新訳している。ほかに散文詩二篇も山崎によって新訳されており、目次以上に大きく内容が入れかわっている。エッセイも旧版で七ページだったニェゴシュ論が三〇ページ近い講演に差し替えられており、なにより五〇ページに及ぶ訳者解題が作家の人生と作品を丁寧に論じており、既訳の文献一覧もあり(「象牙の女」収録の『東欧怪談集』が漏れている)、資料面でも充実したアンドリッチ作品集として決定版と言える一冊だろう。

巻頭に置かれたエッセイ「橋」は、

人間が生きる本能に駆られて築き、建てたものの中で、私の見るところ、橋よりも優れ、価値あるものはない。

と始まり、橋のさまざまを描写したのち、「こうした橋はどれも、本質的にひとつで、同じように注目に値する。なぜなら、人が障害に出会い、障害を前に立ちどまることなく、それぞれの理解や好みや周囲の状況に応じて克服し、乗り越えた場所を示すからである」とし、「無秩序、死、あるいは無意味といったものを、克服し乗り越えなくてはならない」、「われわれの希望はすべて彼岸にある」と結語する、アンドリッチのマニフェストのような一文。障碍を越え別の物を繋ぎ、ひいては理想への道を示す橋という象徴に、アンドリッチの姿勢が窺える。

フェルディナント皇太子夫妻を射殺したガヴリロ・プリンツィプが所属していた青年ボスニア党の中心的な存在だったアンドリッチはサラエボ事件の後ポーランドから帰国し、逮捕され最終的にスロヴェニアマリボルの刑務所に収監される。詩や小説にはこの投獄体験の反映と思われる部分が散見される。

最初に置かれた短篇「アリヤ・ジェルゼレズの旅」は、英雄叙事詩の主人公を近代小説的世界に置き直すかたちで書かれた小説で、ビシェグラード、サラエボなどを舞台としながら、女性を求めて三度拒絶される様子を描いており、美、理想への望みを仮託した表題作「イェレナ、いない女」とも共通する構図を持っている。

サラエボを通りすがった姉妹が、蛇に噛まれた少女を見つけ、対処しようもなく薬もない貧しい状況に心を痛める姉とその姉が泣き止むことだけを考える妹、という社会性にまつわる話になっている「蛇」、解説によると、イスラム教徒のムスリム人、正教徒のセルビア人、カトリッククロアチア人の家族を描く「三人の少年」では、それぞれの文化の家族のなかで、ここを逃げ出したいと思う少年の姿も描かれている。旧版では「サラエボの鐘」と題されていた「一九二〇年の手紙」では、ボスニアの「憎悪」が語られる。ボスニア・ヘルツェゴビナでは他の国にも増して「無意識の憎悪に駆られて、人が互いに殺したり殺されたりする」と語られ、

然り、ボスニアは憎悪の地です。それがボスニアです。
中略
対照的に、これほどの強い信頼、気高い強固な人格、これほどの優しさと激しい愛、これほどの深遠な感情、献身、不動の忠誠、これほどの正義への渇望が見られる土地は少ないともいえます。98P

とも語られる、ボスニアの相矛盾する様相を描いて緊張感がある一作だ。

『ドリナの橋』の核という「ジェパの橋」では、橋を建てたあと、宰相を賛美する詩文を橋に刻みたいという請願に対し、宰相が結局全て削って「名前も標識もない橋」が残るという「沈黙」のテーマが見られ、これは散文詩エクス・ポント(黒海より)」の同様の表現と繋がるものでもある。

寓話的な形で作者の芸術への姿勢を示したものでは、「アスカと狼」が印象的だ。旧訳では「子羊アスカの死の舞踏」とも題されていた短篇だけれど、擬人化された子羊が、狼と出会った時に舞踏を舞って気を引くことで死の危険から生を繋ぐという話で、バレエに「芸術と抵抗の意思」を込める一作。

長い年月の後、今日も、彼女のバレエの名作は演じられ、そこでは芸術と抵抗の意思が、あらゆる悪に、そして死そのものにさえ、うちかつのです。141P


投獄時代に書かれた部分を持つ散文詩二篇は投獄、挫折の苦悩と外への夢を綴ってもいて、沈黙、神、貧困、さまざまなテーマが織り込まれている。

いや、私は記憶してほしくない。礎に黙する意思のように、無名で無言であればよい。足跡も名も残さずに消え失せればよい。私の暗い人生が――罪と苦悩が――おまえたちの白い道にけっして影を落とさなければよい。186P


すべての思想の最後の表現、すべての努力のもっとも単純な形態――それは沈黙だ。196P


今の時代、人間の行動を引き起こす主要な、しばしば唯一の動機は恐怖だと、私は見た。パニックの、不合理な、しばしばまったく理由のない、しかし真実の、深い恐怖。205P


 限りない善を夢みる。それをだれかに注ぎ、だれかに注いでもらいたい。それを夢みるのだが、私は独りだ。
 私の中で、ひとつの詩句が揺れる。贈り物とそのお返しのように、だれの目にも触れず花ひらき、咲きほこり、枯れ落ちる花の幻のように。私は座ってペンをインクにつける――と、おや、こんな本が机の上にある。ふうん。まったく、なにをしようとしていたのか。そう、詩だ。ああ、どんな詩だ。頭が痛い。私はペンを投げ出し、散歩に出る。
 それでも、やはり、文章をいくつか残せたらと思う。精神の不安や、色褪せることなき夏の午後や、人生の曲がりくねった道の、このわずかな悲しみと美しさを長く長く保つような、そんな文章を。214P

帯にも引かれている「エクス・ポント(黒海より)」の結語はこうある。

 生きている、という事実そのものが、私に安らかな喜びを与える。
 私は人びとに、彼らの仕事に、大きな愛を感ずる。幸福と不幸に、罪と情熱とそこから来るすべての惨めさに、闘いと挫折に、謬見と苦悩と犠牲に、この惑星の上の人間にかかわるすべてに、大きな愛を感ずる。
 人間の喜びの涸れることなき泉から、私もまた一滴の滴を飲み、人類が担う巨大な十字架の一部を、私もまたしばし担うという一時の、だが計り知れぬ幸せを、感じる。


 目にするものはすべて詩であり、手に触れるものはすべて痛みである。255P

幻想の女性を追い求める表題作*1には理想、希望を追い求める姿が込められ、収監中に書かれた散文詩には投獄体験の挫折と苦悩についての文章が綴られ、同時に社会的不公正についての抵抗の意思もまた書き込まれており、社会的不公正を、現実を見つめ、しかし彼岸への理想を手放さない姿勢がある。「ボスニアは憎悪の地です」と小説に書き込み、それでも民族共存の理想を橋という象徴に込めるのがアンドリッチの芸術ということだろう。


高くて買えない書店に並ぶ本の書名などからどんな内容なのかを妄想していた少年時代を回想するエッセイや、モンテネグロの統治者にしてセルビア正教会の司教、そして詩人だったニェゴシュを論じた「コソボ史観の悲劇の主人公ニェゴシュ」も興味深い。

それはたんに二つの信仰、国民、人種の争いではない。東洋と西洋という二大原理の衝突なのだ。闘いは主にわれわれの領土で演じられ、その血ぬられた壁によって民族的統一体を二分し分裂させる。それがわれわれの運命だった。その二大原理の闘いにわれわれはみな翻弄され投げ出され、どちらの側にあろうと、それぞれの側で、同じ意義と、同じ勇気と、それぞれの正義への同じ確信とを持って闘った。309P

しかし、これを読む限りニェゴシュはモンテネグロの人でモンテネグロ文学としか思えないけれど、ルリユール叢書ではセルビア文学と分類されていて、これはどういうことなんだろう。

多民族環境を織り込んだ歴史と土地を描いてて静かな緊張感と重厚な雰囲気があり、作者の姿勢に信頼感があるのがノーベル賞作家らしいところか。民族自認としてはセルビア人なんだろうけれども、来歴からも作品からも、アンドリッチはユーゴスラヴィアの作家と呼びたいところだ。
このブログでのアンドリッチの記事は他にこれも。
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ルリユール叢書ではニェゴシュの大冊も同時に刊行されたけどさすがに手が出ないな。

手持ちの関連文献。アンドリッチに触れた文章が入ったものはもっと他にもあるけどとりあえず。

「三人の少年」は、「現代思想」1997年12月臨時増刊「総特集ユーゴスラヴィア解体」に山崎佳代子訳で掲載されていたもの。ドイツ語からの重訳だった「子羊アスカの死の舞踏」は『世界動物文学全集3』に収録されていた。解説では藤原英司が、学校へ行ってるなどの擬人化をしたかと思えば動物的な行動を強調し、擬人化したかと思えば別に人間を登場させるという擬人化手法のモザイク的な混乱を、これは新しい手法ではないか、と書いているところが面白かった。

本書に入ってない短篇として、最近新装版が出た『東欧怪談集』に「象牙の女」が、『世界短編名作選 東欧編』には短篇「窓」が収録されている。「窓」は少年を主人公に、近所の嫌われ者の老婆の家の窓を割ろうと言い出した友人を制止したら、自宅の玄関の窓を割られ、父に理不尽な鞭打ちを食らう、という話で、差別と暴力の奇妙な因果というか、結句にある「意味もない悪と、不可解で混乱した責任」の理不尽さ、がある。別訳はノーカウントとするとこれで短篇は全部手元にあるな、と思ったら『ノーベル賞文学全集13巻』に受賞講演の翻訳があることを知った。

東欧怪談集 (河出文庫)

東欧怪談集 (河出文庫)

  • 発売日: 2020/09/08
  • メディア: 文庫

*1:「イェレナ、いない女」は田中一生訳では「イェレーナ、陽炎の女」と題されていた。解説ではイェレナがHelena、ギリシャ語で陽光を意味する言葉を語源とした名前とあり、なるほど田中訳はこれを勘案して陽炎と意訳したんだろう。題としては「陽炎の女」のほうが据わりがよく印象的だと思うけど、訳としては山崎訳が元の意味に近いということか。

薄い本を読むパート2


いつかもやったページ数薄めの本を集めて読んでみるシーズンふたたび。
薄い本を読む - Close To The Wall
前回のは一昨年。今回はあとがき解説などを含めない、本文200ページ以下の本、というレギュレーションでやってみた。マルクスはよくわかんなかったけど、だいたいどれも面白かったですね。

薄い本はいいね、よくわかんなくてもすぐ読めて気分を切り替えられるし、短いなかにもぎゅっと詰まったものがあるのはなんかお得感がある。でも、薄い本ばかりだからもっと数読めるつもりだったのに思ったよりずっと時間が掛かってしまったので終わりです。このレギュレーションで積み上げた本がここにあるのよりも多く残ってるのでそのうちまたやるつもりはある。15冊。

カレル・チャペック『白い病』

白い病 (岩波文庫)

白い病 (岩波文庫)

戦争への機運が高まりつつあるなか、五〇歳前後の人々の皮膚に白い斑点が現われ死に至る感染症が流行していた。ある医師が有効な治療法を発見するけれども、施術の条件として彼は平和を求め、戦争を準備する国の重要人物らに死か平和かの選択を迫る、SF戯曲。貧しい中国から生まれたとされ、五〇前後の人間を死に至らしめるけれども若者には感染しないという「白い病」の設定は非常に予言的で、作中でもこの病気が若者に場所を譲る機能を持つことによる世代間の対立が描かれている。疫病と戦争がともに人々を通じて感染していく時代状況の描写にもなっていてこれはまったく過去の話ではない。そこで現われるガレーン博士は治療の条件に戦争への反対や恒久的平和条約の締結を要求する、つまり命を取引材料にしている。著者が「ある種の平和のテロリストである」という通りだ。作者による前書きでは、この人物についてこうある。

また、人間愛と生への敬意という名の下でその男と戦っている人物は、病気に苦しむ者たちへの手助けを拒む。かれもまた、譲歩できない倫理の戦いを宿命として引き受けているからである。 この戦いで勝利を収めるには、平和や人間愛を掲げていたとしても、殺し合いをし、大虐殺で命を落とさなければならない。戦争の世界では、平和それ自体が、譲歩しない、不屈の戦士となる。159P。

しかし結末に見るように、こうした悲劇的な対立こそが作者の批判するものでもある。さらっと読める150ページ程度の戯曲だけど、感染症をめぐる問題とともに「戦争万歳」という熱気が人々に感染し、その拡大は指導者の命運をも脅かす危うい群衆の問題が重ねられていて、医療と政治の問題を疫病とそのメタファーを用いて描いている点が八〇年という時代を超えて生々しい。

ジャック・ロンドン『赤死病』

赤死病 (白水Uブックス)

赤死病 (白水Uブックス)

疫病で人類社会が崩壊して60年後、盛期の文明を知る最後の老人が当時の状況をその孫たちに語り聞かせるポストアポカリプスものの表題中篇と、人口が増大した中国の脅威を化学兵器で殲滅する短篇、そして食料を求めた人類史についてのエッセイを収めるSF的な一冊。チャペックの『白い病』は疫病の流行当時を描いていたけど、これは疫病による人類社会の崩壊後に現在時を置いており、チャペックが疫病と戦争を重ねていたのに対し、エッセイにあるように、ロンドンは戦争は将来的に消え、人口増大での過密による疫病の流行を予測していた。三作を通じて人口の増大が危機として通底していて、感染症は集住し過密した人々を襲うものという認識がある。黒死病を意識した「赤死病」は、発症から十五分で死に至るという強烈な死病で、避難し立てこもる場所でも感染し人間同士もまた殺し合い、人間はどんどんその数を減らしていった。2013年にパンデミックが起こった設定で、それから60年後の現在時、一度人類が破滅の危機に瀕した後、辛うじて孫たちが生まれるようになってはいるけれど、老人と子供では知識の面でも溝が深く、話が容易に通じなくなっている。文化が途絶えているわけだ。言葉の断絶はもう一作でも出てくる。解説ではそうは言われてないけど、やはり「赤死病」では野蛮への蔑視があり、教育もなく粗野な「おかかえ運転手」が元の主人たる少女を手籠めにしたあたりの話は、階級社会への批判とも読みうるけれども、「野蛮」という言葉の使い方には文明が失われたことへの慨嘆のほうを感じる。エッセイ「人間の漂流」には「黄禍」の語が出てくるように、中国の人口増大を脅威として描く「比類なき侵略」は黄禍論SFといえる。「世界と中国との紛争がその頂点に達したのは、一九七六年のことであった」と書き出されるこの短篇はまた現在の中国の存在感を予見しているようなところがある。この短篇では中国の脅威は多産による十億にならんとする人間の多さにある。序盤、中国は西洋とは別種の文明で、日本という中間的な存在あってはじめて「覚醒」し、「回春」したとある。そして多数の中国人が移住した領土を奪取し、世界を侵略していくのに西洋がどう対処したか、というSF。百年前のSFでなかなか面白いし、東洋をどう見ていたかという観点でも興味深く、じっさい予見的でもある。マルサスに言及し、社会主義を支持するエッセイも作品の背景を明らかにしていて興味深いもので、プラスの意味でもマイナスの意味でも面白い一冊。「黒死病」に対するチャペックの白、ロンドンの赤。

マックス・ヴェーバー『職業としての政治』

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

晩年の講演録で、領域内で暴力を占有するものとして国家を定義づけ、権力の配分をめぐる努力が政治だという規定をしつつ、政治家と官僚についての対比を経ながら、政治家に必要なものは情熱と仕事に対する責任と距離を持った判断力だ、と述べる。「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」というトロツキーの言を引きつつ、ヴェーバー

国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正統な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。9-10P

と言う。これはよく知られた定義か。当時の革命騒ぎに対してヴェーバーは、自身の理想をのみ言って結果責任を人々のせいにする革命家を法螺吹きだと強く批判していて、そうした情熱的な「信条倫理」とともに結果に対する責任を負う「責任倫理」が両方あって初めて「政治への天職」を得ると述べる。政治には、暴力によってのみ解決できるようなもの課題があり、「魂の救済」を危うくする行いだとも言う。政治家とは、現実がいかに愚かで卑俗でも、「それにもかかわらず」といえる人間でなければならない、と言って終わる。指示に従うべき官僚の特質が政治家の資質としては最悪なものだという話もあったりして、官僚制の歴史なんかもある。節々のヨーロッパ独自のものという指摘は今でも正しいものなのかどうかは疑問に感じるけれども、古典的な政治家論としてなるほどこういうものなのか、と面白い。

カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日

講談社学術文庫の新訳、この時期のフランス史よく知らないまま読んだら見事に撃沈した。マルクスでは難しくない方らしいとはいえ、当時の政治状況をめぐるジャーナリスティックな文章なので、基礎知識は要る。

パウル・ゴマ『ジュスタ』

ジュスタ (東欧の想像力)

ジュスタ (東欧の想像力)

松籟社〈東欧の想像力〉叢書の第18弾は現モルドバ共和国ベッサラビア生まれのルーマニアの作家パウル・ゴマの、1985年に書かれた自伝的長篇。主な舞台は1956年ハンガリー事件の頃、秘密警察「セクリターテ」や協力者による告発が頻発している全体主義社会のルーマニアで、主人公と、彼が正義=ジュスタとあだ名を与えた女性の関係を描きながら、彼女の受けた仕打ちにルーマニアの「正義」の頽落を重ねている。
これは別記事にしてある。
パウル・ゴマ『ジュスタ』 - Close To The Wall

ユクスキュル、クリサート『生物から見た世界』

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

限られた知覚器官を持つ虫や動物が環境をどう見ているのか、を単に存在している「環境」という言い方ではなく、それぞれの生物が意味づけた主体的現実を環世界という言葉を用いて説明した一冊。もとは絵本として出版されたもの。文中にも出てくるけれど、ユクスキュルはエストニア出身の生物学者で、弟子筋にあたるクリサートが挿絵を描いている。ダニ、イヌ、ハエその他、それぞれにとっては同じ物を見ていてもまったく違う現実があり、「いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実にほかならない」といい、このことは人間同士でもそこを初めて訪れるのと地元のものとで環世界が違う、とも論じる。確か文中にカントの引用があって、19世紀の生物学者は哲学者を引用するんだなと思ったけれど、それぞれの主体は「環境」を別様に見ていて、そしてその向こうには永遠に認識されない「自然という主体」を示すところなどは、確かにカントの「物自体」の議論が踏まえられているのか。フリップフラッパーズというアニメに出てくる小さい生き物がユクスキュルと名づけられていた縁で、その筋の人には知られた本だけど、じっさいフリップフラッパーズのキャッチコピーには「あなたには、世界はどう見えているんだろう」と書かれていて、直接の影響が感じられる。

丸谷才一『樹影譚』

樹影譚 (文春文庫)

樹影譚 (文春文庫)

表題作は小説の腹案がナボコフの先行作品と似ているからと辞めたらナボコフにそんな小説はなく夢で見たのではという話から、自分の執着する樹の影の謎が、妄言とばかり思った老婆の話によって己の現実を突き崩す出生の真相が引き出されるかのような現実と夢の入り交じる幻想的中篇。小説家を主人公にした小説を書く小説という形式にナボコフエドナ・オブライエンという実在の作家の名前なんかも差し込みながら、現実だと思ってたら夢で、妄言だと思っていたら真実では、という複層的な虚実反転を決める技巧性があり、そしてPKディック的崩壊感覚を思い出す。小説家が小説家を主人公にして、という形式的なメタ性も含めると相当多層的になってて、面白いし技巧的で、まあ、こういうのみんな好きだよね。本書は表題作と他二作を収める短篇集で、ほか「鈍感な青年」「夢を買ひます」という作品が入っている。「鈍感な青年」は初々しい恋人同士の初体験をめぐる短篇だけど、デートで行こうとしていた、あるはずの祭がない、という現実性の揺れみたいなものも描かれていて、「夢を買ひます」も整形をめぐる思い込みの話とともに、夢が真にという要素があり、緩やかに連繋しているように見える。

チェーザレパヴェーゼ『美しい夏』

美しい夏 (岩波文庫)

美しい夏 (岩波文庫)

都会で働く16歳のジーニア、三つ上で画家のモデルをしているアメーリアと、絵描きグィードとロドリゲスという男女四人を描きながら、ジーニアのグィードとの恋愛とその終わりを通じて、女二人、作者いわく「レスビアンの娘たちの物語」でもあるというイタリアの作家の長篇小説。軽く見ていた友人達がすでに男たちとの関係を持っていたことがわかる序盤の、ジーニアの優越感とじっさいは取り残されているという若者らしい描写や書き出しの情感も良くて、それが、解説によるとファシズム政権下の様子を微妙に滲ませた夏のイタリアを舞台に語られる。ジーニアとモデルをしているアメーリアとの関係が、裸体モデルをしているところを見たい、ということでアトリエに一緒に行くあたりで深まっていくんだけれど、ここで明らかにジーニアの興味がアメーリアにあるあたりで、あれこれは百合なのでは、と思ったら前述作者のコメントを全面的に受け入れるには留保がいるけれども、実際そういう面もある。知らないことを教えてくれる年上のアメーリアへの憧れとともに、同じ男をめぐる微妙な心情があり、アメーリアからもキスや、「わたしは、あなたに恋をしているの」と来るなど、彼女は同性愛者でもあるだろう。それも含めて四人の関係はなかなかわかりづらいところがある。長い解説が丁寧に作品を分析していて、ある人物に反ファシズム闘争のニュアンスを見たり、二人の女性の関係を未来と過去としてお互いがお互いを見ている相互的なものになっているというのはなるほど面白いし、ラストシーンのセリフもそういうニュアンスがあるのがわかる。主人公が16歳から17歳になる夏から冬にかけてを舞台にした、同性異性それぞれへの感情を絡めて、少女から大人へとかわる様子を描いた青春小説といってよく、短い長篇ながら明示的に描いていないところも多くて読み込む必要が結構あると思う。今作は『丘の上の悪魔』『孤独な女たちと』で三部作を成すらしい。

堀江敏幸『郊外へ』

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

パリ郊外についての小説や写真集などをめぐる考察を、仮構された「私」を通して語る一冊。郊外小説を語るためにパリ在住の壁の内と外を歩き回る架空の「下等遊民」と挿話を土台に語るという方法を用いた独特の散文作品。小説とエッセイのあわいの読み心地がある。Uブックスで「エッセイの小径」とあるのに、一連の物語に出てくる「私」とその周辺の出来事は完全に虚構だとぬけぬけと語るあとがきに、小説の萌芽ともいえるものがあるのは確かで、事実、冒頭の一篇からして語りの距離感はいわゆるエッセイとはやはり異なる。最終篇の「コンクリートと緑がたがいちがいに出現する異郷の郊外地区の風景を、私はいわばクッションボールで処理しようとしていたのであり、間接的な仕方でしか見えてこないものを追い求めていたのだ」(186P)というくだりは種明かしをしている箇所だろうか。小説を論じる連載を書きあぐね、虚構の「私」という小説的方法を用いることで書き進めることができたようで、おそらくこれは小説のように書くことで小説を語るという試論ではないか。あとがきでも「小説」とは述べていない。どちらでもありうるし、どちらでもないかも知れない。内容としては、フランス語に訳された他の外国の文学を読んでみるという「受容の受容」を、文化の模倣吸収をめぐって、どこか都市と郊外の関係に似たものをそこに認めつつ、それが「くつろぎ」を与えるのは、第三国の者として傍観者の無責任があるゆえだと語るところや、ナチスユダヤ人収容所に転用され、戦後はナチへのコラボが収容されたあと、今は郊外人を「収容」している、という郊外団地や、ペレック『僕は覚えている』やセリーヌの文章が郊外の生徒からさまざまな表現を引き出したり、カフカの断片の続篇を書いた生徒がいたという本の話などが印象的だ。フランス郊外の地理が全然わからないので地図が欲しかったけど、ごく単純に楽しい散文として面白く読める一冊で、堀江敏幸のデビュー作としても興味深い本だろう。私は『熊の敷石』をずいぶん前に読んだきりだった。マルト・ロベール訳カフカの文庫本というのが出てくるけど、そういや丸谷才一「樹影譚」にもマルト・ロベールが名前を出さずに言及されていた。言及されるモディアノの『特赦』は『嫌なことは後まわし』として訳されている。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『ある遭難者の物語』

軍艦から転落して十日間を漂流して生還した水兵の物語を新聞記者時代のマルケス聞き書きしたという一冊。漂流の苦難を生々しく描き出すドキュメンタリーだけど、マルケス研究でも評価が分かれ、事実か脚色かにわかに判然としないところがある。内容としてはヘミングウェイの『老人と海』にも似た海洋漂流譚で、飢えと渇き、サメの恐怖に怯えながらの十日間の漂流は非常に小説的な迫力がある文章で、これが聞き書きだとはなかなか信じにくいところもある。『百年の孤独』の三年後に書籍化されたため、読者の幻滅を招いたこととドキュメンタリーゆえに空想に制約があるという評価に対し、これは『百年の孤独』の大ブームという狂騒に巻きこまれたマルケス自身を生還した英雄の水兵に託して語ったもので、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにした箇所や沈んだ水兵らに実在の作家たちをモデルにたところがあるという読解がされてもいる。この文章がじっさいに1955年の新聞に発表されたことは事実らしいけれども、書籍化されるさいに改稿された可能性も訳者は指摘していて、これは決着がついたんだろうか。ともかく、マルケスらしい小説を期待して読むものではないとも思うけれど、事実かフィクションかという解釈を問われるところがある。まあそういう二者択一というよりはどっちでもある、というほうがありそうでもある。表紙には長いタイトルが記載されていて、これが正式タイトルなんだろうか。「飲まず食わずのまま十日間筏で漂流し、国家の英雄として歓呼で迎えられ、美女たちのキスの雨を浴び、コマーシャルに出て金持ちになったが、やがて政府に睨まれ永久に忘れ去られることになった、ある遭難者の物語」。いかにも古典文学的な長文題、というか『ロビンソン・クルーソー』を意識しているのかも知れない。

高原英理『不機嫌な姫とブルックナー団』

不機嫌な姫とブルックナー団

不機嫌な姫とブルックナー団

図書館の非正規職員をしている女性がある日コンサートでブルックナー団を名乗る男性たちと出会う。垢抜けないオタクとしての彼らと、批評家に攻撃されたブルックナーの不器用でモテないエピソードを重ねつつ、夢への思いを鼓舞する青春小説のおもむき。ブルックナー団のなかなかにひどいオタク仕草や変な語尾で喋るやばいヤツの痛々しさを描きながら、団員の一人がサイトに上げているブルックナーの伝記を作中作として挿入し、それについての主人公の感想を挾みつつ、このブルックナーオタクとブルックナー伝記の二軸で進んでいく。ブルックナーのことは全然知らなかったけれど、処世下手で人情の機微に疎く、才能がありながらも疎まれ、それでいて厚かましい面もあってこれはなかなか、と思っていたら「嫁帖」の話は女性への態度がヤバすぎて、同情も吹っ飛ぶレベルなので主人公のコメントは正しいな、と思った。伝記を書いてる団員は小説も書いているけれど自己陶酔的な欠点があり、自分と距離のある人物や事実を元にするといいものを書く、とも言われていて、この書くことに客観性を取り込み良いものにするためという方向とともに主人公の自己を客観的に見過ぎてやりたいことを諦めた情熱の復活をも描いている。

ポール・オースター『幽霊たち』

幽霊たち (新潮文庫)

幽霊たち (新潮文庫)

探偵ブルーが依頼者ホワイトからブラックという人物を調査して報告書を週一で書いて欲しい、というところから始まる、探偵小説の構成を借りた、書くことと読むことをめぐるアイデンティティの不安、を描いた感じの中篇。色と記号的な名前、文字や紙を思わせるし、孤独な部屋で書き物をしているので、あからさまに書くことが意識されている。柴田元幸が「エレガントな前衛」と呼んでいるように、前衛的な小説はパワータイプが多いアメリカ文学には珍しいらしい。書くこと読まれること、見ること見られること、探偵小説の構成を借りたメタフィクションの手触りは確かに安部公房を感じる。ニューヨーク三部作の第二作。オースター、二〇年前には既に人気作家だったしその頃から読むつもりはあったし、これも買ったのは結構前なんだけど、今更初めて読んだ。三部作と何かしら代表作を読んでおきたい。

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』

ボルヘスの盟友として知られるアルゼンチンの作家の1940年作。政治犯受刑者の語り手が逃げ込んだ孤島に、突然複数の男女が現われ、その一人の女性に惚れ込むけれど、なぜかいっさい反応が得られず、そんな時島には二つの太陽、二つの月が現われ、というSF幻想小説。SFとしては古典的な設定にも見えるけど、ネタが明らかになるまではこれはどっちだ?となるところがあるし、この愛をめぐる解釈を誘う設定はやはり面白い。なるほどねと思って解説を読むと、一人称での叙述に時間の矛盾があると指摘されていて、やっぱそんな簡単じゃないなと思わされる。最初語り手の名前がモレルだと思ってたけどあ、違うのかと思ったらやっぱり同一性は確実に意識されている。解説にあるボルヘスのトレーン~の冒頭の記述が本作のことだとして、一人称の矛盾があることがどういう読みを引き出しうるのか、と思ったけどモレルと語り手について、だろうか。分身、鏡、愛、不死、他者その他いろいろ……。後の作品にも影響を与えているようで、そういう意味でも早く読んでおくといい気がする。序盤やや退屈ではある。帯文に「独身者の《機械》」とあって、そういやちょうどこの前買ったカルージュ『独身者機械』にカサーレス論がある。それだけ拾い読みしたけど、受刑者という属性からカフカの「流刑地にて」と繋げたり、舞台がエリス諸島のヴィリングス島というのは疑わしいという刊行者注に着目して、ここにモレルがmort=死者、ヴィリングスがLivings=生者、エリスのフランス語から無限などの言葉遊びを引き出してたりしてなかなか面白い。ブストス=ドメックやイシドロ・パロディとか、ボルヘスとの共著はいくつか読んでるけど、カサーレスの単著は初めて読んだ。しかし書くことと幽霊というとオースターの『幽霊たち』みたいだ。持ってるのは90年代に出た叢書アンデスの風版。確か池袋ジュンク堂で買ったはず。2008年に再刊されている。清水徹ブランショ経由で読んでいたのがきっかけらしいけど、専門外の言葉、というから清水は仏訳も参考にしつつ、ちゃんとスペイン語からの翻訳をしたのを牛島信明校閲した、という形か。清水には『鏡とエロスと』という日本文学論集がある。
新訳 独身者機械

新訳 独身者機械

ゾラン・ジヴコヴィッチ『12人の蒐集家/ティーショップ』

日々、爪、夢、切り抜き、希望など、12のコレクションにまつわる不穏な掌篇連作と、ティーショップで物語のお茶を注文すると店内の人々が次々に物語を語り継いでいく短篇を収めたセルビアの作家の作品集。ボルヘスの盟友カサーレスに続いて、「東欧のボルヘス」と帯にあるジヴコヴィッチボルヘス繋がり。ただ、あまりボルヘスぽくは感じない。「12人の蒐集家」は有形無形さまざまなコレクションが概して終わり、消滅とともに語られていて、ある日の記憶を代償に素晴らしいケーキを食べられるけれど食べすぎると消えてしまうという話や、切った爪を丁寧に保管してコレクションしているけれど、死んだら自分のコレクションがどうなるかと不安になる話、とつぜん現われた男がピアノや隕石などが落ちて死んだ不幸で希有な運命の人間について語ったかと思うとサインを求められ、あたなはこれから有名になる、と言われる話などが語られる怪奇掌篇集。一篇一篇はわりあいに軽妙なさらっと読める幻想怪奇小説になっている。それでいて、集めることがそのまま消えることへと転じていくような連作にもなっていて、この反転性が解説にもあるジヴコヴィッチの魅力だろうか。黒田藩プレスから出た作品集にも入っていた「ティーショップ」は千夜一夜物語を思わせる、物語が物語を呼び寄せ、語ることがさらなる語りを生み出す短篇。ある旅人がティーショップに入ると「物語のお茶」というメニューに目が止まり、それを注文すると店員はおろか客席にいた人々までが次々に物語を語り出していく、フラッシュモブみたいな展開が楽しいのと、語りのギミックが決まってて再録も納得の短篇だと思う。黒田藩プレスのも『時間はだれも待ってくれない』収録作も読んだので、あと一作80年代のSFマガジンに載ったものが既訳としては未読。洒落てていいけど軽め、という印象なので世界幻想文学大賞受賞作のThe Libraryとか、長めの作品も読んでみたいところ。長篇型の作家ではないのかも知れないけど。セルビアの作家だけれど本書は英訳からの重訳。英語版Wikipediaを見ると、The Writer、The Book、The Library、Miss Tamara, The Reader、The Last Book、The Ghostwriterとか、本にまつわる小説がたくさんある。ここら辺がボルヘスが引き合いに出される要因かも知れない。
Zoran Živković (writer) - Wikipedia

トーマス・ベルンハルト『地下 ある逃亡』

地下―ある逃亡

地下―ある逃亡

オーストリアの作家ベルンハルトの自伝五部作の二作目。邦訳としては三作目になる。耐えがたいギムナジウムを抜けだし、「反対方向」にあるザルツブルクの汚点と呼ばれた貧困層の暮らすシェルツハウザーフェルト団地の食料品店で働いたことを回想しながら、家という地獄から団地の辺獄を経て、音楽へと幸福を見出す過程が描かれている、ととりあえずは言える。
これは別記事にしてある。
トーマス・ベルンハルト『地下 ある逃亡』 - Close To The Wall

前回も今回もベルンハルトの五部作が入っているのは偶然なんだけど、なんかそういうタイミングがあるな。

トーマス・ベルンハルト『地下 ある逃亡』

地下―ある逃亡

地下―ある逃亡

オーストリアの作家ベルンハルトの自伝五部作の二作目。邦訳としては三作目になる。耐えがたいギムナジウムを抜けだし、「反対方向」にあるザルツブルクの汚点と呼ばれた貧困層の暮らすシェルツハウザーフェルト団地の食料品店で働いたことを回想しながら、家という地獄から団地の辺獄を経て、音楽へと幸福を見出す過程が描かれている、ととりあえずは言える。

教育制度への痛罵が書きつけられた前作『原因』のあと、ギムナジウムを抜け出し、地下食料品店で働きはじめたことを描いた本作では、むしろこの貧困層の集まる地域、職業安定所の職員が顔をしかめるシェルツハウザーフェルト団地にこそ、自分の居場所があると語り手は感じていて、働くことで役に立つということを強調している。

この地下食料品店にあるものすべて、この地下食料品店にかかわるものすべてが魅力的だっただけでなく、それらは私が属すべきところ、切望するものだった。自分はこの地下の人間であり、この人たちの仲間なのだと感じた。だが、学校という世界に属していると感じたことは一度もなかった。20P

家やギムナジウムでの人付き合いの困難さに対して、シェルツハウザーフェルト団地ではまったく困難を感じず、役に立ちたい、仕事をしたいと語り手はこの仕事に馴染んでいく。汚点とみなされ、忘れられ、否定された場所だからこそ、シェルツハウザーフェルト団地という名を語り手は繰り返し繰り返し書きつける。この長い名前を省くことなく、つねに「シェルツハウザーフェルト団地」と書きつけ、何度も重ね塗りしたせいでそこだけ毛羽だった手触りを感じさせるようにこの名を塗りたくる。貧困にあえぐ人々や、戦争のことを語る人々、手足を失い戦争のことを語らない人々の姿が折に触れ書きつけられ、店で働くなかでそういう人と出会い、そうした名前が後に新聞で事件や死亡記事として現われることもまた書きつけられる。出会った人々の名前を忘れていないということだ。

シェルツハウザーフェルト団地や地下で自分の居場所を見出したのとともに、ここで語り手は店主ポドラハという重要な「師範」にも出会っている。

祖父は私に、ひとりでいること、ただ自分のために存在することを教えてくれたが、ポドラハは、人と一緒にいること、しかも多くの、実にさまざまな人間と一緒にいることを教えてくれた。祖父のもとで私は哲学の学校に行った。人生の早い時期だったから、それは理想的なことだった。シェルツハウザーフェルト団地のポドラハのもとで私は、もっとも現実らしい現実の中へ、絶対的現実の中へと入っていった。早い時期にこの二つの学校で学んだことで、私の人生は決定づけられた。そして一方がもう一方を補うことによって、この二つの学校は今に至るまで私の成長の基礎をなしているのだ。54P

祖父と地下食料品店店主ポドラハという二人の教師から学び、家から地下の仕事を経て、そこで稼いだお金でプファイファー通りにある音楽家夫妻の家で音楽を学ぶことができるようになる。家の人間からの妨害に負けずに、自分の目指すところへ自ら進むための重要な場所として地下がある。

音楽と、終盤にある自分が演じられた存在でもあって「自然とは劇場」だという認識は劇作家としての後の経歴とも関係するだろうけれども、同時に序盤に置かれている「真実を伝えようとすると、どうしても嘘つきになる」、という認識とも繋がっているように見える。

私たちが知っている真実とは必然的に嘘であり、この嘘は、避けて通ることができないがゆえに真実なのだ。ここに書いたことは真実であるが、真実ではありえないがゆえに真実ではない。
中略
肝心なのは、嘘をつこうとするか、それとも、それが決して真実ではありえず、決して真実ではないとしても、真実を言おうと、真実を書こうとするのか、ということなのだ。私はこれまでずっと、いつも真実を言おうとしてきた。今ではそれが嘘だったということがわかっているけれども。結局肝心なのは、嘘の真実内容なのだ。36P(傍点を強調に)

書くことは生きるために欠くことができないという語り手が「真実として伝えられた嘘」しか書くことができないとしても書き続ける、というこの自己矛盾的な書くことや言葉への疑いが語りの基点にある。ここに、作家誕生までの物語と同時に小説という形式への態度が現われる、自伝的小説らしさがある。

改行が一回しかない延々たる語りで、序盤と終盤で似たようなことを語るんだけど、そこで最初は良いことしかなかったと言っていた仕事のマイナス面についても語っていたり、螺旋的な進行をしているところがある。『原因』よりはずっと、幸福な面を語っているような印象があり、祖父だけではない先達を見出して相対化し、そして語り手の世界もずっと広がっていく。


翻訳では自伝五部作の順序を変えて、幼少期の第五作目から刊行しているので本作は五部作の二作目だけど、翻訳としては三作目になる。
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